そうこうしている間に、体育祭当日を迎えた。五月(さつき)晴れで暑いぐらいの青空の下、応援席からは声援が飛び、トラックを走る生徒は楽しげですらある。
 一人一競技以上出場しなくてはならないルールなので、俺は先日決めた騎馬戦に出る予定で、出番は午前中最後のプログラムだ。
 一人一競技ってことは、細谷も何か出るんだろうか。ああ、でも保健委員だから保健室にいたりするんだろうか。あんなやつでも、体育祭が楽しみだったりするんだろうか。俺とは違った意味で体育祭なんて好きじゃなさそうに見えるのに。
 こういう話を、少し前なら直接保健室に出向いて聞くこともできたはずだ。掃除をしながら、ベッドのシーツを洗ったりしながら、何でもない日常会話の一つとして。
 何でもない、とるに足らない会話の一つ一つに実は意味や価値があったなんて、どうしてなくなってから気付くんだろう。そんなの、いまさら後悔したって無意味なのに。
 気分が浮上する理由もないままに迎えた体育祭は、いつも以上に憂鬱(ゆううつ)だけれど、逃げ込める保健室にも行けないので仕方なくクラスの応援席の隅に座っているしかない。

「何かすごい盛り上がりだなぁ。そんなに体育祭って楽しいのかな」

 体育祭なんて暑くて疲れるだけで、俺は楽しいと思ったこともない。だから予行練習とかも大体は保健室に引っ込んでサボって来た。熱が出たとか言えば寝かせてもらえるからだ。そういう場所がなくなってしまうのがこんなにしんどいとは思ってもいなかった。

「体育祭なんて、どこにでも居場所を作れるような陽キャのイベントだもんな」

 陽キャだけが楽しい、陽キャのためのイベント。家にも学校にも居場所を感じられない俺みたいなやつにはただただしんどい。
 早く終わらないかなぁ、と、応援席で膝を抱えてぼうっとしていると、「黄昏(たそがれ)てんのか、律」と、苦笑する声がし、振り返ると従兄の海斗が俺の背後に立っていた。
 海斗は俺の隣の開いていた椅子に座り、「そんな拗ねてる顔してると、かわいい顔が台無しだぜ」などと余計に気が滅入るような事を言ってくる辺り、海斗って本当に無神経なやつだなと思う。

(まあ、そういう神経太いところがあるから、俺みたいな従弟が家に入りびたったりしても平気だったんだろうけれど)

 海斗のよく言えばおおらか、悪く言えば無神経な言動にため息交じりに「なに?」と答えてはみたものの、海斗は特に悪びれる様子はない。

「いやぁ、最近保健室に来てないって聞いたからさ、どうしてんのかなーって思って。体育祭にちゃんと出るって珍しいじゃん。いつも何のかんの言って保健室にいるのに」
「……べつに。俺だってちゃんと授業でなきゃって思うときもあるよ。高校生なんだし」
「ふーん、そっか。てっきり、湊人となんかあったのかと思ったんだけど、違ったか」

 湊人、という細谷の下の名前を聞き、思わず飲みかけていたペットボトルのお茶の手が停まる。さっきまで何となく細谷がいまなにをしているのかな、なんて考えていたのを見透かされたような海斗の言葉に、俺はどうにか平静を装うとするも、なんだか心臓がざわざわしている。
 気にはしていたけれど、だからって細谷がどうしてるかなんて知っても、俺は別にどうもにない……そう、自分に言い聞かせるようにうつむいていると、海斗が何か言いたげにこっちを見ていた。

「……なんだよ」
「いやぁ。お前らって同じようなリアクションするんだなーって思って」
「お前らって、俺と、誰が?」
「律と、湊人だよ。なんか仲良くなってたみたいじゃん」
「仲良くなんか、べつに……」
「この前駄菓子屋でデートしてたじゃんか」
「で、デートなんてしてない!! て言うか、なんでそれ知ってんの?!」

 駄菓子屋は確かにあの時一緒に行きはしたけれど、それは細谷からのお礼をされたからであって、そこに何か別の理由が、例えばデートだとか、そんなものがあるわけじゃないはずだ。
 立ち上がって大声で言い返しては見たけれど、海斗は「またまた~」とニヤニヤしてこたえた感じじゃない。

「俺のバイト先、あの近くのファミレスなんだよねぇ。たまたまこの前バイト行ってたら律と湊人が一緒に歩いてるの見かけてさ。珍しい~、湊人が笑ってる~って思って」

 ニヤニヤと目撃証言をしてくる海斗に言い返そうにも、一緒にあの時歩いていたのも、細谷が楽しそうにしていたのも事実なので真っ向から反論できない。
 ぐぬぬぬ……と、拳を握りしめて黙り込んでいると、なおも海斗はニヤニヤとしている。
 腹立つなこの顔……と、思って睨み付けると、ニヤニヤ顔がふと何かを案ずるみたいに眉の下がった顔になる。

「湊人と学校以外で一緒にいる奴なんて俺見たことないから、律ならなんで最近湊人がぼんやりしてる理由とか知ってるかなって思って」
「ぼんやり? あいつが? ……全然知らない」

 いつだって襟を正してきちっとしていて音がしそうなほどなのに、ぼんやりなんておおよそあいつの辞書にはなくて――そんなところが苦手だったはずなのに、その狭間に見せる無防備な笑顔とかを知ってしまって惹かれ始めているのに、それがないなんてあり得るんだろうか?
 信じられないというように俺が首を横に振ると、海斗は腕組みをして考え込む。

「そっかー……律ならなんか知ってるかなって思ったんだけどな。珍しく一緒にいるし、笑ってたから」
「……どういうこと?」
「湊人が人前で笑うなんて超レアなんだからな。俺だって見たことないもん」
「え、そうなの?」
「だからデートにしか見えなかったもん、あの時」
「べつに、デートってわけじゃ……」

 デートかどうかの話は置いとくとして、細谷が、友達なんだと思っていた海斗の前でも滅多に笑わないと知り、内心すごく驚いていた。そして同時に、そんな姿を無防備に魅せられていた俺は、細谷にとってどういう存在だったんだろうか、なんて考えてしまう。

「湊人ってさ、あんな風にすっごい真面目だからクラスでも結構浮いてるんだよね。ちっとも笑わないし、何より感情が読めないし。AIみたいだって陰で言ってるやつもいるくらいなんだよ」
「まあ、たしかに塩対応なところはあるけど……」
「いやもう塩どころじゃないんだよ、あいつ。氷とか無味なんだよなー」
「無味って……そんなに?」
「でもさ、律が湊人と絡むようになってから少しずつだけど何考えてるかとか……例えば、いま嬉しいんだなって言うのとかがわかるようになって来てさ。イベントごとだって前は無関心だったのに、今回は自ら騎馬戦出るとか言い出したし」
「へぇ……」

 塩対応通り越して無味、というのは何となく想像ついたけれど、それが俺と出会ったことで変わり始めていたとは思わなかった。俺の前ではいつも、神経質に苛立っているやつだとしか思えなかったから。
 それでも時々、不意に見せる笑顔が無防備でびっくりしたけれど……まさかそれが、みんなにじゃなかったなんて思いもしなかった。

(でも細谷は俺のこと嫌ってるし、バカにしてるし……俺は、あんなこと言っちゃったし……)

 そんなの今更振り返って思い返して気付いたって、何も変わりはしない。そうして思い返して耳に響くのは、グランドの応援の歓声よりも、あの日の細谷の悲しげな声だ。

「ち、違うんだ! そうじゃない、君は僕の――」

 細谷は、俺のことをあいつの何だと言おうとしてたんだろう。海斗が言うには、俺といる時の細谷は他の人の前とは違うという。笑うことも怒ることも、ましてや慌てふためくことだってないということなんだろうか。
 そんなのまるで、細谷にとって俺は、あいつを振り回すだけの――

「俺、細谷にとって……例外だったってこと?」
「例外って言うか、なんかこう……ああ、特別って感じだな」
「特別? 俺が、細谷の?」
「だってそうじゃない? デートして、笑ったりしてんだからさ」

 だからデートじゃない、とはもう言い返さなかった。もっと俺の琴線に触れる言葉があって、それが俺の胸の中でキラキラし始めていたからだ。
 胸の中に星が降って来たみたいに、キラキラしている気持ちがあることに今更気づいたけれど、これはもう細谷には伝えられないんだろうか。だって俺は、あの日ひどいことを言って背を向けてしまったから。
 胸を抑えうつむく俺に、海斗が「律?」と、心配そうに顔を覗き込んでくる。

「どうしよ、俺……細谷にひどいこと言っちゃったし、謝ってもいない……もう、特別じゃなくなっちゃうのかな」

 ひどいことを言って背を向けたことで保健室という居場所を自ら放り出した時に、俺は特別であるはずの細谷のことまで放り出してしまった。いまになって、もしかしたら細谷も同じ気持ちかもしれないって気づけたけれど、もう遅すぎるんだろうか。
 もうずっと、彼に会っていないし言葉も交わしていない。背を向けたままなのは、俺だ。
 でもじゃあどうしたらいいんだろう。保健室にも行けないし、だからと言って俺は細谷の連絡先さえ知らなくて。いまさらに、俺は細谷が保健委員であること以外は何も知らないことを思い知らされる。
 すると、ぽんぽんと頭を海斗に撫でられ、顔をあげると、海斗が困ったように苦笑している。

「そういうのはさ、ちゃんと本人に真正面から直接聞いてみればいいじゃん。俺がわかるわけないもん」
「海斗……」
「湊人も律も意地っ張りなとこあるから、俺が助けてやってもいいけど……でもまあ、そういうのはちゃんと自分でやった方がいい。後悔しないように」

 そう言われたところで次の騎馬戦の招集がかかり、「じゃあな、頑張れ~」と、海斗からひらひらと手を振られて送り出される。
 強い日差しと、ホコリっぽい暑い空気の中、俺のいる所だけが切り取られたように静かで、時間さえ止まって見え、周りの景色が遠い。

(正面から聞くって……俺が、細谷の特別かって聞くの? そんなこと、いまさら聞いて答えてくれるのかな?)

 ぐるぐると回る問いかけに答えはなくて、遠くに聞こえる歓声がまるで他人事だ。促されるままに組まれた騎馬の上に乗り、俺は騎馬戦へと向かっていく。頭の中は、細谷にどう向き合おうかということでいっぱいで、ルール説明さえ聞こえていない。

『それでは、第二回戦! 赤組対青組!』

 試合が始まる放送と、そのあとのホイッスルのけたたましい音で我に返って顔をあげたけれど、すでに俺が載っている騎馬は走り出していた。
 あちこちで相手の騎馬が向かってきて早速取っ組み合いになる中、俺の所にも迫ってくる影を感じる。

「小野田、後ろ!」

 左足の方の騎馬の生徒の声で後ろを振り返ると、見覚えのある人影に俺は伸ばしかけていた手を止めた。俺よりもうんと背が高い騎手を載せたその騎馬は、相手の青組の――細谷のチームだった。
 細谷は相手が俺だと気付いてハッとした顔をし、同じく伸ばしかけていた手を止め、にらみ据えてくる。にらんではいるけれど、その表情はいつになく複雑な感情がにじんでいて、おおよそ彼らしくない。ためらっているのが見て取れた。

「小野田、行け行け!」

 急かすように騎馬を組んでいる一人から煽られ、俺はいまが試合中であることを思い出す。気を取り直して手を伸ばし、喰ってかかるように騎馬ごと相手に突っ込んでいく。
 しかし細谷たちも上級性なので手慣れているのか、するりと交わしてなかなか簡単に帽子を取らせてくれない。その内に逃げの一手だった細谷からも手が伸びてきて、取っ組み合いのような体勢になった。応援席からは歓声が上がり、一層競技は盛り上がっていく。
 組み合って軍手越しに触れている手に力がこもっているのを感じると、ヘンに意識して動悸がして、まっすぐに細谷をとらえきれない。よけようと体をくねらせてしまい、足許が危うい。

「行け、小野田!」
「負けんな細谷!」

 お互いの騎馬同士が騎手である俺と細谷を励ましてはくれるけれど、どうにも決め手となる一手が繰り出せないでいる。まるでそうしてしまったら、何かが終わってしまうかのように避けているように、正面から向き合おうとしない。
 なんでそんな――そう、視線を微妙に外しながら迫ってくる細谷に改めて向かい合おうとしたその時、ドン、と背後から何か強い力で後ろから押し飛ばされた。

「え……?」

 ぐらりと視界が崩れ、目の前で向かい合っているはずの細谷の姿が傾いていく。一体何が起こったんだろう。騎馬に乗っているはずの足許さえも踏ん張りがきかず、空を掻いているように心許ない。
 なんで、どうして……そう、当よりも先に、俺は地面にたたきつけられていた。

「小野田律!!」

 俺の名前が叫ばれると同時に、歓声が悲鳴に変わった。聞き覚えのある声の叫びが聞こえると同時に、ざぁっと俺の周りを影が取り囲み、更にそれを割るようにして一つの人影が迫ってくる。誰だろう? と痛みを堪えながら薄目を開けると、どこからか、「湊人! 律を頼む! 早く!」という海斗の声が聞こえた。そうして視界には蒼ざめた顔の細谷の姿が映し出される。
 地面にたたきつけられると同時に身体に走った鈍い痛みで、俺は声も出せずうずくまっていたのだけれど、そんな俺を彼がひょいと抱き上げた。

「……細谷?」
「しっかりしろ、小野田律!」

 抱え上げてきた人影も、俺の名前を――それもフルネームを――叫ぶように呼んできた声も、すべて細谷だと気付いた時には、俺は彼に抱えられて校舎の方へと向かっていた。
 一体何が何なのか。なんでこんなに細谷が泣きそうに蒼ざめているのか。

(だって俺は、あんたに嫌われてバカにされてるんでしょ?)

 触るのもイヤだって、嫌いだって、言ってなかったっけ……そう、問いただしたいのに、体が痛いのと、抱えられている驚きで声が出なくて、俺はただされるがまま抱きかかえられていた。
 細くてひょろいと思っていた細谷の腕は、思っていたよりうんとたくましくて力強くて、まるで保健室のベッドの中で眠っている時のように安心できた。
 思わずそっと寄り添うようにしていると、駆けている細谷の心臓の音が聞こえる。トットットッと言っていて、すごく早い。

「細谷の心臓、すごくドキドキしてる……」

 誰に言うでもなく呟くと、その胸元越しに細谷の声が聞こえた。

「当たり前だろう。君がこんな姿に……傷ついた姿になってて気が気じゃないんだから」

 それは、どういう意味? そう、問いたいのに、言わせまいとするように細谷は慌ただしく駆けて行く。しがみ付くように身を寄せながら、俺は今までで一番安心しながらドキドキもしている。まるで失くしていたものを見つけられたような、手許に戻ってきたような、そんなホッとした気持ちに似ていた。