「だから俺はウリなんてやってないんだってば! 放せよこの酔っ払い!!」

 夜の九時を回った繁華街、ラブホ街の入り口で俺、小野田律(おのだりつ)は厄介ごとに巻き込まれていた。いつものように友達と遊び歩いたあと、夜更けの街をぶらぶらしつつ暇をつぶしていただけなのに。
 俺の手をつかんでにちゃにちゃと滴るように笑う酔っ払いに、俺の言葉なんて聞こえていないのか、大袈裟に手をさすりながらまだ笑っている。

「おー、こわ。かわいい顔してるのにおっかないねぇ……イヤぁ、これはしつけ甲斐があるなぁ」
「かわいいとか言うんじゃねえよ!! キモい!!」

 気持ち悪いことこの上ないその酔っぱらいは、ニヤニヤしながら尚も俺の方に手を伸ばしてくる。ただ単にすれ違いざまに、「ねえ、キミいくらほしい?」なんて失礼過ぎることを言ってくる奴なんてキモいの何者でもないに決まっているんだけど。
 吠え立てる俺に、酔っ払いは全く怯むことなくニヤニヤしている。

「そもそも女の子みたいな顔して、そーんな露出高い服着てこんなとこ歩いてるなんてさぁ、おじさんのこと誘ってるんでしょ?」

 俺が小柄で華奢(きゃしゃ)で、自分で言うのもすごくイヤなんだけれど、目元もパッチリ目で化粧なしでもかわいく見える顔立ちをしていると思うし、よく言われる。髪色だって色素が薄めだから明るい色で、肌も白いから余計に弱々しく女の子っぽく言われる。だから俺は、「かわいい」と言われるのが大嫌いだ。
 しかも、一人で繁華街歩いている=ウリをやってるという思い込みはどうなんだろうか? 露出高めの服とは言うけれど、単に俺の趣味がこういうダメージ加工の物が好きというだけで、それをまたウリに結び付けるのも短絡的すぎないか?

「おっさん、人の話聞けないバカ? 頭湧いてんの?」

 つい口をついて出た本音に、それまでベタベタと俺を触っていた酔っ払いの手が停まる。ただ酒で赤かった顔が、ふつふつと煮えたぎるように真っ赤になっていき、賑やかな通りに響くような怒声をあげた。

「おいコラ! ガキのくせしてなんて口の聞き方してんだ!! ちょっとかわいいからっていい気になるなよ!!」

 突然怒りが沸点に達した酔っ払いの怒声に、俺は弾かれたように身を離そうとした。
 でも、酔っ払いが俺のフーディーのフードをつかんでいたために逃げ出せず、強くそちらへ引かれる。
 うっかり転びそうになった所を酔っぱらいに羽交い締めにされ、酒臭い顔が迫ってくる。ギトギトに脂ぎった酔っ払いの顔が本当に気持ち悪くて虫唾が走りそうだ。

「やさしくしてやろうかと思ったけどやめだ。みっちり“教育”してや――」

 このまま手近なラブホに引きずり込まれて、とんでもないことをされるのかと覚悟して目をつぶって震えていると、俺をつかんでいた手をなにかが捕らえる気配がした。
 俺を連れ去ろうとしていた酔っ払いの足も停まり、振り返ると――

「おい、同意もなしに何やろうとしてんだあんた。しかも相手は未成年だろ」

 160センチの俺より十数センチは高そうなその人は、すらっとしたやせ型で、俺とは違った細い体つきをしていた。一見すると弱そうだけれど、酔っ払いを睨みつける、長い前髪の隙間とメガネ越しから覗く切れ長の目が鋭く、酔っ払いもたじろいでいるのがわかる。
 通りのネオンライトで陰影がくっきりしているせいもあって、その人の表情の凄味は、目を瞠るほど美しかった。

(――でも、なんか……どこか見たことがあるような気がする……誰だっけ?)

「な、何だよお前ぇ……このガキと関係ないだろ?!」
「関係はなくとも、人として見過ごせないだけだ。それとも、この場で通報されたいのか?」
「ッぐ……」

 男の人がスマホを取り出し、ためらう様子なく操作を始めると、酔っ払いは慌てて俺から手を離した。
そして、「ふざけんなよこのクソガキが!」と、遠吠えのように叫んでどこかへ行ってしまったのだ。
そうして、ぎらぎらと明るい繁華街の通りには、俺と、俺を助けてくれた彼と、俺らを遠巻きに見ていた人たちが残されていた。
 酔っ払いが去って行く方を、その人がにらみ据えている横顔が、ネオンに縁どられていてきれいでカッコイイ。

(ピンチから助けてくれたイケメンとか……マンガみたいだ……)

 思わずそんな風に見惚れていると、不意にその人が振り返る。切れ長できれいで整った顔に見据えられ、俺は思わずドキリと胸が鳴る。
 わ、かっこよ……と、つい呟きそうになったけれど、それを打ち消すようにその人はこう言った。

「おい、君だって非があるんだぞ。未成年がこんな時間までこんなところにいるなんて。中学生か? 何年生だ?」
「ちゅ……?!」
「こんな遅くまでこんな所をふらふら出歩いていいわけないだろ。危ないじゃないか」

 確かの俺は小柄ではあるけれど、一応160センチはあるし、何より高一だ。女の子に間違われそうになったことはあっても、こんな子ども扱いされたことは初めてだ。
 さっき助けてもらった恩も忘れ、俺はカッと頭に血が上り、その人の胸倉をつかんで詰寄る。

「誰が中坊だよ! 俺は高一なんだよ! ほら!」

 そう怒鳴りながらポケットの中の学生証を見せると、「……小野田律、羽月(はづき)高の一年か」と、呟き、一応の納得はしてくれたみたいだけれど、渋い顔をしているのは変わらない。

(もしやこの人って補導員か何かなの? あれ? でも俺ってもう補導じゃないんだっけ?)

 そんなことを考えつつ返された学生証を受け取ると、その人は呆れたようにため息をつきこう言った。

「……なるほどな。どこかで見たことあると思ったら、あそこでよく見る君か……。こういうとこでほっつき歩いてるから、しょっちゅう来てたわけだな」
「は? 誰だよあんた。俺はあんたなんて知らねーし」
「とにかくもう家に帰れ。今度は絡まれるだけじゃすまないぞ」
「言われなくても帰るよ!」

 なんか厄介なやつばっかりに絡まれちゃったな……と思いながら彼に背を向け、僕は家のある方へと歩きだす。キラキラしたネオンの光に照らされながら、ムカムカと腹立たしさが治まらない感情を抱えて。
 そんな僕の背中に、「おい、小野田律」と、先程の彼が声を掛け呼び止めてくる。
 振り返ると、彼は片頬をあげる厭味ったらしい、だけど見惚れるほどきれいな笑顔をしてこう言った。

「くれぐれも明日遅刻するなよ」

 お節介の過ぎる言葉に、僕は「べーッと」舌を出して顔をしかめると、その人は苦笑して手を振って去って行った。

(なんだあのお節介野郎……もう二度と会いたくない!)

 そう、思ってたのに……まさか、翌日に思わぬところで再会するなんて思ってもいなかった。


 昨夜お世界野郎から遅刻するなよ、なんて言われたけれど、俺の朝はいつも大体朝の9時過ぎに始まる。
 両親は仕事で忙しくてほとんど家におらず、今週も出張だなんだと飛び回っているようで、朝起きたら誰もいなかった。

(まあ、きっと昨夜のあいつにはもう会うことないだろうから、俺が何時に登校しようと関係ないよね)

 ひとりで適当に朝食をとったのちにのんびりと電車に乗って登校する。
 昨夜のことを思い起こしつつ校門をくぐり、学年玄関で靴を履き替えると、すでに授業は始まっているので廊下には誰もいない。
 寝不足気味の目に初夏の朝の光は眩しいばかりでちかちかする。

(こんな天気のいい日に黙って机に座って勉強とかやってられないよ。みんなよくやるよなぁ)

 9時過ぎに登校しておきながらもまだ眠たくてたまらないのは、眠ったのが深夜過ぎだったからだろう。それに、昨夜はヘンなやつにばかり絡まれたし。思い出すだけで頭痛がしてくる。

「さーて、いま授業中だから教室入るの気まずいから……やっぱ頭痛ってことにして、アオバ先生のとこかな」

 そう呟きながら、俺は特にためらうこともなく下駄箱のある学年玄関の隣にある保健室へと向かう。アオバ先生はそこにいる、保健室の養護教諭の宮崎アオバ先生ことだ。若くて優しい先生は、アオバ先生と呼ばれてみんなに慕われている。実際天使みたいに優しい。

「アーオバ先生、ベッド貸して~。ちょっと頭痛いんだよねぇ」

 唄うように呼びかけながら引き戸を開けると、いつも栗色の緩いパーマヘアを一つにまとめて肩から垂らしている俺くらいの背丈の若い女の白衣の先生が微笑んで出迎えてくれるはず――なんだけれど、今日は全く知らない、それも男が不機嫌そうに座っていた。
 男はすらっと背が高いがひょろっとしていて、神経質そうな切れ長の目でメガネ越しに俺をにらんでくる。グレーのギンガムチェックの俺と同じスラックスに白のポロシャツ姿だから、俺と同じ生徒だとわかるけれど……なんかどこかで見た顔だな?

「何の用だ。いまは授業中だろ」
「それはあんただって同じじゃんか!」
「僕は宮崎先生に頼まれて、休養のついでに留守居をしている。君こそなんだ。ベッド貸して、なんていかにもサボり目的だろう」

 図星を指されてぐっと黙り込み、それでも何か申し開きしようと必死に頭を回転させるも、あまりにズバリと目的を言い当てられてしまったがためにすぐに言葉が出てこない。
 その間にも、男子生徒は不機嫌な顔を崩さないで立ち上がり、じりじりと俺の方に近寄ってくる。

「な、何だよ……」
「サボり目的ならさっさと教室に行ったらどうだ。ここは病人やケガ人が休む場所だ。君のような見るからに健康そうなやつが来るとこじゃない」
「なッ……なんだよその言い方!! 俺がほんとに病人だったらどうするつもりなんだよ!」

 腹の立つ物言いに、勢いで下から睨み付けると、男子生徒はふんと鼻先で笑ってこう返してきた。

「毎日のように夜遅くに繁華街をフラフラして、酔っ払いに絡まれてるようなやつが本当の病人なわけがないだろう、小野田律」

 片頬をあげ、メガネの奥で切れ長の目が僕をにらみ返して笑う。
 あ、こいつ、知ってる……! そう記憶がよみがえり、「あんたは……!」と、俺が口を開きかけると、保健室の引き戸が再び開いた。

「ごめんねぇ、細谷(ほそや)くん。お留守番ありがとね~。……あら、小野田くんもいるのね。また今日も休んでいきたいのかしら?」

 ふんわりとした空気をまとった白衣姿のアオバ先生が戻ってきて、俺と細谷、と呼ばれた生徒の顔を交互に見て微笑む。先生は俺と細谷の険悪な空気に気付いていないのか、「あらあら、見つめ合っちゃってぇ」とニコニコとしている。

「にらめっこかしら?」
「違うよアオバ先生! こいつが俺に出て行けって言うんだもん!」
「あらぁ、細谷くん。そんな意地悪はダメよぉ。仲良くね」
「意地悪ではないです、宮崎先生。彼は明らかにサボりです。だから出て行くように告げているだけです」

 そう言いながら細谷は俺をにらみ据えてくるが、アオバ先生は気付いていない。何やら書類を片付けながら、「あら、そうなの?」と、相変わらずニコニコしている。
 アオバ先生は基本、誰にでもこういう感じでニコニコ接してくれる優しい先生だ。病人けが人はもとより、俺みたいなサボりの生徒であっても分け隔てなく優しい。だから信頼できるし大好きだ。
 それなのに――この細谷とか言うやつは、なんだってこんなエラそうに保健室利用について口出ししてくるんだ?

(こいつ、何者だ?)

 にらみ返しながら考えていると、まるで俺の胸中を読み取ったかのように細谷が答えた。

「僕は保健委員をしている、2年C組の細谷湊人(ほそやみなと)。宮崎先生のご体調を鑑みて手伝いを申し出いるが、いまは昨夜予備校が遅くなって寝不足なので頭痛がしているから、保健室を利用させて頂いている」
「ごたいちょうをかんがみ……? なんて?」

 舌を噛みそうな堅苦しい言葉遣いしやがるこいつは、とりあえず2年の保健委員だということはわかった。
 そのたかが保健委員がなんでまたエラそうに保健室を仕切っているのかがわからない。アオバ先生はすぐ傍にいるって言うのに。
 事態が呑み込めず俺がポカンとしていると、細谷は呆れた塔にため息をついてまた鼻で笑い、更にこう言った。

「宮崎先生はいまお腹に赤ちゃんを宿している。体調が安定するまで、僕が保健委員として保健室を仕切らせてもらっている」
「……へ? 赤ちゃん?」
「そう。だから早急に君には出て行ってもらう」

 そう、細谷が言ったかと思うと、僕の首根っこをつかみ、まるでネコにするかのように引きずって入り口に向かい、ポイッと放り出したのだ。
 廊下にへたり込むような姿になっている俺は細谷を見上げ、バカみたいに口を開けたままようやく尋ね返す。

「じゃ、じゃあ何であんたはここにいるんだよ。あんただって授業中じゃ……」
「さっき言っただろう。僕は今しがたまで頭痛がしていたんだ。すぐに教室には戻るつもりだ」

 「サボりの君とは違う」と、言い捨てるようにして細谷は引き戸をぴしゃりと閉め、俺を保健室から締め出した。
 硬く閉じられた薄桃色の引き戸を前に、俺は言葉もなく唖然としている。

「え……なに、いまの……ハァッ?」

 時間が経つほどに腹立たしさがふつふつと湧いてくる。なんだって保健室を利用する理由を、あんな奴にケチ付けられなきゃなんだ。

「そりゃ確かに、俺、大遅刻したけどさ! だからってあんな言い方ないんじゃない?!」

 いつもならアオバ先生が優しく出迎えてくれて、「気分良くなるまで休んでいっていいよ」って言ってくれるのに……! その時間がどれくらい俺にとって大事なのか、あの細谷とかいうやつにわかるのか?
 人の気持ちも知らないで勝手なこと言いやがって……! ふつふつとした怒りが湧いてくるけれど、言い返そうにも引き戸は閉ざされたままだ。

「何なんだあいつ……! 絶対、保健室使ってやるんだからな!!」

 ここに居座っていても意味がないのはわかりきっていたので、今日の所は俺が引き下がって教室に向かう。
 保健室利用の口実にするはずだった軽い頭痛は既になく、ただただ不機嫌な気持ちを抱えた寝不足を解消できていない体で。