西国には白虎の恵みがもたらされ、人々の生活は豊かなものだった。これも偏に白牙の力の強さによるものである。国の豊かさは、王がもつ四神の力に大きな影響を受けていた。
「陛下は皇妃様とご結婚されてからお優しくなられました。以前はもっと棘があったと言いますか……暴君と言いますか……」
「そうなのですか?」
「はい。皇妃様の優しさがうつったのだと思います。より一層、人の上に立たれる方として大成されて、ご結婚後、白虎の恵みも増えております。田畑も豊作なようで、西国はかつてないほど豊かになりつつあります。おかげで陛下は隣国の王様からも注目を集めていらっしゃるようですよ。皇妃様の存在が、陛下をより一層強い王にしているのです」
 仔巴はうっとりのした瞳で白花を見た。現に白花が王宮に来てからというもの、毎年吹き荒れる偏西風が穏やかになっている。気候も安定しており、作物が実り豊かであるそうだ。
「皇妃様がいらっしゃったら、この国は安定です」
「すべては白牙様のおかげではありませんか、私は何もしていませんよ」
「皇妃様がいらっしゃるから陛下のお力が高まるのです。皇妃様のおかげです」
 仔巴が嬉しそうに微笑むので、白花も笑みを返した。だが、白花にはひとつ気になることもある。残してきた綺羅羅のことだ。
「仔巴、私の実家のことはなにか聞いていませんか?」
「皇妃様のご実家につきましては、陛下が色々と取り計らうよう話しているのを聞いたことがあります。私財から支度金をずいぶんとお渡しになったみたいです。きっと問題ありませんよ」
「そうですか……白牙様には感謝してもしきれません」
「陛下はそれだけ皇妃様のことが大切なんですよ」
 仔巴は問題ないと言ったが、不安がよぎる。それは、姿形がはっきりとせず、うまく言葉に言い表せない不安であった。

 白花の容態が安定したころ、王宮内に白花の懐妊が知らされた。白牡丹宮には毎日のように祝福の贈り物が届くので、仔巴は白花の安全を守るべく目を光らせた。
「白花、俺は四神会合に参加するためしばらく国をあけなければならない。おまえを連れていきたいところだが、身重のおまえを長旅につき合わせるわけにはいかない。俺が戻ってくるまでひとりにすることを許してほしい」
 四神会合とは、晶を守る四神――玄武、青龍、朱雀、そして白虎の恩恵を受けた王たちが年に一度各々の国の状況を報告し合う会合である。必要に応じて年に数回行われることもあるが、今はどの国も落ち着いており、白牙が皇帝の地位を継いでからは年に一度に落ち着いている。
「大丈夫です、仔巴もいてくれますから」
「半月ほどでもどる。それまで辛抱してくれ」
「わかりました。どうかお気をつけて」
 白牙が国の会合に参加すべく国を空けていることも仔巴の警戒を強めた。
「皇妃様、面会を希望する者が来ております。王妃様の懐妊の知らせを受けて、どうやら陛下が新しい侍女がを用意してくださったようなのですが……。先におっしゃってくれたらよかったのに、皇妃様を驚かせるつもりだったのでしょうか? 四神会合に出るのに忙しくてお忘れになっていたのかもしれません。どうされますか?」
「きっと、私を驚かせるおつもりだったんですよ。さあ、その方を通してください」
 白牡丹宮を訪れたのは、懐かしい顔だった。白花は思わず目頭を熱くする。
「白花! あ……申し訳ありません皇妃様。ご懐妊、おめでとうございます」
「綺羅羅……」
 名前を呼ぶと、綺羅羅が駆け寄ってきた。
「こら、皇妃様の御前ですよ!」
「よいのです、綺羅羅は家族ですから」
「そうでございますか……皇妃様がそうおっしゃるなら……」
 白花になだめられた仔巴は不満そうに綺羅羅を少しだけ睨んだ。
「会いに来てくれて嬉しいわ、綺羅羅。新しい侍女というのは、もしかしてあなたのこと?」
 尋ねると、綺羅羅はうなずいた。
「えぇ、公募があったので申し込んでみたの。そうしたら幸運なことに採用してもらえて。私、どうしてもあなたに会いたくて。それから、出稼ぎにもなるし、一石二鳥なの」
「お父様お母様は……」
 白花の言葉に、綺羅羅は悲しそうに眉をひそめた。
「あなたがいなくなってから医院の評判が悪くなってしまって、患者さんの数が減ったの。お父様、もともと腕の良い医者じゃないから。逃げてしまった猿のお金は陛下が出してくださったのよ」
 白牙が取り計らってくれたというのは賠償金のこともあったのだ。白花は申し訳ない気持ちと、感謝の気持ちでいっぱいになる。逃げてしまった猿はどうしているだろう、元気にしているだろうか。
「そうだったの。残してきてしまってごめんなさい……陛下には、改めてお礼を言わなくちゃ」
「白花のせいじゃないわ。うちのことはいいの、その分を私がここで稼ぐから大丈夫よ」
「ありがとう綺羅羅、私にできることがあったらなんでも言って、少しでも力になれたら嬉しいわ」
「白花は御子様のことだけを考えていたらいいのよ」
 さわさわと、庭の草木が風に揺れる。東の空に黒い雲がかかっているのが見た。近いうちに、嵐がくるかもしれない。綺羅羅との再会を喜ぶ白花の傍らで、仔巴は窓の外を見ながら不安な表情をしていた。

 綺羅羅が白牡丹宮に来てから半月が経った。会合から戻ってきた白牙は白花との再会を喜び、毎晩白牡丹宮で過ごす日々が戻ってきた。
「白牙様、綺羅羅を呼んでくださってありがとうございました」
「綺羅羅? 誰だ」
「私の義姉妹でございます。育ての親の子で一緒に育ちました。友人がいない私の、唯一の友達と言いますか、姉と言いますか……」
 嬉しそうに話す白花とは裏腹に、白牙はわずかに眉を顰める。
「綺羅羅という娘はいつからここに勤めている」
「半月前からでしょうか。白牙様が会合に行かれている時からです。よく働いてくれますし、私も気心が知れているので嬉しいです」
「そうか、おまえが喜んでいるなら何よりだ。体調はどうだ?」
「すこぶる良いですよ」
「それは良かった」
「そうだ、白牙様。私の不始末をいろいろと請け負ってくださってありがとうございました」
「おまえの不始末などなかろう」
「実家で、大切に預かっていた猿を逃がしてしまったことがあるのです。そのときに、大きな賠償金を支払わなくてはいけませんでした。それを白牙様が肩代わりしてくださったそうで、本当にありがとうございました」
 白花が頭を下げると白牙はなんでもないことのように首を振る。
「その件は心配しなくていい、聞けば宝石商はあの猿を持て余していたようだ。おまえが気に掛けるだろうと思って猿も見つけておいた。もともと野生で生きていた猿を無理やり連れてきたのだろう、群れに戻っていた」
「本当ですか! 何から何まで、本当にありがとうございます」
「おまえを煩わせるものはひとつのこらず消し去ってやる」
 白牙が優しく髪を撫でてくる。翡翠色の瞳が、いとしげに白花を見る。白花も白牙との再会を喜び、あたたかな腕の中で幸せな夜を過ごした。

 ある日の午後のことである。仔巴が困ったような顔で口を開いた。
「皇妃様、皇太妃様がお茶会に招待したいと仰られています。庭の彼岸花が見ごろなので一緒に花を愛でたいと」
「皇太妃様がですか」
「はい、あの、どうなさいますか」
「皇太妃様のお誘いを断るわけにはいきません。参りましょう」
「私も一緒に行くわ」
「ありがとう。綺羅羅も来てくれると安心だわ」
 身支度を整えた白花は手土産の干菓子をもって皇太妃の暮らす宮を訪れた。
「加減はいかがですか」
「おかげさまで」
「それは良かった。元気な御子を産んでください」
「ありがとうございます」
 目の前にお茶が注がれる。皇太妃の目の前で仔巴が毒見をするわけにはいかない。
「警戒しないでください。毒なんか入っていませんよ。私も御子の誕生を待ち望んでいるのです。心配でしたらそこの侍女に飲ませてごらんなさい」
「いえ、疑うはずもありません」
 飲まないわけにいかない。笑顔で答えると、白花はお茶をくっと口元に運ぶ。口の中に、香ばしい香りが広がる。
「美味しいお茶ですね」
「そうでしょう? 私の抱えている茶師に特別に選ばせたものです。もちろん、妊婦にも安全です」
 扇で口元を隠している皇太妃の表情は、はっきりと読み取ることはできない。
「今夜はゆっくりとお休みください。お土産をあげましょう。特別に取り寄せた香です。良い香りがしますよ」
「お心遣い感謝いたします、皇太妃様」
 皇太妃は綺羅羅に包みを持たせた。一瞬、ふたりの視線が交わったこたに白花が気づくはずもない。包みのなかから甘い香りが漂ってくる。嗅いだことのない香りだった。白牡丹宮に戻ってくると、仔巴は大きな息を吐いた。
「き、緊張いたしました……お体に障りはありませんか?」
「大丈夫ですよ」
「綺羅羅、皇妃様を早く休ませてあげましょう。気疲れされたはずです。陛下にも今日のお茶会のことを申し上げないと。私、陛下の従者の方に連絡をしてきますね」
 仔巴が宮を出て行くと綺羅羅は水場に向かおうとした。
「温かいお茶を淹れなおしましょう、よく眠れるように。せっかくだからいただいたお香も焚いてみましょうね」
「ありがとう、綺羅羅」
 綺羅羅がいれてくれたお茶を飲むと、気が緩んだのか、深い眠りに落ちた。思っていたよりも気疲れしていたようだ。白牙が来るまで起きていなければ、そう意識を保とうと必死になったが、襲い掛かる睡魔に負け、白花は眠りについた。

 翌朝、宮の中に白牙の姿はなかった。宮の中がわずかに騒がしい。
「お目覚めですか皇妃様」
「どうかしたのですか?」
「それが……いいえ、お耳に入れるほどのことではございません」
 仔巴は不安そうに目を泳がせる。
「お加減はいかがですか?」
「良いですよ。昨夜はすっかり眠ってしまいました。綺羅羅はどこでしょうか?」
 いつもは仔巴と一緒にいる綺羅羅の姿が見えない。
「綺羅羅は少し体調を崩しているんです」
「それは大変! ゆっくり休むように伝えてください」
「は、はい」
 歯切れの悪い仔巴を不思議に思いつつも、朝餉をとり、文官から色々なことを習っていると綺羅羅が姿を見せた。
「白花……ごめんなさい、私」
「もう大丈夫なの? 体調を崩したって……」
「大丈夫。もうなんともないの」
 ほほ笑んで答えたかと思うと、ハラハラと涙を流し始めた。
「ごめんなさい白花……いいえ、皇妃様……」
「いったいどうしたの?」
 尋ねたところで泣いてばかりで綺羅羅は答えようとしない。困惑した表情を仔巴に向けると、仔巴は泣きそうな顔になった。
「昨夜も陛下がいらっしゃったのです。皇妃様の寝顔をしばらくご覧になられてから、そのままうたた寝をされていたので綺羅羅が寝台へ案内したのです。そこで……陛下が……」
「ごめんなさい、ごめんなさい! 陛下は私を白花だと勘違いしていたの」
「どういうことですか?」
「どうやら、陛下は皇妃様だと思って昨夜綺羅羅と褥を共にしたようなのです」
「え……」
 頭の中が真っ白になった。
「陛下はお疲れの様子で、意識が朦朧としており……それで、綺羅羅と皇妃様を見間違えられたのではないかと……綺羅羅から聞いた時は驚きのあまり、私も気を失いそうでした……」
「白牙様が、綺羅羅を……」
 お抱きになった。私を抱いてくれるように。強く、優しく。白花の心に陰が差す。
「それは……綺羅羅……大丈夫でしたか?」
 ちぎれそうな心で白花は言葉を紡いだ。一番つらかったのは、綺羅羅であろうと。
「私は、よいの。だけど、白花が……ごめんなさい白花、私、陛下に対して抗うことが出来なくて……」
「あ、あたりまえですよ……。白……いえ、陛下が求めていらっしゃるのに、抗うことなど、できるはずがありません」
 声が震える。上手く笑顔を浮かべることが出来ているだろうかと、白花は不安になる。
「綺羅羅、今日は仕事はもういいわ、どうかゆっくり休んでください」
「ありがとう白花、本当に、ごめんなさい……」
 両手で顔を覆って泣く綺羅羅の口元が笑っているように歪んでいたことなど、その場にいた誰も気が付くはずもなかった。