アオバ先生が病院に運ばれて、細谷と共に保健室の片付けとカギ閉めをしてから学校を出る頃にはすっかり日が暮れていた。
 学年玄関で靴を履き替え、そのまま何となく門まで細谷と連れ立って歩く。べつに約束をしたわけでもなかったけれど、そうしているのがイヤでもなかった。

「さっきはありがとう、小野田律。本当に助かった」

 黙ったまましばらく歩いていると、不意に細谷がそう言ってきた。薄暗い、構内の街灯の明かりに縁どられている顔は、心底ほっとしている。

「べつに、俺はあんたに言われたから呼びに行っただけだよ」
「そうかもしれないが、もしあの時君が保健室に来ようとしてなかったら、対処は遅くなっていたかもしれない。だから、君がいて助かったのは本当だ。保健委員として礼を言う」

 こちらを振り返る細谷の顔は、いままで見せてきた憎たらしい、厭味ったらしいものではなく、優しく、少し儚くも見える。
 保健委員として、か……それは確かにそうなのかもしれないけれど、彼はその委員の役割以上に保健室に通い詰めている気がする。まるで、何かの別の役目を果たそうとしているかのように。
 さっきのアオバ先生を救急車が迎えに来るまでの間の的確な指示とかも、ただの保健委員にしてはかなりハイレベルなんじゃないだろうか。まるで、保健室にすべてを捧げるようにしている気がしてくる。
 何でそんなに保健室に尽くそうとしているんだろう? それがすごく気になった。

「あのさ、なんであんたはそんなに保健室にこだわってんの? 保健委員って言うだけにしてもさ、アオバ先生の手伝いとかすっげーしてるし、さっきの指示とか先生より的確だったし……なんかその……」
「やりすぎなんじゃないか、って?」
「あ、えっと、そういうわけでは……」

 言うか言うまいか迷っていた言葉を、本人にさらりと口にされると、どう答えていいかわからなくなる。しどろもどろになってうつむく俺に、細谷は、「まあ、そうかもしれないな」と呟いた。
 自覚があるのか、というのも驚きだけれど、わかっていても尚そうする理由があるというんだろうか。

「よく言われる。“ただの生徒のくせにやり過ぎじゃないか”とか、“そこまで保健室に尽くすってことは、先生に下心あるのか”とか」

 先生への下心、という言葉に俺はぎくりと胸が音を立てる。俺も、俺とかお馴染みのサボりの連中も、みんなそんな風に思っていたし、そう話していたからだ。
 でもいまこうして話しているということは、そうじゃないということだろうか。だったらなおさら、一生徒として踏み込み過ぎている事の理由が気になってくる。
 それを聞いていいのか迷いつつ目を向けると、細谷は明かりに縁どられた横顔で苦笑しながら、言葉を続ける。

「僕は、小さい頃すごく体が弱かったんだ。月に何回も風邪を引いたり熱を出したり、そのたびに保健室でお世話になってて。学校にいる大半を保健室で過ごしていたんだ」

 いまでこそ180センチ近くある背の高さだけれど、小学校時代の細谷は小さくて痩せっぽちで、暑さにも寒さにも弱い虚弱な子どもだったという。
 すぐに具合が悪くなっていた当時の細谷は、必然的に保健室ですごく時間が増え、そうしていく内にクラスに馴染めなくなっていったらしい。

「新学期の朝会で倒れたりするような子だったからな、友達と一緒に遊ぶなんてほとんどできなかった。友達の輪にも入れなかったし、いつも一人で――だから、保健室の先生との触れ合いは僕にとって唯一の学校とのつながりだったんだ」

 教室に行こうにもなじめない細谷を、当時の養護教諭の先生はやさしく慰めてくれて、細谷が学校を嫌いにならないように、と保健室で勉強させてくれたりしたんだという。
 勉強する場としてでなく、保健室の先生は時折クラスの子を呼んでくれて、保健室で遊ばせてくれたこともあったらしい。そうすることで、細谷がクラスメイトとのつながりが切れないようにもしてくれていたそうだ。

「お陰で、僕は小学校を卒業するころには、みんなと同じ教室にも行けるようになっていた。保健室で過ごした、先生との時間のお陰でいまこうして高校にも通えていると思う」
「だから、いまも保健室を良くしようとしてんの?」
「簡単に言えばそうなるかな。将来は、僕も養護教諭になれたらと思っている。僕みたいに、保健室を居場所とする子を助けたい」

 保健室が居場所、という言葉に、俺は胸の奥がやわらかくあたたかくなった気がした。ああそうか、細谷も俺と同じように保健室が居場所なんだな、と。

(ただクソ真面目で神経質は厭味なやつかと思ってたけど……俺みたいな事情を抱えてたんだ)

 保健室登校という言葉もあるように、保健室を必要としている子どもは結構いる。俺はそこまでの重たい事情を抱えてはいないけれど、安心できる場所として保健室の存在を必要としていることに変わりはない。その中に細谷もいるのかと思うと、意外な共通項が知れて少し嬉しくなる。

(……うん? 共通項が嬉しい? 俺が、細谷と?)

 なんだかこの前から細谷のいままでにない一面を見つけたり気付いたりするたびに、ほこっと心が嬉しくなる。初対面と第一印象は最悪でしかないし、いまだってあれが覆りはしないのだけれど、でも……嬉しいと思う気持ちがほこっとこうして不意打ちに湧いてくるのだ。
 なんなんだこの気持ち……いままでに感じたことがない感情に戸惑い、つい、足を停めて立ち止まる。
ざわつく胸元を抑えて立ち尽くしていると、「どうした?」と、細谷が近づいてきて顔を覗き込む。その顔のビジュがまたすこぶる良すぎることに、いまさらながらに気付かされ、悲鳴を上げてしまった。

「わあああ! ちょ、距離!」

 飛びのくように叫びつつ細谷から距離を取ると、細谷はきょとんとして俺を見つめている。ぱちぱちと瞬きをし、やがて声をあげて笑い始めた。腹を抱えて、爆笑という感じだ。
 いままで澄ましてスカしたような笑い顔(というか厭味な顔)しか見せてこなかったのに、急にそんな無防備に笑ったりするものだから、俺の心臓が弾かれたようにドキドキし始める。さっき共通項を知れて嬉しくてほこっとした時よりも百倍は強烈な反応だ。

「っはははは。君、意外とパーソナルスペースが狭いんだな。あんなに馴れ馴れしく図々しくしてるのに」
「う、うるさいな。馴れ馴れしく図々しいんじゃなくて、空気読むコミュ強って言ってよ。堅物のあんたとは違うんだから」

 プイッと顔を反らしつつ、思わず勢いで心にもないことを言ってしまう。堅物もギリギリアウトなトゲトゲした言葉なのに、更にあんたとは違う、なんて言わなくても良い事まで言ってしまい、一人気まずさを覚える。
 ああ、また厭味を言われる……そう思いつつ横目で窺っていると、細谷は何も厭味なことを言い返しはしてこなかった。ただ少しだけ困ったようなさびしそうな顔で苦笑している。
 え、何その顔……と、思わず振り返ると、細谷はすぐにあの片頬をあげる笑い方をし、こう言った。

「まあ、その図々しさがなきゃ、毎日保健室に入りびたってサボろうとはしないか、小野田律」
「ッぐ……ここ最近はサボってないからいいだろ!」

 ここ最近と言っても、今週に限って、という話なのだけれども。
 厭味とも皮肉ともつかない細谷の言葉をにらみつけるように吠えていると、細谷は小さくくすりと笑い、ポンと、僕の頭を撫でた。

「やっといつも通りになったな、小野田律」
「……へ?」
「君が吠えていないと、具合が悪いのかと思ってしまう。さっきのこともあるし、ショックだったかな、と」

 ふわっと笑いかけてくる微笑みがやさしくやわらかで、思いがけず胸が鳴る。
 もしかして、俺、心配されてた? 思いがけない言葉を差し出されて瞬いていると、くるっと細谷は背を向けて、いつの間にか歩きついていた校門のところから歩き始める。方向は俺と反対方面だ。

「じゃあな。それだけ元気なら、もう大丈夫だな」

 そう言いながら手をひらひらと振って去って行く背中を、俺は見惚れるように見つめる。ラベンダー色の通りの中を、白いシャツが染み入るように消えていく姿は、見惚れるようにきれいだ。背筋がピンと伸びていて、向こうに向けられている視線もまっすぐで、迷いがない。

「俺のこと、心配してくれてた、の?」

 保健室ではいつも俺のことを野良ネコみたいに扱って追出そうとするくせに。いつも通りになったな、なんて笑ってくるなんて……なんか、反則技みたいじゃないか。

「……でも反則って、何に対して?」

 べつに俺は細谷と何も勝負しているわけではないはずだし、もちろん勝ちも負けもない。でもなんだかさっきのあの笑顔は、反則だ! と、言いたくなるほど、こう……胸を突いてきた感じだった。まるで、矢で射られるような感じで。射られたことなんてないけど。

「え、何これ……なんでそんなこと……」

 いまだかつてない感情がじわじわと芽吹くように育ち始めている。これに名前があるのか、どんな風に育っていくのか、全然わからない。わからないけど……何でこんなにドキドキしているんだろう。
 学校の門から最寄りの駅まで一人胸元を抑えながら歩きつつ、俺はぐるぐるとそんなことを考える。名前があるような、知っているような、そんな感情のことと、この先のこと。そして、あの細谷の言葉と添えられた笑顔の意味を。


 誰かに心配されたことって、実はあまりなかったりする。親は仕事にかかりきりだし、俺は一人っ子だし。従兄の海斗がたまにああだこうだと言っては来るけれど、小さかった頃のように家に呼んでくれるほどのこともない。
 それでも唯一心配してくれていたと言えるのが、俺にとっては保健室の先生だった。
 いまにして思えば、先生は仕事だから気に掛けていてくれたんだろうなと思ってしまうんだけれど、それでも、親よりも俺のことを気に掛けていてくれたのは確かだ。

「やっといつも通りになったな、小野田律」
「君が吠えていないと、具合が悪いのかと思ってしまう。さっきのこともあるし、ショックだったかな、と」

 おおよそ心配していたとわかるような言葉ではないけれど、いつものチクチクした厭味ばかりの言葉に比べれば格段に心配していた様子がうかがえると思う。しかもそれを、ラベンダー色に染まる夜の中で言われてしまうと、なんだか特別な言葉に聞こえてしまうからどうしたものか。
 細谷の中での俺は、「いつもは吠えているうるさい奴」という認識なのもまた微妙な気分にさせられるんだけれど、それでも、彼の中での俺がただのサボり魔ではなくなっているのが驚きだった。

(ポジティブに捉えれば……“元気がいい奴”ってこと?)

 そんなことを考えながら、俺は今日もひとりでコンビニ飯をつつく。好きな動画を流しながら、だらだらと好きなものを摘まむ。最後に誰かと何か食べたのはいつだったっけ……それくらい、俺はいつもぼっち飯だ。
 そういうのがイヤだから、俺はたいていの夜は外に出てファストフードで食べていることが多い。隣に知らない人がいても、一緒に食べている気がするからだ。夜遅くまでいても何も言われないし、なにより一人な感じがしないから。
 でもこの前ヘンな酔っ払いに絡まれたのと、あの時細谷に怒られたのとで、あれ以来夜に出歩いていない。酔っ払いに絡まれかけることはいままでにもあったけれど、ああいうのはいままでなかったし、何より……しっかり俺のこと怒って心配くれたのが、細谷が初めてだった。

「……お節介なんだよ、あいつ」

 そう呟きつつも、そうされたのがイヤじゃない気持ちもしているのが正直なところで、あの夜を思い返すと、最近なんだか妙にドキドキしてしまう。ネオンライトに縁どられていた横顔とか、まっすぐに見据えてくる迷いのない眼差しとか、細谷のそういう断片的な姿を思い出すと、心臓がやたら騒がしい。
 トットット……と、まるで全速力したような鼓動の速さに、つられるように一層気持ちが落ち着かなくなっていく。その理由が、全くわからない。あんなお節介にドキドキするなんて、どうかしてる。
 でも、と、考える。でも、その御節介が本当に嫌って言うわけじゃないんだよな……という、矛盾する気持ちが頭をもたげ、一層気持ちが混乱していく。

「何なんだよこれ……」

 空になったプラスチックの弁当箱に割り箸を放り出し、大きく仰ぐように溜め息をつく。こういう時、誰かが一緒にいたりしたら、この気持ちの意味とか理由とか教えてくれるんだろうか。
――例えば、細谷だったりとかが。
 不意に過ぎった名前と顔に、俺は慌てて立ち上がり、ぶるぶると首を振る。ひとりでいるのにやたらと体が熱くて赤いのがわかる。

「……え、な、なんでそんなこと……」

 細谷のことでドキドキしているのを、細谷に答えを求めてどうするんだよ……それこそ矛盾してる……冷静になれ、と自分で自分を宥めてはみるものの、過ぎった人物の余韻に心臓が静まらないのはどうしてだろう。

「もー……なんなんだよこれぇ……わけわかんない……」

 体感したことない感情に戸惑いながら、俺はそのまま弁道のゴミを片付け始める。明るく広いリビングは、今日も俺一人の声しかなかった。


「また君か。今日はどういう口実でサボるつもりなんだ?」

 翌日、昨日倒れたアオバ先生の様子がどうなのか気になったのと、なんとなく細谷の様子も気になって見に行くと、いつもと変わらない態度で出迎えられた。

「人の顔見てすぐサボりって言うのやめてくれる?」
「サボり以外で君がここに来ることなんてあるのか?」
「頭ごなしに人のこと決めつけないでよね!」
「選択肢の幅を広げてから言うんだな」

 いままでの行いが行いだったせいか、ちょっと昨日いままでにない雰囲気になったからって、そのまま細谷の態度が軟化するわけではないらしい。相変わらずの塩対応にカチンと来つつも、俺としては言い返さないように抑えていると、細谷はすぐにふいっと受付の方に戻っていく。

「腹痛? 痛み止めの類いは学校では出せないんだ。自前のものはあるか?」
「熱っぽいならそこの体温計で熱を測って。休んでいくかどうかはそれからだ」

 アオバ先生はいつもと変わらない様子に見えたけれど、椅子から立つことはほとんどなく、何か用があると代わりに細谷が立ちまわっている。きっと昨日倒れたことが影響しているのだろう。無理をしないように、って。だから保健室利用の受付も、応対も、細谷がやっているのだ。
 応急処置や相談相手何かはアオバ先生が請け負っているけれど、先生が出るまでもないことは細谷が請け負っている感じで、なんだかいつもより忙しそうだ。

「体温計って、このガラスのやつ?」
「ああ、それではなくって、えーっと……」

 保健委員は細谷の他にもいるだろうに、滅多にここに顔を出さないようで姿が見えない。もしかしたら、保健委員の中でも飛びぬけて細谷は熱心なやつなのかもしれない。だからアオバ先生も留守居を頼んだりするほど信頼されているんだろうけれど。
 信頼されているのは良い事だと思うけれど、何でもかんでも引き受けてしまうのは一生徒としてキャパを超えてやしないだろうか。ひとつひとつは小さく大したことはないことなんだけれど、それがいくつも重なるとあっという間にキャパオーバーになってしまうだろう。
 だからなのか、体温計の場所がわからずうろたえている他の生徒に対して、俺はつい手を貸していた。

「検温の体温計はこっちのデジタルのだよ。ガラスの水銀のやつは予備なんだ」
「あ、ああ、ありがとう」
「熱測ったら、こっちの受付表に体温を書いて。37.5度以上なら早退になるから」

 それまで細谷と半ばケンカ腰でやり取りしていた俺が、急に細谷のように取り仕切り始めたからか、その生徒はぽかんとしていたけれど、飛ばした指示が間違っていなかったのか、すぐに動いてくれた。
 大人しく検温を始めた生徒を見やり、ほっと息を吐いていると、「あのー」と、誰かから声がかかる。
 振り返ると、また別のジャージ姿の女子生徒が突っ立っていた。

「なに?」
「体育でバレーボール当たってすごく痛いの。冷やすものない?」
「保冷剤? それならこっちだよ」

 伊達に保健室に入りびたってはいないので、応急処置の基本中の基本のものがどこにあるかは、実は大体把握していたりする。体温計と、保冷剤とOS1、くらいだけれど。
 それでも利用者の何人かには応対できたので役には立てたかなと思っている。
 その内にチャイムが鳴り、利用者たちはぞろぞろと保健室を出て行く。

「ありがと~、二人とも~! すっごい助かっちゃった!」
「いえ、お役に立てたのなら」

 細谷はそんな風にシレッとした態度だったけれど、俺としては言われ慣れないお礼の言葉になんと返せばいいかわからずぎくしゃくと頷いて曖昧に笑う。
 こういう時、素直にどういたしまして、とか言えたらいいんだろうけれど……褒められ慣れてなくて、どういう顔をしたらいいかわからない。

「さ、もう二人とも授業に行って。先生たちには保健室の応対手伝ってくれたから遅くなったって言っておけばいいからね」

 ニコニコとアオバ先生は大袈裟なほど喜んでくれて、俺と細谷を保健室から送り出してくれた。
 いつになく利用者が多かった、つかの間の休憩時間は思いがけない手伝いをしたことであっという間に過ぎていき、アオバ先生の様子も細谷の態度も変わりないことはよくわかった。
 昨日の今日で細谷の態度が変わりないのはなんだか拍子抜けなんだけれど、それはそれで彼らしい気もする。ヘンに意識されるよりは良いのかな……と、思いつつも、ヘンに意識の“ヘン”ってどういうことだろう? という新たな疑問も湧いてくる。まるで昨日の夜、一人で自分の気持ちに混乱して騒いでいた時にいだいた気持ちのようなものが。
 そんなことを考えていたら、いま隣を歩いているのがその張本人なんだと思うと、急激に心臓がうるさく鼓動し始める。急かすように速いそれは、俺の中の冷静さをグラグラと揺るがしていく。
 なんなんだろ、昨日からこれは……と、胸を抑え立ち止まっていると、「どうした?」と、細谷もまた立ち止まる。

「いや、何か……ここの調子がヘンだから」
「胸か? 不整脈とかじゃないだろうな」
「不整脈って何? って言うか、なんかすげードキドキ言うんだけど。ほら」

 そう言いながら細谷の手を取り胸元に宛がって見せたのだけれど、その途端に細谷の顔があっと今に赤く染め上がっていく。スポンジが水を吸うように、瞬く間に真っ赤だ。
 え、なんで……と、驚いている俺も耳の端まで熱くなるのを感じ、いまこの状況が異様に恥ずかしくなってくる。べつに、男同士なのに……そう考えれば考えるほど、なんだか鼓動まで速くなっていく気がした。

「そ、うだな……まあ、正常の範囲じゃないのかな……」

 胸元に触れながら、細谷はそっと視線を外して目を伏せてそれだけを呟き、そのまま手を離していく。相変わらず耳の端も顔も真っ赤で、俺もまた熱さが引く様子がない。

(あれ? 何でこんなに恥ずかしいんだろ……べつに、何かいやらしい意味なんてない……はず……)

 自分の行動が間違っているとか、あまりに無知だったとか、そういう恥ずかしさとは違う恥ずかしさが俺と、たぶん細谷の中にはあって、いまぐるぐると頭の中を巡っている。互いに目を逸らし、今さっきの言動にどうリアクションしたらいいのか迷っているんだ。

(何を迷う必要があるんだろう? 俺は別に細谷のことを何とも思ってなんか――――)

 いつまでも熱さが引かない体に、言い聞かせるように理由をつむぎだそうとした時、「それは本当に?」と、冷静なもう一人の自分の声がする。本当に、ずっとそう思っていた? と、問いただしてくるように。

(え? いまの、なに?)

 全く思ってもいない方角から飛んで来た自分の声に瞬いていると、するっと細谷の手が離れていく。触れられていた箇所がすぅっとして、なんだか寂しさや惜しさを感じてしまう。
 ……寂しさや惜しさ? なんで? またわからない感情が湧いて、俺はぶるりと頭を振る。

「どうした?」
「あ、いえ……俺、異常ないのかな?」
「まあ、僕は医者ではないから何とも言えないが……見た感じいつも通りだし、さっきの大活躍ぶりを見ていたら異常なんてないだろうな」

 確かに細谷は医者じゃないのに、俺は何を聞いているんだろう。彼に聞いたところで、何かわかることなんてあるわけが――と、考えかけて、ふと、先程の言葉を反芻(はんすう)しつつ口にする。

「“さっきの大活躍ぶり”って言った? 俺が、保健室で、大活躍?」
「ああ、大活躍だったぞ。昨日に引き続き、小野田律は大活躍だった。本当に助かったよ、ありがとう」

 まっすぐに、ためらう様子もなく細谷にそう告げられ、俺は先程の恥ずかしさとは別の感情の高ぶりを感じた。嬉しさと、驚きと、喜びが入り混じった感情が爪先から頭のてっぺんまで上り詰めるように駆け巡っていく。
 言葉よりも感情がぐるぐると体の中を駆け巡って、言葉が全く出てこない。いつもなら思ったことが何でもすぐに口をついて出るのに、ひと言も出ないなんて。

「小野田律?」
「わ、わあ!!」

 何も言い返してこない俺を不審に思ったらしい細谷が、またしても不意に距離を詰めてくる。唐突の至近距離にビジュがいい顔面が迫ってくるだけでない驚きで、心臓がすぐにうるさくなる。
 ビジュだけじゃない、俺の名前を、しかもフルネームを易々と口にしてくるのも、心臓を騒がせているに違いない。
 でも、なんで?

「ち、近いってば!!」

 そう、俺が弾けんばかりに喚くと、「あ、ああ……すまない……」と、細谷は慌てて距離を取る。そしてまた、彼も耳まで赤く染まるのだ。

(細谷といると、調子が狂うんだよ……! ツンとしたかと思ったらいきなりこの距離感だし! 心臓がうるさすぎて痛い!)

 でも異常がないという心臓の音はやっぱり騒がしくて、まるでBGMのように俺と細谷の間に聞こえているようだ。
 俺に近いと言われて少し距離を取った細谷は、まだ少し赤い顔をしたまま、「なあ、小野田律」と、また俺を呼ぶ。

「なに?」
「今日の放課後、時間はあるか? ……あるよな。夜に出歩いてるくらいだもんな」
「うるさいな! 最近は出歩いてないよ!」
「じゃあ、暇で決定だな。授業が終わったら学年玄関の所で待っていてくれ」
「は? なんで?」
「付き合って欲しいんだ」

 じゃあな、とそれだけ言うだけ言い置いて、細谷は足早に教室に向かう。そういえばもう授業は始まっているんだったと気付かされたけれど、それ以上にいま俺はさっきの細谷の言葉の真意が気になって仕方ない。

(付き合って欲しい……って……え? 俺、細谷と付き合うの?!)

 思い掛けないワードに胸がざわつきつつも、いまのは初めてかわした二人だけの約束なんだと気付いた途端に、また耳の端まで熱くなって一層心臓がうるさくなった。