――俺と、恋愛的な意味で、お付き合いしてくれませんか?

 昨日の夜、桐生くんはそう言った。

 地下鉄の階段で突然告白されて、俺は何も答えられずにいた。桐生くんの真剣な瞳と、手首を掴む指の温度。

 わけがわからない。

 だって、彼は俺の好きな人の――弟だ。

『ご、ごめん……俺……、ほんとにごめん……!』

 結局、俺はそんなセリフしか吐けず、桐生くんの手を思い切り振り払って逃げてしまった。まるで子供みたいに、一目散に階段を駆け下りて。振り返ることもできずに。

 あとから考えれば、桐生くんが追いかけてこなかったのは、彼の優しさだったのかもしれない。

『京です。中村さんは危なっかしいんで、転ばないで気をつけて帰ってくださいよ』

 さっき交換したばかりのトーク画面に、桐生くんのメッセージが一度だけきた。いったい何を考えているんだろう、桐生くんは。

 渉さんに振られたこと、桐生くんに告白されたこと。考え出したらキリがなくて、ロクに睡眠もできなかった。

 バイト先の更衣室に入り、ロッカーを開けると、アイス屋の制服がハンガーにかけられている。

 俺がここで働き始めたのは、高校一年生の時だ。アイスが好きという単純明快な理由で、一号店のオープニングスタッフに応募した。

 バイト初日。更衣室で初めて制服を手に取った瞬間、正直言って「ほんとにこれ着んのかよ」と思ってしまった。紺地に白いラインが入ったセーラー風のシャツ。胸元には大きく赤いスカーフが結ばれていて、まるで船乗りみたいなデザインだった。ハーフパンツも同じ青で、裾に白いラインが入っている。
 いつか見たアメリカのホラー映画で、アイス屋の店員が同じような服を着ていたのを思い出した。あの男の人は、無惨に殺されてしまったけれど。

 ――かわいいよな、その制服。
 ――そう、ですかね……?
 ――お前に似合うよ、きっと。

 あの時、初めて同じシフトだった渉さんがどこかからかうように言い、俺は少しだけ顔を赤くして『いや、どう考えても無理じゃないですか……?』と泣きそうな思いでつぶやいた。渉さんはずっとけらけらと笑っていた。


 インパクトのある制服だけれど、着てみると意外と動きやすくて、何よりお客さんの受けもよかった。
 特にちびっ子たちは「船長さんみたい!」と喜んでくれるし、お年寄りのお客さんからも「かわいらしいねぇ」と声をかけられる。女子中学生にはくすくすと笑われたが、今ではもう慣れてしまった。

「お疲れ様でーす……!」

 制服に着替えたあと、俺はできるだけ普通を装ってフロアに入った。

「あ、涼介くん、おつー! ……え、なんか疲れてる?」

 バイト先の先輩、まりえさんが赤いスカーフを直しながら、俺を見て笑って首を傾げている。まりえさんは渉さんと同じ大学二年生で、いつも明るくて面倒見がいい素敵な人だ。

「疲れてる……ように見えますか?」
「うん、なんかクマがやばい。昨日、ちゃんと寝れた?」
「……昨日は、あんまり。ちょっと考え事してたら眠れなくて」

 俺は曖昧に笑ってお茶を濁した。まさか合コンで偶然出会った渉さんの弟に、ガチ告白されて混乱してます、なんて言えるわけがない。

「涼介、まりえ、お疲れー」

 その声を聞いた瞬間、心臓が跳ね上がった。

「……あ、渉さん、お疲れ様です」

 動揺を顔に出さないように、小さく微笑んで声のほうを振り向く。
 渉さんは「ういー」と、桐生くんならぜったいに言わなそうなテンション感で俺たちに近づいてきた。

 姿カタチは似ているけれど、やっぱり違う人だ。桐生くんと渉さんは。
 茶色の髪に、耳にあるたくさんのピアス穴。優しい声、明るい笑顔。俺は渉さんへの思いにひたひたと満たされていく。

「……涼介、顔色悪くね? お前、大丈夫?」
「えっ」

 渉さんが心配そうに俺の顔を覗き込んでくる。近い。あまりにも近すぎて、渉さんの長いまつ毛が一本一本まで見えてしまう。

「今、その話してたとこ。なんか涼介くん、考え事して眠れてないって」
「……えー、そうなんだ」

 まりえさんの言葉に、渉さんの表情が少しだけ曇った。
 渉さんは優しいから、俺が眠れないのを自分のせいだと思ってしまうかもしれない。
 それだけは嫌で、俺は目いっぱい笑顔で答えた。

「大丈夫です! ほ、ほんとに! めっちゃ元気! 今日もアイス売りまくちゃおうっかな、なぁんて!」

 渉さんは困ったように笑い、

「ういー、もっと元気出せ、涼介ー!」

 そう言って、俺の髪を両手でわしゃわしゃとかき混ぜ始めた。

「うわっ、ちょ、渉さん!」

 抱きしめられているような近さで、渉さんの香水の匂いがかすかに香った。爽やかなシトラス系の、いつもの匂い。
 途端に胸が苦しくなる。

 好きだ、やっぱり。

 どんなに諦めようと思っても、こんなふうに優しくされると、すぐに心が揺れてしまう。一週間前に振られたばかりだというのに。

 俺は本当にどうしようもないばかだった。

 渉さんは俺の髪の毛を散々ぐしゃぐしゃにして満足したのか、今度は手ぐしで丁寧に戻し始めた。まりえさんが背中を向けて作業している中、俺にだけ伝えるように耳元でささやく。

「俺のこと嫌だったら、シフト誰かと変わってもらうから。遠慮なく言えよ?」
「……いっ、嫌なわけないじゃないですか!」

 俺は大袈裟なくらい首を振った。

「逆に、俺と一緒で渉さんは……嫌な思いしませんか?」

 告白されて振った後輩と一緒に働くなんて、普通だったら気まずいはずだ。

「しない。全然。超楽しい」

 渉さんはあっけらかんと答え、俺はほっと胸を撫で下ろす。
 少なくとも、渉さんは俺のことを嫌いになったわけじゃない。それだけで、もう十分だった。

 もう考えるのに疲れた俺は、仕事に集中することにした。桐生くんのこと、渉さんのこと、昨日の告白のこと。ぜんぶいったん脇に置いて、今はただ目の前のきらきらと輝くアイスのことだけ考えよう。

 そうだ。俺は今日、アイスのために生きる……!!

 気合を入れ直して、ショーケースの前に立った。

「おっ、やる気出てきたじゃん、涼介くーーん」

 まりえさんが嬉しそうに笑い、渉さんも安心したような表情を見せたその刹那、店の扉が開いた。

「いらっしゃいませー!」

 何気なく顔を上げた俺は、入ってくる人影を見て絶叫した。

「ぎゃっ!!!!」
「あれ……京じゃん」

 自動ドアを抜けて、桐生くんがやってくる。学校帰りなのか、S高の制服である紺色のブレザーに身を包んだ彼を見て、俺は一歩後ずさった。

 な、なんでっ!?!?

 昨日の告白の件で頭がぐちゃぐちゃになっているのに、よりによってどうして渉さんがいる時に来るんだ。タイミングが悪すぎる。

「ういー、京じゃん。どうした、おま――」

 渉さんの言葉を完全に無視して、桐生くんはまっすぐに俺を見つめて口を開いた。

「中村さん、大納言あずきください」

 普通に注文されて少しだけ面食らう。
 そうだ、そうだよな。いくらなんでも渉さんの前でまさかそれはないよな。
 ほっとしかけた俺に、桐生くんは爽やかな笑顔で追い打ちをかける。

「あと、俺と付き合ってください」
「……は」

 まぬけに漏れ出た声は、俺の声かと思ったら、隣にいる渉さんの声だった。
 俺、もしかしてまだ寝てる? あれ、これ夢?

 思い切り太ももを叩いたらめちゃくちゃ痛かった。夢じゃねぇじゃん。

 絶望の中での唯一の希望は、まりえさんは別のお客さんを接客中であり、きゃっきゃっと楽しそうに雑談していて、こちらの気まずさにはまったく気づいていないということだった。

「え、何? お前……」

 渉さんが困惑した表情で弟を見つめている。当然の反応だろう。いきなり弟が、自分が振った後輩に告白しているなんて、理解できるわけがない。
 そう……俺だって理解していないように。

「言ってなかったっけ? 昨日から中村さんに交際申し込んでる」
「……は」

 今度こそ俺の声だ。

 俺はだらだらと背中に汗が流れるのを感じていた。一方の桐生くんはまったく涼しい顔をしている。

「え……お前、正気? なんでここで言うの? ていうか、なんで俺の前で言うの? 涼介が気まずいだろ? 気まずいよな、涼介?」

 渉さんが慌てたように、俺に同意を求めてくる。

「……正直、気まずいなんてもんじゃないです。俺、帰っていいですか……」

 俺はもうどうにでもなれと、力なくつぶやいた。さっきまであったやる気が、一気に消えた。逃げ出したい。この状況から一刻も早く。

「だめですよ、中村さん。ちゃんと働いてもらわないと。俺、お客様なんで」
「京さー……、涼介だけじゃなくて、俺も気まずいんだけど」

 渉さんが頭を抱えながら弟に抗議する。

「……俺だって気まずいんだから、黙ってろよ」

 桐生くんは兄を睨みつつ、ぼそりとつぶやいた。何も感じていないような、一見クールに見える桐生くんも一応は気まずさを感じているのだと、俺はちょっと驚いてしまう。

「えー、涼介、聞いた? こいつウザくね~~!?」

 渉さんがテンション高めに、俺に訴えかけてくる。俺はなんとも言えなかった。
 三者三様の気まずさが店内に漂う中、まりえさんとお客さんの盛り上がる話し声が別世界のように聞こえてくる。

「で、中村さん、大納言あずきは?」
「あ、はい……失礼しました。コーンですか? カップですか?」
「コーンで」
「かしこまりました。お会計はこちらになります」

 機械的な会話を繰り返しながら、俺は桐生くんと目を合わせないようにした。でも、彼の視線が俺をじっと見つめているのが分かる。それに、気まずそうに笑っている渉さんの視線も。

 地獄の状況だとしても、俺はプロのアイス屋だ。何があっても、アイスはすくう。なんてばかなことを思っていなきゃやってられない。

「お、お待たせいたしましたぁ……」

 震え声になってしまったが、なんとか営業スマイルを浮かべて大納言あずきのアイスを差し出した。桐生くんは俺の手からアイスを受け取ると、そのままカウンターに背を預けて食べ始める。まるで子供だ。

「せめて椅子座って食えって、京」

 渉さんが呆れたように弟に注意する。やっぱり本当に渉さんの弟なんだな、と今さらなことを思った。

「今日どうせあんま客来ない日だろ。客来たら退くし」

 桐生くんは何食わぬ顔でそう応える。たしかに今日は、いつもより客足が少ない予定の日だ。でも、どうして桐生くんがそんなことまで知っているのだろう。渉さんから聞いたのか、それとも何度か店の様子を見に来ていたのか。

 疑問を抱えながら、俺はマニュアル通りに口を開いた。

「ポ、ポイントカードはお作りになりますか?」
「ああ、作ってください」

 桐生くんはそう答えると、コーンをガリッと噛みながら、渉さんのほうを見据えた。

「あんたが俺を中村さんに推薦しろよ。大事な弟だろ」
「お前さ、兄貴に向かってその言い草……。まあいいけど」

 渉さんはこの異常事態を楽しみ始めているのか、きれいな白い歯を見せておかしそうに笑った。困ったような表情を浮かべながらも、なぜかどこか嬉しそうに見えるまである。

「……えーと、京のいいところは、行動力がある。ごらんのとおり」

 渉さんが半笑いで弟の長所を挙げ始めた。俺はひきつった顔で「はぁ……」と気のない返事をする。
 振られた相手に、弟を推薦される俺の気持ちを誰か四文字で答えてくれ。
 気まずさが限界突破して、もう笑うしかなくなってきた。

「性格は真面目だし、勉強もできる。誰にでも優しい……ってわけじゃねぇけど、好きなやつにはとことん優しいし、料理もできるし、バスケとか運動もイケるし、見た目もまあ……俺に似て、悪くないだろ?」
「あんたより、俺の方が上だけどな」

 桐生くんがあっけらかんと言い返す。兄弟の掛け合いを見ていると、普段は仲がいいのだろうということがよくわかった。

 俺だって、こんな状況じゃなければ、桐生兄弟を大変微笑ましい気持ちで見つめていただろう。

「涼介さぁ、これはマジな話なんだけど……、お前のこと悪いようにはしないと思うから、京と付き合ってやってくんねぇ?」

 渉さんが思いのほか真剣な表情で俺を見つめてくる。ずるい。そんな優しい瞳に見つめられると、断る言葉が喉の奥で詰まってしまう。

「か、……考えさせてください」

 俺は曖昧に答えながら、手元のポイントカードに集中した。真新しいスタンプカードに、かわいらしいアイスクリームの形をしたスタンプをぽん、と一個押す。

「二十個貯まったら、お好きなシングルアイスを一個サービスさせていただきます」

 マニュアル通りの説明をすると、桐生くんは大納言あずきのアイスを一口食べ、俺から受け取ったポイントカードを大切そうにズボンのポケットにしまった。

「また来ます」

 ぐっと言葉を失った俺とは違って、桐生くんは最後まで堂々とした様子で店を出て行った。渉さんはくつくつと笑ったあと、「もうひとつあるわ、推薦したいとこ。あいつ、すげぇ一途だよ」と俺の心臓をぐさりと刺す。


***


「ういー、お疲れー、涼介」
「お疲れ様でした、渉さん」

 閉店後、渉さんは帰り際に、ふと振り返って優しい表情で言った。

「お前さ、京のこと、あんま考えすぎんなよ?」
「………………………はい」

 渉さんらしい気遣いの言葉に、たぶん無理だと思います、という言葉を呑み込んで、なんとか返事をする。

「めっちゃ間があったな」

 笑ってからかってくる渉さんは、やっぱり憎めない人だ。
 屈託なく笑った渉さんは、俺に軽く手を振って裏口から消えていった。その後ろ姿を最後まで見送りながら、少しだけ胸が苦しくなる。

 帰り支度をして外に出ると、街灯の下に見慣れた人影があった。いつから待っていたのか、桐生くんがガードレールにもたれて立っていた。

「『また』の頻度おかしいって……」

 思わず口にした言葉。俺が呆れていると、桐生くんは「すみません」と軽く頭を下げて近づいてくる。

 すみませんと言いながらも、その声のトーンから全然そう思っていないのが丸わかりだった。むしろ、どこか楽しそうにすら聞こえる。桐生兄弟……ほんとにおそろしすぎる。

「暗いし、最近物騒なんで、家まで送ります」

 桐生くんの提案に、俺は慌てて首を振った。

「だ、大丈夫だって! 女の子じゃないし、自分で帰れるから!」
「そこは性別関係ないでしょう」

 桐生くんはあっさりとそう言った。その自然な物言いに、俺の心臓がドキンと跳ねる。
 きっと桐生くんは恋人になったら、すごく大事にしてくれそうなタイプだ。連絡もマメで、記念日とか大切にしてくれて、スキンシップもたぶん多くて、それから……なんて不純なことを思っていたら――。

「中村さん」
「へっ!?」
「……ちょっとだけ、俺の話に付き合ってもらっていいですか」

 桐生くんが指差したのは、通りにある公園だった。俺は観念して、「ん」とうなずく。

 夜の公園は静かで、街灯がぽつぽつと道を照らしていた。ふたりでベンチに座り、それぞれ前を見ている。

「昨日は中村さんのことをずっと考えていて、少しだけさびしくなかったです」

 桐生くんが静かに口を開く。

 ――……俺たち、心の隙間を埋め合いませんか?

 昨日の言葉が脳裏に浮かび、心臓の奥がぎゅっと締めつけられた。

「中村さんは? 会えなかった時間、俺のこと考えてくれましたか?」
「……か、考えちゃうだろ、そりゃあ。あんなこと言われたら」
「何対何ですか?」
「えっ?」

 桐生くんが真面目な様子で俺を見る。

「兄貴と俺の比率ですよ、決まってるじゃないですか」

 なんて直球な質問だ。

「な、7対3……?」
「……俺が3かよ」

 少しがっかりしたような声で桐生くんは言う。
 ちょっとだけうそをついた。ほんとは6対4くらいにはなっていた。いや、もしかしたらもっと。でも、そんなこと口に出せるわけがない。

 桐生くんは前を向き直して、切り替えるように深く息を吸った。

「情けない話ですけど、告白もできなかったんです、俺」

 俺は驚いて桐生くんを見つめた。今、こんなにも堂々としている桐生くんが、告白できなかった? とても信じられない。

「俺の好きな相手は男の人で……きっと俺には勝ち目がないと思ってました。だから、その人がいつか女の人と幸せな人生を歩むのを、こっそり見ていたい――なんて、反吐が出るようなことを考えてました」

 桐生くんの言葉に、かすかな苦しさを感じて、唇を噛んだ。
 同じだ。同じすぎて、心臓が痛い。
 俺も渉さんのことを、遠くから見ているだけで満足だと思い込もうとしていた。でも、押し込めようとしたその想いはあふれ出し、結局、告白という形になってしまった。

「なのに……」

 桐生くんの瞳に、鋭い光が宿る。

「気づいたら、その人が男の人を好きになってて、何もできずに振られたんですよ」

 辿った道は違えど、桐生くんも感じているのだ、俺と同じ痛みを。

「めちゃくちゃ思いましたよね、……男でよかったんなら、……なんで、俺じゃねぇんだよって」

 あざけるような笑みの中に、強い意志が込められていた。

「だから、もう待ってるだけは嫌なんです」

 俺は深呼吸をして、桐生くんを見上げた。ずっと言いたくても、言えなかったことだ。

「……お、俺は、桐生くんの好きな人の代わりにはなれないよ」

 桐生くんがおかしそうに笑う。その笑顔が、なぜか少しだけさびしげに見えた。

「そのままの中村さんでいいです」

 桐生くんが立ち上がって、俺の前に回ってしゃがみ込んだ。そして、俺の目をまっすぐに見つめて言う。

「俺は、あなたと付き合いたい。兄貴に振られて、ずっと泣いてたあなたと」
 
 真剣な表情と、たしかな声に、俺の心臓が大きく跳ねた。

「わ、わかんないよ……俺……。わかん、な、い……」

 鼻の奥がツンとする。また桐生くんの前で泣きたくなくて、それ以上言葉を紡げなかった。

「いいんですよ、わかんなくて」

 そうつぶやく桐生くんは、俺のぜんぶを呑み込んでしまいそうなくらい、甘くて優しい声を出す。

「ぜんぶ、俺のわがままです。中村さんは何も悪くない。ただ俺たち、お互いを必要としてると思いませんか?」

 誰かに好意を向けられた時、撥ねのけるのにも力が必要だなんて知らなかった。ましてや、相手は好きな人の大切な人で。

「俺を選べよ、中村さん。大事にするから」

 桐生くんが顔を近づけてくる。その瞬間、甘い香りが鼻をくすぐった。

「だ」
「……だめ?」

 キスしてしまいそうな距離で、桐生くんが試すように瞳を細める。

「だ、大納言あずき、の匂いがする」

 俺がそう言うと、桐生くんは「ふはっ」と声を出して笑った。渉さんに似ている顔と体で、だけど渉さんとは違う笑い方。目尻がふにゃふやになって、どこか人懐っこい笑顔。
 こんなふうに優しく、桐生くんは笑うのか。

 俺は浅い呼吸を繰り返しながら、桐生くんから目が離せなくなっていた。

 渉さんと顔は似ているけれど、桐生くんの左目の近くには、小さなホクロがある。違いを見つけては安心し、でも次の瞬間には長いまつ毛は渉さんと同じだと気づいて胸が締め付けられる。
 似ているところを見つけては渉さんを思い出し、違うところを見つけては桐生くんを意識してしまう。心があっちこっちに揺れて、めまいがするほど苦しい。

 この人は渉さんじゃない。でも、たしかに渉さんと同じ血を分けた兄弟で。俺の心は、ふたりの間を行ったり来たりして、どこにもたどり着けずにいた。

「大納言あずき、おいしかったです。……中村さんは――」

 何かに気づいたのか、桐生くんが急にすんすんと俺の首筋を嗅いだ。

「……ちょっ、」
「なんか兄貴の香水の匂いになってません……? あの人に不用意に近づくのやめてもらっていいですか?」

 本気か、冗談か、桐生くんは困ったように笑いながら言った。

「ふ、不用意に、近づいてなんか……」
「わかってます。今のはただの嫉妬です」

 カッと頬が熱くなる。桐生くんは少しだけ驚いたように目を見開いたあと、俺の目をじっと見つめてきた。

「もしかして俺のせいで赤くなってるんですか、中村さん」
「……も、もしかしなくても、そうだよ! き、桐生くんのせいで……俺は、昨日だって……わけわかんなくて……今だってそうで……」

 赤い頬を見られるのが嫌で、そのままうつむいた。桐生くんはわからなくていいと言うけれど、そんな曖昧な感情で、桐生くんを傷つけてしまったらと思うと、たまらなく怖くなる。

「なんなんだよ、マジで。心配になる。……中村さん、そんなかわいくてどうするんですか?」

 桐生くんの怒ったような声に、頬がさらに熱くなった。

「……わ、渉さんは、俺にかわいいとか言わない!」

 どうしてそんなことを言ってしまったのか。きっと、渉さんが俺に言わないような言葉で、そして桐生くん本来の言葉で、渉さんといる時とは違うときめきを感じてしまったせいだ。罪悪感みたいなものが、俺の心に絡みついている。

「知らないんですね」
「……な、何が」
「俺には、言ってましたよ。『あいつはかわいい』って」
「……えっ」
「わかりやすくときめいてんじゃねぇよ」

 桐生くんが不機嫌そうに吐き捨て、俺はぎょっとする。たしかに少しうれしかったけれど、拗ねたみたいに口が悪くなる桐生くんのほうが、ちょっとだけ……かわいいと思ってしまった。

 自分の妙な気持ちに戸惑っている間に、桐生くんがつぶやく。

「また明日、会いに来ます」

 言うまでもないけれど、俺は桐生くんのせいで心がぐちゃぐちゃだった。これ以上は無理だ。「……来なくていい」と小さくつぶやくと、桐生くんはなぜかうれしそうに肩を揺らす。

「いやです。ポイントカード貯めないと」

 あと19個……うそだろ、かんべんしてくれ。

「ういーー、俺のこと待っててよ、涼介」

 急に渉さんのまねをした桐生くんをぎりっと睨もうとしたけれど、あまりに陽キャなテンション感が似すぎていて、俺は不覚にも息もできないくらい笑ってしまった。
 どこかで見たことがある。笑いのきっかけは緊張と緩和らしい。たぶん、俺は気づかないうちにすごく緊張していたのだろう。

 大笑いしている俺の横で、

「あなたのためなら、何回だって、何百回だって、あの人になれます」

 なんて、桐生くんは真面目にささやくのだ。

 本当にそんなんでいいの?って問い詰めたくなってしまう。

 俺は……君の好きな人に、どうやったってなれないのに。

 桐生くんを抱きしめてしまいそうな両手をぐっと握りしめた。

 なぁ、桐生くん。俺があの人に振られて泣いていたように、君も俺が知らない誰かに振られて、ずっと泣いていたんだろ、きっと。