「なんとなくここにいたいみたいなんで、いまの時間だけいさせてやってください」
強引とも言える感じで追い出そうとしたかと思えば、あんな風にやさしい(?)ことを言ったりする。 俺みたいに保健室を拠り所とするような生徒のことなんて、全然わかっちゃいないんだろうな、なんて思ってたのに。
(案外いい奴……なのかな?)
そんな淡い期待のような物を抱いたんだけれど、世の中そんなに甘くはない。
2時間目が終わるチャイムが鳴ると同時に、細谷はすくっと立ち上がり、それまで俺がスマホをいじりながら座っていた長椅子に歩み寄ってくる。
何の用だろう? と、ポカンと見上げていると、またしてもひょいと襟首をつかまれる。
「何すんだよ!」
「チャイムは鳴った。教室へ行け」
「あんたはどうなんだよ! あんただってサボってたんだろ!」
「サボってはいない。自習ついでに先生の代行をしていただけだ」
それってやっぱり体のいいサボりじゃないのか? と、にらみつけるも、細谷は涼しい顔をしているし、俺を引きずり出す足も手も停まらない。
ぎゃいぎゃいと俺が抗議しても全く意に介する様子はなく、くるっと保健室の入り口に立ってにこやかにアオバ先生に告げた。
「それではお邪魔しました」
「ありがとね、細谷くん、小野田くん」
いや、俺は何もしていないんだけど……と、言い返す間もなく、グッと頭を強引に押さえつけられ礼をさせられる。まるきりガキ扱いで本当に腹が立つ!
「宮崎先生もご無理なさらずに」
失礼しますと言い置いて、細谷は俺の襟首から腕に持ち替えてやはり引っ張っていく。アオバ先生はニコニコと手を振って送り出してくれ、その内保健室の中に戻っていった。
保健室を出て、廊下を歩いて行くと三年生の教室に向かう廊下と、上の階の1年や2年の教室に向かう階段が交わるところに行き当たる。
そこまで来ると他の生徒たちがぞろぞろと出てきて、細谷に捕獲されている俺をぎょっとした目で見ていく。中にはくすくす笑っているやつもいて、俺は慌てて細谷の腕を振りほどいた。
「放せよ、このエセさわやか野郎! 俺は猫じゃないんだぞ!」
猫じゃないと言いつつも、威嚇するようににらみつけている姿が、それこそ猫じゃないかという気がしなくもないけれど、こうでも言わないとこいつはまた俺の襟首を摘まみかねない。
パッパッと捕まれていた辺りをはたきながら、「ったく、アオバ先生の前だけではいい子ぶりやがってさ」とブツブツ言っていると、くすっと細谷が吹き出す。
「なんだ、君も先生目当てなのか?」
「俺も、って……まさかほかの連中と同じだって言いたいのか?」
「毎日毎時間のように保健室に対した用もないのに入り浸っている連中は、大方そういう奴らだろう」
先生はやさしいからな、と苦笑する細谷だが、その考えは的を外しているので、今度は俺がふんと鼻先で笑ってやる。さっき笑われた仕返しだ。
「残念でしたぁ。俺は先生目当てなんかじゃないんだよ。そいつらと一緒にしないで」
「じゃあなんだって言うんだ? それともただ授業に出たくないだけか?」
「それは――」
それは、俺にとって保健室が何より安心できる場所だから。教室のごみごみした感じよりも清潔でやさしくて、ホッとできるから――そんな理由を、バカ正直にこいつに話していいものかどうか。
一瞬ためらいが生じ、口を開きかけて言葉を発するか迷った。その一瞬の間に、滑り込むように「あれ? 湊人?」と、聞き慣れた声がする。
振り返ると、ジャージ姿の海斗が体育館用のシューズの入った袋を背負うようにして突っ立っていた。
「あれ、海斗? 何してんの? いまから体育?」
「そ。だから湊人を捜しに来たんだよ。あ、湊人、次バレーボールだから、準備しなきゃだって」
そう言いながら海斗が細谷の方に袋を手渡すのを見て、あれ? と瞬く。なんで海斗は細谷を下の名前で呼んでるんだろう? と。
「久保、お前このサボり魔と知り合いか?」
細谷の失礼極まりない言葉に、「サボり魔……まあ、否定はしないな」と、海斗はケタケタと笑いながらうなずき、わざとらしく俺の頭をくしゃくしゃと撫でまわしてくる。
「なんだよ、やめろよ海斗!」
「いーじゃんよ、かわいい従弟との遭遇を喜んでるんだからさ」
「かわいいとか言うな!」
かわいいは俺が一番言われたくない言葉で、あの細谷と初めて遭遇した時もそう酔っ払いに言い寄られてイライラした上にトラブルになった。かわいいなんて言われて、男が嬉しいわけがないだろうに。
海斗の手をはたき落とし、「海斗~!」と、にらみつけてやったが、あまり効果はない。
「……そうか、なるほど」
何がどう納得したのかわからないけれど、細谷は一人で頷き、「じゃあ、またな。小野田律。授業にも出ろよ」と言い置いてひとり更衣室に向かってしまう。
颯爽とした後ろ姿を何となく見送っていたら、海斗が何にか言いたげな目を向けている。海斗がそういう目をする時って、何か俺が言われると腹を立てることに気付いた時の目なんだけれど。
「……なんだよ、その眼は」
「休み時間に言ってたのって湊人のことだろ? 結構仲良いんだなって思ってさ。“またな”なんて、湊人が言うの初めて聞いた」
「良くなんかないし、“またな”なんてあいつが勝手に言ってただけで、約束とかそういうのはしてない!!」
「でも、いま二人で保健室から出てきたじゃん、肩組んで。しかも名前もフルネーム呼びだしさ」
「そ、それは……! てか、肩なんか組んでな……いのか?」
組んでたじゃんか、と海斗から指摘されるまで無意識だったけれど、確かに今さっき細谷と保健室から出てきた時、俺は襟首をつかまれていた恰好だったと思ったけれど、あんな絡まり方をしていたら肩を組んでいるように見えなくもない……のか? 肩は組んでいなくとも、密着していることは確かなので、仲良く見えなくはない。見えなくはないけど――
「なんだよ、やっぱり仲良いんじゃん。保健室入りびたり同士仲良しってこと?」
「いや、あいつはそういう感じじゃなかったよ。寧ろ、俺みたいなのを追い出そうとするし」
「え? そうなんだ。意外だなぁ」
意外ってどういうことだよ、と問い返そうとしたらチャイムが鳴り、「あ、やべぇ。またな」と、海斗は体育館の方へ走っていく。細谷はとっくに着替えて体育館に行ってしまったのか、海斗以降の生徒の中に細谷は見かけなかった。相変わらず、隙を見せない奴だ。
「あ、俺も授業行かなきゃか……めんどくせ……」
そう呟きながら自分のクラスへと向かいつつ、先程俺の首筋や肩の辺りに触れた細谷の手の感触を思い出す。骨っぽくて薄い、だけど俺とは違って男らしさのある大きな手だった。
「デカい手、だったな……」
ガリガリっぽいのに意外と細谷はたくましい気がする。俺のことひょいと摘まんだりするくらいだし。初めて会った助けられた時も、すらっとしていてカッコいななんて思ってしまったっけ……
そうしてまた、さっき肩に触れたことを思い出し、カッと顔が熱くなる。
「いやべつにだからって、俺が細谷のことどうって言うわけじゃ……」
意外とたくましい体付きで、意外と優しいこと言ったりもして……意外と、って何をもって俺は細谷のことをあれこれ判断してるんだろう? そんなに俺はまだ、細谷のこと知らないのに。
「そういえばさっき、海斗が、“保健室入りびたり同士”なんて言ってたけど……どういう意味だろう?」
俺とかには用がないなら出て行けって言うくせに、自分は入り浸っているのか? それって矛盾してない? 仮にも保健委員というやつなら、そういう私物化するような使い方ってどうなんだろう?
考えれば考えるほど、細谷のことがわからない。わからないから、余計に知りたくなってもいる。
(なんでだろう。イヤなやつだなって思っているはずなのに……意外とそうじゃないかも? なんて気もするし……)
悶々とそんなことを考えていたら自分のクラスの教室についていた。すでに授業は始まっているらしく、先生の話し声が聞こえる。いまはどうやら英語の授業中らしい。
はーあ、面倒だな……でも、サボりばかりじゃないって細谷と思いながらがらりと引き戸を開け、俺は教室の中に入っていった。
結局その日は、2時間目以降保健室には行かなかった。行こうかなと何度か思っていたけれど、なんとなくあの休み時間の海斗の言葉が気にかかっていたからだ。
“保健室入りびたり同士”って、どういうことだろう?
俺が入り浸っているのはまだわかるとして、細谷までそうなんだろうか? あんなに俺が保健室に来るのを嫌がるし、追い出すくせに。
(なんだよ、ヒトはダメで自分はいいって言うやつか? すげー勝手じゃないか?)
ヒトに対しては、アオバ先生に下心があるのか? なんておっさんみたいなこと聞いてくるくせに、自分はどうなんだよ! 保健委員の職権濫用じゃない? そんな言葉が次々と浮かんでは消えていき、比例するように腹立たしさがふつふつと湧いてくる。
「こうなったら、職権濫用の現場押さえてやるんだからな!」
放課後になって生徒の数がまばらになってきたいまの時間帯なら、アオバ先生と二人きりだ、なんて下心丸出しで、あの切れ長の目で先生を見つめたりしてさ、グイグイ行くのかもしれない。
そんなことを考え、俺はショートホームルームが終わるなり教室を飛び出す。突然行って、現場を押さえてやろうと思ったからだ。
(アオバ先生が妊婦さんだからとか何とか口実にして、自分の方が入り浸ろうって魂胆かよ!)
保健室の一から対角線上にある教室から反対側の端まで走り、更に三階から階段を駆け下りて保健室へ走っていく。廊下は走るなって書かれている標語も無視して全速力だ。
教室棟の一階の西端にある保健室に辿り着いた俺は、乱れた呼吸を整えるように深呼吸をする。
一気に引き戸を開けるか、それともそっと開けて忍び込むか。どちらがいいだろうか……と、少しの間考えていると、ガシャーン! と何かが落ちた音が聞こえた。
え? なに? と、辺りを見渡していると、「先生!」と、細谷が叫ぶ声がする。
先生の身に何か起きたんだろうか? と、勢い慌てて俺が引き戸を開けると、床に蹲るようにしているアオバ先生と、その傍で狼狽える細谷、そして散らばった書類とファイルがあった。先生の顔は、真っ青を通り越して真っ白だ。
「アオバ先生?!」
「小野田律、誰か呼んできてくれ! 宮崎先生の具合が悪いんだ!」
先生に駆け寄りそうになった俺に、細谷が鋭い声で指示を出す。俺はその声に弾かれたように駆け出して職員室に向かう。
保健室の先生は、いつでも俺を受入れてくれるあたたかで絶対的な存在だった。いつでもどんな時でも優しくニコニコと出迎えてくれて、アオバ先生は特にやさしく接してくれた。
その先生の顔が血の気がないほど真っ白だった――それがどれほど危ない状況なのか、俺だってわかる。
誰か、誰でもいいから、と思いながら駆け込んだ職員室には複数の先生たちがのんびりお茶を飲んでいた。
「おー? どうした?」
「まだ残ってたのか、小野田。そろそろ下校時刻に――」
「あの! 宮崎先生が倒れたんです! すぐ来てください!」
きっと俺の顔は真っ蒼になっていたか、半泣きだったんじゃないだろうか。だって、一番安心できる場所にいつもいてくれる人が、あんなに白い顔をしていたのだから。
それからはどうなったのか、よく憶えていない。
とにかく細谷が的確に駆け付けた先生たちに状況を説明していて、救急車が来るまで誰よりもせわしなく動き回っていた。
救急車が来るまでの時間はきっと十分もなかったんだろうけれど、永遠のように長く感じられ、俺は全く生きた心地がしなかった。
(目の前で人が死ぬかもしれないのかな、これって……)
ちらりと過ぎった“もしも”に、心臓がぎゅっとつかまれたみたいに痛くなり、思わず自分の胸元をつかむ。
怖い、こわい……震えだす腕で自分を抱くようにしてたたずんでうつむいていると、ふと、誰かのつま先が視界に入る。それは上履きで、つま先の色が俺と違う。
「だいじょうぶか? 気分悪くなったか?」
声を掛けられて顔をあげると、細谷が心配そうな顔をして俺を見つめていた。見上げる格好になるほど高い位置からの視線は、いつも保健室で投げられる冷たさがなく、優しくさえある。それはまるで、いままで俺が保健室の先生に向けられていたものとすごく良く似ていた。
「先生が……アオバ、先生が……」
「だいじょうぶ、先生はちゃんと病院に運んでもらえた。きっと今頃適切な処置を受けている」
震える声でうわ言のように先生の名を口にする俺に、細谷がしっかりと見据えるように見つめながら、「だいじょうぶ」を繰り返す。それはまるで魔法の言葉かくすりのようで、じわじわと強張る俺の心に染み入ってくる。
そうか、もう、だいじょうぶなんだ……それだけがようやく理解できた俺は、へなへなとその場にしゃがみ込んでしまった。
「良かった……よかったぁ……」
半泣きで俺がそうほっと息をつきながら呟くと、ポンポン、と細谷がすぐ傍にしゃがみ込んで俺の頭を撫で、微笑みかけてくる。いつだったかに見た、あのやさしい笑みだ。
「君がちゃんと他の先生方に声をかけて連れて来てくれたからな。ありがとう」
微笑みと共に差し出された言葉が、すごく甘い。飴みたいだ。
言葉が甘いなんて知らなかった……でも、なんでだろう? そんなことを考えながら、俺は小さな子どもみたいに細谷に頭を撫でられたまま、ぼうっと夕暮れていく保健室の中を見つめていた。
強引とも言える感じで追い出そうとしたかと思えば、あんな風にやさしい(?)ことを言ったりする。 俺みたいに保健室を拠り所とするような生徒のことなんて、全然わかっちゃいないんだろうな、なんて思ってたのに。
(案外いい奴……なのかな?)
そんな淡い期待のような物を抱いたんだけれど、世の中そんなに甘くはない。
2時間目が終わるチャイムが鳴ると同時に、細谷はすくっと立ち上がり、それまで俺がスマホをいじりながら座っていた長椅子に歩み寄ってくる。
何の用だろう? と、ポカンと見上げていると、またしてもひょいと襟首をつかまれる。
「何すんだよ!」
「チャイムは鳴った。教室へ行け」
「あんたはどうなんだよ! あんただってサボってたんだろ!」
「サボってはいない。自習ついでに先生の代行をしていただけだ」
それってやっぱり体のいいサボりじゃないのか? と、にらみつけるも、細谷は涼しい顔をしているし、俺を引きずり出す足も手も停まらない。
ぎゃいぎゃいと俺が抗議しても全く意に介する様子はなく、くるっと保健室の入り口に立ってにこやかにアオバ先生に告げた。
「それではお邪魔しました」
「ありがとね、細谷くん、小野田くん」
いや、俺は何もしていないんだけど……と、言い返す間もなく、グッと頭を強引に押さえつけられ礼をさせられる。まるきりガキ扱いで本当に腹が立つ!
「宮崎先生もご無理なさらずに」
失礼しますと言い置いて、細谷は俺の襟首から腕に持ち替えてやはり引っ張っていく。アオバ先生はニコニコと手を振って送り出してくれ、その内保健室の中に戻っていった。
保健室を出て、廊下を歩いて行くと三年生の教室に向かう廊下と、上の階の1年や2年の教室に向かう階段が交わるところに行き当たる。
そこまで来ると他の生徒たちがぞろぞろと出てきて、細谷に捕獲されている俺をぎょっとした目で見ていく。中にはくすくす笑っているやつもいて、俺は慌てて細谷の腕を振りほどいた。
「放せよ、このエセさわやか野郎! 俺は猫じゃないんだぞ!」
猫じゃないと言いつつも、威嚇するようににらみつけている姿が、それこそ猫じゃないかという気がしなくもないけれど、こうでも言わないとこいつはまた俺の襟首を摘まみかねない。
パッパッと捕まれていた辺りをはたきながら、「ったく、アオバ先生の前だけではいい子ぶりやがってさ」とブツブツ言っていると、くすっと細谷が吹き出す。
「なんだ、君も先生目当てなのか?」
「俺も、って……まさかほかの連中と同じだって言いたいのか?」
「毎日毎時間のように保健室に対した用もないのに入り浸っている連中は、大方そういう奴らだろう」
先生はやさしいからな、と苦笑する細谷だが、その考えは的を外しているので、今度は俺がふんと鼻先で笑ってやる。さっき笑われた仕返しだ。
「残念でしたぁ。俺は先生目当てなんかじゃないんだよ。そいつらと一緒にしないで」
「じゃあなんだって言うんだ? それともただ授業に出たくないだけか?」
「それは――」
それは、俺にとって保健室が何より安心できる場所だから。教室のごみごみした感じよりも清潔でやさしくて、ホッとできるから――そんな理由を、バカ正直にこいつに話していいものかどうか。
一瞬ためらいが生じ、口を開きかけて言葉を発するか迷った。その一瞬の間に、滑り込むように「あれ? 湊人?」と、聞き慣れた声がする。
振り返ると、ジャージ姿の海斗が体育館用のシューズの入った袋を背負うようにして突っ立っていた。
「あれ、海斗? 何してんの? いまから体育?」
「そ。だから湊人を捜しに来たんだよ。あ、湊人、次バレーボールだから、準備しなきゃだって」
そう言いながら海斗が細谷の方に袋を手渡すのを見て、あれ? と瞬く。なんで海斗は細谷を下の名前で呼んでるんだろう? と。
「久保、お前このサボり魔と知り合いか?」
細谷の失礼極まりない言葉に、「サボり魔……まあ、否定はしないな」と、海斗はケタケタと笑いながらうなずき、わざとらしく俺の頭をくしゃくしゃと撫でまわしてくる。
「なんだよ、やめろよ海斗!」
「いーじゃんよ、かわいい従弟との遭遇を喜んでるんだからさ」
「かわいいとか言うな!」
かわいいは俺が一番言われたくない言葉で、あの細谷と初めて遭遇した時もそう酔っ払いに言い寄られてイライラした上にトラブルになった。かわいいなんて言われて、男が嬉しいわけがないだろうに。
海斗の手をはたき落とし、「海斗~!」と、にらみつけてやったが、あまり効果はない。
「……そうか、なるほど」
何がどう納得したのかわからないけれど、細谷は一人で頷き、「じゃあ、またな。小野田律。授業にも出ろよ」と言い置いてひとり更衣室に向かってしまう。
颯爽とした後ろ姿を何となく見送っていたら、海斗が何にか言いたげな目を向けている。海斗がそういう目をする時って、何か俺が言われると腹を立てることに気付いた時の目なんだけれど。
「……なんだよ、その眼は」
「休み時間に言ってたのって湊人のことだろ? 結構仲良いんだなって思ってさ。“またな”なんて、湊人が言うの初めて聞いた」
「良くなんかないし、“またな”なんてあいつが勝手に言ってただけで、約束とかそういうのはしてない!!」
「でも、いま二人で保健室から出てきたじゃん、肩組んで。しかも名前もフルネーム呼びだしさ」
「そ、それは……! てか、肩なんか組んでな……いのか?」
組んでたじゃんか、と海斗から指摘されるまで無意識だったけれど、確かに今さっき細谷と保健室から出てきた時、俺は襟首をつかまれていた恰好だったと思ったけれど、あんな絡まり方をしていたら肩を組んでいるように見えなくもない……のか? 肩は組んでいなくとも、密着していることは確かなので、仲良く見えなくはない。見えなくはないけど――
「なんだよ、やっぱり仲良いんじゃん。保健室入りびたり同士仲良しってこと?」
「いや、あいつはそういう感じじゃなかったよ。寧ろ、俺みたいなのを追い出そうとするし」
「え? そうなんだ。意外だなぁ」
意外ってどういうことだよ、と問い返そうとしたらチャイムが鳴り、「あ、やべぇ。またな」と、海斗は体育館の方へ走っていく。細谷はとっくに着替えて体育館に行ってしまったのか、海斗以降の生徒の中に細谷は見かけなかった。相変わらず、隙を見せない奴だ。
「あ、俺も授業行かなきゃか……めんどくせ……」
そう呟きながら自分のクラスへと向かいつつ、先程俺の首筋や肩の辺りに触れた細谷の手の感触を思い出す。骨っぽくて薄い、だけど俺とは違って男らしさのある大きな手だった。
「デカい手、だったな……」
ガリガリっぽいのに意外と細谷はたくましい気がする。俺のことひょいと摘まんだりするくらいだし。初めて会った助けられた時も、すらっとしていてカッコいななんて思ってしまったっけ……
そうしてまた、さっき肩に触れたことを思い出し、カッと顔が熱くなる。
「いやべつにだからって、俺が細谷のことどうって言うわけじゃ……」
意外とたくましい体付きで、意外と優しいこと言ったりもして……意外と、って何をもって俺は細谷のことをあれこれ判断してるんだろう? そんなに俺はまだ、細谷のこと知らないのに。
「そういえばさっき、海斗が、“保健室入りびたり同士”なんて言ってたけど……どういう意味だろう?」
俺とかには用がないなら出て行けって言うくせに、自分は入り浸っているのか? それって矛盾してない? 仮にも保健委員というやつなら、そういう私物化するような使い方ってどうなんだろう?
考えれば考えるほど、細谷のことがわからない。わからないから、余計に知りたくなってもいる。
(なんでだろう。イヤなやつだなって思っているはずなのに……意外とそうじゃないかも? なんて気もするし……)
悶々とそんなことを考えていたら自分のクラスの教室についていた。すでに授業は始まっているらしく、先生の話し声が聞こえる。いまはどうやら英語の授業中らしい。
はーあ、面倒だな……でも、サボりばかりじゃないって細谷と思いながらがらりと引き戸を開け、俺は教室の中に入っていった。
結局その日は、2時間目以降保健室には行かなかった。行こうかなと何度か思っていたけれど、なんとなくあの休み時間の海斗の言葉が気にかかっていたからだ。
“保健室入りびたり同士”って、どういうことだろう?
俺が入り浸っているのはまだわかるとして、細谷までそうなんだろうか? あんなに俺が保健室に来るのを嫌がるし、追い出すくせに。
(なんだよ、ヒトはダメで自分はいいって言うやつか? すげー勝手じゃないか?)
ヒトに対しては、アオバ先生に下心があるのか? なんておっさんみたいなこと聞いてくるくせに、自分はどうなんだよ! 保健委員の職権濫用じゃない? そんな言葉が次々と浮かんでは消えていき、比例するように腹立たしさがふつふつと湧いてくる。
「こうなったら、職権濫用の現場押さえてやるんだからな!」
放課後になって生徒の数がまばらになってきたいまの時間帯なら、アオバ先生と二人きりだ、なんて下心丸出しで、あの切れ長の目で先生を見つめたりしてさ、グイグイ行くのかもしれない。
そんなことを考え、俺はショートホームルームが終わるなり教室を飛び出す。突然行って、現場を押さえてやろうと思ったからだ。
(アオバ先生が妊婦さんだからとか何とか口実にして、自分の方が入り浸ろうって魂胆かよ!)
保健室の一から対角線上にある教室から反対側の端まで走り、更に三階から階段を駆け下りて保健室へ走っていく。廊下は走るなって書かれている標語も無視して全速力だ。
教室棟の一階の西端にある保健室に辿り着いた俺は、乱れた呼吸を整えるように深呼吸をする。
一気に引き戸を開けるか、それともそっと開けて忍び込むか。どちらがいいだろうか……と、少しの間考えていると、ガシャーン! と何かが落ちた音が聞こえた。
え? なに? と、辺りを見渡していると、「先生!」と、細谷が叫ぶ声がする。
先生の身に何か起きたんだろうか? と、勢い慌てて俺が引き戸を開けると、床に蹲るようにしているアオバ先生と、その傍で狼狽える細谷、そして散らばった書類とファイルがあった。先生の顔は、真っ青を通り越して真っ白だ。
「アオバ先生?!」
「小野田律、誰か呼んできてくれ! 宮崎先生の具合が悪いんだ!」
先生に駆け寄りそうになった俺に、細谷が鋭い声で指示を出す。俺はその声に弾かれたように駆け出して職員室に向かう。
保健室の先生は、いつでも俺を受入れてくれるあたたかで絶対的な存在だった。いつでもどんな時でも優しくニコニコと出迎えてくれて、アオバ先生は特にやさしく接してくれた。
その先生の顔が血の気がないほど真っ白だった――それがどれほど危ない状況なのか、俺だってわかる。
誰か、誰でもいいから、と思いながら駆け込んだ職員室には複数の先生たちがのんびりお茶を飲んでいた。
「おー? どうした?」
「まだ残ってたのか、小野田。そろそろ下校時刻に――」
「あの! 宮崎先生が倒れたんです! すぐ来てください!」
きっと俺の顔は真っ蒼になっていたか、半泣きだったんじゃないだろうか。だって、一番安心できる場所にいつもいてくれる人が、あんなに白い顔をしていたのだから。
それからはどうなったのか、よく憶えていない。
とにかく細谷が的確に駆け付けた先生たちに状況を説明していて、救急車が来るまで誰よりもせわしなく動き回っていた。
救急車が来るまでの時間はきっと十分もなかったんだろうけれど、永遠のように長く感じられ、俺は全く生きた心地がしなかった。
(目の前で人が死ぬかもしれないのかな、これって……)
ちらりと過ぎった“もしも”に、心臓がぎゅっとつかまれたみたいに痛くなり、思わず自分の胸元をつかむ。
怖い、こわい……震えだす腕で自分を抱くようにしてたたずんでうつむいていると、ふと、誰かのつま先が視界に入る。それは上履きで、つま先の色が俺と違う。
「だいじょうぶか? 気分悪くなったか?」
声を掛けられて顔をあげると、細谷が心配そうな顔をして俺を見つめていた。見上げる格好になるほど高い位置からの視線は、いつも保健室で投げられる冷たさがなく、優しくさえある。それはまるで、いままで俺が保健室の先生に向けられていたものとすごく良く似ていた。
「先生が……アオバ、先生が……」
「だいじょうぶ、先生はちゃんと病院に運んでもらえた。きっと今頃適切な処置を受けている」
震える声でうわ言のように先生の名を口にする俺に、細谷がしっかりと見据えるように見つめながら、「だいじょうぶ」を繰り返す。それはまるで魔法の言葉かくすりのようで、じわじわと強張る俺の心に染み入ってくる。
そうか、もう、だいじょうぶなんだ……それだけがようやく理解できた俺は、へなへなとその場にしゃがみ込んでしまった。
「良かった……よかったぁ……」
半泣きで俺がそうほっと息をつきながら呟くと、ポンポン、と細谷がすぐ傍にしゃがみ込んで俺の頭を撫で、微笑みかけてくる。いつだったかに見た、あのやさしい笑みだ。
「君がちゃんと他の先生方に声をかけて連れて来てくれたからな。ありがとう」
微笑みと共に差し出された言葉が、すごく甘い。飴みたいだ。
言葉が甘いなんて知らなかった……でも、なんでだろう? そんなことを考えながら、俺は小さな子どもみたいに細谷に頭を撫でられたまま、ぼうっと夕暮れていく保健室の中を見つめていた。



