それからの授業は、なんだかそわそわしてちっとも落ち着かなかった。
 元より俺が授業に集中していることなんてほとんどないんだけれど、いつものそういうのとは違うそわそわする気持ちだ。例えて言うなら、まだサンタクロースとかヒーローもののヒーローの存在を信じていた頃のような気持ちに似ている。
期待と楽しみがワクワクとドキドキというオノマトペになって頭や胸の中を満たしていく感じで、自然と口元が緩んでしまいそうになるので、授業中は必死に唇を噛んでいた。
 そうしてやっと、放課後になった。

「律ー、カラオケ行かね? んで、帰りにうち寄ってけよ。久々に母ちゃんがメシ食いに来いってさ」
「ごめん、今日ちょっと用事がある。叔母さんにもそう言っといて」

 授業終わり、従兄の海斗が遊びと夕食の誘いに来てくれたのだけれど、俺はそれを断った。いつもなら一も二もなく「行くー!」と飛びつく俺が断るので、海斗が目を丸くしている。

「え、どしたん? もしや彼女でも出来た?!」
「なんでそうなんの。俺が海斗の家に行かない時だってあるよ」
「母ちゃんが“そろそろ自分でも作れるようになったら~?”って厭味言っても“うん、でも作ってもらう方が楽だし”とか失礼かます律が?」
「……それは悪かったって思ってるよ」

 いつぞやに父さんの妹である叔母さんにそんな厭味を言われたんだけれど、ケロッとした顔でそう返したら、最近まで出禁になっていた。
 流石にいまはあんな失礼なことはもう言わないし、思ってもいないけれど、でも、そう言われてしまうくらいに海斗の家にも入りびたっていた時期もあったほどだ。
 それなのに、行かないというのだから、まあ、驚かれても仕方はないだろう。

「俺だって海斗以外に遊ぶ人くらいいるよ。付き合って欲しいって言われたし」
「え、マジで彼女とかなの?! デート?! 詳しく聞かせろよ!!」

 教室を出て廊下を出ても尚、海斗はしつこく俺が誰と会うのかを問詰めてくる。振り払おうと足早に歩きはするんだけれど、海斗の方が背は高くて足が長いのですぐに追いつかれてしまう。
 俺の後をついてきながら、ずっと、「ねえねえマジで誰?」とか、「俺知ってるやつ?」とか、本当にしつこくてイライラが募っていく。
 とうとう学年玄関までついてきやがった。

「しつっこいな! いつまでついてくるんだよ!」
「しょうがないじゃん、俺だって玄関こっちなんだから」

 全校生徒が利用する玄関口で、学年ごとにげた箱の場所が違うというだけなので、向かう先は確かに同じではある。しかしだからって、明らかに二年の海斗が一年の俺の下駄箱の辺りまでついて来ているのは理由にならない。

「ねえねえ律~、教えてってばぁ、俺と律の仲じゃん~」

 振り払っても食いついてくる勢いの海斗をにらみつけ、もう一度怒鳴りつけようとしたその時、「ああ、悪い、小野田律。待ったか?」と、背後から俺を呼ぶ声が聞こえた。その声と、声の主の姿に、海斗の目が点になっている。

「え……湊人?! 湊人が律のデートの相手?!」

 海斗が素っ頓狂な声をあげたせいで、周りの生徒が一斉に注目してくる。しかも海斗は俺だけじゃなくて細谷の名前まで叫んでいるから、なおのこと注目度が上がっていく。

「あれって保健委員の細谷くん?」
「いまデートって言ったよね?」
「え、もしかしてあの一年の子と付き合ってるの?」
「マジで?! ビジュがいいのに彼女いないのはそういうこと?!」

 注目されている上に、周囲の生徒たちはみんな好き勝手に妄想してストーリーを作り上げていく。今更なんだけれど、細谷はビジュがいいことで割と有名らしいのにも気付かされる。
 全く思ってもいない方向に状況が膨らんでいく様に、俺がなすすべなく顔を赤く染めて立ち尽くしていると、「話は済んだか、久保」と、呆れたようにため息交じりに細谷が呟いた。
 注目度の割に極めて冷静な態度をとっている細谷に、それまでわあきゃあ言っていた周囲がシンとなり、視線が一気に注がれる。

「僕は確かに小野田律と放課後に待ち合わせをしてはいた」
「だ、だからそれはデートなんじゃないの? 付き合ってくれって言ったんだろ?」
「一緒に行って欲しいところがあるから“付き合って欲しい”とは言ったが、恐らく君たちが期待するようなものではないと思うが?」
「え、じゃなんで待ち合わせなんか……」

 頭が疑問符だらけな海斗に対し、細谷は特に動じる様子もなく沈着冷静に、あのいつもの片頬をあげる厭味ったらしく見える微笑を――しかしいまはこの上なく楽しそうな笑みを――浮かべて答えた。

「ほかでもない、小野田律が今日僕をとても助けてくれた。だから一緒に来て欲しい、それだけだ」

 じゃあ行こう、と、細谷は言うだけのことを言っておれを促す形で手を取り、そのまま歩き始める。
 え? 手を繋いでる? なんで? そう思った時にはすでに海斗たちがいる玄関を出ていて、校舎からも数メートル離れた所に来ていた。その間一分弱。
 そこでようやく海斗たちは我に返ったのか、「ええー?!」と、また素っ頓狂な悲鳴のような声をあげていた。

「それってやっぱデートじゃないのー?!」

 誰ともつかない、悲鳴のような歓声のような声が投げかけられていたけれど、俺は勿論、細谷も答えはしなかった。ただお互いを見やり、堪え切れずにプッと吹き出して笑いだしていたほどだ。手は、繋いだままだけれど。

「っはは。短絡的なやつらばっかりだな。付き合いで行動を共にすることを、交際に結び付けるなんて」

 おかしそうにくすくすと機嫌よく笑う細谷の横顔は、見惚れるほどきれいで無防備で、いままで見た中で一番目を惹かれる。こんな人と、俺今手を繋いでるんだ……男同士なのにイヤじゃなくて、むしろすごくドキドキしてるの、なんでだろう……。
 ワザとなのかな? でも、なんのために? そんなことをぐるぐる考えつつも、俺から手を振りほどくのも気が引けてそのままにしていたけれど、やっぱり恥ずかしくはある。

「う、うん……でもさ、あの……こういうことしてるから、じゃないの?」
「え? あ、ああ!」

 俺がつないだままの手を指して言うと、ようやく気付いたとばかりに細谷は驚きの声をあげ、飛びのく。普段の冷静さの欠片もない様子に、俺はついまた吹き出してしまった。だって、あまりに慌てるようだからだ。
 しゃがみ込み、腹を抱えるように笑っている俺を、細谷はバツが悪そうに顔を背けてムスッとして軽く睨んでいる。でもそれも、やがてつられるように笑いだしたことで溶けていった。

「細谷、驚き過ぎだよ」
「君も人が悪いな、気付いていて言わないなんて」
「言うタイミングがなかっただけだよ」

 笑い声の狭間にも言い合いをしたけれど、笑っているせいで迫力がなく、それもまた笑わせる要因になって止まらない。涙が出るほど笑ったのなんていつ以来だろう……それぐらい、俺らはひとしきり笑っていた。

「ッはは……あー、おかしかった。ねえ、どこに行くの?」
「ああ、そうだったな。まあ、ついてくるといい」

 そう言って、ようやく体勢を立て直すように細谷が歩き出す。もう手は繋いでいないから、俺は後ろをついて行くだけだ。
 手を繋いだだけであんなに笑い合ったのに、もうそれが解けている。それが何となく惜しいというかさびしいというか、そんな気持ちになって、足が止まりそうになった。

(何だろう……心臓がまたとくとく速くなってる。うるさくはないけど、ドキドキが速い)

 細谷といると、喋ったりすると、いつも心臓が不思議な動きをする気がする。さっきだってそうで、思わず触らせて確かめさせてしまったけれど……あの時だって、俺はすごくドキドキしていた。

(でも、細谷は何ともないって言ってたし……気のせいってこと? でも、気のせいって感じでもないんだけどなぁ……)

 ドキドキの理由がわからないし、気になる。べつに病気でもなさそうだけれど、じゃあなんだろう? そんなことを考えつつうつむき加減で歩いていたら、前を歩いていた細谷が急に立ち止まり、その背中に突っ込むように激突してしまう。

「っぅぷ! なんで急に止まるんだよ! あっぶな……」
「着いたぞ、小野田律」

 そう、細谷が振り返りざまに言い、そして俺の手を牽いた。数歩踏み出した先に見えたのは――

「え、何ここ……駄菓子?」

 古い、いわゆる古民家と呼ばれるような家の入り口に赤いのぼりが立てられていて、白抜きで『駄菓子あります』と、書かれている。入り口の辺りには、古いプラスチックみたいな素材の色あせたベンチがいくつかあったり、ビールケースがひっくり返されてボロボロの座布団が置かれていたりする。まるで休憩スペースだ。
 駄菓子ってあの駄菓子? と、聞くよりも先に入り口の引き戸を細谷が開ける。開けた先には、ところせましと色とりどりのお菓子――多分駄菓子というやつ――が並べられているのが見えた。

「こんにちはー、ばあちゃーん」
「え? ここ、細谷の知ってる人の家? 親戚とか?」
「ああ、そういうわけではない。ここは――」

 じゃあ何? と聞こうとしたら、「はぁい」と明るい女の人の声がして、ゆっくりとした足取りで誰かが見せの奥の方から歩いてくる。
 出てきたのは、細谷の半分ほどしか背丈がない白髪のおばあさんだ。口元の感じがなんとなく細谷に似ている気がしなくもない。でもまとう雰囲気は、アオバ先生みたいだ。

「まあまあ湊人くん。よく来てくれたわねぇ」
「お店の開店おめでとうございます。ご挨拶が遅くなってすみません。こちらは保健室仲間の小野田律です」
「あらぁ、こんにちは。いらっしゃい」

 もごもごと、「……こんちわ」とは言ったものの、俺は身近におばあちゃんという存在がいないから、どういう風に接するのが正解なのかちっともわからないけれど、少なくとも孫がおばあちゃんにする言葉遣いじゃないだろう。硬い、硬すぎるんだ細谷は。
 しかしおばあちゃんは特に意に介している風ではなく、ニコニコと嬉しそうにしている。

「それじゃあ、ゆっくりしていってね。湊人くんがお友達を紹介してくれるの初めてなのよ」
「え、あ、えっと……ホントに?」

 「保健室に入りびたっている時はひとりぼっちだったからな」、と、細谷はおばあちゃんの言葉を否定する風でもなく、むしろ小さなバスケットを手渡してくる。

「これに好きなだけ入れるといい。今日は僕の奢りだ」
「好きなだけ? なんでも? てか、なんで奢り?」
「なんでもだ。クジでもジュースでも、好きなだけ。昨日と今日のお礼と思ってくれ」

 駄菓子の相場は安い、というくらいしか俺は駄菓子については知らない。近所にそういう店はなかったし、よく遊んでいた海斗も多分あまり駄菓子屋なんて行ったことないんじゃないかと思う。親はこういう所に連れて行ってもくれなかったし、友達もいないし、お菓子はいつもコンビニかスーパーで買っていたから。

「ありがとう! 俺、駄菓子って初めてなんだ!」

 初めて目にする駄菓子は、どれも色とりどりで見たことないものばかりだった。ゲームの中のモンスターみたいな色の水あめや、焼き肉の味がするスルメみたいなスナック菓子、ものすごく酸っぱいスモモに、小さな一口サイズのヨーグルトみたいなやつや、ピンで形をくり貫いていくゲームみたいなのもやった。

「あー! また失敗したー! おばあちゃん、もう一回!」
「何だ、また失敗したのか小野田律。不器用なやつだな」
「俺が不器用なんじゃない! 問題が無理ゲーなだけ!」

 俺がキイキイと喚いて反論すると、細谷はしょうがないなと言いたげに苦笑し、そして俺からピンを受け取ってやり始める。そしてたちまちに蝶やら車やらを取り出してしまう。
 型抜きというそれは、細谷が異様に上手かった。あんなにむちゃくちゃな形なのに、きれいに抜いてしまうのだ。

「ほら、簡単じゃないか」
「うわ……何このエグイ器用さ……腹立つ~」
「エグイも何も、君が不器用なだけだろう」

 くすくすと笑いながらも、細谷の笑い顔はいつもの厭味な感じは全くしない。なんだか楽しそうで、こっちまでつられてクスッとしてしまう。不器用だって言われてるのに、悪意を感じないからだろうか。
 細谷の奢りだからというわけではないけれど、つい型抜きにハマって熱中していると、「あらあら楽しそうね」と、おばあちゃんが何かが入ったコップの載ったお盆を手にやって来た。
 コップの中身はビビットな赤紫色で、ほのかに甘酸っぱいようなにおいがする。

「これ、なんですか?」
「これはね、紫蘇ジュース。梅干を赤くする紫蘇の葉っぱで作ったジュースの素を炭酸で割っているのよ」
「え、葉っぱでジュース?!」

 初めて見る飲み物を、かなり恐る恐る見つめていると、グラス越しに細谷と眼が合った。俺の様子を笑い含みで見ている。バカにしてんのか? と、にらみつけたけれど、もちろんこたえた感じではない。

「……なんだよ」
「っふ。いや、怖がりな子猫みたいだなと思って」
「怖がってなんかない! これぐらい飲める!」

 カッとなった勢いでグラスの半分くらいを一気に飲み干してしまった。甘酸っぱい、梅干しよりもうんと優しい味が口いっぱいに広がる。甘いとも酸っぱいともつかない、でも癖になりそうな独特の味は、すっきりとした後味だった。

「え、うまッ。フツーのジュースより全然美味しい」
「だろう? ばあちゃんの紫蘇ジュースは元気が出るんだ」

 まるで自分が作ったかのように細谷は得意げに紫蘇ジュースを飲み、そしてポテトチップスをかじっている。普段保健室で見せる姿からは想像がつかないくらい、いまの細谷はラフでリラックスして見える。そもそも、こうやって買い食いをするようなイメージすらないから、意外な場所に連れて来たなと思った。

「細谷がこういうとこ来るなんて意外だね。自分のおばあちゃんちだから?」
「いや、ばあちゃんは僕の祖母ではない。僕の祖母は十年も前に他界している」

 思ってもいなかった言葉に目を丸くしておばあちゃんの方を振り返ると、おばあちゃんはくすくすと笑いながらうなずいている。

「私はね、湊人くんの小学校の頃の保健室の先生だったのよ。昨年末に退職してね、先月ようやくここを開店させたの」

 そう言えば細谷が小さい頃は体格が小さくて体が弱くて、保健室のお世話によくなっていたと言っていたのを思い出す。だから、自分も保健室を大切にしたいし、将来養護教諭になって自分のような子どもの力になりたいと言っていた。そのきっかけになった元先生であるおばあちゃんが彼女なのだと知り、俺は一種の感動のような物を覚え、思わず立ち上がりそうになる。

「おばあちゃんが、細谷をクソ真面目な保健委員にした先生なんだ……」
「クソ真面目とは何だ、小野田律。僕は信念に基づいて行動しているだけだ。何よりばあちゃんを悪く言うんじゃない」
「悪く言ってないじゃん。意外と細谷が義理堅いなって思ったんだよ」

 飴で青くなったしたをべーッと出しながら言い返すと、細谷はひも付きの飴をを咥えながらくすりと苦笑し、「そういう君こそ」と言う。

「そういう君こそ、駄菓子屋が初めてだなんて意外じゃないか。こういう所は慣れたものなんだとばかり思ってた」

 細谷の言葉に、今度は俺が小さく苦笑して目を伏せる。よく言われるのだ、駄菓子屋とか通い詰めてそうだね、とか、駄菓子で生きてそうだ、とか。でも実際は真逆なのだ。

「そういうのは、よく言われる。でも俺、全然こういうとこ来るような友達いないんだよね。小さい頃から親に放っておかれてさ、金だけ渡されて、ご飯はいつもコンビニとかカップ麺で」
「……え? ずっと?」
「うん、ずっと。だからかな、俺家にいるの苦手なんだよねぇ。ひとりぼっちなのがわかるから。ひとりだとさびしいじゃん? で、この前みたいに夜待ちふらふらしちゃって、朝起きれなくなって、教室も行きづらくなってって感じでさ」

 まあ、それも細谷からすればサボりでしょ? と、曖昧に笑いながら振り返ると、細谷は笑っていなかった。怒っているわけでもなく、でもなぜか痛みを堪えるように顔をしかめていて、細谷の方が苦しそうだ。
 なんでそんな顔をしてんの? そう尋ねるより先に、細谷が咥えているのと同じ種類のひも付き飴の入った袋を差し出してくる。一本引くと、それは当たりだった。

「あら、当たりね。ちょっと待ってて、景品持ってくるからね」

 そう言っておばあちゃんは店の奥に行ってしまい、俺と細谷だけが残される。細谷は相変わらず、俺の方をじっと見つめている。その眼はなんだか痛々しいものを見るような悲し気な色だ。

「そういうのは、サボりとは言わない。君の心に栄養が必要ってことじゃないか?」

 そんな風に言われるのは初めてだった。いつだってみんな、親も先生もクラスのやつらだって、俺はただのサボりだって呆れられて、嗤われていた。嗤わずに、呆れずに話をちゃんと聞いてくれたのは保健室の先生以外では細谷が初めてだった。

「俺の心に、栄養……」
「まあ、わかりやすく言えば、“愛情”とかだな」
「あいじょ……ッゲホ、ゲホッ」

 全く予期していなかった言葉が飛び出してきてヘンな声が出てしまって、飴を呑み込みそうになって大きくせき込む。
 そこに丁度、おばあちゃんが景品を手に戻って来た。

「あらあら、大丈夫かしら。水もって来ましょうね」
「何をやってるんだ。飴を咥えながら馬鹿笑いするやつがあるか」

 おばあちゃんは水を取りにまた店の奥へ行き、細谷が俺の背をさすってくれる。あの大きな手でやさしく丁寧に撫でてくれる。その感触が心地よくて、一層飴が喉に詰まりそうになってしまう。しかも、またしても距離が近いのだ。
 背中をさすっているから仕方ない状態だとしても、なんだか心臓の騒がしい音まで聞こえそう――そう思いながら顔をあげると、すぐ間近に細谷の顔が迫っていた。そしてばっちりと音がしそうなほど眼が合った。
 いつもならここで俺が大袈裟なほど大きな声をあげて飛びのくのに、細谷はパッと手を離してまたそっぽを向く。耳だけでなく頬も首筋もみんな真っ赤だ。
 でもお陰で喉に詰まりそうだった飴はどうにか回避できて、無事に口中に転がっている。

「あ、ありが、と……」
「気を付けて食うんだ、飴は」
「そ、だね……」

 さっきまで馬鹿笑いしていたのに、なんだか急に近くに細谷を感じて心臓が騒がしい。いままでだって距離が近いことは何回かあったし、そのたびにドキドキしたけれど……いまのあれは、俺の心臓だけが騒がしくうるさいわけではないのがわかってしまった。だって、細谷の見えているすべてが真っ赤だし、俺も全く同じ状態だったからだ。
 ぎくしゃくと音がしそうな感じで肯き、そっとまだ手元にあったひも付き飴を口に含んで舐める。からころと鳴るそれに、細谷はくすっと微笑んで呟いた。

「君はサボり魔だけれど、素直でいい奴だ、小野田律」
「サボり魔だけど、は余計だよ」
「そういう率直な反応の良さも君の魅力なんだろうな」
「み、魅力、って……」
「僕は好ましいと思ってる」

 ゆっくりと傾いてきた夏の終わりの夕日に、細谷の整った顔が染まっていく。陰影がくっきりとわかる顔立ちだから、というだけでなく、微笑んでいる姿も、初めてと言える優しい言葉もすべてが縁どられてきれいだった。

(好ましいって、言った? 俺を? 好ましいって……好きってこと? え? それ、どういう意味で? もしかして、さっきの心の栄養……“愛情”ってやつで?)

「……フルネームで呼ぶなよ」

 咄嗟に返せた言葉はそれくらいでしかなかったけれど、嬉しかったのも確かだった。恥ずかしくなってきてうつむいていたら、クスッとまた笑う声がする。横目で見ると、細谷が膝に頬杖を突くような体勢でこちらを見ていた。まっすぐでためらいのない眼差しは、胸の中まで見透かされそうなほどきれいだ。

「飴は美味いか、小野田律」
「……うん、美味しい」

 見つめられて恥ずかしくなるくらい真っ直ぐな眼差しを感じながら、俺は胸の奥で小さく細谷の声で自分のフルネームが繰り返されて響くのを感じた。そしてそれがとても心地いいとも思っていた。
 この人に、もっと名前を呼ばれたい。なぜか無性にそう思ったのだ。
 呼ばれると口の中の雨がより美味しく甘く感じられるように、胸の奥の気持ちがとろけていくのを感じる。それがどうしてなのか、いま、気付いてしまった。

(――――あ、俺、この人が……細谷が好きなんだ)

 距離が近くてすごくドキドキするのも、一人でいる時でもずっと頭の中に姿が過ぎって消えないのも、それで気持ちがそわそわするのも、名前を呼ばれたいと思うのも、全部、この気持ちのせいなんだ。

「……嘘だろ……そんなのって……」
「どうした? 小野田律」
「いや、べつに……」
「ところで、君は毎日昼休み暇だな?」
「え、う、うん……」
「よし、じゃあ明日からの昼休みは保健室に来い。公認サボりじゃないぞ。生活改善をしてやろう」
「は? 生活改善?」

 何言ってんの、イヤだよそんなの――って、言えないのはどうしてだろう。イヤだって言ってもいいはずなのに、大きなお世話だって言ったっていいのに、強引な約束がイヤじゃない、むしろ、嬉しく思ってしまう。それってやっぱり、俺が細谷を好きだって気づいちゃったから?

(どうしよう。好きになっちゃったかもしれない……俺、男に絡まれるの嫌がってたのに……それなのに……)

 俺は男だし、細谷も男なのに。男に触られるのだって、可愛いとか言われるのだっていやなのに……好きだなんて。
 細谷といるのが心地いい。まるで保健室にいるみたいにホッとする。しかもいま胸の中で熱くなっている気持ちは間違いなく恋だ。
 俺は細谷に恋をしてしまったんだ。
 どうしよう、どうしよう……手に余るほど熱く不安定な気持ちを抱えたまま、俺は戻って来たおばあちゃんから差し出された水をグッとひと息に呑んだ。

(どうしよう、なんで俺……その気持ちに気付いちゃったんだろう……)