駄菓子を奢ってもらったあの放課後、俺は自分の中に細谷への恋心があることを自覚してしまった。
誰かに対してはっきりとこんな気持ちになること事態が初めてで、正直どうしたらいいかが全くわからない。
家でコンビニ弁当を食べていても、通学で電車に乗っていても、寝ている時でさえ頭の中には細谷の姿が浮かび、耳には俺の名を呼ぶ声が再生される。
「君はサボり魔だけれど、素直でいい奴だ、小野田律」
「そういう率直な反応の良さも君の魅力なんだろうな」
「僕は好ましいと思ってる」
あの夕日の中の言葉が、何度も脳内で繰り返されて止まらない。壊れたオルゴールみたいに、何度もあの時の言葉が俺の耳元で聞こえている。繰り返されるたびに、胸の奥がきゅっと甘く痛くなって、何も手につかなくなるのだ。
ああ、こんなんじゃどんな顔して細谷に会ったらいいのかわからない――それなのに、俺の足は保健室に向いてしまうのが、自分でもどうしようもない。
「ホウキを持つ手が止まっているぞ、小野田律」
「ぅわぁッ?! な、なに?!」
飛びのきざまに振り返った背後には、おかしそうに笑いを堪えている細谷が、驚いてへたり込んでいる俺を見下ろしている。
いまは昼休みで、約束通り俺は顔を出した保健室で掃除をさせられていた所だ。
それなのに細谷が不意打ちをしてきて、俺は驚いたあまりに床にへたり込んでいた。
「そんなに驚いたのか? 意外と胆が小さいんだな」
唐突に背後から耳の近くで名前を囁かれて、飛びのかない人なんていないと思う。そういう思いを込めてにらみ付けてやると、何を思ったか、細谷はサッと手を差し出してきたのだ。まるで、イケメンが転んだ女の子に差し出すような、マンガのような仕草だ。
だからつい見惚れるようにポカンとしていると、何故かたちまちに細谷の顔が赤く染まっていく。
何がどうしたんだと瞬いていると、コホンと細谷は咳払いし、半ば強引に俺の手を取ってくる。
「手を貸してやる、小野田律」
「え、わ、わ、わぁ!」
強く引き上げられるように立ち上がった俺はよろめき、思わず細谷の腕に飛び込む格好となる。手にしていたホウキはそのままで、保健室で俺は好きだと自覚したばかりの相手と抱き合ってしまっている。
いやいやこれはハプニングが過ぎる! と、慌てて細谷の胸の辺りを強く推して突き飛ばそうとしたのに、思いの外細谷の体幹が強かったらしく、俺がよろめいてしまう。それにより、またしても俺は細谷の腕の中に留まる格好となった。
「な、なにすんだよ! 放せ!」
俺が喚いたことでようやく細谷は俺を解放してくれたけれど、心臓は暴れんばかりにうるさく騒いでいる。恋心を自覚したばかりの相手の腕の中って、ちょっとした猛毒じゃないだろうか。一度知ってしまったら、放したくなくなってしまう強い毒。
(心臓に悪い! 刺激が強すぎる!)
大暴れしたみたいに呼吸が乱れている俺に、細谷もかなり動揺しているのか、いつもの冷静さの欠片もなくうろたえている。
「あ、ああ、すまない。これは、その……」
すまない、と真っ直ぐに謝られてそれでいいはずなのに、なんだかそれも釈然としない。なんで謝ってるんだよ、なんてケチをつけたくなってしまい、考えていることが矛盾していてむちゃくちゃだと自分でも思う。そして心臓がずっとうるさい。
なんだかぎくしゃくと距離を置き、不自然に顔を反らしていると、少し離れたところで書類整理をしていたアオバ先生がひょいと俺たちの方を見やり、こんな事を言う。
「なんだか最近小野田くんと細谷くん、随分仲良しになったわねぇ。ハグし合うなんて」
ふわふわとやわらかで、のん気とも言える先生の言葉に心臓が大きく跳ねる。そうだ俺、いま細谷とハグしてるんだ――そう考えるだけで、感情のすべてが口からこぼれ出そうになる。必死にこらえようとぎゅっと唇を噛んでいると、ガターン! と、ホウキを床にたたきつける音が響く。
「仲良くなんかしてません! これは事故です! ただ手を貸しただけです! ハグとかそんなありえない!! ヘンなこと言わないでください!!」
床にたたきつけたホウキの音が思いの外大きかったのと、それ以上に細谷が言い放った言葉が強くてきつく、保健室の中はしんと静まり返ってしまった。
静かになってしまった分、俺は自分の中にふつふつと怒りが急激に湧いてくるのを感じたが、止められなかった。
「なんだよその言い方……俺ってそんなに、触れるのもイヤな感じなの? 諸悪の根源?」
俺の呟きに、細谷はハッと我に返ったみたいだけれど、何をためらっているのか、目を伏せたまま謝ろうとも目を合わそうともしない。そういう態度が余計に俺を苛立たせて焚きつけていくのに。
「昨日あんなやさしいこととか嬉しいこと言ってくれて、細谷っていい奴じゃんって思ったのに……なにそれ。やっぱ俺のことバカにしてんじゃんか」
「ち、違うんだ! そうじゃない、君は僕の――」
「うるさい! 言い訳なんか聞きたくない!!」
細谷の言葉を頭から打ち消すように怒鳴りつけてにらむと、いつになくうろたえて蒼ざめている細谷と眼が合った。
情けない顔。すっげーダサい。こんなダサい奴を好きだなんて……俺の方が何百倍もダサい。こんなやつがいる保健室が安心するだなんて思ってしまったなんて。
恥ずかしい。消えたい。こんなやつ、こんなやつなんて――
「ちょ、ちょっと言いすぎただけよね、細谷くん。小野田くんも、ね。ほら……お掃除の続きをしよ……」
凍り付いたような空気になった俺と細谷の間を取り持つように、アオバ先生が立ち上がりつつ声をかけてくる。もうお腹がだいぶ大きくなってきて動くのもしんどいとこの前言っていたのに、自ら掃除をしようと声をかけてくる。
(俺、何しにここに来てるんだろ……そりゃ最初はサボるためではあったけれど、でも、いまはそうじゃなくて……俺は、細谷に会いたくて来てたはずなのに……でも、もう――)
自分がしていることの意味が解らなくなってくるほど感情がぐちゃぐちゃで、苦しくて痛い。グッと胸元を抑えてはみたけれど治まるわけもなく、痛みは増していくばかりだ。しかも、視界まで滲んでいく。
はたはたと床に、手に、何かが降り注いでいく。もしかして俺、泣いてる?
そう自覚した瞬間、俺はホウキを投げ出して保健室を飛び出していた。
「小野田くん!」
乱暴に引き戸を開けて、廊下を駆けて行く俺の背にアオバ先生の声がしたけれど、振り返らなかった。視界の端に、悲しみと怒りを入り混じった顔をした細谷の目が見えた気がしたけれど、よくわからない。ただひたすらに駆けて、細谷のいない場所に行きたくて仕方なかった。
「っはぁ、っはぁ、ッはぁ……クソ……ッ」
目の前がどんどん滲んでいって息が苦しいのは、俺がいま走っているからというだけではないのだろう。
こんな風にあいつから離れていったって何も解決しないのに、足が止まらないのはどうしてなんだろう。
苦しい、悲しい……悔しい。そんな感情がとめどなく両目から溢れて流れ頬を伝っていく。
「何だよあいつ……クソ……あんな奴、なんで……なんで、俺……好きなままなんだろう……」
嫌いだと言い切れないのはどうしてだろう。細谷に向けられた眼差しが悲しくて悔しいのに、それでも俺は、あいつが嫌いだって思うこともできない。だってちゃんと、俺に非があることがわかっているし、それを細谷は正してくれたからだ。
でもそれを、素直に受け止められないでいる。そのへそ曲がりで素直でいられない自分が、腹立たしい。
それでもなんで好きになっちゃったんだろう……あのクソ真面目が、俺のことなんて好きになってくれるわけないのは、心のどこかでわかっていたはずなのに。
「もう俺、保健室行けなくなるのかな……」
家よりもずっと安心できる、大切な場所。それを分かち合えるのが細谷だったんだと、いまさらに気付かされる。でももう遅いんだ、なにもかも。
立ち止まった学年玄関の下駄箱の前で、俺は乱れた呼吸を整えようとしたけれど上手くいかなくてうずくまった。
身体中を駆け巡る負の感情は行き場を失くして目からあふれ、俺の制服のシャツの袖を濡らしていった。
保健室の掃除を放棄した日を境に、俺は保健室へ行かなくなった。
クラスのみんなは、いままでろくに授業に出てこなかった俺が急に全授業にフツーに出席し始めたから、奇異の目で見てくる。まるで俺が教室にいることが異質であるかのように。
見てくるだけならまだしも、「いまさら授業点気になりだしたのかな?」とか、「単位ヤバいってやっと気づいたのかもよ」とか、好き勝手聞こえよがしに言ってくるのが腹が立つ。
(腹が立つけど……言い返す気にもならない。言ったところで、どうせ笑われるだけだもんな)
こういう状況になるのがわかりきっていたからこそ、俺は学校での時間のほとんどを保健室で潰していたということを思い知らされる。その安心できる大切な場所が、もういまはないことも。
くすくすと嗤っている声まで聞こえてきそうで、本当に気が滅入る。逃げ出そうにも、俺はもう保健室に行く資格を自ら放棄したようなものなんだから、どこにも行けない。
机に突っ伏してうずくまるようにしてると、担任の先生がやって来てショートホームルームが始まる。話を聞くのも気だるく思えてしまい、俺は突っ伏したままでいた。
「――ってことでぇ、あとは騎手を5人決めなきゃなんだが、誰かいるか?」
騎手ってなんだ? と、顔をあげると、担任の先生が喋っていると思っていた教壇にはクラスの体育委員が立っていて、何やら話し合いが始まっている。
「そんなら小野田とかいいんじゃね? 女子より細いし、軽そうじゃん」
どこからかそんな声がして、一斉に教室中の視線を注がれる。
「たしかに、ウチらより細いもんねー」
「騎手って言うより姫じゃね?」
そんな声すらするけど、にらみ返す気力もない。半分寝ていたのもあって話しの流れが全然わからなくて、とりあえず隣の女子に聞いてみた。
「いまなに話してんの?」
「体育祭の騎馬戦の上に乗る人決めてるんだよ」
「騎馬戦、ってあの組体操みたいにして、上に乗るやつ?」
「そうそれ。軽い人じゃないと無理らしいから、小野田くんどう? って」
体育祭のこと自体忘れていた度もあるけれど、出場種目を決めなきゃいけないことも忘れていた。一人ひと種目は出なくてはいけない、とも聞き、俺は特に考えることなく手を挙げた。
普段なら、小柄であることを指摘された上にからかわれるように何かに推薦されるなんて、絶対嫌だしキレかねないのに、いまはもうどうでもよかったから、俺は手を挙げていた。
「俺やる」
「んじゃあ、小野田、騎手に決まりね」
上に乗っていればいいのだったら、特に何も考えなくていいんだろう。そう思ったから手を挙げたに過ぎないんだけれど、さっき話をしていた女子から、「だいじょうぶ?」と心配そうに聞かれた。
「だいじょうぶ、って? べつに上乗ってればいいんでしょ?」
「まあ、そうだけど……」
何か言いたげにしていたけれど、特に俺は気に留めることもなくまた机に突っ伏し、うつらうつらとし始める。いまはもう何も考えたくないからだ。
教室の中は種目決めが白熱し始めて、どんどんうるさくなっていく。俺はぎゅっと縮こまるようにうずくまりながら気配を消し、早くこの時間が終わればと思っていた。
(終わったところで、俺が行く所なんてないんだけどさ)
何もかもがどうでも良くて、何も考えたくない。ここが俺の居場所じゃないのは確かなのに、ここ以外に居場所がない。それがひどくしんどい。
保健室に行きたい。行って、熱があると嘘をついて、ベッドに眠っていたい。
(……ああでもきっと、そんなこと、細谷がさせないんだろうけどさ)
「情けないな、どうした腑抜けて」くらい言ってきそうな気がして、突っ伏したまま俺は小さく笑う。そして同時に、そんなことはもう起きやしないんだとも気付かされる。だって俺が自分から、放り出してしまったから。
「……何であんなこと言っちゃったんだろう」
取り返しがつかない言葉のことをこんなに悔やんだのは初めてだった。自分の軽率で浅はかなところも、心底呆れた。でも、もう遅いんだ――
騒がしい教室の隅で悔やみきれない想いを抱えたまま、俺はただじっと息をひそめていた。そうすることでしかいま抱えている苦しさを紛らわせることができなかったから。
誰かに対してはっきりとこんな気持ちになること事態が初めてで、正直どうしたらいいかが全くわからない。
家でコンビニ弁当を食べていても、通学で電車に乗っていても、寝ている時でさえ頭の中には細谷の姿が浮かび、耳には俺の名を呼ぶ声が再生される。
「君はサボり魔だけれど、素直でいい奴だ、小野田律」
「そういう率直な反応の良さも君の魅力なんだろうな」
「僕は好ましいと思ってる」
あの夕日の中の言葉が、何度も脳内で繰り返されて止まらない。壊れたオルゴールみたいに、何度もあの時の言葉が俺の耳元で聞こえている。繰り返されるたびに、胸の奥がきゅっと甘く痛くなって、何も手につかなくなるのだ。
ああ、こんなんじゃどんな顔して細谷に会ったらいいのかわからない――それなのに、俺の足は保健室に向いてしまうのが、自分でもどうしようもない。
「ホウキを持つ手が止まっているぞ、小野田律」
「ぅわぁッ?! な、なに?!」
飛びのきざまに振り返った背後には、おかしそうに笑いを堪えている細谷が、驚いてへたり込んでいる俺を見下ろしている。
いまは昼休みで、約束通り俺は顔を出した保健室で掃除をさせられていた所だ。
それなのに細谷が不意打ちをしてきて、俺は驚いたあまりに床にへたり込んでいた。
「そんなに驚いたのか? 意外と胆が小さいんだな」
唐突に背後から耳の近くで名前を囁かれて、飛びのかない人なんていないと思う。そういう思いを込めてにらみ付けてやると、何を思ったか、細谷はサッと手を差し出してきたのだ。まるで、イケメンが転んだ女の子に差し出すような、マンガのような仕草だ。
だからつい見惚れるようにポカンとしていると、何故かたちまちに細谷の顔が赤く染まっていく。
何がどうしたんだと瞬いていると、コホンと細谷は咳払いし、半ば強引に俺の手を取ってくる。
「手を貸してやる、小野田律」
「え、わ、わ、わぁ!」
強く引き上げられるように立ち上がった俺はよろめき、思わず細谷の腕に飛び込む格好となる。手にしていたホウキはそのままで、保健室で俺は好きだと自覚したばかりの相手と抱き合ってしまっている。
いやいやこれはハプニングが過ぎる! と、慌てて細谷の胸の辺りを強く推して突き飛ばそうとしたのに、思いの外細谷の体幹が強かったらしく、俺がよろめいてしまう。それにより、またしても俺は細谷の腕の中に留まる格好となった。
「な、なにすんだよ! 放せ!」
俺が喚いたことでようやく細谷は俺を解放してくれたけれど、心臓は暴れんばかりにうるさく騒いでいる。恋心を自覚したばかりの相手の腕の中って、ちょっとした猛毒じゃないだろうか。一度知ってしまったら、放したくなくなってしまう強い毒。
(心臓に悪い! 刺激が強すぎる!)
大暴れしたみたいに呼吸が乱れている俺に、細谷もかなり動揺しているのか、いつもの冷静さの欠片もなくうろたえている。
「あ、ああ、すまない。これは、その……」
すまない、と真っ直ぐに謝られてそれでいいはずなのに、なんだかそれも釈然としない。なんで謝ってるんだよ、なんてケチをつけたくなってしまい、考えていることが矛盾していてむちゃくちゃだと自分でも思う。そして心臓がずっとうるさい。
なんだかぎくしゃくと距離を置き、不自然に顔を反らしていると、少し離れたところで書類整理をしていたアオバ先生がひょいと俺たちの方を見やり、こんな事を言う。
「なんだか最近小野田くんと細谷くん、随分仲良しになったわねぇ。ハグし合うなんて」
ふわふわとやわらかで、のん気とも言える先生の言葉に心臓が大きく跳ねる。そうだ俺、いま細谷とハグしてるんだ――そう考えるだけで、感情のすべてが口からこぼれ出そうになる。必死にこらえようとぎゅっと唇を噛んでいると、ガターン! と、ホウキを床にたたきつける音が響く。
「仲良くなんかしてません! これは事故です! ただ手を貸しただけです! ハグとかそんなありえない!! ヘンなこと言わないでください!!」
床にたたきつけたホウキの音が思いの外大きかったのと、それ以上に細谷が言い放った言葉が強くてきつく、保健室の中はしんと静まり返ってしまった。
静かになってしまった分、俺は自分の中にふつふつと怒りが急激に湧いてくるのを感じたが、止められなかった。
「なんだよその言い方……俺ってそんなに、触れるのもイヤな感じなの? 諸悪の根源?」
俺の呟きに、細谷はハッと我に返ったみたいだけれど、何をためらっているのか、目を伏せたまま謝ろうとも目を合わそうともしない。そういう態度が余計に俺を苛立たせて焚きつけていくのに。
「昨日あんなやさしいこととか嬉しいこと言ってくれて、細谷っていい奴じゃんって思ったのに……なにそれ。やっぱ俺のことバカにしてんじゃんか」
「ち、違うんだ! そうじゃない、君は僕の――」
「うるさい! 言い訳なんか聞きたくない!!」
細谷の言葉を頭から打ち消すように怒鳴りつけてにらむと、いつになくうろたえて蒼ざめている細谷と眼が合った。
情けない顔。すっげーダサい。こんなダサい奴を好きだなんて……俺の方が何百倍もダサい。こんなやつがいる保健室が安心するだなんて思ってしまったなんて。
恥ずかしい。消えたい。こんなやつ、こんなやつなんて――
「ちょ、ちょっと言いすぎただけよね、細谷くん。小野田くんも、ね。ほら……お掃除の続きをしよ……」
凍り付いたような空気になった俺と細谷の間を取り持つように、アオバ先生が立ち上がりつつ声をかけてくる。もうお腹がだいぶ大きくなってきて動くのもしんどいとこの前言っていたのに、自ら掃除をしようと声をかけてくる。
(俺、何しにここに来てるんだろ……そりゃ最初はサボるためではあったけれど、でも、いまはそうじゃなくて……俺は、細谷に会いたくて来てたはずなのに……でも、もう――)
自分がしていることの意味が解らなくなってくるほど感情がぐちゃぐちゃで、苦しくて痛い。グッと胸元を抑えてはみたけれど治まるわけもなく、痛みは増していくばかりだ。しかも、視界まで滲んでいく。
はたはたと床に、手に、何かが降り注いでいく。もしかして俺、泣いてる?
そう自覚した瞬間、俺はホウキを投げ出して保健室を飛び出していた。
「小野田くん!」
乱暴に引き戸を開けて、廊下を駆けて行く俺の背にアオバ先生の声がしたけれど、振り返らなかった。視界の端に、悲しみと怒りを入り混じった顔をした細谷の目が見えた気がしたけれど、よくわからない。ただひたすらに駆けて、細谷のいない場所に行きたくて仕方なかった。
「っはぁ、っはぁ、ッはぁ……クソ……ッ」
目の前がどんどん滲んでいって息が苦しいのは、俺がいま走っているからというだけではないのだろう。
こんな風にあいつから離れていったって何も解決しないのに、足が止まらないのはどうしてなんだろう。
苦しい、悲しい……悔しい。そんな感情がとめどなく両目から溢れて流れ頬を伝っていく。
「何だよあいつ……クソ……あんな奴、なんで……なんで、俺……好きなままなんだろう……」
嫌いだと言い切れないのはどうしてだろう。細谷に向けられた眼差しが悲しくて悔しいのに、それでも俺は、あいつが嫌いだって思うこともできない。だってちゃんと、俺に非があることがわかっているし、それを細谷は正してくれたからだ。
でもそれを、素直に受け止められないでいる。そのへそ曲がりで素直でいられない自分が、腹立たしい。
それでもなんで好きになっちゃったんだろう……あのクソ真面目が、俺のことなんて好きになってくれるわけないのは、心のどこかでわかっていたはずなのに。
「もう俺、保健室行けなくなるのかな……」
家よりもずっと安心できる、大切な場所。それを分かち合えるのが細谷だったんだと、いまさらに気付かされる。でももう遅いんだ、なにもかも。
立ち止まった学年玄関の下駄箱の前で、俺は乱れた呼吸を整えようとしたけれど上手くいかなくてうずくまった。
身体中を駆け巡る負の感情は行き場を失くして目からあふれ、俺の制服のシャツの袖を濡らしていった。
保健室の掃除を放棄した日を境に、俺は保健室へ行かなくなった。
クラスのみんなは、いままでろくに授業に出てこなかった俺が急に全授業にフツーに出席し始めたから、奇異の目で見てくる。まるで俺が教室にいることが異質であるかのように。
見てくるだけならまだしも、「いまさら授業点気になりだしたのかな?」とか、「単位ヤバいってやっと気づいたのかもよ」とか、好き勝手聞こえよがしに言ってくるのが腹が立つ。
(腹が立つけど……言い返す気にもならない。言ったところで、どうせ笑われるだけだもんな)
こういう状況になるのがわかりきっていたからこそ、俺は学校での時間のほとんどを保健室で潰していたということを思い知らされる。その安心できる大切な場所が、もういまはないことも。
くすくすと嗤っている声まで聞こえてきそうで、本当に気が滅入る。逃げ出そうにも、俺はもう保健室に行く資格を自ら放棄したようなものなんだから、どこにも行けない。
机に突っ伏してうずくまるようにしてると、担任の先生がやって来てショートホームルームが始まる。話を聞くのも気だるく思えてしまい、俺は突っ伏したままでいた。
「――ってことでぇ、あとは騎手を5人決めなきゃなんだが、誰かいるか?」
騎手ってなんだ? と、顔をあげると、担任の先生が喋っていると思っていた教壇にはクラスの体育委員が立っていて、何やら話し合いが始まっている。
「そんなら小野田とかいいんじゃね? 女子より細いし、軽そうじゃん」
どこからかそんな声がして、一斉に教室中の視線を注がれる。
「たしかに、ウチらより細いもんねー」
「騎手って言うより姫じゃね?」
そんな声すらするけど、にらみ返す気力もない。半分寝ていたのもあって話しの流れが全然わからなくて、とりあえず隣の女子に聞いてみた。
「いまなに話してんの?」
「体育祭の騎馬戦の上に乗る人決めてるんだよ」
「騎馬戦、ってあの組体操みたいにして、上に乗るやつ?」
「そうそれ。軽い人じゃないと無理らしいから、小野田くんどう? って」
体育祭のこと自体忘れていた度もあるけれど、出場種目を決めなきゃいけないことも忘れていた。一人ひと種目は出なくてはいけない、とも聞き、俺は特に考えることなく手を挙げた。
普段なら、小柄であることを指摘された上にからかわれるように何かに推薦されるなんて、絶対嫌だしキレかねないのに、いまはもうどうでもよかったから、俺は手を挙げていた。
「俺やる」
「んじゃあ、小野田、騎手に決まりね」
上に乗っていればいいのだったら、特に何も考えなくていいんだろう。そう思ったから手を挙げたに過ぎないんだけれど、さっき話をしていた女子から、「だいじょうぶ?」と心配そうに聞かれた。
「だいじょうぶ、って? べつに上乗ってればいいんでしょ?」
「まあ、そうだけど……」
何か言いたげにしていたけれど、特に俺は気に留めることもなくまた机に突っ伏し、うつらうつらとし始める。いまはもう何も考えたくないからだ。
教室の中は種目決めが白熱し始めて、どんどんうるさくなっていく。俺はぎゅっと縮こまるようにうずくまりながら気配を消し、早くこの時間が終わればと思っていた。
(終わったところで、俺が行く所なんてないんだけどさ)
何もかもがどうでも良くて、何も考えたくない。ここが俺の居場所じゃないのは確かなのに、ここ以外に居場所がない。それがひどくしんどい。
保健室に行きたい。行って、熱があると嘘をついて、ベッドに眠っていたい。
(……ああでもきっと、そんなこと、細谷がさせないんだろうけどさ)
「情けないな、どうした腑抜けて」くらい言ってきそうな気がして、突っ伏したまま俺は小さく笑う。そして同時に、そんなことはもう起きやしないんだとも気付かされる。だって俺が自分から、放り出してしまったから。
「……何であんなこと言っちゃったんだろう」
取り返しがつかない言葉のことをこんなに悔やんだのは初めてだった。自分の軽率で浅はかなところも、心底呆れた。でも、もう遅いんだ――
騒がしい教室の隅で悔やみきれない想いを抱えたまま、俺はただじっと息をひそめていた。そうすることでしかいま抱えている苦しさを紛らわせることができなかったから。



