潮風に少しだけ春の匂いが混じっていた。けれど、それはまだほんの微かな気配にすぎなかった。日差しは白く乾いていて、海面は光をうっすらと跳ね返すばかりだ。
海は、どこにも染まりきれずに、どこか所在なく、ただそこに広がっているだけだった。
波は絶え間なく押し寄せては引いてを繰り返す。
そのどれもが、記憶のように形を残さない。
 記憶とは一体なんなのだろう。
 僕は、ぼんやり海を眺めながら考えてみた。
 思い出すことか。覚えていることか。
 それとも、誰かと共有していた時間の残響のことか。
 どれも正解で、どれも間違いな気がする。
 僕の中にも、確かにあったはずの時間がある。
 でもそれを証明するものは、どんどん消えていく。
 刹那的だ。
 あの声も、あの笑顔も、触れた温もりさえ、曖昧になっていく。
 まるで最初から、そんな人間など存在しなかったかのように。
 思い出せないことが増えていく。
 過去とはなんだろう。
 未来はなんとなく理解できる
 未来はやがて今になるからだ。でも過去はそうじゃない。
 かつて今だったものが過去になる。
 その人がもういないという事実が、過去から現在を遠ざけていく。
 僕が覚えていたとしても、それは果たして存在したと言えるのだろうか。
 独りだけが持つ記憶なんて現実ではなく、幻想ではないか?
 また波が押し寄せて、すぐに引いた。
 僕の過去も波がさらってどこか遠くに流してしまったのだろうか。
 「なぁに、黄昏てんだよ」
 不意に声がして振り返る。
 レモン色の軽自動車の隣で呑気にコーラを飲んでいた金之助が僕の方に近づいてくる。
 「寒いな。こんな時期に海に入ったら凍え死んじゃうな」
 「うん、そうだね。なぁ金之助」
 「うん?なんだい?」
 「金之助は、天国とか地獄とかあると思う?」
 「なんだよ急に」
 彼は頭をひねった。
 なので僕は話題を変えた。
 「金之助は信じるか?僕の話」
 「あーなんだっけ。その月歌だっけ?」
 「ああ」
 金之助は少し考えこむように唇を歪ませた。
 「信じるとか信じないとか。そういう次元の話じゃないような気もするけど」
 「どういう意味?」
 「誰かを信じるって不確かなものに使うだろう?でも、記憶っていうのは逆だと思うで。信じるか、信じないか、じゃなくて、そこにあるかないか。それだけなんだよ」
 金之助はペットボトルのふたを開けた。
 ぷしゅうと間抜けな音を立てる。
 「俺はその子のことは全くわかんないけど。だけど、お前の中にそいつが生きてるんなら、俺はそれでいいと思うよ」
 その声は、いつもより低く、落ち着いていた。
 でも、その言葉はどこまでもあたたかく、どこまでも優しかった。
 「月歌が言ってたんだ。死んだから星になりたいって」
 彼は黙って僕を見た。
 「金之助はどう思う?月歌は星になれたと思うか?」
 「この世は、すべて思い込みでできていないか?さっき、お前が言った天国や地獄も結局は人間の思い込みにすぎないだろう?」
 僕は何も言わなかった。
 やがて、「でも、なれたと思うよ」と金之助は言った。
 「え?」
 「俺はなれたと思い込むよ。それに月歌は確かに存在したって思い込むし。それで十分じゃないか?」
 「思い込みか・・・」
 しばらく二人は無言で海を眺めた。
 「流そうかな?」
 僕は尋ねた。
 「さーな」
 「後悔するかな?」
 金之助は頭を搔いて、「わかんねぇけど、そういう時は流さない方がいいよ」と親身な口調で言った。
 「そっか。そうだな」
 「流したくなったらまた来ればいいさ。その時は俺が連れきてやるよ。おんぼろだけどな」
 そう言って、自分の愛車を指さして笑った。
 「そういや、就職はどうするん?秩父にけぇってくるん?」
 帰り道、トンネルを抜けてたところで金之助が口を開いた。
 「いいや。秩父には戻らないかな」
 「そっか。でも、両親美大に行くこと許してくれたな。ゆうん家の親って結構厳格じゃなかった?」
 「まぁね。最初は勘当されてたよ。でも、高三の頃、コンクールに応募したんだ」
 「え?そうだったん?」
 「うん。そしたらその絵が入選して関東代表までいったんだよ」
 「ええ!まじか!そんなの初耳だぞ」
 「そこらへんから徐々に認めてくれたっていうか」
 「へー!そっか。やっぱりお前の絵すごいんだな。でもよ、ちょくちょくけぇってこいよ。つまんねぇからよ」
 「うん、気が向いたらね」
 「お!よし!もう俺、競馬に賭けないで、お前のその気が向いたらにかけるわ」
 「競馬なんかやってるの?金之助も随分社会人らしくなったな」
 「まぁな。久しぶりにホルモンでも食い行く?」
 「景気良さそうじゃん」
 「あたぼうよ!」そういって、アクセルをふかす。
 車内で流れるラジオは、将来の夢についてのハガキが紹介されていた。
 何気ないパーソナリティーのジョークに金之助は小さく笑っていた。
 まるであの時、病院の去り際に見せた笑顔のようだった。