忌み夜の花嫁は雨を待つ

 痛みなど一瞬だ。
 天を見上げ、無数の星を数えればいい。
 お母様に教えられた言葉は後にも先にもそれだけだった。
 わたしは道具だ。
 道具であり、今では化け物だ。
 誰にも愛されず、命の灯火を消すことさえ叶わない。
 何年も何年も時を超えて、歴史を見守り、ずっとずっとひとり孤独に生きていくのだ。
 だからこそ、このひとときの夢に溺れてしまいたかった。

珠子(たまこ)……」

 初めて見る顔だとぼんやり思った。
 こんな艶めいた声を出せるようになったのだな。
 想像していた姿がずいぶん昔のもののようだ。

「珠子、愛してる……」

 絶対にありえないと思っていたのに、彼を纏う白檀の香りに包まれて、いつの間にかそ
の熱に溶け込んでしまっていた。

♢♢♢

「ほら早く行け!」

 容赦なく腕を引かれ……るというよりも地面に叩きつけられ、ぬかるんだ地面に顔面か
ら飛びこむこととなる。
 泥臭い。
 最初に感じたのは痛いと言うよりも鼻にヌメッとしたものが飛び込んできたという違和感から生まれた言葉だった。
 動いてまた殴られでもしたら厄介なためしばらくじっとしていると、気味の悪い化け物
め!と悪態をつき、思いっきり背中を蹴飛ばされた。
 けほっとむせると口内に土の味が広がった。
 痛みを感じないわけではないが、痛いとか悔しいとか、そんな風に思う前にこのあとどうしたものかとぼんやり考えていた。
 いつも以上に気が立っているであろう周りの様子に、きっと今日、あの男はやってくるのだと悟る。
 彼らが纏う気が殺気に変わったときはほとんどがその日である。
 それなのに、こんな姿を見せていいのだろうか。
 いや、あまりよろしくないな、と意を決して起き上がると、男たちはひるんだ声を出す。 何事もなかったわけではない。ただ、こうして寝てばかりではいられないのだ。
 顔面を引きつらせて見開いた瞳の中に、泥だらけになった赤い瞳の鬼のような娘の姿が
映っていた。

「……っ、こ、この!  信玄(しんげん)様をそそのかしやがって!」

 怯えた様子で剣を抜くその瞳は、人ではない者を映していた。
 蹴飛ばされても踏みつけられたって、どうせ死ぬことはない。
 切られたら……さすがに痛いだろうけど、致し方ないとぐっと目とつむる。

「やめろ!」

 頭上から声がして、激痛を感じるよりも先に再び視界を燃えるように赤い景色をとらえ
る。

「や、八代(やしろ)様!」

 ひとりの男が音もなくそこに現れ、あたりの落ち葉が宙を舞う。
 先ほどとは別に、引きつった形相になった男たちは怯んだようにたじろぎ、跪く。

「おまえたちが命じられたのは、こんなことだったか?」

 八代と呼ばれるこの男は、ここの主のもっとも位の高い側近だ。
 
 たまにこうしてこちらの様子も見にやってくる。

「命の水が尽きる前に、自らその可能性をつぶそうとした、と」

 切れ長の瞳は刃物のように鋭く、また氷のように美しい。
 しかしながらその瞳にとらえられようものなら大問題だ。

「あ、あ……あの、その……」

 命でも取られると言わんばかりに男たちはあわてて言い訳を考えている様子だった。

「そ、その鬼が俺たちを……こ、殺そうとしたんです」

 よくもまぁこの状態でそんなことを。
 そう思うも、いつもはこんなとき、優先されない意見は自分のものだった。

「信玄様にすべてをお伝えする。あとはあのお方の判断を待て」

 形のいい唇が彼らの名前を呟き、行け、と静かに言うものだから男たちをまた青くさせ
た。

「二度はない」

 視界を遮ろうと落ちてくる泥を拭っているうちに男たちは悲鳴とも取れる声を上げ、去
って行くところだった。
 その様子を眺めることもなく、八代は胸元から呪符を取り出し、何かを唱えた。
 本来は彼らが行うはずだった結界を張ったのだと気付いたのはすぐあとのことだ。

「おまえも、肝に銘じろ。少しでも怪しい動きをしたら切る」

 ……ああ。
 先ほどよりも殺気に満ちた瞳を向けられ、自然とため息が出た。
 連れてきたのはおまえたちじゃないか。 言えるものなら言ってやりたかったが、すっかり心が疲れ果てていてすでにそんなこと
を言い返す気力もなくなっている。

「化け物が」

 男たちに向けられたよりももっと呪のこもった言葉だった。
 吐き捨てるように言い放たれ、向けられた背を眺めて、切れるものなら切ってくれれば
いいのに、とぼんやり思った。もちろん、切れるものならな。
 背を向けても八代は追ってくる様子はない。
 主の命がない限り、彼は動くことはない。
 殺したくて殺したくて仕方ないという気配だけを消すこともせず、彼は化け物がこの場
から去るのをただただ見守っているのだろう。
 ヒリヒリと痛みを感じていた部分はもうすでに元通りになっていて、何事もなかったよ
うだ。
 人ではない生き物であることを主張しているようにも見える。
 ふう、と息を吐き、泥まみれになった着物を軽くはたき、先ほど八代が張った結界の奥
へと足を進める。
 季節は巡り、青々とした木々はその葉を赤く染め、心地よい風が体に触れる。
 はらりと散りゆく紅葉の葉に何度目かの秋を迎えたことを感じる。
 見上げればかつては色をなくしていた見えた世界が今では一面艶やかに彩られている。
 そして、五十年の時を重ね、失われていたと思っていた感情や感覚もいつの間にやら自
分が思っているよりも豊かなものになっている。
 不思議なものだ。
 たったひとりの人間にここまで変えられてしまうとは。
 そう思いながら、鼻が曲がりそうな悪臭と散々な光景に一瞬の間を置き、深いため息を
ついた。

「ああ、本当にこりないやつらだ」

 またやってくれた……と、自身よりもひどい状態になっていた室内に昨日よりも盛大に
肩を落とし、玄関先に常備している樽を抱え、裏の井戸に向かう。
 張られた結界もいとも簡単に超えてこられるということは、この一族の力を持つ者の仕
業だろう。
 次から次へと問題は盛りだくさんだ。
 自分が何をしたのかと言いたくなるが、これは忌み嫌われたものが辿る宿命だ。
 受け入れたつもりでも、むなしい気持ちは何度だって生まれる。
 結界に囲まれた久我の領地の離れを与えられ、二か月が経とうとしている。
 領主の末息子様から贔屓にされていると勘違いされ、怖がりつつも子供じみた悪戯をさ
れるようになったのはここへきてすぐのことだ。
 贔屓にされているのではない。あれは……

「……っ」

 思ったよりもひんやりとした井戸の水が指先から全身に駆け巡る。
 ゆっくりと水をくみ上げ、樽を抱えると、たぷんと水面が揺れ、腹部を濡らす。
 くそ……などと思いつつも、一刻も早くあの状況を何とかせねばと一歩一歩地を踏みし
め、投げ込まれたであろう鶏卵の匂いが充満している自室に向かう。
 人は大地の恵みに助けられ、生かされている。
無残にも散々な状態で砕け散っていたかつては形あるものの姿に、嫌がらせのためだけ
に作られた命ではないだろうのにと悲しくなる。
 考えただけでも、自分のために形を失うこととなったそれらに無念な思いである。
 扉の前で一度樽を置き、額ににじんだ汗をぬぐい、立てつけの悪い扉に手をかける。

「……えっ」

 急がねば、と焦る気持ちが一気に吹き飛んだのは、目に入った光景が全く別の者になっ
ていたからだ。
 想像していた匂いはどこへやら、扉の向こうは先ほど見た光景ではなくなっている。

「外出か」

 代わりに奥の座敷で寛いだ様子の男に目を奪われる。

「し、信玄……どうして……」

 どうしてこんな時間に。
 来るかもしれないと思っていたが、今宵は遠出で帰りが遅くなると聞いていた……いや、それよりも……

「思ったよりも早くことが片付いたから、できるだけ早く帰ってきた。……って、すごい
有様だな」

 向けられたやさしい瞳は、すぐに困惑の色を見せる。
 それもそのはず、泥だらけだった自身のことをすっかり忘れていた。

「誰かに、やられたのか?」

「いや、道中で転んだんだ。道がぬかるんでいて」

 それは嘘ではない。
 何事も悟られることがないよう努めて淡々とした口調で答えると、そうか、とそれ以上
は追及してこなかった。この男はそういうやつだ。まったくもって興味がないのだろう。

「拭いてやろう」

 おいで、とこちらに向き直り、改めてにっこり微笑むその男こそ、この久我家の末息子
であり、忌みの鬼と呼ばれた女を手懐けて毒薬を持って殺そうとした男だ。

「珠子、会いたかった」

 頭のてっぺんから足の先まで丁寧に泥を拭いとり、温かなお湯を駆けてくれるその男は
相変わらず馬鹿なことをぬかす。
 決して惑わされてはいけない口術を軽く受け流し、目を閉じる。
 忌みの鬼は不老不死であり、その命を落とすことはなかったため、三年の年月をかけて その命を封印し、目覚めたと同時にしれっと甘い笑顔を見せては胡散臭い言葉を並べるよ
うになった。

「珠子」

 透き通った青い瞳に映されると動きを封じられたような気持ちになる。
 空のように澄んでいてどこまでもどこまでも美しい色だ。
 どんな暗い闇の世界でもこの色だけは間違えることはない。
 異臭が漂っていた室内のことや散乱した鶏卵の残骸はどうなったのだろうかと思いつつ
も気付いたら彼のもとへ近づいていた。
 人よりも造形が整っていて体格が大きいのは、異国の血が混ざっているからだと言って
いた。奇形児の自分は必要のない人間なんですと何かあればすぐに命を差し出そうとした
気弱な少年の面影は今では微塵も感じられない。
 奇形児なものか。
 こんなにも美しいものを生まれてこの方見たことがない、などと思っているとぐっと引
き寄せられ、唇を重ねられる。

「……お、おい」

 誰かに見られたら、と思うもこの男にはどうでもいいことなのだろう。

「自分の嫁のもとで羽を休めて何が悪い」

「誰が嫁だ」

 平気で嘘をつくから、いちいち動揺させられてしまうのが悔しいところだ。
 かつてはわたしの後ろを離れることなく歩き、少しでも姿が見えなくなれば泣きそうな
表情を浮かべていたのはこの男だったのに。

「ああ、やっぱり珠子のところが一番落ち着く」

 などと言って、わたしを離す気はないらしい。
この男がやってくるとまわりからの敵意も増すというのにのんきなものだ。
 また明日も鶏卵だらけになるのではないかと内心戸惑いながらも、空色の瞳に映される
と何も言えなくなる。

「珠子、愛してる」

 心のこもらぬ言葉に愛はない。
 きっとまた機会を狙っているのだろう。
 途絶えることのない忌みの鬼の鼓動を止めるその瞬間を。
 油断をしたとたんに心臓を貫かれるはずだ。覚悟はできている。

「珠子……」

 信玄は心にもない言葉を並べ、慣れた手つきで何も纏っていない身体に触れてくる。
 まだ日は沈んでいない。
 信玄には関係ないのだろう。
 いつの間に、どこで覚えたのか、彼はまたわたしを甘美の世界に誘い込もうとしている のだろう。そして、また命を狙う。どうせわたしは死なないというのに。

『君からはたくさんのものをもらったし、これから先も頼ることになってしまう』

 目を開けてすぐに、見慣れない姿に成長した彼が言った。
 慣れ親しんだ山奥を離れ、つれてこられたこの久我の屋敷の中で鬼として扱うというこ
とを。

『だから、俺のことは好きにしていいから』

 代わりに、自分を好きにしていいと。
 君を花嫁に迎え入れるつもりだから、と。
 好き勝手されているのはわたしのような気がしないでもないが、どれだけうとましがられようと彼だけは変わらずわたしのもとへやってきて、変わることなく義務を果たす。
 これがわたしの好きなことなのかはわからない。
 上質な蜜に心を奪われ、少しずつ少しずつ深い沼の奥に沈んでいくのだ。
 彼の手が誰も触れたことのない秘部に触れ、溺れていく。
 かつて嫁入りが決まった際、すべては相手に任せておけばいいのだと母から散々言われ
た言葉を思い出す。今思い出すなんて、完全に皮肉でしかない。
 破断して鬼に変えられた初めての婚姻の次は一家の復興のために監禁され、形だけで結
ばれることのなった愛のない婚儀が待っていたのだから。
新しい家族を迎えるめでたいつながりごとだと聞いていたのに、今では呪われた祭事と
しか思えなくなった。
 それでもまた、今日もこの熱に抗うことなんてできなかった。


◇◇◇


「……もう」

 そして、自身の欲に負けた後は、何処にぶつけたら良いかわからない感情を吐き出す。

「珠子、満足できた?」

 鍛え上げられた身体をあらわにし、身を起こした信玄の大きな手が頬に触れる。
 瞳を優しく細められ、とっさに顔をそむけてしまうのは、怒っているからではなく慣れ
ていないし、ひどく気まずいからだ。

「ああ、無理させちゃったかな」

 思ってもないだろうのにどこか嬉しそうににこにこしながら信玄は枕元に散らばった真
珠を大きな手で救う。散々無茶をさせてくれたおかげでこらえきれなかったわたしの涙の
結晶だ。
 儚く見えるそれは、すぐににじんで消えていくが、人のぬくもりに触れると形となる。
 どんな場面だって、彼はそれらに触れ、自身の手で回収すること忘れない。
 彼にとってとても大切なことで、そのために行われた儀式なのだから。
 感情を押し殺して成し遂げなければならい彼の任務だと今では思っている。

「も、問題ない。お役目が終わったならとっとと帰ってくれ」

 ただの水滴に変化してしまう前にかき集めたものを巾着につめ、自ら彼に差し出す。
 このあとのことは彼に任せておけば問題ないだろう。

「ひどい。これがお役目だと思ってる?」

「それ以外の何が……って、お、おいっ!」

 再び大きな腕で抱きしめられ、身をすくめる。
 こちらは今日が最後の夜になるかもしれない覚悟と決め、この男に身を任せているというのにいい気なものだ。
 気付いたら日は沈み、月明かりだけがあたりを照らしていて、窓の向こうに無数の星空
が見えた。
 いつの間にやら無我夢中で星を数えることすらなくなっていた。

「明日は午後まで予定を入れていないから、このまま泊まっていくつもりだ」

「断る。帰ってくれ」

 ただでさえ昼間から今までにないくらいの重労働を虐げられているのだ。
 人が寝静まった時間くらい同様に休ませてほしい。

「珠子に決定権はありません」

 子どものように口を尖らせる様子が少しかつての姿と重なってみてた。
 本当に、わずかではあるが。

「相変わらず、困った男だな」

 はぁ、と息を吐きつつも、この男の言う通りなのだろう。

「……明日に支障が出ないようにしてくれ」

 この顔に弱く、どれだけ強い意志を持っていても適うことはない。
 求められると本当に愛されていると勘違いをする。たとえ、それが罠だとしても。
 もちろん、わたしが彼の言い分をのみ込むころには徐々に信玄の口角が上がっていくこ
とは知っていたけど、弟のように可愛がった彼のことを拒むことなんてできなかったし、
わたしも最後の時を選ぶなら彼の腕の中がいいと思うようになっていた。
 彼との禁忌を犯して以来、快楽に溺れ、自身の制御ができなくなった。
 こうして少しずつ、ひどく爛れた生活に飲み込まれてしまった。