しんしんと雪が降るころ、白花の腹部は膨らみを帯びていた。確かな成長を微笑ましく思いながらも、心は穏やかではなかった。綺羅羅が懐妊した。白牙の子である。白牙が誤って綺羅羅を抱いたことで、綺羅羅は懐妊したのだ。
「そんな記憶はない。どんなに朦朧としていようと、俺が白花と違う女を間違えるはずがない。そもそもそのような夜はなかった。あの夜、俺は白花のそばで目覚めた後すぐに白虎殿に戻ったのだ。綺羅羅には、証がないだろう」
白牙はそう言って否定し、綺羅羅の子が自分の子であると認めようとはしなかったが、皇太妃に諫められた。
「記憶がないだなんて、無責任ですよ。意識が朦朧としていらっしゃったのなら、言い切れることもないでしょう。陛下の血を継ぐ者は、ひとりでも多い方がいいのですから、綺羅羅という侍女の腹に宿った子は大事にすべきです。陛下は稀代の皇帝。長く続くこの国の王の中で、あなたほど強い力を得た皇帝はおりません。侍女は他に関係を持った男がいないというのですから、間違いなく陛下の御子。私が綺羅羅という侍女の身を引き取りましょう」
綺羅羅の面倒を見るという皇太妃に、白牙は意見したが、綺羅羅の腹の子が白牙の子ではないという確固たる証拠は無いと突き放された。白牙は忌々しそうに皇太妃様の後ろ姿を睨んでいるようだった。
「白花、俺にはおまえだけだ。俺を信じろ。綺羅羅は嘘を吐いている。綺羅羅のことは、必ず処断する」
「白牙様、私は信じております。ですが、生まれてくる子供に罪はありません。白牙様のお子ではないにしろ、どうか、受け入れてあげてください。綺羅羅だって、嘘を吐くような子ではないのです。綺羅羅が嘘を吐いているとしたら、なにか、理由があるはずです」
「だが……」
心配そうな顔をする白牙に白花はほほ笑んだ。白牙は、白花の心を心配してくれているのだ。
「私は白牙様の愛を信じております。私を愛し、大切にしてくださっていると、私にはわかります」
心からそう思っているのに、目頭が熱くなる。こらえきれずにこぼれ落ちた涙を、白牙の指が掬い取る。
「不安にさせてすまない。油断した俺のせいだ。なぜ意識を手放してしまったのか……強い眠気に襲われたのだ。だが、白虎に誓って俺は綺羅羅を抱いてはいない」
白牙がそう言い切っているのだ。嘘偽りなどあるはずがないと白花はうなずいた。
「不安など……私は大丈夫です。どうか、私と同じように綺羅羅のことも大事になさってください。不安なのは綺羅羅の方でしょうから」
「……白花」
「はい」
「安心しろ、皇太妃はあのように言っていたが、証拠はある。皇太妃と綺羅羅を糾弾する術はあるのだ。だが、相手は皇太妃、追い詰めるにはそれなりの準備が要る。あと少しだけ辛抱してくれ」
「白牙様……」
白牙は白花を抱きしめると、名残惜しそうに白牡丹宮を後にする。皇太妃のもとにいる綺羅羅に会いに行くのだ。遠ざかっていく背中を見つめながら、白花は無意識のうちにため息を漏らした。
白花を心配して仔巴が声をかけてくる。
「こんなことは言いたくないのですが、陛下がおっしゃるように綺羅羅は嘘を吐いているのだと思います。そうでなければ、誰かを陛下を間違えているとしか思えません」
「綺羅羅を疑うようなことを言わないでください仔巴。きっとなにか理由があるのです。そうですね、綺羅羅はどなたかと白牙様を見間違ったのかもしれません。なんにせよ綺羅羅は傷ついています、安静にしないと」
「そうですよ、絶対におかしいです。陛下が皇妃様と綺羅羅を見間違えるなんて……あり得ません」
「ですが、綺羅羅が懐妊しているのは事実です。懇意にしている男性もいません。何より皇太妃様がおっしゃるのです、事実がどうであれ、陛下の子で間違いないというよりほかありません。綺羅羅を妃に迎えることになるでしょう」
「皇妃様……」
自分で言っておきながら、傷つく心に嫌気がさす。自分は、白牙の愛を独り占めにできると思い込んでいたのだ。欲深いことではないか。そんな浅ましい心を、諫められたような気がした。白牙は、ひとりの男である前に皇帝なのだ。国のために、跡継ぎをもうける必要がある。己の欲深さが嫌になる。
綺羅羅のことを、大切に思っているのに、綺羅羅が白牙に愛されることを受け入れられない自分がいる。
「私も綺羅羅も、元気な子供を産めるよう、祈るばかりです。だから仔巴も祈ってください。皇太妃様のおっしゃる通り、万が一にでも白牙様のお子である可能性が否定できないのであれば、受け入れるべきでしょう。白牙様の血を引く御子は多い方がいい。白牙様は私だけを妃おっしゃってくれていましたが、事態が変われば変えなければいけないこともあるでしょう」
「皇妃様との間にたくさん御子様がお生まれになったらよいのです!」
「仔巴……」
自分のことのように泣いてくれる仔巴を優しく抱きしめる。悲しみに負けたくない。腹部に触れると腹の子の存在を強く感じる。愛しい命だ。この子がいれば、自分は大丈夫だと、白花は悲しみに蓋をした。
気候が安定していた夏までとは打って変わって、冬は気候が荒れ始めた。寒さが厳しく、各地で問題が起こっている。冬が近づくにつれ、宮中ではよくない噂が広がっていた。
「皇妃の子は、陛下の御子ではない不義の子であり、綺羅羅様こそが皇妃にふさわしい。気候が荒れているのは、皇妃の不義のせいである」
と。この噂に白牙は激怒し、表立って噂するものはいなくなったが、白花は孤立するようになった。ひとり、またひとりと白牡丹宮に勤める侍女たちは暇や配置換えを希望してきた。白牙は許しを出さないつもりだったが、白花に乞われて希望者すべてを白牡丹宮から外した。白牙は噂の出どころを探らせたが、成果は上がらなかった。
雪の被害が出ている。白牙は要請を受けて南方を視察に行かなくてはならなくなった。例年になく、今年は港が凍っているらしい。
白く染まった景色を見ていると、白牡丹宮に使いが来ているのが見えた。
「綺羅羅様から、皇妃様にお会いしたいと伝言を賜ってまいりました」
「綺羅羅は元気かしら?」
「はい、お腹の御子様も順調に成長されております。皇妃様の身を案じておられました」
綺羅羅とはしばらく会えていない。会えていない間、互いに贈り物をしあっていた。宮中で白花が孤立していることを心配し、綺羅羅は干菓子やお茶をよく贈ってくれた。仔巴が心配して毒見をしたが、どれも毒など入っていないことがわかると仔巴は訝しそうな顔をした。疑い深い仔巴を白花はなだめたことは数しれない。
「そうですか、では、参りましょう。お菓子やお茶のお礼も言わないと」
「いけません皇妃様! こんな足元の悪い中。陛下もいらっしゃいませんし……」
「大丈夫ですよ仔巴」
「牛車を用意しますからお待ちください」
「大げさですね」
仔巴が急いで手配した牛車に乗り込む。仔巴が付いて来ようとすると、綺羅羅の使いに止められた。
「皇妃様と水入らずで話がしたいと仰られています」
「そんなのできるわけがないでしょう! 私もついてまいります!」
「大丈夫ですよ仔巴」
「皇妃様! 今や綺羅羅は敵対勢力になりかねない存在です」
「綺羅羅は私の家族です」
「ですが……」
「綺羅羅は皇太妃様のもとにいます、断るわけにはいかないでしょう。お腹の子はちゃんと守りますから」
どうにかしてついて来ようとする仔巴をなだめると、白花はひとりで皇太妃の宮へ向かった。
「よくきてくれたわね、会いたかったわ白花。陛下があなたに会わせてくれないものだから寂しかったのよ」
「お腹の御子様も順調そうでよかったわ」
「えぇ、お互いに。あなたのよくない噂が広がって、心配していたの」
綺羅羅の腹部もふっくらとしてきているように感じる。喜ばしいことだ、そう思うと同時に、心の奥が痛む。綺羅羅が身籠ってからというもの、白牙は白花と綺羅羅のもとを交互に訪れているのか、毎晩のように白花のもとを訪れることはない。もう、妃は自分だけではないのだと痛感した。まるで、満たされていた器から、水がこぼれ落ちるようだ。
綺羅羅が手ずからお茶を淹れてくれようとする。
「綺羅羅、そんなことしないでゆっくりと座っていて。誰か、お茶の用意を」
白花が侍女を呼んでも、誰も答える気配がない。
「大丈夫、動いている方がいいの。悪阻のせいかしら、気分がすぐれなくて、何かしている方が楽なのよ。さあ、飲んでちょうだい」
「ありがとう」
綺羅羅がいれてくれたお茶を少し口に含むと、静かに飲み込んだ。甘い香りがする。その香りはお茶からではなく白花のすぐそばにあった香炉から流れてきていた。
「それに、今は誰もいないのよ、自分で淹れるしかないわ」
宮の中はとても静かだ。人の気配がない。
「みんなはどうしているの?」
「皇太妃様が人払いしてくださったの」
「え……?」
「だって、誰にも知られるわけにはいかないわ。こんなこと」
甘い香りがする。だんだんと、視界がぼやけてくる。
「美味しいお茶でしょう? 茶師に調合させた特別なお茶なの。今までだって毒は見つからなかったでしょう? 皇太妃様が用意してくれた薬は、毒ではないもの。妊婦でなければなんともないわ。お菓子だってたくさん送ったはずなのに、全然堕胎しないのだから驚いたわ。下賤な育ちだけあって、体だけは丈夫なのね。それとも、狗は鼻が利くから危険を嗅ぎ分けたのかしら。いえ、それならこのお茶だって飲むはずないわね」
何を言っているの……。
「今度ばかりはそうはいかないわよ、今まで調合してきた薬の何倍もの量をいれたのだから」
「綺羅羅……どうし、て」
白花はぼやける視界の中で必死に綺羅羅を見つめた。綺羅羅の顔が不快そうに歪む。
「あんたのその目、ずっと気に入らなかったのよ。お父様お母様にあんなに虐げられているのに、濁りもせず澄んだまま。泣き言一つ言わずに本当に気持ちが悪かったわ。汚い着物でも、ダサい髪形でも、あんたは少しも自分を惨めだって思ってなかった。治癒の娘ですって? 私の未来や予知のほうがよっぽど素敵じゃない。あんたの力がなんだっていうの、ただれた皮膚もすぐに治る、ただただ気色の悪い力だわ!」
「私のことが、ずっと……きらい、だったの?」
「そうよ、ずっとずっと目障りだったわ! 憎くて憎くてたまらなかったし、あなたがお母様にいじめられているのを見るのがとても好きだった。それなのにあんたときたら、私の本当の気持ちに気が付きもせずに、少し優しくしたら、親友だと思い込んでいたなんて間抜けすぎて笑ってしまうわ」
「優しくして、くれたのに……」
「優しいふりをしていたのよ。かわいそうなあんたに優しくする私は、周りから優しい娘に見えるもの。それに、私はあんたに優しくするふりをして、お母様によりいっそういじめられるように計らっていたの。いつになったら気が付くかしらと思っていたのに、いつまで経っても全然気が付かなくて、馬鹿過ぎて本当に面白かったわ。おかげでいじめ甲斐があったわよ。家の中でこき使われるあんたを見るのは本当に心地が良かったし、お母様にぶたれるあんたの姿を見るのも滑稽だった。猿を逃がしたのも私だし、花街でおまえが痛い目に遭うのも楽しみにしていたのよ。それなのに、あんたは私の陛下を奪って逃げた。あんたがいなくなってからというものうちは大変なの、あんたのせいでうちは貧乏になったのよ!」
「陛下からの、支度金が……あったはず」
「そんなはした金もう使ってしまったわ! 綺麗な着物も、珍しいお菓子も少ししか買えなかった。愚鈍なあんたにはあの程度の価値しかなかったのよ! この役立たず! だから私はここに来たの。皇太妃様から声をかけてもらって」
綺羅羅の言葉が、鋭利さをもって白花を攻撃してくる。ずっと気が付かなかった。綺羅羅が自分のことを憎んでいただなんて。愚かにも自分は、綺羅羅が自分を好きでいてくれるのだと思っていた。
「白虎様のお妃に選ばれたのは私だったのに! あんたなんかに横取りされるとは思わなかったわ! ことごとく私の邪魔をしてくれる。陛下は私のものだったのに!」
「ちがうわ……」
白牙は、白花を選んだと言っていた。その言葉を、信じている。
「違わないわ! 私がお妃になるはずだったのよ! 私の家に矢が刺さったのだから! あんたはたまたま私の家にいただけの居候じゃない。あんたを連れて行ったのが、陛下の間違いなのよ! 私は正しいわ! 私はあんたを追い出して陛下の妃になるの。全部正しい場所にもどるのよ。たとえ腹に陛下の子がいなくても、おまえがいなくなればこっちのものよ!」
「お腹の、子は……だれの……こ……なの」
「誰だっていいでしょう。皇太妃様が色々と取り計らってくださったのよ! 私は機を見て陛下と夜を共にするだけで良かった。それなのに、陛下はあんたにべったりで全然私に見向きもしないじゃない! 信じられないわ。この私が、誘惑しているのに!」
「きらら……それでも私は、あなたのことを……」
「うるさいわね、もうゆっくり休みなさい。あんたはひとりよ。陛下も、御子も、妃の座も私のものだわ」
綺羅羅の優しさも親切も偽りだったのだ。
「もしも目が覚めることがあったら私の侍女にしてあげる。いいえ、実家に帰してあげようかしら、そうしたらお父様もお母様もお喜びになるわ。その汚らわしい腹に宿した子を陛下の子と偽っていたことは不問にしてあげる。もしも、目が覚めることがあったらね」
くっくと声を殺して笑っていた綺羅羅は最後にこらえきれずに高笑いをした。声が遠のく。
「白牙様……」
しっかりしなければ、守らなければ、お腹の御子だけは……! そう思うのに、意識が遠のいていく。
ごめんなさい、白牙様……
『白花!』
遠くで、白牙の声を聞いたような気がした。白牙が、ここにいるはずもないのに。
「そんな記憶はない。どんなに朦朧としていようと、俺が白花と違う女を間違えるはずがない。そもそもそのような夜はなかった。あの夜、俺は白花のそばで目覚めた後すぐに白虎殿に戻ったのだ。綺羅羅には、証がないだろう」
白牙はそう言って否定し、綺羅羅の子が自分の子であると認めようとはしなかったが、皇太妃に諫められた。
「記憶がないだなんて、無責任ですよ。意識が朦朧としていらっしゃったのなら、言い切れることもないでしょう。陛下の血を継ぐ者は、ひとりでも多い方がいいのですから、綺羅羅という侍女の腹に宿った子は大事にすべきです。陛下は稀代の皇帝。長く続くこの国の王の中で、あなたほど強い力を得た皇帝はおりません。侍女は他に関係を持った男がいないというのですから、間違いなく陛下の御子。私が綺羅羅という侍女の身を引き取りましょう」
綺羅羅の面倒を見るという皇太妃に、白牙は意見したが、綺羅羅の腹の子が白牙の子ではないという確固たる証拠は無いと突き放された。白牙は忌々しそうに皇太妃様の後ろ姿を睨んでいるようだった。
「白花、俺にはおまえだけだ。俺を信じろ。綺羅羅は嘘を吐いている。綺羅羅のことは、必ず処断する」
「白牙様、私は信じております。ですが、生まれてくる子供に罪はありません。白牙様のお子ではないにしろ、どうか、受け入れてあげてください。綺羅羅だって、嘘を吐くような子ではないのです。綺羅羅が嘘を吐いているとしたら、なにか、理由があるはずです」
「だが……」
心配そうな顔をする白牙に白花はほほ笑んだ。白牙は、白花の心を心配してくれているのだ。
「私は白牙様の愛を信じております。私を愛し、大切にしてくださっていると、私にはわかります」
心からそう思っているのに、目頭が熱くなる。こらえきれずにこぼれ落ちた涙を、白牙の指が掬い取る。
「不安にさせてすまない。油断した俺のせいだ。なぜ意識を手放してしまったのか……強い眠気に襲われたのだ。だが、白虎に誓って俺は綺羅羅を抱いてはいない」
白牙がそう言い切っているのだ。嘘偽りなどあるはずがないと白花はうなずいた。
「不安など……私は大丈夫です。どうか、私と同じように綺羅羅のことも大事になさってください。不安なのは綺羅羅の方でしょうから」
「……白花」
「はい」
「安心しろ、皇太妃はあのように言っていたが、証拠はある。皇太妃と綺羅羅を糾弾する術はあるのだ。だが、相手は皇太妃、追い詰めるにはそれなりの準備が要る。あと少しだけ辛抱してくれ」
「白牙様……」
白牙は白花を抱きしめると、名残惜しそうに白牡丹宮を後にする。皇太妃のもとにいる綺羅羅に会いに行くのだ。遠ざかっていく背中を見つめながら、白花は無意識のうちにため息を漏らした。
白花を心配して仔巴が声をかけてくる。
「こんなことは言いたくないのですが、陛下がおっしゃるように綺羅羅は嘘を吐いているのだと思います。そうでなければ、誰かを陛下を間違えているとしか思えません」
「綺羅羅を疑うようなことを言わないでください仔巴。きっとなにか理由があるのです。そうですね、綺羅羅はどなたかと白牙様を見間違ったのかもしれません。なんにせよ綺羅羅は傷ついています、安静にしないと」
「そうですよ、絶対におかしいです。陛下が皇妃様と綺羅羅を見間違えるなんて……あり得ません」
「ですが、綺羅羅が懐妊しているのは事実です。懇意にしている男性もいません。何より皇太妃様がおっしゃるのです、事実がどうであれ、陛下の子で間違いないというよりほかありません。綺羅羅を妃に迎えることになるでしょう」
「皇妃様……」
自分で言っておきながら、傷つく心に嫌気がさす。自分は、白牙の愛を独り占めにできると思い込んでいたのだ。欲深いことではないか。そんな浅ましい心を、諫められたような気がした。白牙は、ひとりの男である前に皇帝なのだ。国のために、跡継ぎをもうける必要がある。己の欲深さが嫌になる。
綺羅羅のことを、大切に思っているのに、綺羅羅が白牙に愛されることを受け入れられない自分がいる。
「私も綺羅羅も、元気な子供を産めるよう、祈るばかりです。だから仔巴も祈ってください。皇太妃様のおっしゃる通り、万が一にでも白牙様のお子である可能性が否定できないのであれば、受け入れるべきでしょう。白牙様の血を引く御子は多い方がいい。白牙様は私だけを妃おっしゃってくれていましたが、事態が変われば変えなければいけないこともあるでしょう」
「皇妃様との間にたくさん御子様がお生まれになったらよいのです!」
「仔巴……」
自分のことのように泣いてくれる仔巴を優しく抱きしめる。悲しみに負けたくない。腹部に触れると腹の子の存在を強く感じる。愛しい命だ。この子がいれば、自分は大丈夫だと、白花は悲しみに蓋をした。
気候が安定していた夏までとは打って変わって、冬は気候が荒れ始めた。寒さが厳しく、各地で問題が起こっている。冬が近づくにつれ、宮中ではよくない噂が広がっていた。
「皇妃の子は、陛下の御子ではない不義の子であり、綺羅羅様こそが皇妃にふさわしい。気候が荒れているのは、皇妃の不義のせいである」
と。この噂に白牙は激怒し、表立って噂するものはいなくなったが、白花は孤立するようになった。ひとり、またひとりと白牡丹宮に勤める侍女たちは暇や配置換えを希望してきた。白牙は許しを出さないつもりだったが、白花に乞われて希望者すべてを白牡丹宮から外した。白牙は噂の出どころを探らせたが、成果は上がらなかった。
雪の被害が出ている。白牙は要請を受けて南方を視察に行かなくてはならなくなった。例年になく、今年は港が凍っているらしい。
白く染まった景色を見ていると、白牡丹宮に使いが来ているのが見えた。
「綺羅羅様から、皇妃様にお会いしたいと伝言を賜ってまいりました」
「綺羅羅は元気かしら?」
「はい、お腹の御子様も順調に成長されております。皇妃様の身を案じておられました」
綺羅羅とはしばらく会えていない。会えていない間、互いに贈り物をしあっていた。宮中で白花が孤立していることを心配し、綺羅羅は干菓子やお茶をよく贈ってくれた。仔巴が心配して毒見をしたが、どれも毒など入っていないことがわかると仔巴は訝しそうな顔をした。疑い深い仔巴を白花はなだめたことは数しれない。
「そうですか、では、参りましょう。お菓子やお茶のお礼も言わないと」
「いけません皇妃様! こんな足元の悪い中。陛下もいらっしゃいませんし……」
「大丈夫ですよ仔巴」
「牛車を用意しますからお待ちください」
「大げさですね」
仔巴が急いで手配した牛車に乗り込む。仔巴が付いて来ようとすると、綺羅羅の使いに止められた。
「皇妃様と水入らずで話がしたいと仰られています」
「そんなのできるわけがないでしょう! 私もついてまいります!」
「大丈夫ですよ仔巴」
「皇妃様! 今や綺羅羅は敵対勢力になりかねない存在です」
「綺羅羅は私の家族です」
「ですが……」
「綺羅羅は皇太妃様のもとにいます、断るわけにはいかないでしょう。お腹の子はちゃんと守りますから」
どうにかしてついて来ようとする仔巴をなだめると、白花はひとりで皇太妃の宮へ向かった。
「よくきてくれたわね、会いたかったわ白花。陛下があなたに会わせてくれないものだから寂しかったのよ」
「お腹の御子様も順調そうでよかったわ」
「えぇ、お互いに。あなたのよくない噂が広がって、心配していたの」
綺羅羅の腹部もふっくらとしてきているように感じる。喜ばしいことだ、そう思うと同時に、心の奥が痛む。綺羅羅が身籠ってからというもの、白牙は白花と綺羅羅のもとを交互に訪れているのか、毎晩のように白花のもとを訪れることはない。もう、妃は自分だけではないのだと痛感した。まるで、満たされていた器から、水がこぼれ落ちるようだ。
綺羅羅が手ずからお茶を淹れてくれようとする。
「綺羅羅、そんなことしないでゆっくりと座っていて。誰か、お茶の用意を」
白花が侍女を呼んでも、誰も答える気配がない。
「大丈夫、動いている方がいいの。悪阻のせいかしら、気分がすぐれなくて、何かしている方が楽なのよ。さあ、飲んでちょうだい」
「ありがとう」
綺羅羅がいれてくれたお茶を少し口に含むと、静かに飲み込んだ。甘い香りがする。その香りはお茶からではなく白花のすぐそばにあった香炉から流れてきていた。
「それに、今は誰もいないのよ、自分で淹れるしかないわ」
宮の中はとても静かだ。人の気配がない。
「みんなはどうしているの?」
「皇太妃様が人払いしてくださったの」
「え……?」
「だって、誰にも知られるわけにはいかないわ。こんなこと」
甘い香りがする。だんだんと、視界がぼやけてくる。
「美味しいお茶でしょう? 茶師に調合させた特別なお茶なの。今までだって毒は見つからなかったでしょう? 皇太妃様が用意してくれた薬は、毒ではないもの。妊婦でなければなんともないわ。お菓子だってたくさん送ったはずなのに、全然堕胎しないのだから驚いたわ。下賤な育ちだけあって、体だけは丈夫なのね。それとも、狗は鼻が利くから危険を嗅ぎ分けたのかしら。いえ、それならこのお茶だって飲むはずないわね」
何を言っているの……。
「今度ばかりはそうはいかないわよ、今まで調合してきた薬の何倍もの量をいれたのだから」
「綺羅羅……どうし、て」
白花はぼやける視界の中で必死に綺羅羅を見つめた。綺羅羅の顔が不快そうに歪む。
「あんたのその目、ずっと気に入らなかったのよ。お父様お母様にあんなに虐げられているのに、濁りもせず澄んだまま。泣き言一つ言わずに本当に気持ちが悪かったわ。汚い着物でも、ダサい髪形でも、あんたは少しも自分を惨めだって思ってなかった。治癒の娘ですって? 私の未来や予知のほうがよっぽど素敵じゃない。あんたの力がなんだっていうの、ただれた皮膚もすぐに治る、ただただ気色の悪い力だわ!」
「私のことが、ずっと……きらい、だったの?」
「そうよ、ずっとずっと目障りだったわ! 憎くて憎くてたまらなかったし、あなたがお母様にいじめられているのを見るのがとても好きだった。それなのにあんたときたら、私の本当の気持ちに気が付きもせずに、少し優しくしたら、親友だと思い込んでいたなんて間抜けすぎて笑ってしまうわ」
「優しくして、くれたのに……」
「優しいふりをしていたのよ。かわいそうなあんたに優しくする私は、周りから優しい娘に見えるもの。それに、私はあんたに優しくするふりをして、お母様によりいっそういじめられるように計らっていたの。いつになったら気が付くかしらと思っていたのに、いつまで経っても全然気が付かなくて、馬鹿過ぎて本当に面白かったわ。おかげでいじめ甲斐があったわよ。家の中でこき使われるあんたを見るのは本当に心地が良かったし、お母様にぶたれるあんたの姿を見るのも滑稽だった。猿を逃がしたのも私だし、花街でおまえが痛い目に遭うのも楽しみにしていたのよ。それなのに、あんたは私の陛下を奪って逃げた。あんたがいなくなってからというものうちは大変なの、あんたのせいでうちは貧乏になったのよ!」
「陛下からの、支度金が……あったはず」
「そんなはした金もう使ってしまったわ! 綺麗な着物も、珍しいお菓子も少ししか買えなかった。愚鈍なあんたにはあの程度の価値しかなかったのよ! この役立たず! だから私はここに来たの。皇太妃様から声をかけてもらって」
綺羅羅の言葉が、鋭利さをもって白花を攻撃してくる。ずっと気が付かなかった。綺羅羅が自分のことを憎んでいただなんて。愚かにも自分は、綺羅羅が自分を好きでいてくれるのだと思っていた。
「白虎様のお妃に選ばれたのは私だったのに! あんたなんかに横取りされるとは思わなかったわ! ことごとく私の邪魔をしてくれる。陛下は私のものだったのに!」
「ちがうわ……」
白牙は、白花を選んだと言っていた。その言葉を、信じている。
「違わないわ! 私がお妃になるはずだったのよ! 私の家に矢が刺さったのだから! あんたはたまたま私の家にいただけの居候じゃない。あんたを連れて行ったのが、陛下の間違いなのよ! 私は正しいわ! 私はあんたを追い出して陛下の妃になるの。全部正しい場所にもどるのよ。たとえ腹に陛下の子がいなくても、おまえがいなくなればこっちのものよ!」
「お腹の、子は……だれの……こ……なの」
「誰だっていいでしょう。皇太妃様が色々と取り計らってくださったのよ! 私は機を見て陛下と夜を共にするだけで良かった。それなのに、陛下はあんたにべったりで全然私に見向きもしないじゃない! 信じられないわ。この私が、誘惑しているのに!」
「きらら……それでも私は、あなたのことを……」
「うるさいわね、もうゆっくり休みなさい。あんたはひとりよ。陛下も、御子も、妃の座も私のものだわ」
綺羅羅の優しさも親切も偽りだったのだ。
「もしも目が覚めることがあったら私の侍女にしてあげる。いいえ、実家に帰してあげようかしら、そうしたらお父様もお母様もお喜びになるわ。その汚らわしい腹に宿した子を陛下の子と偽っていたことは不問にしてあげる。もしも、目が覚めることがあったらね」
くっくと声を殺して笑っていた綺羅羅は最後にこらえきれずに高笑いをした。声が遠のく。
「白牙様……」
しっかりしなければ、守らなければ、お腹の御子だけは……! そう思うのに、意識が遠のいていく。
ごめんなさい、白牙様……
『白花!』
遠くで、白牙の声を聞いたような気がした。白牙が、ここにいるはずもないのに。



