忌み夜の花嫁は雨を待つ

 ♢♢♢
 
 深い深い山の奥の閉ざされた空間で『忌みの鬼』と恐れられ、半世紀が過ぎたころ、人の世では繰り返し天災が人々を苦しめていたらしい。
 ある日、お供え物のそばに小さな少年がしゃがんでいて、自分は人身御供だと言い張り、どれだけ拒んでもついて来たのはかれこれすでに十年前のことではないだろうか。 忌みの鬼は月のない夜に人の血を吸って生息していると言われており、新月を迎える少し前に赤色に染められた布に包まれたお供え物がいくつか山の麓のある一角に置かれることが増えた。
 血の代わりに、ということなのだろう。どんなものも、もっとも血液と近しい色をしているものが準備されていた。
 呪詛のかかった獣の血を浴びせられて以来、鬼と呼ばれる存在になった。
 どれだけ身を裂かれようと死ぬことはない。
 血に飢えたような赤い瞳にはなってしまったが、造形も十六のまま変わることもない。
 どれだけ高価なものを口にしても味がわからなくなってしまったため、少しずつ食事も必要なくなり、少しずつ自分が人間でなくなっていくことを悟った。
 村や町を襲うことなんてないし、お供え物もやめてほしかったが、そのままにしておくとどんどんどんどんたまってしまうため、仕方なく定期的に回収しに行ってはこっそりそれらを欲している別の村へと届けることが日課となっていた。
 久我(くが)の一族は代々術に長けた能力者の集まる一族だと聞いたことがある。
 その地をまとめ、人々を従わせる最も力を持つ者たちだ。
 ご縁があったわけではないが、知らない者はいなかったはずだ。
 当主の力が弱まり、邪気を含んだ生き物が人の世を脅かすようになった。
 もちろんわたしのせいではないのだけど、人々は『忌みの鬼』のせいであることを信じて疑わず、攻撃をしてくることもあったが、それでもわたしが命を落とすことがないため、徐々に怯えてお供え物をしてなんとか世の平安を願っていたようだ。
 人里離れて暮らす者として関係のない世界での話など、術師同士で何とかしてくれと傍観さえもしていなかったある日、人身御供だと自称し、小さな子供が姿を現したのだった。
 それが、幼き日の信玄なのだけど、彼は自身はいらない存在であるため、自分の血を吸ってくれと言って聞かなかった。血など必要ないと追い返してもしつこく着いてきて、知らぬ間に居座るようになった。
 異国の血が混ざった彼はとても整った造形をしていたが、逆にその姿を恐れられるのだと言い、人は自分たちと少しでも違う姿を持つ者は除外したがるところがあるのだと改めて思わされたほどだ。

『見た目はこんなのですけど、血はあなたも気に入ってくれると思います』

 姿を見せるたび、血を吸えだの肉を食べろだの青い瞳を大きく見開いて近づいてきた。
 物騒なものを置いておくと自らを傷つけかねなかったため、一室に閉じ込め、対策を考えることとなった。唯一守り抜かれたの敷地内で自傷行為などされてはたまらない。
 帰れと言ってもただでは帰らない。
 血でも飲んだふりをして追い返したところでまた姿を現すであろうたくましさを持っていた。小さいくせに、侮ることはできない。
 閉じ込めたって、彼の勢いは止まらない。 毎日毎日大きな声で喚き、しまいには青い瞳をくりぬいたっていいから、どうか町を救ってほしいと言った。
 言うとおりにするから……と、根負けをしたのはこちらの方だった。
 そう思うと、今も昔も変わらない。
 信玄の悲しそうな顔に弱いのだ。いや、笑顔もか。
 彼の要求をのむと叫ぶようにそう宣言すると、いつの間にか頬がこけた信玄は小さく笑
 い、そして意識を失った。
 軽い栄養失調だった。
 自身が食事をとらない身体となり長かったため、人間という生き物がどのくらいの食事や水分を欲しているのかすっかり忘れてしまっていた。
 慌てて食事を与え、昼夜問わず、看病をすることになった。
 小さな少年は夢にうなされ、夜になると『雪花(せっか)様……』と繰り返すようになった。
 のちに彼が元の元気な姿に戻った際、彼の口にしていた雪花様について尋ねてみると、兄の幼なじみの少女で、気味悪がられていた信玄にも親切にしてくれた恩人なのだという。
 彼の知るところによると『忌みの鬼』は若い乙女の肉や血を好んでいると言われているらしく、もっとも久我家に近い雪花を鬼への生贄にしようという意見が出始めたこともあり、慌てて力のない信玄が人身御供となるようここまでやってきたのだそうだ。
 雪花にだけは手を出さないで欲しいと再び頭を下げる信玄に何度も言っているが人身御供など必要ないことを告げ、ある決意をした。
 約束をしたからには守らないわけにはいかない。
 身に刃を突き付け、呪の儀式を行うこととなった。
 みなに恐れられているものの、これくらいしかわたしにできることはない。
 獣の血が混ざった我が血は、空気に触れると丸い結晶へと姿を変えるため、それを宙にまき散らす。どうしたらいいのかわからず、ただただそれが澄んだ空へ昇っていく様子を眺め、乾いた大地に雨が降るよう願いを込め、瞳を閉じた。
 それから二日後。信玄が目を覚ます頃、空から大きな水滴が落ちてきて、地面を濡らした。
 数か月ぶりに雨が降ったのだ。
 傷をつけた左手はズキズキと痛んだが、嬉しそうに空を見上げる信玄の横顔を見ていた
 ら、こんな痛みなど苦ではなかった。
 願いを叶えたのだからこのまま帰ってほしいと伝えたものの、恩返しをさせてほしいと
 信玄はますます居座る決意を固めてしまい、どうしたらわたしが喜ぶかをいつも試行錯誤するようにすり寄って来ては数年の月日を共にすることとなった。
 信玄は怯えることなく、ひとりの鬼と呼ばれた娘の生活に入り込んできたのだった。
 『白珠(しらたま)様』と屈託のない笑顔を向けてくるただひとりの人間となった。
 空が青いことを知った。 食事がおいしいと思えるようになった。
 嬉しいと思うことが増えた。
 新しく知ったことを誰かに伝えたいと思った。
 誰かと過ごす時間が心地よいと思えるようになった。
 信玄と過ごす日々の中で、わたしは少しずつ過去に感じていた気持ちを取り戻すようになっていた。
 四季を肌で感じられるようになったとき、言葉にできない気持ちでいっぱいになった。
 ダメだとわかっていても、信玄という存在は自分の中でどんどん大きくなっていき、小さくて可愛い弟のような、そんなかけがえのない存在となった。
 いつかは彼を人の世へ戻さないといけない。
 わかってはいたものの、動くことができなくなった。あと少し、あと少し。
 自分自身に言い聞かせることが増えた。
 あと少し、彼が成人を迎える年になったら、しっかり説明をしてこの地を去ってもらおう。自分は不老不死で年を取らなければ死ぬこともない。人々が恐れるほど怖い存在でもないが、人間でもない。そう伝えて理解をしてもらう。
 そう思った矢先のことだった。
 十四になったばかりの信玄に盛られた毒によって、わたしは正気を失うこととなる。

『白珠様……』

 遠のきかけた意識の中で当時伝えていた名を何度も呟き、信玄が涙を流したのが見えた。
 幾度となく繰り返す季節の中で、ごく自然に渡された飲み物の中に毒が仕込まれていた。
 油断をするというよりも、そんなことあるはずがないと思っていた。
 信玄、と彼の名を呟くと、彼は表情を歪ませ、わたしの手を握った。
 おまえもわたしを裏切るのだな。
 わかっていた。
 本当はわかっていたのだ。
 彼は、何年も何年も時間をかけてこの時を待っていたのだと。
 ついには、信玄にも裏切られてしまった。
 そう悲しく思うのと同時に、それでいい、と心の中で頷く自分もいた。
 彼にとって、最も良い場所で幸せになってほしい。
 それが、わたしの最後の願いだったのだから。

「珠子」

 わたしに幾度目かになる口づけを落とし、彼は柔らかな笑みを浮かべた。
 この笑顔以上に幸せな表情とはどんなものなのだろう。
 そう思えるほど完璧な演技を繰り返し、彼はわたしを強く抱きしめていた。

「信玄、もういい加減にしてくれ……」

「無理。珠子は心ここにあらずで全く俺のことを意識していない」 

「……こ、この状況でよく言う」

 こちらはすっかり過去の記憶に捕らわれているというのに。

「し、信玄……」

 お年頃なのか、この男のしつこさと言ったら言葉にできないものがある。
 三日三晩と開けずに律儀にやって来ては、お役目を全うする領主の末息子はいつもけなげで、それを利用してやろうと思い始めたわたしもわたしだけど、あんなに可愛く思えていた弟のような存在もいつの間にかその影すら失ってしまい、あれよあれよと流されるままに彼の幸せを願うというよりもある意味、人の道を外させてしまった気がして罪悪感さえ生まれてくる。
 誰も良い顔はしなかったが、彼ひとり、自身が言った言葉を守ろうと努力してくれていた。
 二か月前、目を覚ました時、すぐに目に入ったのは記憶の中よりもずっと大きく成長した十七の信玄の姿だった。
 最後に見た時も背は伸びつつあったけど、ここまで立派な身体だったわけではない。
 困惑と戸惑いでいっぱいになった。
 そんなわたしに対し、すっかり力を失いつつある久我家を救うため、力を貸してほしいと信玄は頭を下げた。

『そのかわり、俺のことは珠子の好きなようにしていい』

 三年前に呼んでいた、白珠様という愛称では教えたことのない本名でわたしを呼び、口づけてきたのだった。
 そういえば、大きくなったら食べていいですからと常々言われていたことを思い出す。
 人の肉など食べることはないと何度言っても彼は信じることなく、疑うことを知らない純粋な瞳をこちらへ向けては、自分は異国の血が混ざっているからきっと大きくなって食べごろが来るだろうと常に言い張っていた。
 最初は冗談じゃないと拒絶し続けていた。
 それもそうだ。殺されかけたのだ。不老不死のおかげでそう苦しむことはなかったけど、あの飲物が毒であることはわずかに残されたわが身が悲鳴をあげていたため、気付いていた。害はなくてもつらいものはつらい。
 誰が自分を殺そうとした相手の言うことなどきくものか。
 快楽を与えるなどと言われても、信用できるわけがない。
 この男のしつこいことをすっかり忘れ、夜な夜な押しかけられることが増え、うんざりし始めたころ、彼がとろけるような笑顔を浮かべ、ある女人の隣で笑っているのを目にした。
 彼女が、信玄が言っていた雪花様なのだろう。
 聞かずともわかった。 白く柔らかな花模様の着物を身に着けた小さな女の前で柔らかそうに細められた瞳は、幸せそのものを物語っていた。
 そのとき、悟ったのだ。
 彼は、大切な雪花様のためなら、なんだってできるのだと。
 たとえ鬼に身を売ることだって、彼にとっては造作もないことなのだ。
 大きく膨らんでいた胸のうちがしわしわとしぼんでいくようだった。
 もともと何も期待はしていない。
 でも、少しだけ錯覚を始めていた。
 ここで力を使って生きていけば、少しでも自分を欲してくれる人が現れるのではないかと。信玄が、その人なのだと思ってしまいそうになっていた。
 だから、言うとおりにした。
 わたしだって、二度とこんな機会はないだろうし、一度くらい人間たちのように良い思いをしてもいいだろう。そう思うようになった。
 信玄だって鬼を唆したことを後悔すればいいし、罪悪感と闘えばいい。
 偽善者ぶって、図に乗ったって構わない。
 欲しいものは欲しいと伝えるようになれと散々教えたのはわたしだ。
 欲しいもののために、手段を選ばなくなっただけ、逞しくなったと喜んであげよう。
 結局、快楽に負け、初めての夜は三日間なかなか離してもらえない過酷な日々を過ごすことになったのだけど、信玄がわたしの名を呼ぶたびに、どんどん心が濁っていった。
 だけど、何も知らないわけではない。
 油断をした彼の瞳に色が宿っていないことを知っている。
 自らの感情に抗って、心を閉ざしているのだとすぐにわかった。
 彼は気付いていない。
 すべてを終えた後、ゆっくりと頭を抱え、呆然と無機質な瞳で窓の外を眺めている様子をわたしが知っていることも。
 すべてを諦めたつもりだったけど、しぼんだはずの胸がチクチクと痛むようになった。
 痛くて痛くて、とても苦しい。
 彼の腕に抱かれるたび、雪花様……と明るい声を出す彼の声が脳裏を回った。
 あの笑顔のために、彼は自らの心を殺していた。
 それでも、彼にすべてを捧げられて以来、乾いた土地に悩まされることが減った。
 わたしが何かをしているわけでもない。
 儀式のひとつとして虐げられている雨ごいなどしたって意味がない。そんなことは信玄だって知っているはずだ。
 心当たりがあるのは、信玄がわたしの力の使い方を知っているということ。
 だからこそ、彼はますます意に反する行為だけをただただ繰り返すのだ。
 あえて言及することはなかったけど、この悩みが解決してしまった今、もうわたしが何かできることはなかった。

   



「……ああ、やられた」

 案の定、翌日、頭の上からつま先まで泥だらけになって、うんざりしたまま自室に戻ることとなった。
 今度は何者かに背を押され、池に落とされたのだ。
 懸命に這い上がるため、上着を何枚か脱ぎ捨ててようやく地に這いつくばることが叶った。本当に、毎日毎日嫌になる。
 忌み嫌われた『忌みの鬼』と呼ばれる存在でも万能の恐ろしさを誇るわけではない。
 わたしは不老不死と言うことを覗いては、大地の恵みに力を借りることができるくらいで能力などほとんど人間と変わらなかった。池に落とされたら死ぬことはないとしても苦しいし、必死にもがくしかなくなる。
 見張りの男たちもそこまでは厳重に監視を続けていたくせに一瞬隙を見せたため、彼らも共犯者ではないだろうかと思っている。
 日が昇る頃、唯一与えられた職務を全うするため雨乞いの儀式を行う広間へ向かうが、しっかり監視に張りつかれてはいるし、滞在している離れの近くで強い結界を張られるため、動けるとしても限られた範囲だ。悪さなんてしないのだからそっとしておいてほしいのに、人々は勝手に不安を生み出し、忌みの鬼を恐れ、部外者である人間として危害を加えてくることが増えた。
 鶏卵を自室に投げ込まれることはほとんど日常茶飯事で、用意されていた着物が切り刻まれていたり、池に落とされたり、突然髪の毛を引っ張られたり、食事に腹痛を催す毒を盛られたこともあった。
 外傷としてはわかりにくい、姑息なやり方がほとんどだ。

『気味の悪い化け物め』

 散々攻撃して来るくせに、被害者面をするのはどうかと思う。
 こちらだって好きで人の世から離れたわけではない。
 危害だって加えるつもりはない。
 それなのに、なぜか人はだれか的確な的を見つけると面白おかしく攻撃をする。
 最初に居場所を失った時、そのつらさのあまり、本当に『忌みの鬼』と呼ばれる力がほしかったのは本当だ。
 だけど、憎しみからは何も生まれない。あるとしたら、負の連鎖だけだ。
 そうして叶わぬ思いを抱えたまま幾年もの時が過ぎ、少しずつ心が無機質になっていったのを感じていた。信玄と出会うまで、ずっと。
 赤々とした紅葉で世界が彩られる中、ずいぶん過ごしやすくなったものだと肩掛けだけ羽織って庭を回る。
 いつどこでまたどんな攻撃がしかけられているかわからないけど、季節の移ろいを自分の目で確かめたくなった。
 秋は季節の中で、もっとも好きだった。
 山の中の食べ物がおいしくて、信玄にも満足をする食事を提供することができた。
 いろんなところへふたりで歩いてでかけたものだ。
 信玄はいつもいろんなことに興味をもって困らされたっけ。
 思えばいつの間にか調達してきた食材で手料理を振舞ってくれるようになっていた信玄はもしかするとあのときからすでに久我の一族と再びつながりを持っていたのかもしれない。
 今さらそんなことを考えてもむなしいだけなので考えないようにはしていたけど、自分では気付けなかったのがおかしなくらい、明らかな変化が彼の節々に見て取れはじめていたのもあの頃からだ。
 純粋なまなざしでただあとを追ってくる少年ではなくなっていた。
 言われたとおりのことはする。
 血だって欲しけりゃいくらでもささげてやる。
 肉が欲しけりゃ持っていけばいい。
 でも、いつまでここに居続けなくてはいけないのだろうか。
 そう考えるとしんどくなった。

『信玄!』

 春の日差しのように明るく可愛らしい花模様の着物に身を包んだ雪花様が信玄に向かって太陽のような笑みを浮かべたのを見かけた。
 信玄は信玄で嬉しそうに彼女に駆けより、甘い笑みを浮かべた。
 わたしには見せたことがないとろけるような笑顔だ。
 いつまで、この光景を見ていないといけないのだろうか。
 顔までべっとり泥が付いた自分自身は、ずいぶん滑稽な姿なのだろう。
 こんな姿を、見せたくない。そう思ってしまった。
 雨が降ってくれればいい。
 こんな汚い姿……流してくれればいいのに。
 空を眺めても、雲ひとつない空は水滴ひとつ落としてくれそうになかった。
 この空は、忌みの鬼の血を欲している。
 それ以外は、雨を降らそうとはしてくれない。

 『珠子!』

 最も嫌だと思った状況になった。

 『どうしたんだ……』

 信玄はすぐに気付いてしまって、人目も気にせずこちらに走ってきてしまった。

『いや、これは……』

『じっとして』

 まわりの人間が息をのんだのが見てわかった。
 大切な主が鬼に近づいてきたからだ。 そんな様子をハラハラと見守るまわりのことを気にする様子もなく、信玄は自身の手拭いでわたしの頬を拭った。

『信玄、よ、汚れてしまう……』

 人に聞こえないように小さな声で言うのが精一杯だった。
 信玄には聞こえなかったのか、口元をへの字にした彼は怒っているように見えた。
 こんな姿で目立つ真似をしたことは反省している。

『邪魔をして悪かった。も、もう大丈夫だか……』

『珠子は黙って』

『……ごめ』

 強い口調で言われ、言葉が続かなくなった。
 親しくしているようになんて見せたくないはずだ。軽率だった。

『信玄、もっと優しく触れるのよ』

 ふふ、と鈴の音のような声が聞こえ、彼の後ろからふわっとした雰囲気を纏い、雪花様が顔を出したのが見えた。
 姿を目にしただけで、花のように良い香りがした。

『可愛らしいお方』

 大きな黒い瞳を輝かせ、彼女は笑った。
 その瞳の中に、泥だらけでやせっぽっちで、瞳だけ不気味に赤々とさせた娘の姿が見えた。

『このお方が珠子さん?』

『せ、雪花様』

 雪花様が現れた途端、頬を染めた信玄が今まで見たこともない表情を浮かべ、あまり見ないでくださいと言った。
 信玄の言うとおり、下を向く。
 警備体制もしっかりと身構えられたため、わかっていると心の中で何度も自分に言い聞かせる。
 このお方は絶対に近づいてはいけない人だ。

『ねぇ、いつも信玄からお話は聞いているの』

 このお方は、雪の結晶のように白くて美しい。
 触れてしまえば融けてしまいそうな儚さだって持ち合わせている。

『雪花様』

 なおも話しかけようとしてくれる優しいお方に、はじめて心から消えてほしいと思った。
 この方は何も悪くない。
 悪いどころか、もっと悪い人であればいいのにと思えるくらい澄んだ瞳をしていて、中身まで美しい人だった。
 信玄が身を挺して守ろうとしたのがよくわかる。 どこまでも悪い人だったらよかったのに、そう思える自分がひどく嫌だった。
 腹部に違和感を感じたのは、数か月たったころだった。
 体調が優れなくなった。
 眠い日が増え、強い香りに吐き気を催すことも増えた。

 「調子はどう?」

 目を開けるとそこには信玄が座っていて、優しく頬に触れてくれる。
 あれから義務の雨乞いの時以外は外へ出ることがなかったため、彼と顔を合わせることも減った。

「信玄、来ていたのか……」

「ああ、起きなくていいよ」

 信玄が来てくれても、起きていることができなくて、自然と体を重ねることが減った。
 時たま信玄が嬉しそうにして、そのままでいいよと抱きしめてくれたことはあったけど、信玄もこっちの方がいいのだろうと思ったら悲しい気持ちになった。

 「変わってあげられたらいいのに」

 濡らした布で額を拭ってくれた信玄がぽつりと漏らす。
 枕元に散らばった涙の結晶に視線を落としたからだろう。
 今日はかき集めることはしなかったのか、その水滴は枕に小さなシミを作っていた。

「わたしは不老不死だ。よっぽどのことがない限り、死ぬことはない。それよりも、相手ができないのに来てもらって申し訳ないな」

 できる限り明るく努めようと思ったのに、信玄はまた口元を引き結んでしまった。

「ごめん、信玄」

 怒らせたかったわけじゃない。
 でも、どうしたらいいのかわからないのだ。
 そしてまたそこで、吐き気がして、違和感がわいた。
 背中をさすってくれる信玄に気付いたことがある。

「信玄……怪我してるのか?」

「え?」

「……血の、においがする」

 もともと嗅覚には敏感だが、今は特にだ。

「見せて」

「へ、平気だよ。大したものじゃない」

「見せて!」

 ありったけの声を出すと、罰が悪そうに信玄は着物の帯を解く。

「なっ……」

「平気だよ。見た目ほど痛くない」
 
 彼の腹部に、獣の爪痕のようなものが引っ掻いた傷があった。
 赤々としてまだ血のこべりついたそれはまだ新しい。
 できたばかりの傷なのだろう。

「どうして言わない。待って、すぐに直すか……」

「いい。珠子は寝ていて」

 無理しないで、とそのまままた布団に押し倒されて、無理をしているのはどっちだと言いたくなる。

「し、信玄……」

 至近距離で目が合って、少し間が空いた。
 口づけられるのだと思って目を閉じるも待てども待てども何か起こるわけでもなく、額に彼の唇が当たったのがわかった。

「……あんまり煽らないで」

 心底嫌そうな表情を浮かべた信玄の表情が目に入った。
 それは、あまりにも雪花様といるときとは違う表情で。

「我慢してるのに」

「……が、我慢して来るくらいなら、もう来なくていい」

 珠子にはわからないと言われ、頬が熱くなった。

「どうせわたしは鬼だ。人間の気持ちなんてわからない」

「珠子!」

 背を向けようとするも、そうはさせてはもらえない。

「し、信玄の思う通りにもできない。怪我だって治せない。それなのに、信玄だけが心伴わない行いを無理してする必要なんてない」

 捲し立てるようにそう口にすると、信玄はますます怒りの色を見せた。

「愛してると何度も伝えたはずだ」

 低く低く、聞いたことのない声だった。
 言っているだけのくせに、なんて口が裂けても言える状況ではなかった。
 殴られてしまうかもしれない。そんな圧さえあった。

「……もうっ!」

 言うなり、覆いかぶさるように抱きしめてきて、信玄はわたしの肩に頭を埋めた。

「珠子と喧嘩はしたくないから、もう今日は話さない。明日、冷静になって謝るから」

「謝罪などいらない」

 信玄は悪くないのだから謝る必要なんてない。
 力いっぱいぎゅっと抱き寄せられて、こうしていられるのもあとどのくらいなんだろうなとぼんやり思った。
 目頭がぐっと熱くなって、こちらからも手を回す。
 鬼と呼ばれるようになってからずっとこんな感情は知らなかったのに、目を開いたら何 か熱いものがこみあげて来そうだった。
 このまま心の赴くままに瞳を濡らせたら、きっと信玄の傷は和らぐはずだ。
 小さく鼻をすすると、ぐっと引き寄せられた。

「ごめん、珠子……」

 明日まで謝らないと言っていたくせに、呟くように囁かれた信玄の声が耳に届いた時、わたしは自身の意識が遠のくのを感じていた。
 どうしてこんなにも眠いのだろうか。
 今までになかったことばかりだ。
 とどめを刺すなら今だ。
 そんなことを伝えたらまた怒られてしまうかもしれないけど、やるなら一思いにやってくれと切に願った。
 久我の土地につれてこられてから。何を言われてもどんな目にあっても、そのたびに信玄が優しく抱きしめてくれたから、乗り越えてくることができた。
 でも、このぬくもりが離れていってしまうのなら、もうひとりでは生きていけないだろうと思ってしまった。
 雪花様が身ごもったと知ったのは、そのすぐ後のことだった。
 誰のお子なのか、確認することも怖くて、時折見かけるご様子もとっても幸せそうで、胸が張り裂けそうに痛んだ。
 こちらが言った通り、信玄はそれからここへは現れなくなり、代わりにけがらわしいものを見るような瞳で八代がわたしの護衛についた。
 信玄は田畑を荒らす獣の対応をしていると八代は面白くなさそうに言っていたが、本当かどうかはわからない。
 ただ、信玄の腹部についていた傷はその獣と闘った時にできたものかもしれないと思うと心配にもなった。


「信玄にまた傷が増えていたらこれを塗ってやってほしい」

 涙の結晶をこっそりとっておき、煎じた塗り薬を八代に手渡すと、目に見えて嫌そうな顔をした。

「こんなもの、信玄様に触れさせられるわけがない」

 汚らわしいものを見る目だ。

「信じられないかもしれないが、これは」

 さすがに涙の結晶のことは言えなかったが、よく効くものであるということは伝えたかった。が、調子に乗るなと振り払われ、それっきりだった。

「信玄様は今までの分、誰よりも幸せになられるお方だ。おまえなんかのために、一生を台無しにされては困る」

 八代の言い分はいつも辛辣で、そこまでいうかと思ったこともあったけど、彼の言って いることにこちらも同意だったし、心なしか八代が護衛になってからは暴言を吐かれることがあっても池に落とされたり、室内に鶏卵を投げ込まれることはなくなった。
 体調は日によって変わってきてはいたが、すぐれないことが増えた。
 ちゃんと儀式は参加し、そのあとは横になる。その繰り返しだった。
 目覚めた時に、白檀の香りがして信玄が一瞬だけ立ち寄ったのだとわかることはあったが、彼とは触れ合うどころか、直接会うことさえなくなった。
 息苦しい夜に心とは裏腹に涙を流すことがあっても、枕を濡らすことはあっても涙の結晶を作ることができなくなった。
 そして、壁にぶつけた腕のあざが消えなくなった。
 明らかに異変が起こっていた。そして、極めつけは八代のセリフだった。

「今日からは雨乞いの儀式は必要ない」

「え……」

 突然そう告げられて、驚きのあまり言葉がでなくなった

 「領主様より言付かっている。元気なやや子を産め、と」

「………」

 その瞬間、違和感が確信に変わった。
 すべての違和感が一致した。
 どくん……とお腹から何か聞こえたような気がした。
 汚らわしい……と罵る八代の声が遠くの方で聞こえた。
 子を宿しているのは、雪花様だけではない。
 そう思ったら、不思議な心境だった。
 もちろん、このことは信玄も知っているのだろう。
 彼がどんな心境であるかということは、なんとなく聞くに聞けなかった。
 わたしは、信玄の子を身ごもっている。
 そしてその子は、わたしの力を受け継いでいて、わたしはこのまま力を失っていくのだろう。子を成すということで、忌みの力も受け継がれていくのかもしれない。
 前例がないため、どうしたものかわからなかったけど、久我の家が鬼の血を受け継ぐ者を欲していて、力がなくなったわたしを切り捨てようとしていることはなんとなくわかっていた。それでも、

「……ごめん」

 出てくるのはそのセリフだった。
 自身が欲望に溺れ、あと先考えることなく自らの好き勝手行動してしまったため、罪のない新しい命が犠牲になろうとしていた。
 この体内に宿ったせいで、幸せになる未来を約束してあげられない。
 どれだけ池に落ちたって、どれだけ泥水をすすったってかまわない。 でも、自分ではない誰かが汚らわしいと言われ続け、自分が受けたものと同じ体験をするのだと思うと耐えられなかった。
 このままではまずい。
 そう思った時、わたしは逃げ出していた。
 歴代力を誇る一族の術師たちが張った結界だけにそう簡単には抜け出せないと思っていたが、空を見上げ、胸のもとで手を組み、雨を待つ。
 力を失いつつある今、ダメかもしれないと思いつつ雨を待ったのは、水滴が落ちるときだけは、わたしの力で溢れるからだ。
 確証はなかったが、試さずこのまま久我家の犠牲になっていくよりはいい。
 もっと、『忌みの鬼』と言われるのであれば、それなりの力が欲しかった。
 自分の身を守って、大切な者の命を守って、どんなときも恐れることのない強い心を与えてほしかった。こんなにも不安で押しつぶされそうな鬼なんているはずがない。
 雨よ、降れ……。
 祈る思いで空を見る。
 思い返せば半世紀前、本郷というお屋敷の二男との婚姻が決まった矢先に何者かに呪詛のかかった獣の血をかけられ、人間ではなくなった。
 発狂した家族に隔離され、もちろん婚約は破棄。
 のちに実の妹がその男と結婚したと風の噂で聞いた。
 そのまま忌み嫌われて、町から追放された。
 暗い夜を繰り返し、少しずつ感情を失っていって、そして信玄と出会うまで心を失っていった。
 死ぬに死ねなかったとはいえ、いったい何のために存在し、何のために生きているのだろう。そんな風に思えてならなかった。
 あのころは、生きることに意味を感じていなかった。
 でも、今は違う。
 身体に宿ったもうひとつの命のために、できるだけ遠くへ逃げて、平穏な暮らしを手に入れないといけない。
 不思議なものだ。
 今までの自分だったら絶望していそうな状況だけど、今のわたしは違った。
 少しずつ体内で感じられるようになった存在を愛おしく感じ始めたのだ。
 だからこそ前向きに、先の未来を考えるようになった。
 前向きに……。
 「……っ」
 頬を伝う熱に、顔をあげる。
 瞳からこぼれ落ちる涙と共に、空も泣き出した。
 結界が流れるように解かれていくのを確認し、ありがとう、と小さくつぶやく。 これが、もしかしたら自分に使える最後の力かもしれない。
 そう思った時、力の限り駆け出していた。
 逃げるなら、今しかない。
 自身で鳴らした合図に力の限り、走った。
 すぐに体力が尽きて歩くことになってしまったが、遠く遠く、一歩先まで足を進めるよう努力した。
 生まれ変わったら、ひとりでもいい。
 ひとりでもわたしひとりを見てくれる人に出会いたい。
 泣きわめく空の下で自然と流れる涙に頬を濡らしながら、前へ前へと進んでいく。
 優しい笑顔を向けてくれる人と出会いたい。
 『雪花様……』
 絶対に向けられることのない笑顔が脳裏に浮かび、胸がしめつけられるように痛んだ。
 汚らわしい汚らわしいと、来世では言われない人生を。

「……はぁっ、はぁ」

 広い広い久我の敷地をようやく抜け、公道に出たころ、呼吸が乱れるのを感じた。
 狭まる喉の奥から細い息を漏らし、必死に新しい空気を吸おうと試みる。
 圧迫される胸元に手を添えしゃがみこめば、嫌な汗が雨水と共に額ににじむ。

「はぁ、はぁ……」

 毒を盛られた時と同じくらいの苦しみが全身に襲ってきた。
 まさか自分がこんな状況になるなんて、と信じがたい気持ちを抱えたまま、揺れた視界の先で膝をつく。

「大丈夫ですか?」

 肌を濡らす冷たい雨が何かにさえぎられ、顔を上げる。
 ぼやけた瞳の先に、見たことのある男の姿が見えた。

「く、久我の鬼……」

 そう漏らしたのはその男の隣に立っていた人間で、男は黒い切れ長の瞳を大きく見開いただけだった。
 「ほ、本郷様……」

 ぽつりと漏らしてしまったのは、彼が懐かしい記憶を呼び起こしたからである。

 「よかったら、馬車へ」

 ずぶぬれではないですか、と手を差し伸べてくれる彼の姿は、半世紀前と変わらなかった。
 いや、記憶の中の本郷のはずがない。
 あれからいくつ月日が廻ったと思っているのか。

 「おばあさまのお姉さま……ですよね?」

 おびえる様子もなく、男は笑みを浮かべた。 最後に見た本郷家の二男と同じ微笑みで。

 「だ、大丈夫です」

 動揺したのは、人間だった頃の気持ちが蘇ったからだろうか。
 久我の家からは一刻も早く逃げたかったが、だからと言って本郷の家に頼るわけにもいかない。
 なにより、誰もが恐れおののくこの容姿を見て怯えないのは嫌な予感しか感じない。
 作り笑いだって散々見てきている。

「そんなお体で、どこに行かれるつもりですか」

 とっさに庇ったものの、身重であることを見破られ、優しい言葉ではあるが逃げ道を塞
 がれた気分になる。

 「………」

 鬼を得た一族が、どうなっていくのかは知っている。
 一度は衰えかけた久我家の繁栄を再度持ち直させたのは鬼の影響だと言われている。
 彼らが虐げてきた雨乞いが意味を持つものだとは思わなかったけど、信玄だけが鬼の使い道を知っていて、その力を彼なりに利用し続けてきた。
 それでも周りから見れば、鬼の力だと見えるはずだ。
 かつて忌み嫌われた存在でも、使用価値があるとわかれば人間は欲望のままに得ようとするのだと知った。
 鬼は、どこにも属するべきではないと薄々感じていた。
 そして、信玄の邪魔になる存在にはなりたくないと思った。

「も、問題ないと言っている」

 いつの間にか黒い身なりで全身を覆った男たちに取り囲まれていて、盛大に後悔した。
 機会を伺うも、その隙はなさそうだ。完全に油断した。
 わたしは忌みの鬼と呼ばれる存在だけど、抗うすべを何一つ持ち合わせていない。
 一気につかみかかられ、自身の人生を再び呪いたくなる。
 たったひとつ、信玄との間に宿った大切な命だけはどうにか救えないだろうかと抵抗することなくゆったり迫りくる状況を眺め、考えた。
 本当に、鬼と呼ばれるのなら、鬼らしい力を持ち合わせていたらよかったのに、と目を閉じた。……そんなとき、

「ぐはっ」

 まばゆい光が瞼の向こうに見え、目を開けると、目の前で黒い影がひとり、またひとりと倒れ込んだのが視界に入った。

「その汚い手を離せ」

 低く、唸るような声に体が震えた。
 暗闇の中で構え、殺気に満ちた瞳をこちらに向けていたのは誰でもない信玄だったから
 だ。 透き通った青い瞳は影を帯び、変わり果てており、わずらわしそうにこちらに向けた。

「とらえよ」

 低い声がぽつりとそう告げた時、しまった……と騒ぐ本郷たちに容赦なくあちこちから結界の簾が空から降ってくる。
 二男に良く似た男が何かを唱え、その結界に放つ。
 影たちも必死に抗おうとするが、力をつけた久我の一族にはかなわないのだろう。
 少しずつ動きを封じられていく。
 のろしが上がって、勢いよく集まった式神たちが人の形に変わり、結界に突進してくる。
 ふたつの家がぶつかりあい、夜だと言うのにすさまじい光があちこちに飛び交っていた。

「八代、つれて行け」

 大きな背中は怒涛のごとくそう告げた。

「……御意」

 くそっ、と同時聞こえた気もしたが、気付いたら隣に八代の姿があり、盛大なため息をはきつつ担ぎ上げられそうになったところだった。

「……し、信玄」

 何を言いたかったのかはわからない。
 だけど、思わずその名を呼んでいた。
 大きな音が響きあうその場所で、その背中は振り返らない。

「あの、わたし……」

 結局この人を危険に晒すのは自分だと思うと耐えられない。
 同じく戦いたくても力もなければ守るべきものを体に宿している身……どうあがいても何もできないのだ。

「ごめ……」
 行くぞ、と八代に腕を引かれてもなお、その背に訴え続ける。
 謝ったってもう遅いのに。

「裏切り者には制裁を下す。おとなしくしていろ」

 八代の言葉と共に、信玄が刀を抜いたのが目に入った。
 彼はもうこちらを見ない。それが答えだ。
 少しずつ遠ざかっていくその背を見て、世界がまた少しずつ色を無くしていくのを感じた。
 忌みの鬼が彼に何をしたというのか。
 誰にも関わることがないようひとり静かに生きていたのに、それを無理やり入り込んできたのは向こうだ。
 散々好き勝手して心まで奪っていったくせに、本当に大切な人は他にいて……ううん。
 彼だって好きで鬼に近づいて来たのではない。 家や町を守るため、仕方がなかったのは知っている。
 だけど……だけど、言いたくなってしまうのだ。

 『珠子』

 初めまして、とその男は穏やかな笑みを浮かべて近づいてきた。
 自分は君の婚約者なのだと。
 そんな光景が目に入る。
 お姉さま、おめでとうと笑う可愛い妹の姿もそばにある。
 場面が少しずつ飛んでいく。まるで走馬灯のように。
 続いて、井戸の底に落とされ、退路を断たれたその場所で何度も何度も頭上から獣の血を浴びせられ、生きたまま鬼となった。
 忌み嫌われ、町を追放される。
 痛みも何も感じない。
 ただぼんやりとその様子を眺めていた。
 これが、わたしに与えられた生涯だったからだ。

『あなたの生贄にしてください』

 人生が変わったきっかけだ。
 幼き日の信玄の姿が見えた。
 今とは全く違って見えるその姿に、思わず可愛いとつぶやいてしまった。

『白珠様』

 彼はどこへ行く時もついてきた。
 春も夏も秋も冬も。
 季節が巡るたび、何度も何度も。
 小さなノイズが聞こえる世界の中で、日々が繰り返されていく。

『白珠様』

 彼が泣き叫びながら横たわるわたしの手を握っているのは毒を盛った時か。
 泣いているということは、誰かにそうするように告げられたからだろうか。
 今より少し幼く見える彼のそばにいって抱き寄せたくなった。

『ざまぁみろ』

 その声が不調和音の中で鮮明に聞こえたのは、顔を上げた先にかつて大切にしていた妹の姿が見えたからだ。

『……ど、どうして』

 大男達が井戸に蓋をする様子を後ろの方で眺め、満面の笑顔を浮かべた彼女の姿に目を疑った。
 ああ、そうか……。
 わたしはもとより誰からも愛されていなかったのだと都合よく脳裏から消していた記憶 の破片を手繰り寄せていく。
 ああ、そうだ。誰からも好かれていなかったのだ。
 目が覚めた時、見慣れた室内にいてまた戻って来てしまったのだと悟る。
 ふんわり白檀の香りが視線を上げる。
 朦朧とした景色の中に瞳に光を失った信玄が座っていて、凍りつくような瞳をこちらに向けていた。
 本来、彼が向けたかった視線はこれだったのだろう。
 へらへらとした優しいものではない。

「しん……っ」

「無理に起きなくていい。怪我をしているから」

 起き上がろうとしたわたしに、淡々とした信玄の声が届く。
 言葉の通り、楽な体制に戻り、小さく息をつく。
 すべてがすべて、変わってしまったのだと嫌でも理解するしかなかった。

「信玄……」

「申し訳ないけど、本郷家には行かせないよ」 

「……うん」

「敷地内に獣を放ったり、式神で使って呪の呪印を刻もうとしたり、近頃起っていた怪奇現象はすべて本郷家による犯行だったから」

 一応言っておくと言わんばかりの単調な言葉が並べられる。

「わかっている」

 もとより最も嫌われていた一族のもとへなんて行く気はさらさらないけど、あまりにも無機質な声色で言われてしまい、動揺のあまりうまく返せなくなった。でも、

「ここにずっといる」

 譲れないものもある。

「もう逃げたりしない。久我家のために一生尽くすことを誓う」

 表情を変えない信玄と目が合わせられない。
 わたしの名を呼び、優しく笑いかけてくれた彼の姿はもうそこにはない。

「逃げるなど、恥ずかしい行いだった。最善の方法を考えた時、どうしたらいいのかわからなくなって、無我夢中で行動していた。おまえたちにも迷惑をかけてしまったし、二度とこんなことはないようにする」

「最善の、方法?」

 感情を失った声だった。
 まるで、別人と対峙しているようだ。

「ひとつだけ許してほしいことがある」

 まるで、知らない人のようだ。 今までのことがすべて幻だったかのように。
 だけど、ひるむわけにはいかなかった。

「この命だけは、守らせてほしい」

 そっと腹部に両手を添え、訴えかける。
 前を向いて生きていきたいと思う。
 守るべきものがある限り。

「わたしには何をしてもかまわない。雨乞いだってするし、決められた儀式にもちゃんと参加する。血だって分けるし、身も切ろうが焼こうが好きにしてくれていい。でも、この命だけは守らせてほしい」

 信玄が何も言わないのをいいことにこちらの言い分を最後まで言い切り、頭を下げる。
 身ごもってから傷の治りも遅いため、もしかすると今度こそ命の危険があるかもしれないのだけど……それでも覚悟はできている。

「不本意だと思うけど、信玄が与えてくれた大切な……」

「そう言えば俺がなんでも許すと思ってる?」

「え……」

「俺が嫌で逃げたくせに」

 そりゃ、俺が悪いけど、と口元を結ぶ信玄の様子が視界に入った。

「珠子が本郷の男を好いていて、本郷の男も珠子を取り返しに来ていたのも知ってる」

「なっ、何を……」

 心底面白くないという様子の信玄を前に目を疑いたくなる。

「信玄、なにか……勘違いをしている。わたしは本郷の男を好いているわけではない」

「珠子の婚約者だった相手が本郷だって、俺が知らないとでも思った?」

「なんでそれを……確かにそれはそうなんだが、でも、どちらにしても婚約者だった二男はあの男ではなかった」

 半世紀も前のことである。
 生きているかさえ定かではない。

「生きてたらここにつるし上げているところだ」

 みるみるうちにまた一段と表情を曇らせた信玄に何も言い返せなくなる。

「珠子には悪いけど、俺は珠子をここから出すつもりはないから」

「だから、忌みの鬼として一生信玄に仕えると言っている」

「そういうことじゃない! ……珠子は俺の嫁だ」

 なんでわからないんだと彼は言う。

「信玄、この際だから言っておく。もう同情は不要だ」

「は?」

「この家の繁栄に導く対価におまえを好き勝手するのももうやめる」

 どちらかといえば、好き勝手されていたのはこちらの方だと思うのだけど。

「そんなことをしなくてもわたしはおまえの味方だし、命じられたことは確実にする」

「……俺が、いらないってこと?」

「そんなことは言っていない」

 どうしてそうなるのか。

「好きに生きろといったはずだ。これからは大切な人に一心の愛を注いで、幸せに生きていってほしい」

 胸がちくりと痛んだが、この正体はもうわかっている。

「珠……」

 言いかけて信玄の表情がみるみる険しいものに変わったのは、赤々と燃え上がるような
 光がわたしにまとわりついていたからだ。

「な、なんだこれ……」

「どうやら妹に呪詛をかけられているようだ。半世紀も経った今、なぜこのタイミングで発動した
 のかはわからないが、彼女のものだと気付いたとたん、こうして堂々と正体を現し始めたみたいだ」

 生きているか死んでいるのかもわからない。
 そんな人間の呪が形となってこの身に残された。
 触れようとした信玄が、熱っと顔を歪ませたのが見える。

 「忌みの鬼の正体だ。かけられた呪詛のおかげで負の感情が高まってしまった。何度も何度も心に闇を宿したのはこのせいだろう。本当に厄介なことだ。嫉妬をするたびこのありさまだ。完全に想像していた鬼の姿になってしまった」

 大切に思っていた妹に、こんな思いをさせるほどわたしは彼女に何かしてしまっただろうか。
 気付いていないことさえ罪に思え、炎のような色を纏う指先を眺め、自嘲気味に笑う。

「おまえにも触れられなくなってしまったな、信玄」

 どうせ逃げる予定だったのだし、会えなくなる覚悟はしていたためちょうどよいかもしれないが、いざそばにいて近づくことが叶わなくなると実感してしまうと心に空洞ができたような気持ちになる。

「おまえたちを見るたびに、この色はわたしを覆い隠すだろうから」

 自分では制御のできないこの熱は、わたしの嫉妬心なのだろう。
 認めたくはなかったけど、こうして目に見えて反応されるのもある意味照れくさいなとふと思う。

「おまえたち?」

「信玄の幸せは願えても、他の誰かと笑い合っている未来は……見ることができそうにない」

 これから先、信玄はまたさらに成長を遂げていくだろう。
 立派な大人になっていく。
 十六歳の体を持つ、わたしをおいて先へ先へ。
 大切な人たちと一緒に、未来へ進んでいく。

「信玄、ごめ……」

 こらえきれなくて顔を覆うも間に合わず、切ない色をした結晶がぽろぽろと両手から溢れ出す。
 同じように、記憶の向こうで泣いていた少女を思い出す。
 気付いていなかった。
 決められた婚儀は変わることのない未来で、受け入れることしかできないと思っていたから。
 彼女もこうやって、心が焼けてしまいそうだったのだろうか。
 わたしは、妹の気持ちに気付いてあげられなかった。

「わた……」

「なんで俺の言葉はひとつも伝わってないの?」

「えっ……」

 ぐいっと引き寄せられて、気付けば信玄の胸の中にいた。

「し、信玄、何して……は、離せ!」

「……っ、無理。離したらまた信じてくれないだろ」

 熱っ……と言いつつも、信玄が小さく笑ったのがわかった。
 信じられない動作にまた困惑する。

「し、信玄……も、燃えてしまう……」

「はじめて珠子の気持ちをこうして体感できて嬉しい」

「ば、バカなのか、何言って……」

 燃えないよ、このくらいでは……そう小さく笑ってなおも力をこめてくる。

「珠子にばっかりつらい思いをさせてごめん。俺がもっと強くなるから」

 ごめん、と繰り返されて頭を振る。
 この一言だけで少しずつ憤るような熱さが軽減されていくなんて、単純なものだ。
 そして、信玄もわかった上でのこの発言なのだろう。

「おまえには、おまえの選んだ人と幸せになってほしかったんだ」

 そう言いながらも差し出された手を拒むことのできない自分がいる。

「誰と何を勘違いしているか知らないけど、俺は珠子と前世から結ばれると決まってるから、そう簡単には離してあげられないから安心して」

 また都合のいい言葉を並べて青い瞳をゆっくり細める信玄を見て、鬼はもうこの人間を手放してやれないのだろうなとしみじみ思った。
 その瞳はいつもの澄んだ青空ではなく、夜の色を宿していた。
 星を数えるよりもこの瞳から目が離せなかった。