小さい頃から、ウチは両親が夜遅くまで仕事で留守がちで、俺は一人でいることが多かった。
 朝起きたら朝ご飯は用意されていても、親はいないなんてざらで、一人で朝食をとって鍵を閉めて家を出ることが日常だ。
 でもそんな日々の中、朝は元気でも学校の授業中にお腹が痛くなったり、頭が痛くなったりすることがある。そういうのが俺は小学生の頃割と頻繁に起きていた。

「お腹が痛いの? じゃあ、少し休んでいこうか」

 学校を休んだり早退したりするほどじゃない、ちょっと保健室で休んでいけば治るほどの病状を繰り返す俺を、保健室の先生は何も言わなかった。
 もしかしたら、親に連絡をしていたのかもしれないし、何度か病院にも連れて行かれたけれど特に大きな異常はなかったから、親もそれ以上は心配してはくれなかった気がする。

「病気じゃないならちゃんと学校に行きなさい。学校に行くのがあんたの仕事よ」

 そう言われてしまうと、幼い俺は何も言い返せなかったし、学校に行くしかない。
 そんな風に学校に行ってもお腹が痛くなったり、頭が痛くなったりを繰り返して保健室に入り浸るようになると、授業についていけなくなっていた。それが中学の頃だった。
 中学にもなると、親が自分の方を向いていないのはわかって来るので、こちらから何かを言うことはなくなり、その代わり他の人たちの所へ出向くようになる。親が気に掛けてこないから、夜遅くまで出歩くようになったのだ。
 夜遊びしているとその時は楽しいけれど、空っぽな感じに無理に明るくしていることが多く、すごく疲れる。だから当然翌朝は遅くて眠たくて、教室にいるのもダルく、学校に来ても教室まで行きたくなくなってしまう。
 そうなってくると、小学校の頃、腹痛や頭痛で避難するようにしていた時みたいに、また安心する場所を求めて自然と足が保健室に向くようになり、俺は保健室に仮病を使って入り浸るようになっていた。
 高校生になっても、教室に馴染みにくいことに変わりはなく、週に数度の頻度で利用している。

(たぶん俺がしょっちゅう来ている理由、アオバ先生ならわかってるんだろうな……何も聞かないでくれるけど、休んでいきなさいって言ってくれるし……)

 保健室の先生には、言葉にしにくい事情をイチから説明しなくても、わかってくれることが多いし、深く聞いても来ない。それがどれだけ有難いことか。
 だから俺にとって保健室は、家よりも安心する場所なんだ。なのに、あんなやつに問答無用で追い出されるなんてあんまりだ!


「なんか最近保健室行きづらくね?」

 細谷に追い出された日から数日後、俺の一つ上の従兄(いとこ)の海斗《かいと》と二階の渡り廊下でぼんやり中庭を眺めながら呟くと、海斗がそうか? と言いたげに首を傾げる。
 俺以外にも保健室に入り浸っている連中は数人いて、そのほとんどがアオバ先生目当てだ。かわいくて優しい天使みたいだからってことで、下心丸出しで保健室に入り浸っている。そいつらさえ最近見ないのだ。

「俺はそんなに保健室行かないからわかんないけど、なんかあったのか?」
「なんかさー、メガネの2年の何とかってやつがすっげーうるせえの。そのくせ、アオバ先生の前では爽やかぶっててさー。俺とかが顔出しただけで野良ネコみたいに摘まみ出すんだぜ? ひどくね?」
「っはは。まあ、保健室は遊ぶとこじゃないからなー」

 そんなの俺だってわかっている。形としてはサボりに分類されるのかもしれないけど、俺は保健室に安らぎを求めてる。まあ、サボりのメンツの中には下心ありみたいなやつもいるけども。

(アオバ先生はいい人ではあるけど、そういうやつらと、俺は違うんだってば!)

 保健室の先生の雰囲気は好きだけれど、恋愛的なものじゃない。あたたかでやさしくて、布団にくるまれてるような安心感があって、家より安心する場所の人。保健室の先生は俺にとって小学校の頃から一貫してそういうイメージだ。
 だから俺は保健室にいたいんだけれど……そういうことも、あの細谷ってやつは許してくれる感じじゃない。

「はーあ……なんなんだろ、あいつ……」

 保健委員だと言っていた細谷が言う、『保健室は病人やケガ人が利用する場所』という主張は、正しいと思うし、そういうものだ。海斗だってそう言っているし。
 でも、俺のように保健室に安心を求めて来てるやつがいたっていいんじゃないか? とは思うんだ。

(そりゃ、俺が保健室行く理由がベッド借りたいとかなのは、アレかもしれないけどさ……でも……)

 もう少しこっちの話を聞いてくれたっていいじゃないか、と思うのは俺の考えが甘いんだろうか?
 なんだかモヤモヤするな……と思いつつ保健室の海斗と喋っている内に休み時間が終わり、教室の外にいた生徒たちもみんな教室に戻っていく。
 それを見送りつつ、俺はふとあることに気が付いた。

(もしかして、授業中のいまなら細谷、いないんじゃないか? あいついかにも真面目そうだもんな)

 休み時間はもれなく細谷が保健室にいるのだとしたら、いかにも真面目そうなあいつがいない授業中を狙って行けばいいのではないだろうか。保健委員だか何だか知らないけれど、あの堅物ならきっと授業をサボる考えなんてことはなさそうだし。
 名案を思い付いたとばかりに、俺は二階の渡り廊下から足早に一階の保健室へ向かった。

「アーオーバー先生~。俺熱っぽいかもだからベッド貸し……」
「それならそこの体温計で熱を測ればいい。熱があればベッドを貸してやらなくはない」

 若干鼻歌交じりに保健室の引き戸を開けて声を掛けると、帰って来たのはアオバ先生の優しく甘い声ではなく、冷徹なまでに低い男の声。そう、保健室に当然のような顔をして細谷がいたのだ。

「なんであんたがいるんだよ?!」
「それはこっちのセリフだ小野田律」

 「あと人を指さすな」と、メガネをクイッとあげながら厭味ったらしく言ってくる辺り、本当にこいつムカつく。
 しかもわざわざフルネームで呼んだりしやがって……まったくもって気に入らない、いけ好かない奴だ。
 細谷が体温計を差し出しているので、イライラしながらふんだくり、スイッチを入れて脇に挟む。こんなことしなくても俺に熱がないことはわかりきってるだろうに。本当に嫌なやつ!

(何かを察して“休んでいくか?”みたいな気の回し方ぐらいできないもんかな、この男……)

 イライラとにらみつけている内に電子音が鳴り、俺は体温計を取り出して細谷につき返す。受け取った細谷は利用者名簿に体温を記していく。
 細谷がいるのに、アオバ先生の姿がない。また用事でどこか行っているんだろうか?

「あれ? アオバ先生は? また用事?」
「静かに。宮崎先生はいまお休み中だ。そこのベッドで休んでらっしゃる」
「え? 具合悪いの? 病気?」

 思わず身を乗り出すように尋ねると、細谷は呆れたようにため息をつき、「病気じゃない」とは言う。

「言っただろう。先生はいま身重なんだ。元気そうに見えても体が辛い時がある。いまは忙しくないから、休んでらっしゃるんだ」
「あ、そうなんだ……」

 具合が悪いわけじゃないと聞いて安心はしたものの、妊娠してるって大変なんだなぁと、いまさらながらに知る。そして同時に、こいつやけに詳しいな、とも思う。
 その気持ちが向けている視線に滲んでいたのか、細谷は体温計を片付けながら咳ばらいをして呟くように答える。

「親戚に産婦人科医がいる。保健委員として養護の先生を手伝えないかとアドバイスを聞いた時に、色々と妊産婦の話も詳しく教えてもらっただけだ」
「……保健委員ってだけで随分アオバ先生に親切にするんだね」

 まるで先生の夫みたいじゃん、とは流石に言わなかったけれど、一生徒としてはかなり熱を入れているのでは? と思う。だからこそ、下心みえみえに思えてならない。
 やっぱり本当に細谷ってアオバ先生に気があるのかな? そう、問うような目を向けてはみたのだけれど、当の細谷はいま教科書を開いて自習を始めている。

(あれ? 教科書? ここで勉強してんのか?)

 そうだ、いま授業中のはずじゃん。なんでこいつもここにるんだろ? 俺のことどうこう言うけれど、やっぱりサボりたいだけなんじゃ?
 色々聞きたいことが喉元まで出かかっていたその時、「ごめんね、大分寝ちゃってたわ」と、ぼんやりした声が聞こえた。
 顔を向けると、起き抜けの顔をしたアオバ先生がベッドのあるスペースのカーテンを開けて顔を覗かせている。

「気分はどうですか、先生」
「うん、大分いいよ。眠りづわりだけど、この職場だととりあえずすぐ眠れるから、まだマシだわー」
「もう起きていいんですか?」
「ありがとう。ごめんね、折角の授業中なのまた留守居頼むみたいなことしちゃって」
「いえ、自習の授業だったんで。クラスもすぐそこだし」

 ああ、なるほど、そういうことで細谷が保健室にいまいるのか。細谷の事情は分かったけれど、じゃあお前はどうしてここにいる? とばかりに細谷とアオバ先生から目を向けられてしまい、俺はバツが悪くなってくる。

「あら、小野田くん。今日はどうしたの?」
「あ、えっと……」

 なんと答えればいいだろうか……アオバ先生の話を聞いたあとで、いつも通り「ベッド貸して~」とも何となく言いづらく、答えに窮していると教科書に目を落としているはずの細谷がシレッと言った。

「ああ、こいつはただのサボりです。熱も平熱でしたし」
「あらまあ、そうなの」

 アオバ先生が驚きつつも苦笑している反応に、「え、ちが……や、えっと……」と、弁明もできない俺はますます窮地に立たされる。だってそんなストレートに、「こいつはただのサボりだ」なんて言われるなんて思わなかったんだから。
 そりゃあアオバ先生だって、いままでの俺の言動とかから俺がサボり魔であることは知っているだろう。でもあえてスルーしていてくれたんだろうし、そういうもんだという関係で成り立っていたはずだった。
 それなのにこいつは、俺のいままで重ねてきた嘘を、俺がここで安心して過ごすためについてきた嘘を、ポーンとあっさりひっくり返しやがったのだ。
 嘘をついてまでここにいたいという言動が、こうもあっさりひっくり返されると恥ずかしさで居た堪れなくなる。子どもだな、なんて思われていそうで、耳の端まで赤く染まって、小さくなって消えてしまいたい。そして同時に、保健室という居場所を俺は失くしてしまったんだと思った。
 学校には行かなきゃいけないのはわかっているけれど、教室も好きじゃないし、かと言って一人きりの家も好きじゃない。程よくあたたかで誰かがいる保健室が、俺には最高の居場所なのに。
 これから俺、どこに行けばいいんだろう――そんな絶望感にも似た気持ちに沈んでいると、ふと、こんな言葉が聞こえた。

「でもたぶん、なんとなくここにいたいみたいなんで、いまの時間だけいさせてやってください」
「……へ?」

 てっきりまた有無も言わさず追い出されるのかと思っていたのに。
 数日前と真逆の言葉に思わず俺が細谷の方を振り返ると、細谷はあの片頬をあげるイヤな笑い方じゃなく、口の両端を軽く持ち上げるような朗らかな笑い顔をしていた。それはやさしくやわらかで、小学校の頃によく俺を看ていてくれた保健室の先生の笑顔を思い出させる。

(あ、こんな風に笑うこともあるんだ――)

 そんな発見が妙に嬉しく、フォローのように差し出された言葉以上に俺の心を上向けていく。まるで羽でも生えたみたいにふわふわと浮かんでいくようだ。

(……え? なんで俺、こいつに笑いかけられて嬉しいみたいになってんの?)

 ただここにいていいって言われただけ、しかも先生にじゃなくて細谷に。何をそんなに偉そうに……と、思う反面、嬉しさが小さくふつふつと疼いている。何だ、この気持ち。
 俺がポカンとそんなことを感じていると、アオバ先生はにっこりと微笑んでうなずく。

「まあ、そうなの。じゃあ、いまの時間はここにいていいよ、小野田くん」
「あ、ありがとう……ございます……」

 仮病を使って、嘘の微熱で保健室にいようとするよりもうんとあっさりと快諾されてしまい、なんだか拍子抜けしてしまう。いままでの必死の演技は何だったんだろう、と思うほどに。
 だけど同じくらいホッとしてもいる。安全だと思っている場所を、ひとまずは奪われずに済んだから。
 一先ず俺は先生に勧められた長椅子のソファに座り、2時間目のいまが終わるまでは保健室で過ごせることになった。
 相変わらず細谷は自習をしていてこちらを見もしなかったけれど、心なしか教科書とノートに注がれている眼差しが、最初に見た時よりもやさしい気がしたけれど、やっぱり気のせいだろうか。
 答えがわからないままに、俺は久しぶりに保健室でゆったりと過ごせ気がした。