「……け、京くん」

 エリート校であるS高の校門で、俺はひそひそと京くんを呼んだ。京くんははっとしたように俺を見つけて、すぐに駆け寄ってくる。

「涼介さん……ど、どうして!」
「いつも迎えに来てもらってたから、たまには……と思って」

 恥ずかしさをごまかしながら、へへっと笑う。
 たまたま学校が早く終わり、そして京くんもたまたま用事があって遅くなるというので、はるばるS高まで来てしまった。本当は教室でいつものように京くんを待っていてもよかったのだけれど、なんだか待ちきれない気分だったのだ。

 あの日から、京くんとお試しのお付き合いを始めて一週間がたった。自分でも恥ずかしくなるくらい、俺は……ちょっと浮かれている。

「も、もしかして迷惑だった……? 俺、帰ったほうがいい?」

 言葉を失っている京くんを見ていたら、だんだんと自信がなくなってきた。じりっと後ずさると、京くんはすかさず俺の手首を掴んでくる。

「ち、違います!」

 何人かの生徒が京くんのほうを振り返る。その目に俺なんかは映っていないようで、今日もイケメンな京くんに羨望のまなざしを向けている。

「すみません……。あまりに、感動して……現実とは思えなくて……本当にありがとうございます。すげぇ嬉しいです」

 ストレートな京くんの物言いに、じわじわと俺の顔が熱くなっていく。

「涼介さん、……俺のために、ここまで来てくれたんですね」
「……そんな、大袈裟だよ……ちょっと来ただけで」
「ちょっとじゃないんですよ。俺にとってはすごいことなんです」
「そ、そう……? よ、喜んでもらえたなら、よかった……です」

 京くんの熱いまなざしに晒され、思わずどきりとした。最初は半信半疑だったけれど、どうやら京くんは本当に俺のことが好きらしい。
 渉さんを通して、俺を好きになったという京くんの話自体は理解した。けれど、誰もが認める美男子の京くんが、なんの取り柄もない平凡な俺をなぜ好きになってくれたのか、疑問は深まるばかりだ。

「あれ……中村じゃん!」

 その時、聞き覚えのある声がして、思わず振り返る。中学の同級生である近藤が、陽気に手を振りながら歩いてきた。

「こ、近藤!? 久しぶり!」
「マジで久しぶりだな、中村ぁ! お前、元気してた? ……あれ、桐生もいるじゃん!」

 そうだった、京くんと近藤は知り合いだったのだ。そもそも、合コンで京くんが来たのは、近藤が来られなくなったからだ。京くんはなんだか嫌そうな顔をして、俺の手首を引いて引き寄せてくる。

「どうしたんだよ、中村は。S高に来るなんて初めてじゃん」
「あ、えっと、京くんに会いに……」
「そっか! お前ら、この前の合コンで仲良くなったのか!」

 近藤は嬉しそうに笑うと、急に俺の肩を抱いてきた。

「聞けよ、中村ぁ! こいつさぁ、この前の合コンの時、中学の同級生と一緒に合コン行くって言ったら、顔色変えてさぁ」
「え……?」

 意味がわからなくて首を傾げている間、京くんは俺の肩に置かれた近藤の手を思い切り振り払った。
 もしかして嫉妬してくれてるのだろうか。
 面映ゆい反面、先輩にそんな態度をとっていいのかと、どぎまぎしてしまう。

「……近藤先輩、そろそろ帰ったほうがいいんじゃないですか」
「別にまだ時間あるって! 中村とは久しぶりなんだからさぁ」

 近藤は特に何も気にしていない様子で、話を続けた。

「そんで、こいつ誰が来るんだってしつこく聞いてくっから、N高の山本と安田とお前と、あとK高とR高のかわいい子って言ったら、『俺が行きます』って言い始めたんだよ。ほんと、ありえねぇだろ?」

 バッと京くんを見ると、京くんは気まずそうに俺から視線をずらす。

「こいつ、こんな爽やかな見た目してんのに、むっつりスケベなんだよ」
「……む、むっつり」
「最後なんて『俺に合コン譲らなきゃ、今後ぜったいに後悔しますよ』なんてすげぇ怖い顔で脅してくんだもん! こっちは泣く泣く合コン譲ったんだって!」
「近藤先輩、マジでしゃべりすぎです!」

 げらげらと笑って言う近藤を、むすっとした様子で京くんが睨みつけていた。俺はまだ近藤の言葉の意味を考えている途中で、目を丸くしてふたりを交互に見やる。

「文句のひとつやふたつ言ったっていいだろうが! 最近ニヤけてんのも、彼女ができたからだろぉ? 言ってたもんな、『おかげさまで、合コンでめちゃくちゃタイプの人と出会えた』って」
「す、すみませんが、俺は涼介さんと用があるので! じゃあ、失礼します!」
「なんだよ、おい! 中村、またなー!」

 京くんに引っ張られて先を急ぐ。俺は近藤が言っていたことを整理しつつ、京くんを見上げた。

「も、もしかして京くん、合コンに……お、俺が来るってわかってたの?」
「……………はい」
「そ、そんな……」

 京くんの話によると、そもそも近藤に自ら話しかけて仲良くなったのも、俺と同じ中学だと知っていたかららしい。

「……近藤先輩が合コンの話をしてきた時、なんだか嫌な予感がしたんです。聞いたら案の定、あなたの名前が出てきて……。誤解のないように言っておきますけど、俺は……恋人が欲しくて行ったわけじゃないですから」
「そ、そんなこと思ってないよ……!」

 京くんと出会ったカラオケ店でのことが脳裏に浮かぶ。
 本当に俺に会いに来たと言うのだろうか。思った以上に京くんは策略家で……それでも、なんだか嬉しくなってしまっている自分がいた。

「タイプの人っていうのも、……あなたのことですから信じてください」
「……う、……うん」
「俺が好きなのは、涼介さんだけです」
「……も、もうわかったよ! ……それ以上は、勘弁して」

 もごもごと口ごもると、さっきまで必死だった京くんの口角がゆっくりと上がっていく。

「照れてるんですか? かわいい」

 生意気に笑う京くんを見て、俺の心臓が大きく跳ねた。

「……きょっ、今日はなんのアイス食べるの?」

 苦し紛れに話を逸らすと、京くんは愛しそうに笑う。

「涼介さんのおすすめはなんですか?」
「んー、……新作の『ハニーレモンフレーバー』かなぁ」
「じゃあ、それにします」

 歩く間も小さく指先が触れ合っている。きっと京くんがわざとそうしているのだ。
 俺たちはきっと端から見れば、ただの仲が良い男友達のように見えるだろう。
 でも、それだけの関係じゃないことを、俺たちふたりだけが知っている。そういうのも、なんかいいかもって……思う。

「涼介さん動物好きですよね?」
「うん、好きだよ」
「……日曜日、動物園に行きませんか? ……ふたりきりで」
「あ……い、いいね、……行こうか」

 はにかんで答えると、京くんはとろけるように幸せそうな笑顔を浮かべた。

 ――俺、代わりできますよ。あの人の。

 そう言っていた京くんが脳裏にフラッシュバックする。
 京くんはいったいどんな気持ちだったのだろう。
 聞いてみたいけど、まだ聞けそうにない。
 どうしようもなく京くんに惹かれていく自分を感じる。渉さんへの想いとは違う、温かくて、優しくて、でも確かに胸が締め付けられるような、この甘酸っぱい感情。


***


 日曜日。俺たちは約束どおりふたりきりでデートをした。
 動物園でパンダを見て、キリンに餌をやって、ペンギンの前で写真を撮る。京くんは俺が喜ぶ顔を見るのがうれしいとつぶやき、ずっとにこにこしていた。
 そしてお昼過ぎ。駅前のカフェで遅めの昼食を食べている。窓際の席で、俺はサンドイッチを、京くんはパスタを食べていた。

「見てください、涼介さん。あと一個で、ポイントカードが貯まります」

 無邪気にアイス屋のポイントカードを見せてくる京くんは、まるで子供みたいだ。俺は「よかったねぇ」とつぶやきながら目を細める。

「そうだ。これ、涼介さんに」

 ポイントカードをテーブルに置き、京くんが小さな包みを差し出してくる。

「……え?」
「お付き合い十日目の記念です。お試しですけど……」
「ちょっ、待ってよ……俺、何も用意できてない……!」

 お試しでも記念日を祝うものなのだろうか。しかもまだ十日目だ。
 付き合った経験がない俺はよくわからなかったけれど、京くんがとてもマメな男なのは鈍感な俺でもよくわかる。

「いいんです。俺が渡したかっただけなので」
「……あ、開けてもいい?」
「もちろん」

 包みを開けると、中には淡い色合いのアイスクリームが描かれたしおりが入っていた。

「……すごくきれい! ありがとう、京くん……大切に使うね」

 もらったしおりをいつまでもにやにやと眺めていると、ふと視線を感じて顔を上げた。京くんがじっと俺を見つめている。

「……え、な、何?」
「い、いえ……なんでもな――」

 京くんがオレンジジュースを飲もうと手を伸ばそうとした瞬間、グラスに手が当たって倒してしまった。オレンジジュースが京くんのシャツにこぼれる。

「やべっ」
「あっ、大丈夫!?」

 京くんが慌ててグラスを元に戻し、俺も慌てて自分のおしぼりを渡した。

「ありがとうございます……大丈夫、です」
「……めずらしいね。ぼうっとしてた?」
「笑ってる涼介さんに見とれてました……」
「う、うそつき」
「ほんとです。……さすがにアレなんで、トイレで洗ってきますね」

 京くんが席を立つ。俺はひとり残されて、心臓に手を当てた。京くんのふいうちの攻撃は、とても心臓に悪い。
 もらったしおりを手に取ると、頬がまた緩んでしまうのを感じた。
 こんなに京くんに思ってもらえて、本当にいいのだろうか……。
 そんなことを考えていると、聞き覚えのある声が聞こえてきた。

「あれ、涼介?」

 顔を上げた先に、渉さんが友人たち数人と一緒にカフェに入ってくるのが見える。

「わ、渉さん!?」
「ういー、涼介、すげぇ偶然だな! もしかして京も一緒?」
「あ、はい……。今、トイレに……」
「そっか」

 渉さんは優しく笑って、俺が持っているアイス柄のしおりを見る。

「それ、京が買ってたやつだ」
「……そうなんです、記念にって、くれて」
「もう付き合ってんだもんな。よかったなー、涼介。まぁ、一番よかったのはあいつだろうけど」

 けらけらと渉さんが笑う。まだお試しのお付き合いだったのだけれど、この場合、『はい』と言っていいものか……。京くんがどこまで渉さんに話しているのかわからなかったので、俺は戸惑いながら曖昧に微笑んだ。

「渉ー! お前、何食うんだよ!」
「適当に注文しといてー」

 奥で叫んでいた友人たちに告げ、渉さんは今まで京くんが座っていた席に腰を下ろす。

「あのさ、涼介」

 内緒話をするように、渉さんが顔を近づけてくる。でも、前みたいに息苦しくなったりはしない。心臓はいつもどおり動いていて、京くんとの違いをまざまざと感じてしまった。
 なんか……俺、ほんとに京くんのこと……。
 かぁっと頬が熱くなる。

「……嘘つきたくねぇし、いまだから言うけど、ワンチャンあったよ、涼介のこと」
「……えっ!?」

 あまりに衝撃的な言葉が鼓膜を揺らして、俺は固まった。

「お前のことかわいいって思ってたし、涼介なら付き合ってもいいかぁって……。でも、京がお前のこと、長い間、気にしてたの知ってたから、俺は――」
「よかったじゃないですか、涼介さん」
「――!?」

 遮るように京くんの声がして、渉さんも俺も勢いよく横を見やった。京くんは無表情で俺と渉さんを見下ろしている。

「け、京くん……」

 どう考えても、タイミングが悪すぎる。赤い顔も、渉さんとの近い距離も。

「兄貴はワンチャンあるそうですよ」

 京くんの声は怖いくらい平坦だった。あまりにも感情が消えていて、それがかえって京くんの怒りを感じさせる。

「待てって、京……今のはそういうことじゃなくて」
「別に、兄貴を責めてねぇよ。ぜんぶ悪いのは俺だって、……わかってる」

 京くんが俺を見た。その瞳には諦めのようなものが宿っていて、胸がズキズキと締め付けられる。

「あ、あの京くん、」
「涼介さん、お試しのお付き合いは今日で終わりにしましょう。それも捨ててください」
「……え」

 京くんが俺の手元にあるしおりを指差している。

「じゃあ、涼介さん、兄貴を……よろしくお願いします」
「ちょっ、京くん!」
「おい、京!」

 京くんは俺と渉さんの声を無視して、カフェを出て行ってしまった。テーブルの上には、京くんのポイントカードが残されたままだ。
 唖然として、それを見つめる。頭がぐわんぐわんしていて、何も考えられない。

「悪い、涼介……タイミングしくったな」
「あ、いえ……」

 泣きそうになりながら、言葉を発した。今の俺には、渉さんの心情に寄り添う余裕なんてなかった。
 渉さんとの会話を京くんに聞かれた。でも、

「な……なんで、……京くんは、俺の気持ち――」

 ――聞いてくれなかったんだ。

 怒りと悲しみが同時に込み上げてくる。
 京くんとのお試しのお付き合いだって、決して半端な気持ちで始めたわけじゃない。俺だって京くんに惹かれていたから、京くんのそばにいたのに。まったく信じてもらえず、俺の話も聞いてくれなかった。

 だけど――。

 京くんの顔が脳裏に浮かぶ。あの無表情な顔。最後にちらりと見せた、悲しそうな表情。
 きっと京くんは俺が渉さんを選ぶと、思い込んでいたんだ。
 どうしてそう思わせてしまったんだろう。どうして俺の気持ちが伝わっていなかったんだろう。

 そこまで考えて、俺ははっとした。京くんに俺の気持ちをちゃんと伝えたことはあっただろうか。「好き」なんて、一度も言っていない。いつも京くんの気持ちを受け取るばかりで、俺は何も返していなかった。

 だから、京くんを不安にさせて、傷つけてしまったのだ。

「お、俺っ、行かないと……!」

 立ち上がろうとした瞬間。

「待って、涼介」

 渉さんが俺の腕を掴んだ。

「いくらワンチャンあったって、俺は最終的に涼介より弟を選んだ。それが答えだってわかってるよな、涼介」

 渉さんの言葉を受け、ほっとしている自分に気づいてしまった。

「……わかってます、もちろん。今は……俺のこと、振ってもらえてよかったって思ってます」

 俺は京くんが好きだ。
 渉さんへの想いはもう過去のもので、今、俺の心を占めているのは京くんだけだと、ようやく胸を張って言える。

「追いかけてきます、京くんのこと。それで、ちゃんと好きって伝えます。受け入れてもらえるか、わからないけど……」

 渉さんは少し驚いたような顔をしたあと、優しく微笑んで手を離してくれた。

「がんばれ、涼介」

 俺はしおりを鞄にしまい、ポイントカードを掴んでカフェを飛び出した。

 あと一個ですべてが埋まるはずだったスタンプカード。京くんはこれを置いていった。
 もう俺のところには来ないという意思表示だと思うと、胸が苦しくなる。
 そんなのだめだ。このカードを、京くんに返さなきゃ。そして、ちゃんと伝えなきゃ。俺の本当の気持ちを。

 京くん、ごめん、待ってよ。俺を置いてかないで。
 俺の気持ち、ちゃんと伝えさせて。
 君が好きだって。君と一緒にいたいんだって。

 お願いだから、京くん。今すぐ会いたいよ、君に。