桐生くんが俺のバイト先に通い始めてから、もう三日目が経った。
「見てください。三つもポイント貯まりましたよ」
桐生くんがまるで子供のように嬉しそうな笑顔で、ポイントカードを見せてくる。カードには、アイスクリームの形をしたスタンプが三つほど並んでいた。
「よかったね……」
俺は曖昧に笑いながら、複雑な気持ちでそのカードを見つめた。
今日はラムレーズンのシングルを注文した桐生くんは、いつものようにカウンターに背を預けて食べている。渉さんは弟を叱ることを諦めたのか、もう何も言わなくなった。
あの公園での夜から、桐生くんはなぜだかずっと俺を家まで送ってくれている。
もちろん何度も断ろうとしたが、「危ないから」とか「心配だから」とか「俺が勝手にやってるだけだって言ってんだろ」とか、生意気なことを言って俺のいうことを全然聞いてくれない。結果、毎日バイト終わりに、一緒に帰ることが日課になってしまった。
道すがら同じ趣味である読書の他愛もない話をしたり、時には黙って歩いたり。そんな時間が、いつの間にか俺の日常に忍び寄っていた。桐生くんと過ごす帰り道は、一日の疲れを癒してくれるような、不思議と心地よい時間だったのだ。
俺はとても怖かった。桐生くんにこうして大切にされることに、だんだん慣れてしまいそうで。
「中村さん」
桐生くんが俺を呼ぶ。
「えっ、な、何……?」
「俺、すごいこと気づいちゃったんですけど」
桐生くんは何やらニヤニヤしながら、俺の胸元のネームプレートを指差した。
「『涼介』って名前の中に、『京』がいます」
俺は自分の名前を見下ろした。たしかに、『涼』という字の中に『京』の文字がある。
「すごい、気づかなかった……!」
素直に驚いていると、桐生くんは得意げに笑った。
「これって運命じゃないですか?」
「ち、違うと、思うなぁ……」
そんなこと認めてしまったら、桐生くんを調子に乗らせてしまいそうで、俺はすぐさま笑顔で否定をする。
「ぜったい俺と付き合ったほうがいいですよ。なぁ、中村さん」
桐生くんが俺の目をまっすぐに見つめてきて、俺の心臓はドクンと跳ねた。
思い返せば、今日も昨日もおとといも桐生くんに『付き合ってください』と言われている。桐生くんにとっては、もはや日常の挨拶のような感覚なのかもしれないが、俺はとてもそんなふうに簡単には受け入れられない。
毎回、彼に言われるたびに、心臓がバクバクして、頭の中が真っ白になってしまう。
混乱している俺と、至極冷静な桐生くん。俺たちにはこんなにも温度差があるのに、桐生くんはいつも本気だと言う。本当に俺には理解できない話だ。俺と一緒にいることで、少しでも桐生くんのさびしさがなくなるのならいいことだとは思うけれど、どうしても彼と付き合うことは難しい。
「お、お断りします……」
俺がいつものように桐生くんの告白を断ると、渉さんが急に手を叩いた。
「待って、俺も半分いるじゃん! 涼介の中に、渉が!」
渉さんがドヤ顔で俺の名前を指差す。確かに、『涼』という字には『渉』のさんずいの部分がある。そんなこと考えたこともなかった俺はなんだかうれしくて「ほんとですね……!」とつぶやくと、桐生くんは苦虫をかみつぶしたような顔で渉さんを睨みつけた。
「……さんずいだけだろ。どんだけ厚かましいんだよ」
「おまっ、さんずいに謝れよ……! さんずいはすげーんだぞ!」
「マジでさ、俺と中村さんの会話に入ってくんのやめれる? 空気読めよ」
「空気読めはさすがにお前だろ。さんずいがあるから『涼』って字が成り立ってんだよ。つまり俺がいないと涼介は存在しないってことじゃん」
「屁理屈すぎる……。中村さん、この人、ばかですよ」
渉さんが大げさに抗議し、桐生くんは相変わらず涼しい顔をして流している。桐生兄弟は今日もとても仲良しだ。のんきなふたりの会話に「ははっ」と笑みがこぼれると、ふたりは俺のことをじっと見つめてきた。
「え、な、何……なんですか……?」
突然、なぜか注目の的になってしまい、俺は慌てて身を引いた。
「別に」
桐生くんが片方の口角を上げて言う。渉さんもけらけらと笑っていて、ふたりが何を考えているのか、やっぱり俺にはちっともわからない。
・チョコチップフレーバー 『京』って呼んで
翌日の放課後、俺がいつものようにアイス屋で働いていると、桐生くんがやってきた。もう見慣れた光景になっていて、驚きもしなくなっている。
今日の彼は、チョコチップフレーバーのシングルを注文して、カウンターにもたれかかっていた。
「中村さん、俺たちもう出会ってから、だいぶたつじゃないですか。それに、けっこうな仲になりましたし」
……俺と桐生くんとの認識には、かなり齟齬があるようだ。
「だから、俺のこと名前で呼んでください。『京』って」
突然の提案に、俺は手に持っていたディッシャーを落としそうになってしまった。
「やっ、やだ!」
「なんで……いいだろ、別に」
「だめなものはだめです!」
俺は頑なに首を振った。名前で呼ぶなんて、ますます親しげな雰囲気になってしまうじゃないか。
「俺も、『涼介さん』って呼ぶから」
桐生くんが甘い声で俺を呼ぶ。
「それとも『涼介』って呼んだほうがいいですか? あの人みたいに」
にこっと微笑む桐生くんが指差した先には、子供たちに試食用のアイスを配っている渉さんいた。
「……さ、『さん』付けでお願いします」
俺は泣く泣くそんな返事をした。毎回渉さんのまねをして呼ばれたら、心臓に悪すぎるのだ。
「じゃあ、涼介さん。俺のことも、名前で呼んでくださいよ」
さらりと俺の名を呼ぶ桐生くんが、しつこく食い下がってくる。
「なぁ、涼介さんってば」
また名前で呼ばれて、顔が真っ赤になってしまった。最近はよくわかってきた。桐生くんは欲しいものを手に入れるまで、かなりしつこいのだ。
「……京、くん」
結局、俺は桐生くん……もとい、京くんに負けて、小さな声で彼の名をつぶやいた。
「破壊力やば……」
桐生くんはぼそりと呟いて、うれしそうに顔を手で覆う。
「え?」
「なんでもないです」
京くんはぱっと顔を上げると、さっきよりも真剣な表情で俺を見つめてきた。
「俺と付き合ってよ、涼介さん」
「……やだ」
俺は弱々しい声を出し、小さく首を振った。京くんはなぜか嬉しそうに微笑んでいる。
「今日の『やだ』は、いつも以上にかわいくないですか?」
うるさい、桐生京。
俺がむすっと手を出して、「腹が立ったので、お客様のポイントカードは没収します」と言うと、京くんはポイントカードを慌てて制服のズボンに突っ込み、「ぜったいだめだから」と楽しそうに笑った。
・ストロベリーフレーバー こういうのだめじゃん
「お疲れ様です、涼介さん」
「お疲れ、京くん! 今日は遅くなっちゃってごめんね! 待った?」
「大丈夫ですよ。今来たとこですから」
京くんは自転車を引きながら、俺と一緒に帰り道を歩いている。
「この本、ありがとうございました。めちゃくちゃよかったです」
「えっ、もう読んだの? はやいな!」
「読み始めたら止まんなくて」
昨日京くんに貸したばかりだというのに、もう読み終わったようだ。
「どんでん返し、やばかったですね」
「なっ? そうだろ!? 俺も最後の一文ですごく鳥肌立ったもん!」
ついつい嬉しくて声が弾んでしまう。同じ趣味の人と感想を語り合えることが、こんなに楽しいことだなんて知らなかった。
渉さんはホラーが苦手だと知ってから、こういう話題は切りだしたことがない。兄弟でもやっぱり趣味は別々なのだ。
「この小説の実写版、明日から公開らしいですよ。一緒に行きませんか?」
京くんがスマホの画面を見せてくる。画面には、さっき話していた小説の映画広告が映し出されていた。
「行きたい! 行こう!」
そう反射的に返事をしてから、はっと我に返った。
「だ、だめじゃん……なんか、俺だめじゃん!」
立ち止まった俺を見つめ、京くんが首を傾げる。俺は改めて自分の状況を確認して、顔を青ざめていた。
「こ、こんな普通に君と帰ったり、ましてや、ふたりで……え、映画とか行っちゃ……まずいじゃん!」
「まずくないですよ、別に」
京くんはあっけらかんとつぶやく。
「俺がしたくてしてるだけなんですから」
優しい声に、胸が苦しくなった。京くんはいつも自分のせいだと言って、俺の罪悪感をなくそうとしてくれている。
「……涼介さん、俺と付き合ってくれませんか?」
いつものように、京くんが告白の言葉を口にする。
「……やだ」
「じゃあ、映画は?」
「映画は、行く……」
気がつくと、そう答えていた。
「よし、決まり」
京くんが嬉しそうに笑う。
「あなたが一番楽しめるようにしますから、安心してください」
何かを企んでいるような京くんの言葉。この時点で俺は、どこか嫌な予感がしていたのだ。
・チョコミントフレーバー 『京くん』がいい
「ういー、待った?」
映画館の待ち合わせ場所で京くんを待っていた俺は、現れた人影を見て言葉を失った。
「……は?」
京くんはいつもの黒髪ではなく、茶髪だった。それに今まで何もなかった耳には、小さなピアスがいくつも光っている。まるで渉さんそっくりな姿。彼が渉さんの双子の片割れだと言っても、おそらくみんなが信じるに違いない。
「今日はあの人とデートしてるって思って、楽しんでください」
京くんは完全に渉さんとして、俺と映画を見るつもりらしい。声の調子まで渉さんに寄せて、ご機嫌に俺のことを見下ろしてくる。
でも、俺の心に湧いてきたのは喜びではなく、深い失望だった。
「……帰る」
「ちょっ、涼介さん! ま、待ってくださいよ、なんで……!」
京くんが慌てて俺の腕を掴む。振り払おうとしたけれど、強い力で拘束されていてだめだった。
「……俺は、京くんとパンフレット買って、小説とどこが違うのか一緒に話したりしたかった。映画見た後に感想言い合って、君がどんなシーンをおもしろいと思ったのか聞いてみたかった」
京くんの顔を見ることができない。俺は振り返らずにつぶやいた。
「わ、渉さんじゃなくて、俺は京くんと一緒に映画を見たかったのにっ……!」
こんなの八つ当たりだ。でも、今、京くんには渉さんの代わりではなく、京くん自身として俺のそばにいてほしかった。
「……んだよ、それ」
少し震えている京くんの声が聞こえた。はっとして振り返ると、京くんの瞳に動揺が浮かんでいる。
「すみません、涼介さん。……もう1回、やり直させてください」
京くんが深く頭を下げる。そして、次の瞬間にはカツラを取り、耳についているアクセサリーも乱暴に外していく。ピアスだと思っていたのは、どうやらイヤリングだったらしい。
京くんが何を考えているのかわからない。でも、俺のためにカツラも、イヤリングも、ひとつひとつ用意したのだと思うと、息が苦しくてしょうがなかった。俺たちはいつも空回りばかりだ。
「俺、バカですね」
京くんが小さくつぶやいた。渉さんのまねじゃなく、京くんの姿がそこにあって、泣きそうなくらい安心してしまった。
髪を手ぐしで整えながら、気まずそうに京くんは笑う。
「かなり、お待たせ、しました……涼介さん」
「……うん、待ったけど、許すよ」
俺がそう言うと、京くんはほっとしたかのようにいつもの優しい笑みを浮かべた。
「映画、楽しみだね、京くん」
「はい、涼介さん」
映画は予想以上に面白かった。
上映後、ロビーでパンフレットを買って、近くのカフェに移動した。俺たちは時間を忘れて語り合った。ホラー嫌いな渉さんとは絶対にできない会話だと、ふたりで話して笑い合った。
あっという間に日は落ちて、夜になってしまった。いつものように家まで送ってくれた京くんを見つめる。今日はまだ『付き合ってください』と言われてなかったな、と心のどこかで思ってしまう自分に少しだけ動揺した。
「涼介さん、じゃあ、また明日」
「……うん、バイバイ、京くん」
部屋に戻ってからしばらくして、京くんからラインが来た。
『俺と付き合ってください、涼介さん』
『……もしかして、言うの忘れてた?』
『忘れるわけないでしょう。作戦ですよ、これも』
『ふーん』
『で、付き合ってくれるんですか、涼介さん』
俺は苦笑いしながら『い・や・だ』とラインを返す。
『残念です。でも、今日の映画はめちゃくちゃ楽しかったです』
『俺も楽しかった』
『また映画見に行きましょう』
『うん、行こう』
じゃれ合いのような会話をしながら、本当はわかっているんだ。
何回、京くんから「「付き合って」と言われたって、「好きだ」と言われたことは一度もないことを。
もしかしたら京くんにとって俺は、本当にただの「代わり」なのかもしれない。さびしさを埋めるためのほんの一時的な存在。
京くんのさびしさがなくなったら、京くんは俺のそばからいなくなってしまうのだろうか。
「京くんのばーか……」
スマホの画面を見つめながら、小さくつぶやいた。どうか彼の名前が、これ以上、俺にとって特別な響きを持ちませんように。
「見てください。三つもポイント貯まりましたよ」
桐生くんがまるで子供のように嬉しそうな笑顔で、ポイントカードを見せてくる。カードには、アイスクリームの形をしたスタンプが三つほど並んでいた。
「よかったね……」
俺は曖昧に笑いながら、複雑な気持ちでそのカードを見つめた。
今日はラムレーズンのシングルを注文した桐生くんは、いつものようにカウンターに背を預けて食べている。渉さんは弟を叱ることを諦めたのか、もう何も言わなくなった。
あの公園での夜から、桐生くんはなぜだかずっと俺を家まで送ってくれている。
もちろん何度も断ろうとしたが、「危ないから」とか「心配だから」とか「俺が勝手にやってるだけだって言ってんだろ」とか、生意気なことを言って俺のいうことを全然聞いてくれない。結果、毎日バイト終わりに、一緒に帰ることが日課になってしまった。
道すがら同じ趣味である読書の他愛もない話をしたり、時には黙って歩いたり。そんな時間が、いつの間にか俺の日常に忍び寄っていた。桐生くんと過ごす帰り道は、一日の疲れを癒してくれるような、不思議と心地よい時間だったのだ。
俺はとても怖かった。桐生くんにこうして大切にされることに、だんだん慣れてしまいそうで。
「中村さん」
桐生くんが俺を呼ぶ。
「えっ、な、何……?」
「俺、すごいこと気づいちゃったんですけど」
桐生くんは何やらニヤニヤしながら、俺の胸元のネームプレートを指差した。
「『涼介』って名前の中に、『京』がいます」
俺は自分の名前を見下ろした。たしかに、『涼』という字の中に『京』の文字がある。
「すごい、気づかなかった……!」
素直に驚いていると、桐生くんは得意げに笑った。
「これって運命じゃないですか?」
「ち、違うと、思うなぁ……」
そんなこと認めてしまったら、桐生くんを調子に乗らせてしまいそうで、俺はすぐさま笑顔で否定をする。
「ぜったい俺と付き合ったほうがいいですよ。なぁ、中村さん」
桐生くんが俺の目をまっすぐに見つめてきて、俺の心臓はドクンと跳ねた。
思い返せば、今日も昨日もおとといも桐生くんに『付き合ってください』と言われている。桐生くんにとっては、もはや日常の挨拶のような感覚なのかもしれないが、俺はとてもそんなふうに簡単には受け入れられない。
毎回、彼に言われるたびに、心臓がバクバクして、頭の中が真っ白になってしまう。
混乱している俺と、至極冷静な桐生くん。俺たちにはこんなにも温度差があるのに、桐生くんはいつも本気だと言う。本当に俺には理解できない話だ。俺と一緒にいることで、少しでも桐生くんのさびしさがなくなるのならいいことだとは思うけれど、どうしても彼と付き合うことは難しい。
「お、お断りします……」
俺がいつものように桐生くんの告白を断ると、渉さんが急に手を叩いた。
「待って、俺も半分いるじゃん! 涼介の中に、渉が!」
渉さんがドヤ顔で俺の名前を指差す。確かに、『涼』という字には『渉』のさんずいの部分がある。そんなこと考えたこともなかった俺はなんだかうれしくて「ほんとですね……!」とつぶやくと、桐生くんは苦虫をかみつぶしたような顔で渉さんを睨みつけた。
「……さんずいだけだろ。どんだけ厚かましいんだよ」
「おまっ、さんずいに謝れよ……! さんずいはすげーんだぞ!」
「マジでさ、俺と中村さんの会話に入ってくんのやめれる? 空気読めよ」
「空気読めはさすがにお前だろ。さんずいがあるから『涼』って字が成り立ってんだよ。つまり俺がいないと涼介は存在しないってことじゃん」
「屁理屈すぎる……。中村さん、この人、ばかですよ」
渉さんが大げさに抗議し、桐生くんは相変わらず涼しい顔をして流している。桐生兄弟は今日もとても仲良しだ。のんきなふたりの会話に「ははっ」と笑みがこぼれると、ふたりは俺のことをじっと見つめてきた。
「え、な、何……なんですか……?」
突然、なぜか注目の的になってしまい、俺は慌てて身を引いた。
「別に」
桐生くんが片方の口角を上げて言う。渉さんもけらけらと笑っていて、ふたりが何を考えているのか、やっぱり俺にはちっともわからない。
・チョコチップフレーバー 『京』って呼んで
翌日の放課後、俺がいつものようにアイス屋で働いていると、桐生くんがやってきた。もう見慣れた光景になっていて、驚きもしなくなっている。
今日の彼は、チョコチップフレーバーのシングルを注文して、カウンターにもたれかかっていた。
「中村さん、俺たちもう出会ってから、だいぶたつじゃないですか。それに、けっこうな仲になりましたし」
……俺と桐生くんとの認識には、かなり齟齬があるようだ。
「だから、俺のこと名前で呼んでください。『京』って」
突然の提案に、俺は手に持っていたディッシャーを落としそうになってしまった。
「やっ、やだ!」
「なんで……いいだろ、別に」
「だめなものはだめです!」
俺は頑なに首を振った。名前で呼ぶなんて、ますます親しげな雰囲気になってしまうじゃないか。
「俺も、『涼介さん』って呼ぶから」
桐生くんが甘い声で俺を呼ぶ。
「それとも『涼介』って呼んだほうがいいですか? あの人みたいに」
にこっと微笑む桐生くんが指差した先には、子供たちに試食用のアイスを配っている渉さんいた。
「……さ、『さん』付けでお願いします」
俺は泣く泣くそんな返事をした。毎回渉さんのまねをして呼ばれたら、心臓に悪すぎるのだ。
「じゃあ、涼介さん。俺のことも、名前で呼んでくださいよ」
さらりと俺の名を呼ぶ桐生くんが、しつこく食い下がってくる。
「なぁ、涼介さんってば」
また名前で呼ばれて、顔が真っ赤になってしまった。最近はよくわかってきた。桐生くんは欲しいものを手に入れるまで、かなりしつこいのだ。
「……京、くん」
結局、俺は桐生くん……もとい、京くんに負けて、小さな声で彼の名をつぶやいた。
「破壊力やば……」
桐生くんはぼそりと呟いて、うれしそうに顔を手で覆う。
「え?」
「なんでもないです」
京くんはぱっと顔を上げると、さっきよりも真剣な表情で俺を見つめてきた。
「俺と付き合ってよ、涼介さん」
「……やだ」
俺は弱々しい声を出し、小さく首を振った。京くんはなぜか嬉しそうに微笑んでいる。
「今日の『やだ』は、いつも以上にかわいくないですか?」
うるさい、桐生京。
俺がむすっと手を出して、「腹が立ったので、お客様のポイントカードは没収します」と言うと、京くんはポイントカードを慌てて制服のズボンに突っ込み、「ぜったいだめだから」と楽しそうに笑った。
・ストロベリーフレーバー こういうのだめじゃん
「お疲れ様です、涼介さん」
「お疲れ、京くん! 今日は遅くなっちゃってごめんね! 待った?」
「大丈夫ですよ。今来たとこですから」
京くんは自転車を引きながら、俺と一緒に帰り道を歩いている。
「この本、ありがとうございました。めちゃくちゃよかったです」
「えっ、もう読んだの? はやいな!」
「読み始めたら止まんなくて」
昨日京くんに貸したばかりだというのに、もう読み終わったようだ。
「どんでん返し、やばかったですね」
「なっ? そうだろ!? 俺も最後の一文ですごく鳥肌立ったもん!」
ついつい嬉しくて声が弾んでしまう。同じ趣味の人と感想を語り合えることが、こんなに楽しいことだなんて知らなかった。
渉さんはホラーが苦手だと知ってから、こういう話題は切りだしたことがない。兄弟でもやっぱり趣味は別々なのだ。
「この小説の実写版、明日から公開らしいですよ。一緒に行きませんか?」
京くんがスマホの画面を見せてくる。画面には、さっき話していた小説の映画広告が映し出されていた。
「行きたい! 行こう!」
そう反射的に返事をしてから、はっと我に返った。
「だ、だめじゃん……なんか、俺だめじゃん!」
立ち止まった俺を見つめ、京くんが首を傾げる。俺は改めて自分の状況を確認して、顔を青ざめていた。
「こ、こんな普通に君と帰ったり、ましてや、ふたりで……え、映画とか行っちゃ……まずいじゃん!」
「まずくないですよ、別に」
京くんはあっけらかんとつぶやく。
「俺がしたくてしてるだけなんですから」
優しい声に、胸が苦しくなった。京くんはいつも自分のせいだと言って、俺の罪悪感をなくそうとしてくれている。
「……涼介さん、俺と付き合ってくれませんか?」
いつものように、京くんが告白の言葉を口にする。
「……やだ」
「じゃあ、映画は?」
「映画は、行く……」
気がつくと、そう答えていた。
「よし、決まり」
京くんが嬉しそうに笑う。
「あなたが一番楽しめるようにしますから、安心してください」
何かを企んでいるような京くんの言葉。この時点で俺は、どこか嫌な予感がしていたのだ。
・チョコミントフレーバー 『京くん』がいい
「ういー、待った?」
映画館の待ち合わせ場所で京くんを待っていた俺は、現れた人影を見て言葉を失った。
「……は?」
京くんはいつもの黒髪ではなく、茶髪だった。それに今まで何もなかった耳には、小さなピアスがいくつも光っている。まるで渉さんそっくりな姿。彼が渉さんの双子の片割れだと言っても、おそらくみんなが信じるに違いない。
「今日はあの人とデートしてるって思って、楽しんでください」
京くんは完全に渉さんとして、俺と映画を見るつもりらしい。声の調子まで渉さんに寄せて、ご機嫌に俺のことを見下ろしてくる。
でも、俺の心に湧いてきたのは喜びではなく、深い失望だった。
「……帰る」
「ちょっ、涼介さん! ま、待ってくださいよ、なんで……!」
京くんが慌てて俺の腕を掴む。振り払おうとしたけれど、強い力で拘束されていてだめだった。
「……俺は、京くんとパンフレット買って、小説とどこが違うのか一緒に話したりしたかった。映画見た後に感想言い合って、君がどんなシーンをおもしろいと思ったのか聞いてみたかった」
京くんの顔を見ることができない。俺は振り返らずにつぶやいた。
「わ、渉さんじゃなくて、俺は京くんと一緒に映画を見たかったのにっ……!」
こんなの八つ当たりだ。でも、今、京くんには渉さんの代わりではなく、京くん自身として俺のそばにいてほしかった。
「……んだよ、それ」
少し震えている京くんの声が聞こえた。はっとして振り返ると、京くんの瞳に動揺が浮かんでいる。
「すみません、涼介さん。……もう1回、やり直させてください」
京くんが深く頭を下げる。そして、次の瞬間にはカツラを取り、耳についているアクセサリーも乱暴に外していく。ピアスだと思っていたのは、どうやらイヤリングだったらしい。
京くんが何を考えているのかわからない。でも、俺のためにカツラも、イヤリングも、ひとつひとつ用意したのだと思うと、息が苦しくてしょうがなかった。俺たちはいつも空回りばかりだ。
「俺、バカですね」
京くんが小さくつぶやいた。渉さんのまねじゃなく、京くんの姿がそこにあって、泣きそうなくらい安心してしまった。
髪を手ぐしで整えながら、気まずそうに京くんは笑う。
「かなり、お待たせ、しました……涼介さん」
「……うん、待ったけど、許すよ」
俺がそう言うと、京くんはほっとしたかのようにいつもの優しい笑みを浮かべた。
「映画、楽しみだね、京くん」
「はい、涼介さん」
映画は予想以上に面白かった。
上映後、ロビーでパンフレットを買って、近くのカフェに移動した。俺たちは時間を忘れて語り合った。ホラー嫌いな渉さんとは絶対にできない会話だと、ふたりで話して笑い合った。
あっという間に日は落ちて、夜になってしまった。いつものように家まで送ってくれた京くんを見つめる。今日はまだ『付き合ってください』と言われてなかったな、と心のどこかで思ってしまう自分に少しだけ動揺した。
「涼介さん、じゃあ、また明日」
「……うん、バイバイ、京くん」
部屋に戻ってからしばらくして、京くんからラインが来た。
『俺と付き合ってください、涼介さん』
『……もしかして、言うの忘れてた?』
『忘れるわけないでしょう。作戦ですよ、これも』
『ふーん』
『で、付き合ってくれるんですか、涼介さん』
俺は苦笑いしながら『い・や・だ』とラインを返す。
『残念です。でも、今日の映画はめちゃくちゃ楽しかったです』
『俺も楽しかった』
『また映画見に行きましょう』
『うん、行こう』
じゃれ合いのような会話をしながら、本当はわかっているんだ。
何回、京くんから「「付き合って」と言われたって、「好きだ」と言われたことは一度もないことを。
もしかしたら京くんにとって俺は、本当にただの「代わり」なのかもしれない。さびしさを埋めるためのほんの一時的な存在。
京くんのさびしさがなくなったら、京くんは俺のそばからいなくなってしまうのだろうか。
「京くんのばーか……」
スマホの画面を見つめながら、小さくつぶやいた。どうか彼の名前が、これ以上、俺にとって特別な響きを持ちませんように。



