朝早く起きて、着替えが入ったリュックを背負い、母親に、「友達の家で勉強合宿をしてくる」と言って家を出た。
 集合時間に駅へ行くと、彼女が出迎えた。
 白のベレー帽にベージュのワンピース。彼女はおしゃれに夏を体現していた。
 ベレー帽は少し早いような気もするけど。
 まさか、夏を越えられいという伏線なのか。
 「やーやー!一週間ぶりだねぇ」
 「そうだね」
 「珍しいじゃない、お主から誘いの連絡をくれるとは。しかも遠征だなんて。いやらしいことでも考えているのかい?」
 彼女はふざけた調子でそんな理解不能なことをいった。
 「そういう僕の品位を下げる発言はやめてよ。僕は純粋に旅行に行きたいだけで。友達がいないから仕方なく暇そうな君を誘ったんだよ。邪(よこしま)な気持ちがあるのはそっちでしょう?」
 「ないわ!このボンキュンボンな胸に誓ってね」
 「暑いから早く電車に乗らない?」
 彼女の戯言を無視して、会話の舵を思いっきりきった。
 僕はそそくさと駅の中へ避難することにした。
 「おい!無視すんな!」
 そんな言葉が背後から聞こえたが、もちろんそれも無視した。
 今日は晴れているが太陽は控えめで、過ごしやすい日だった。まさに、遠征日和。
 さっそく電車に乗り、二時間ほど揺られ、その後僕らは新幹線に乗車した。
 窓の外には、朝霧の残る田畑が広がっていた。時折、あくびしそうな街が遠くに流れていく。
 月歌は隣で先ほど買った紙パックのオレンジジュースを飲んでいた。
 「ねぇ、旅行ってさ、行く前がいちばん楽しくない?」
 「行く前?」
 「そう。まだ始まっていない、どこにでも行けそうな感じ」
 月歌らしいなと思った。
 「なるほどね」
 笑いながら彼女の横顔を盗み見る。
 窓に映ったその顔は少しだけ寂しそうに見えた。
 「行き先、決めてないんだよね」
 「うん。だから逆にどこにでも行けるってことだよね。今日は地図じゃなくて気持ちで決める旅!」
 ジュースを勢いよく吸って彼女はにこりと笑った。
 その笑顔の裏に何か隠していることを僕はもう知っている。
 「どんな旅になるのかな」
 呟くようにいった。
 僕の呟きに少し考えてから、そっと窓の外に目を向ける。
 「忘れられない旅。かな」
 「どんなふうに?」
 「うーん。たとえば、電車の音とか朝の匂いとか、空の色とか。些細なものが全部記憶に染みついちゃうような。そんな旅。・・・なーんちゃって」
 おどけているけれど、本音だろうなと思った。
 僕はなにも答えなかった。
 ただ頷いて、手を伸ばして少しカーテンを引いた。
 朝の日差しが眩しすぎたから。

 新幹線は定刻通り僕らの目的地に到着した。
 急いで荷物を持ち下車する。ホームからいろんなお店が並ぶフロアに出て、少し歩き、エレベーターで地上へ上がり、やっと改札を出た。
 「うわー!いい匂いー!」
 「それで、どうするの?」
 「とりあえず、お昼にしない?」
 「うん。そうしよう」
 僕らは適当に街を歩き、目をひいたお好み焼き屋さんに入ることにした。
 「私、本場のお好み焼き食べるの初めて!ゆうくんはある?」
 「いや、僕もない」
 そういえば、正確に言うとお好み焼きの本場は東京らしい。というのを新幹線の中で読んだ雑誌に書いてあった。
 「安心していいよ、私がおすすめなの頼んであげる」
 「食べたことなんじゃないの?」
 「細かいことは気にしなーいの」
 結局、彼女は店員さんにおすすめを訊きいていた。
 「じゃ、それで!あとウーロン茶二つください!」
 「おおきに」
 マニュアルなのか自然なのかわからないけれど、店員さんはこの地ならではのお礼の言葉を残して速やかに去って言った。
 「うわー!本場のおおきに初めて聞いた」
 彼女は事あるごとに反応し楽しそうだった。
 あまりにも楽しそうなので無理に明るくしているのではないか?と疑うほどだった。
 先にウーロン茶が到着し、その後すぐにお好み焼きが運ばれてきた。
 自分で焼くのではなく店員さんが焼いたものを持ってきてくれるスタイルのお店で、運ばれたときにはすでに焼き上がっており熱々だった。
 マヨネーズとかつお節と青のりが香ばしい。
 月歌はそれをみて、「きゃー、美味しそう」と目をとろけさせていた。
 肝心の味はというと、あまりの美味しさに彼女も口を閉じ、黙々と本場のお好み焼きに舌鼓を打つほどだった。
 彼女が黙るほどという表現をすれば、美味しさの規模を簡単伝えることができるだろう。
 すぐさま食べ終わり、如何せん満たされないお腹を追加注文の生姜焼きで埋めてみることにした。
 これもまた美味(びみ)だった。
 支払いは僕がすることになっているので、伝票を持ってレジに向かう。
 封筒から、千円札を三枚取り出し、おつりをもらう。
 小銭を封筒に入れて、外に出た。
 「うますぎたー!」
 お店を出た彼女の第一声。
 僕もそれには頷く。確かに美味しすぎた。
 とりあえず、土地勘が全くないこの街をとりとめなく歩いてみることにした。
 目的地を決めているわけではなかったけれど、初めて訪れる街並みは歩くだけで十分楽しむことができた。アクセサリー屋さんに入ってみたり、有名なライブハウスを覗いてみたり、掛けもしないくせにメガネ屋に寄って、不思議な形のメガネを掛け合ってお互いを愚弄したりした。
 街並みを歩いていると、ふと月歌が立ち止まった。
 「うわ!なにあれ!」
 彼女が指さしたさきにあったのは、小さな道の駅だった。地方都市の片隅にある、派手さはないけれど妙にあたたかな雰囲気を縫った場所。
 面白そうなので寄ってみる。
 木造のアーチをくぐると、中は意外にも賑わっていた。地元の野菜や工芸品、名物の屋台までずらりと並んでいる。
 僕たちはあちこちの店を見てまわった。干し柿やご当地キャラのキーホルダー、甘酒の試飲や変わった味のポテチの試食コーナー。月歌はご丁寧に勧められるすべての飲み物や食べ物を享受した。
 はたまた月歌はお香のコーナーで、「これ、おばあちゃん好きそう」と顔をほころばせながら手に取っていた。
 また外に出ていろんな店の前を通り過ぎたり外から眺めたりした。
 すると、香ばしい匂いに誘われて、ラーメン屋の前で二人とも足を止める。
 「ラーメン美味しそう!」
 「確かに・・・さっきお好み焼きと生姜焼き食べたのに」
 ちょっと店前のメニューを眺める。
 そして気がつけば僕らは、お店に入ってカウンターに座っていた。
 「食べきれなさそうだから一杯だけ頼もうか」
 「うん!だね!」
 僕がそう打診し、一番人気のトマトラーメンを注文した。
 スープが真っ赤だが、辛くはないよう。
 お昼時ではないため、すぐにラーメンが到着した。
 鼻をくすぐったのは、トマトの甘酸っぱい香りとバジルの爽やかな香りだった。
 スープは真紅に輝き、表面にはとろけたチーズが浮かんでいる。
 ひとつのどんぶりを二人でシェアすることにした。レンゲを交代で使いながら、どこか小さな子どもみたいに笑い合う。湯気の向こうで、月歌が目を細めていた。
 食べ終えると、今度は道の駅の裏手にある広場へ足を運んでみることにした。
 そこには小さな観覧車と小さなメリーゴーランドが常設されていた。
 それは控えめに佇んでおり、まるで誰かの秘密の遊園地みたいだった。
 入り口にはプチ遊園地と書かれている。
 「わわわあ。かわいい!なにこの道の駅~!」
 確かに、かわいい。
 月歌は、早速メリーゴーランドの方へ走り出した。
 僕も周囲をぐるぐると見渡しながらゆっくりその背中を追う。
 「ねぇねぇ!これ乗ろうよ!」
 「僕はいいから。乗ってきなよ。ほら写真撮ってあげるから」
 「ちぇー。じゃしっかりかわいく撮ってね!任せたよ!変態カメラマン!」
 「変態は余計だ」
 現金払いのようで係の人に三百円支払い、馬にぴょこんとまたがった。
やがて小さくベルが鳴って、月歌だけを乗せたミニメリーゴーランドが回りだす。
『星に願いを』のメロディーが小さい道の駅に鳴り響いて、秘密の遊園地は静かに賑わいを見せる。
 僕は柵の外で、彼女が通り過ぎるたびにスマホで写真を撮った。
 「いえーい!」
 スマホを向けるたびに彼女はピースをしていた。
 楽しそうに笑っている。
 アトラクションが五周半したところで、緩やかに停車した。
 「観覧車には一緒に乗ろう?」
 彼女が猫撫で声で言ってきた。
 なので、心優しい僕は観覧車には一緒に乗ることにした。
 観覧車の中心には、『パンプキン観覧車』とあった。
 ゴンドラがかぼちゃの形をしていて、それがこの場所をよりメルヘンに染めていた。
 こちらもかわいさ満点だ。
 「かぼちゃ?」
 僕が声に出すと、月歌はくすっと笑った。
 「シンデレラみたい!かわいい~」
 ぎし、と扉が閉まって、かぼちゃのゴンドラはゆっくりと地上を離れた。
 中もちゃんと丸くて、壁にはかぼちゃの種が描かれていた。小さな豆電球が吊るされており、それが恥ずかしそうに灯っていた。
 「すごいデザインだね!」
 「ほんとだね。そういえば今、これ見て思い出した。気になってたんだけど、月歌家のトイレもおしゃれだったけど?あれは誰のデザイン?」
 「あー。ゴリラのアトリエ?」
 「そう」
 「あれはねぇ。トイレのデザインはおじいちゃん!ゴリラのアトリエっていう看板は私が作ったの。小学校の図工の時間にさ。そういうのあったでしょう?」
 「あったね」
 小ぶりな観覧車のためすぐにてっぺんにさしかかる。
 頂上でも大した高さを感じることはなかった。
 それでも、遠くの山並みや小さな街の屋根なんかが見えた。
 ふと見下ろした月歌が、ため息まじりに呟いた。
 「こうしているとさ、まるでどこか遠くに旅してるみたいだよね」
 「してるじゃん、じっさい」
 「そうなんだけど・・・ほんとはもっと遠くの知らない国とか、夢の中とか、そういうの」
 「・・・うーん」
 かぼちゃの馬車に乗ったまま、遠くの国へ。
 それは、もしかしたら月歌が思い描く、旅立ちのかたちだったのかもしれない。
 僕は隣で、小さく息をのんだ。
 夕焼けがゆっくりと世界を染めていく。
 沈黙が少しつづいて、やがて月歌がぽつりとつぶやいた。
 「このまま、空に浮かんでいたいな」
 「ウルトラマンみたいに?」
 おどけて僕が言うと、ちょっと笑って、「ウルトラマンは可愛くないからやだ」と言った。
 まるで、魔法が解けるのを恐れているような口ぶりだった。
 それは、彼女の切実な願いだったのかもしれない。遠くのほうで『星に願いを』が聞こえてきた。子どもたちの声もそれに混じって聞こえてくる。
 やっぱり今日の彼女は少しおかしい気がした。
 
 「ここかー!」
 スマホと照らし合わせて、彼女が叫んだ。
 「・・・で、でか」
 あまりの大きさに思わず声が漏れる。もちろん事前にスマホで拝見済みだったのだけれどやはり本物は違う。
 どこまでもまっすぐに伸びるガラス張りの高層ビル。その最上階は見上げても霞んで見えないほどで、雲を突き抜けるかのようなその高さにただ息をのんだ。
 ビルの壁面は鏡のように空を映しだしており、まるで別世界への入り口のようだった。
 僕なんかが入っていいのだろうか。そんな思いが一瞬、頭をかすめる。
 回転式の自動ドアを抜けると多方からホテルマンの視線を浴びた。髪をオールバックにした中年の男性が近づいてきて、白い手袋をした指先で僕らの荷物を預かり、ロビーに案内してくれた。
 瀟洒なイスに彼女と向かいあって座っていると、今度は若い女性がお茶とまんじゅうを持って現れた。彼女は悠々とお礼をいい、僕は会釈だけした。まんじゅうを食べながら先ほどの男性がホテルの説明をしてくれた。夕食はバイキング式で食べ放題。館内にはゲームセンター、カラオケ、バー、などの娯楽が詰まっていると知った。
 つまり、至れり尽くせりというわけだ。
 終始丁重なホテルマンは僕らを部屋まで案内すると、笑顔を残して次の仕事へ向かうため退いた。
 ドアを開けた瞬間、冷えた空気とともに微かに花のような香りが鼻先をくすぐった。
 「わぁ・・・!」
 月歌が小さく歓声をあげる。
 広い室内には、黒を基調としたベッドが二つ、柔らかそうなソファー、そして大きな窓。カーテンの隙間からは、さっきまで歩いていた街の明かりが遠く瞬いていた。
 「すごい!すごいよ!ゆうくん。ここ天国かも!」
 「天国も地獄も信じないんじゃないの?」
彼女は靴を脱いだまま床に足を投げ出して、ベッドに飛び込んだ。弾力で体が弾む。
 「しあわせってこういうことを言うんだよ!ぜったい!」
 僕は荷物を置き、部屋の中を改めてじっくりと見渡した。
 壁際にはネスプレッソの機械。テーブルの上にはウェルカムスイーツらしき小さなモナカとメッセージカード。
 洋風なのに、出迎える甘味が和菓子なのが面白い。
 バスルームのドアが少し開いていて、そこから大理石のカウンターが覗いている。
 「こんなところに泊まっていいのか・・・」
 「今さら遠慮すんな~!」
 月歌は身体を起こして、満面の笑みをこちらに向けた。
 目がキラキラと輝いていて、まるで頭上のシャンデリアの光をそのまま映したようだ。
 彼女はおもむろにベッドから降り、バタバタとベランダの方に向かった。
 「す、すごーいい!」
 僕もあとに続いてベランダに出た。
 まだ少しだけ熱を帯びた風が頬をなでて、遠くの街が茜色に染まっている。
 「うわ・・・」
 「んね。すっごい綺麗」
 高級ホテルから見下ろす景色は、まるで映画のワンシーンのように見えた。ビルの合間からのぞく太陽が空を濃く、深く、赤く、染めあげていた。
 月歌は手すりにもたれて、うっとりとした表情で空を見上げている。
 その横顔が僕には空よりもずっと綺麗に見えた。
 「・・・描いてもいい?」
 「ん?」
 「今の月歌を絵にしたい。・・・いい?」
 一拍置いて、月歌は嬉しそうに笑った。
 「うん!もちろん!じゃ動かないで待ってる!」
 部屋に戻って画材を探そうとした僕に、「リュックの一番手前のチャックに入ってる!」と動かずにモデルが言った。
 お馴染みのクレヨンとスケッチブックを持ってベランダに戻る。
 夕焼けの中に立つ彼女の輪郭を目でなぞり、心でとらえながら線を引いていく。
 オレンジと黄色と、すこし赤。
 光が彼女の髪の毛に淡く透けて、目尻に影を落とす。風がスカートを揺らし、そのたびに光が形を変えていく。
 僕はそれを追いかけるようにクレヨンを走らせた。
 「ゆうくんの絵を描いている時の顔、好きだよ」
 クレヨンを持つ僕の手が止まった。
 「すっごく真剣で。やさしくて。それにちょっと寂しそう」
 僕は何も言わず、スケッチブックに向き直る。けれど、胸の奥がぽつりと熱くなっていた。
 描き終えるころには、空が群青色に変わり始めていた。
 夕焼けの最後の光を抱きしめるように、街の明かりがぽつぽつと灯っていく。
 「ありがとう。月歌。すごく綺麗だったよ」
 こんな歯の浮く代表みたいな言葉を、なんの恥ずかしげもなく言えてしまう僕は、とうとうおかしくなってしまったようだ。
 「ううん。ありがとうって、こっちの台詞」
 彼女も胸がむずがゆくなるようなことを言った。
 彼女は静かに微笑んで、僕の肩にそっともたれかかった。
 「今日の空、きっと忘れないよ」安心したように彼女が言った。
 僕はその言葉ごと、スケッチブックに封じ込めた。
 忘れないように。
 
 エレベータの扉が開くと、甘くて香ばしい匂いが漂ってきた。
 さまざまな形の照明の下、ビュッフェスタイルのレストランはまるで祝祭のような賑わいを見せていた。
 肉が焼ける音、グラスが重なる音、笑い声、皿の触れ合う音がこの空間を作っていた。
 僕はどこか夢の中にいるような気持になった。
 「すごい!おとぎ話の晩餐会みたい!」
 月歌が隣で、はしゃいでいる。
 その横顔には昼間にメリーゴーランドと同じ無邪気な光が灯っていた。
 席につくと、スタッフが丁寧に料理の案内をしてくれた。
 鉄板焼きのステーションでは、目の前でシェフが肉を焼き上げている。
 サーモンのマリネやローストビーフ、パスタに小ぶりなフォアグラのソテーまで、まるで絵の具のパレットのように並んでいた。
 「うわー!あれ取ってこよう。あと、あとあれも!」
 「ちょっ。お皿が足りなくなる」
 頓宮を持った月歌が、まるで宝探しをするみたいに料理を選んでいく。
 僕もそれにつられて、普段なら手を出さないような凝った前菜に手を伸ばした。
 テーブルに戻ってきて、ふたりで皿を見せ合う。
 「ゆうくん、サラダばっかりじゃん!健康志向?」
 「いや、見た目綺麗だったから。つい」
 「さすが芸術家だ!じゃ、交換しましょう。私のこのミニハンバーグ、かわいいし美味しそうだよ」
 遠足のお弁当を分け合うみたいに、ふたりで少しずつ交換して食べる。
 料理を口に運ぶたび、月歌は「これやばい!」「うま!」「あっ次これ食べてみて」と次から次へと言葉をあふれさせた。
 そのすべてが今という瞬間を丸ごと味わっている証のように思えた。
 デザートのコーナーではチョコレートファウンテンと色とりどりのマカロン、ショートケーキにジェラートまで揃っていた。
 「ねぇ!みてこれ!小さなパフェ作れるみたい!」
 「絶対作るんでしょう?」
 「もちろん!」
 月歌は小さな器にアイスをのせて、果物やチョコを慎重に重ねていく。
 最後にさくらんぼを乗せると、得意げな顔で僕に差し出した。
 「はい、これ!ゆうくん用」
 「よく、まぁ、器用に乗せたね」
 「でしょ!でしょ!」
 そんなふうに笑い合いながら、気が付けば空はすっかり夜の帳が降りていた。
 「ほら、ゆうくん!食べるよ!」
 「あ、ああ」
 僕らは仲良くパフェを持ち、席に戻った。
 
 「ふ~。おなかいっぱい」
 月歌がイスにだらけて、お腹をさすりながらぼやいた。
 それは苦しそうというより満ち足りた幸せにくるまれているような顔だった。
 「デザート食べすぎだよ」
 「食べすぎだよねぇ。でも、あれもこれも美味しそうだったんだもん。ゆうくんだってパフェ二杯いったじゃんか」
 「まぁまぁ。ご愛敬ということで」
 ふたりで顔を見合わせて、くすくすと笑い合う。
 「ねぇ、このあとどうする?」
 月歌が身を乗り出して訊いてくる。
 僕はロビーでもらったホテルの案内パレットを開いて、ページをめくった。
 カラオケルーム、ゲームコーナー、卓球ルーム、ビリヤード、ダーツ。
 それから、ちょっと大人びた「バーラウンジ」の文字に目がとまる。
 「・・・バー行ってみる?」
 「バー?バーってあのカウンターで大人の人たちがしっとりしてるやつ?」
 「うん。でも、ソフトドリンクもあるって。たまにはそういうのもいいかなって」
 「いく!」
 彼女の返事が驚くほど早かったので、僕は思わず笑ってしまった。
 バーラウンジはレス炉炭の喧騒とは打って変わって、静かで落ち着いた空間だった。
 低いジャズのBGMが流れ、カウンターには淡い光が灯っている。
 多くのテーブル席に案内され、細長い金メッキのメニューを渡された。
 「なにこれ?レゲエパンチ?歌?」
 「知らないよ」
 僕たちは声をひそめて、一つのメニュー表を睨みながら作戦会議をする。
 とりあえず美味しそうなカルーアミルクを注文することにした。
 「ミルクなら間違いないよね?」
 「おそらく」
 長めの髪の毛を後ろに束ねたバーテンダーが手際よく、グラスにカルーアとミルクを注いだ。
 僕も月歌もその様子に圧巻されていた。
 かっこいい。と素直に思ってしまった。
 「お待たせしました。カルーアミルクでございます」
 黒色のハート形したコースターの上にグラスを置いた。
 月歌がグラスをかざすと、ミルク色の液体が、彼女の瞳の中で揺れた。
 「美味しい?」
 「うん。ちょっと大人になった気分」
 カウンターの向こうでは、バーテンダーが静かにグラスを拭いている。
 「ねぇ。こういう時って、どんな話をするもんなの?」
 「そんなの僕が知るわけないじゃん」
 「やっぱり仕事の愚痴とかは、ドレスコードに反するのかな」
 「そんなことないんじゃない?」
 「失恋をしたりするのがお決まりじゃない?」
 そういうと、彼女は脚を組んでグラスの下の方を持って、精一杯かっこつけながらグラスを傾けた。
 僕は白けた目を向けながら、唇をカルーアミルクで潤せた。
 ちなみにカルーアミルクの味は、ほろ苦さとミルクの甘さが重なり、なんだかコーヒー牛乳を飲んでいるようだった。
 バーでお酒を嗜んでいると、ゆっくり時間が流れていく感覚があった。
 いつもより、少しだけ未来のふたりになれたような気がする。
 「次、ゲーセン行こ!」
 一杯目を飲み干したところで月歌がいった。
 どうやら彼女にとっては流れる時間がゆっくりすぎて退屈らしい。
 僕はもう少し、この時間に寄りかかりたかったけれど仕方ない。
 おいとますることにする。
 「このまま大人では終わらないんだね」
 「終わらせない!せっかく来たんだから、遊ぶ遊ぶ!」
 バーテンダーにお礼をいい、バーラウンジを後にする。
 ふたりとも、すこし赤くなった頬をたくわえ、エレベーターに乗ってゲーセンのある階へ向かった。
 ゲームセンターでは、ポップなBGMが流れ、光る筐体(きょうたい)がいくつか並んでいた。
 月歌は最初にUFOキャッチャーに向かっていった。
 「この変なクマほしい!」
 「変なクマって・・・ああこういうやつに限って取りにくいやつ」
 「そうそう。やつやつ」
 彼女は両替機に千円を突っ込んで百玉を握りしめて戻ってきた。
 何度か失敗したあと、ようやくぬいぐるみが景品口に落ちたとき、月歌は小さな声で「やった・・・」と呟いて、僕の腕をぎゅっと抱きしめた。
 その後も、レースゲームで息を切らし、エアホッケーで真剣勝負をし、卓球台ではなぜかお互い変なフォームで戦い、笑い声が絶えなかった。
 部屋に戻ると、月歌は靴を脱ぐのもそこそこにベッドにダイブした。
 窓の外には月が浮かんでいて、今日という一日がやさしく終わろうといていた。
 はしゃぎすぎた身体が、心地よい疲れを帯びていた。
 「ふー、しあわせー!ゆうくん、今日は百点満点あげます」
 「採点してたのね」
 「もち!はなまるもつけておきましょう」
 僕は笑いながら冷蔵庫を開けて水を一口飲んだ。
 「私も水―!」
 僕は冷蔵庫の中からもう一本取ろうとする。
 「それでいいー」
 月歌は僕が手に持つ水を指さした。
 僕は水を彼女に手渡す。
 よほど喉が渇いていたのか、喉を鳴らす音が静かな部屋に響いた。
 「今日は楽しかったね~」
 「うん、そうだね」
 「こういう日が続いていけばいいのにね」
 「・・・そうだね」
 真理だと思った。
 僕は選択によっては日々を続けることができる。
 でも彼女はどうだ。
 彼女はもうすぐ消えてしまう。その恐怖は僕なんかでは計り知れない。
 「ねぇ。ゆうくん」
 「ん?」
 「もし、あと少ししか一緒にいられなかったら、今日みたいな一日が最後だとしたら、ちゃんと楽しかったって思ってくれる?」
 冗談のような夢の続きのような、そんな口調だった。
 僕の胸の奥が小さく鳴った。
 「どうしたんだい?急に」
 「ううん。なんとなく。今日楽しかったから。これくらいで終われたら、きっと綺麗だなぁって」
 彼女は笑って見せた。
 その横顔には、どこか靄(もや)がかかったような寂しさがあった。
 「でもね、私はまだ終わりたくない。だから明日も明後日も、ゆうくんといられたら嬉しいな」
 言い終わると、僕の返事なんて最初から聞く気がないといった足取りで、バスルームに消えていった。
 取り残された僕は、ただ小さく「うん」と呟くことしかできなかった。
 部屋に静けさが降りた。
 テレビも消えていて、空調の音だけが静かに響いている。
 僕はなんとなく立ちあがり、カーテンを開けて、ベランダのガラス戸を引いた。
 夜風がひやりと肌をなでる。
 目の前には遠くまで灯りが続いていた。
 街灯。車のテールランプ。コンビニの看板。マンションの窓。
 それぞれが、それぞれの事情で灯っている。
 そう思った。
 誰かが待っている光。
 誰かが帰るための光。
 誰かが明日も生きるための光。
 どれも大事な光だ。
 かつて僕は、この光のどれにも意味を見出せなかった。
 自分だけが世界から取り残されたような気がしていた。
 でも今、ほんの少し違って見えた。
 月歌が隣にいてくれること。
 今日という一日が、何もかも無駄じゃなかったと思えること。
 無駄で意味のないことが好きだと言った彼女の言葉がわかったような気がした。
 つまり、意味のないことでも意味があり、意味のないことに意味を見出すことが大事ということなのかもしれない。
 それが、僕の中の夜をちょっとだけ明るくしていた。
 はじめてのことだ。
 生きるって、思っていたよりも複雑で、でも案外やわらかいのかもしれない。
 ベランダの手すりにもたれて、深呼吸してみる。
 人工的な匂いと夜風が混ざり合う。
 高層階から見下ろす世界は、まるで遠い夢のように静かだった。
 なんだか悪い気はしなかった。
 「ゆうくーん」
 振り返る。
 月歌がふわふわのバスローブ姿で部屋に戻っていた。
 「お風呂、すごかったよ。スイッチ押したら天井からアロマの蒸気が出てくるの。貴族かと思った」
 「なにそれ。それ使いこなせる人間、貴族しかいないだろう」
 「うん。案の定わかんなかった。でも気持ちよかったよ」
 彼女がタオルで髪をくしゅくしゅと拭きながら、僕の方にニッと笑いかける。
 「ゆうくんも入ってきなよ!今ならアロマ残ってるかもよ~」
 僕は、「うん、そうするよ」と言いながらベランダの戸をそっと閉めた。
 すこしだけ。
 ほんの少しだけ。
 明日のことを前向きに考えてもいい気がした。
 バスルームのドアを開けると、ほんのりと柑橘系の香りが空気に溶けていた。
 床は大理石で、湯船は緑が緩やかに波打つような形をしている。
 壁にはミストとバブルの切り替えスイッチ、天井には星空のようなLEDのライト。
 湯に身体を沈めると、じんわりと疲れがほどけていくのを感じた。
 ここが日常のどこにも属していない場所だということを肌が先に理解した。
 湯上りの僕が部屋に戻ると、ベッドの上には月歌が仰向けに寝転んでいた。
 ドライヤーの音が止み、代わりにテレビのBGMがゆるく流れている。
 「あっ、おかえり~。どうだった?」
 「ただいま。うん。いまだかつてないほどのお風呂体験だったよ。僕、もう庶民に戻れないかも」
 「それは困るねぇ。ゆうくんはちゃんと地上にいてくれないと」
 彼女がぽんぽんと隣のベッドスペースを叩く。
 僕もバスローブのまま隣に寝転がった。
 天井には間接照明の柔らかい灯りが揺れていた。
 「ねぇ。ゲームしよ」
 「え、今から?」
 「うん。さっきお風呂で思いついたの。灯すゲーム」
 「灯すゲーム?」
 月歌は仰向けのまま天井を見たまま言った。
 「まず、ちょっとだけ暗い言葉を言うの。それを相手が明るい言葉に言いかえる。灯すみたいに」
 「なるほど」
 「じゃ私からいくね。それじゃ孤独」
 「孤独かぁ。んー。笑顔」
 「いいね。じゃ、ゆうくんの番」
 「えーと、嘘」
 「やさしさ。死はどう?」
 「難しいね・・・目覚め」
 「いいね。ほらゆうくん」
 「あっえーと。真っ暗闇」
 「そうだなぁ。線香花火」
 「どうして?普通の花火の方が明るくなって良くない?」
 「欲張りだね、ゆうくん。それは灯すことにならないの。節制こそが本当の優しさで、本当の灯りなんだよ」
 しばらくの間、暗い言葉を灯すたび、部屋が少しずつあたたかくなっていくのを感じた。
 まるで彼女の声がろうそくの火みたいに、僕の胸の奥を照らしているようだった。
 「じゃ、「終わり」って言ったら、ゆうくんなんて返す?」
 僕はちょっと考えて、それから答えた。
 「つづき」
 月歌は少し驚いたように目を見開いて、でもすぐに、にこりと笑った。
 やがてゆっくり瞬きをすると、「ここまでにしようか。あんまり言いすぎると、灯りって溶けちゃう気がするから。今がちょうどいい」と言った。
 「うん、そうしようか」
 カーテンが開けっ放しだったので、僕はベッドから降りて閉めようとした。
 「そのままでいいよ。それより明かり消して」 
 僕はカーテンから手を放し、言われた通りに間接照明を消した。
 すると、部屋には柔らかな光が灯った。
 「これで明かりを一つにしたみたいでしょう?」
 淡く光った彼女がいたずら笑みで言った。
 「おやすみ、ゆうくん」
 僕はその光に背を向けず、向かい合って眠ることにした。
 満月が街に蜂蜜雨を降らせる頃になると、部屋からは気持ちよさそうな寝息が響いていた。
 僕は夢の中でも彼女と会っていたような、気がした。

 朝は、窓からの柔らかな太陽の光で目を覚ました。
 昨日、夜更かししたのに不思議と身体は軽かった。
 僕とほぼ同時に起きた彼女が、手で寝癖を直しながら「おはよう」と言った。
 各々朝の準備をし、エレベーターで降りてホテルの朝食会場へ赴(おもむ)いた。
 重圧な扉の奥には、天井の高いダイニングフロアが広がっていて、窓際の席から朝の街並みが見えた。
 「うわ、。すごい・・・」
 月歌が目を丸くして指さしたのは、大きなバスケットにすらりと並んだパンの数々。
 クロワッサン、チョコデニッシュ、クルミパン、ミルクフランス、抹茶メロンパン。
 近づくと香ばしい匂いが鼻をくすぐった。
 「どれがいいんだろう」
 月歌はトレイを持ったままパンの前をうろうろしながら物色した。
 僕も四つほどパンをトングで掴み席についた。
 温かい紅茶と一緒にパンをかじる。
 チョコの甘さと紅茶のほろ苦さがベストマッチしていた。
 何気ない朝ごはんなのに、こんなにも心が満たされるのは、月歌が隣にいるからだと思った。
 彼女は向かいの席でマンゴーラッシーを笑顔で飲んでいる。
 その横顔を見ていると、時間がゆっくりと伸びていくような錯覚にとらわれた。
 部屋に戻り、荷物をまとめて名残惜しいけれどチェックアウトする。
 ホテルを出てすぐの通りを歩いていると、昨日は見かけなかった屋台のドーナツ屋さんが営業していた。
 「買っていこうか」と僕が言うと月歌は嬉しそうに笑った。
 朝食を食べたばかりだったので、一つだけ買って、近くの公園まで歩いた。
 ベンチに腰掛け、ドーナツを半分こする。外はさくっとしていて、中はふわふわ。油の温かさが指先から心にまで沁み込んでくる。
 「楽しかったなぁ。思い出がまたひとつ増えた」
 彼女の言葉はすぐに風にさらわれてしまいそうで、ドーナツの甘さがそれを引きとめているようだった。
 午後二時半の新幹線に乗るため、まだ時間があった。
 彼女の提案でおもちゃ専門店に行くことにした。
 送迎バスが出ているようでスマホで調べて向かう。
 その建物は、街はずれにひっそりと建っていた。
 木造の古い校舎を回想した外観に『ようこそ』という看板がかかっている。
 「雰囲気めっちゃいい!」
 月歌が声を弾ませる。
 入り口をくぐると、そこはまるでタイムスリップしたかのような景色が広がっていた。
 木の棚にはブリキのおもちゃ、セルロイドの人形、ガチャガチャのカプセル、懐かしいアニメキャラのグッズまで。昭和の空気がそのままパッケージされたような世界。
 「これ知ってる?」
 「知らないけど、懐かしいって感じがする」
 月歌はガラスケースに鼻を近づけ、嬉しそうに人形を見つめる。
 僕は、昔の流行ったであろうヒーローのフィギュアに手を伸ばして眺めたりした。
 奥に進んでいくと、スマートボールの台と、射的のコーナーがあった。
 もちろん月歌が反応を示した。
 「やろ!ゆうくん、こういうの得意そう」
 月歌はさっそく切り盛りしているおばちゃんにお金を支払い、コルク銃を手に取った。
 三百円で六発。
 彼女は舌を上唇に当てながら片目をつぶり駄菓子を狙った。
 三発外し、残りのコルクを僕に譲った。
 僕はゆっくり銃を握り、狙いを定めた。
 パン。
 パン。
 パン。
 音と共に、三つのシガレットが情けなく落ちた。
 「うわ!すごい!ガンマンみたい!」
 「これからは秩父のビリーザキッドって呼んでよ」
 僕は得意げに銃を置いてその場を去った。
 彼女は「師匠!」と言いながらノリを合わせてくれた。
 スマートボールでは、銀玉がカチカチと弾かれる音が心地よく響いた。
 スロープを転がる球を追うたびに月歌は小さな歓声を上げる。
 「なーんか帰りたくないな~」
 彼女の言葉に頷く。
 昭和レトロなおもちゃの匂いと、埃っぽい木の床の感触。何もかもが、今じゃないどこかに繋がっている気がした。
 それは昨日彼女が言った、どこか遠くの国のような、夢の中のような。
 時間が止まったような館の中で、しばらく懐かしい未来に身を委ねていた。
 僕らは間に合うように駅へ向かい、定刻通り新幹線に乗った。
 帰りの電車では、お互いほとんど言葉を交わさなかった。
 各駅停車の電車に乗る時には、夕方にさしかかっていた。
 やがて窓の外の景色が山に変わっていく。高層ビルは消え、田んぼが広がり、線路の傍らには細い用水路が寄り添うように流れた。
 「次は御花畑、御花畑です」という車内アナウンスが流れた。
 聞きなれた響き。
 「帰ってきたね」と彼女は小さく笑った。
 「うん、そうだね」
 その笑顔の奥には、ほんの少し抱け、旅の終わりを惜しむような、あるいは何かに区切りをつけようとするような静かな決意の影が見えた。

 家に帰って、昨日よりだいぶ質素な、でも馴染んだ夕飯を食べ終えると、父親が向かに座って新聞を広げ始めた。
 兄は少し離れたソファーに座り、タブレットで仕事の資料を確認している。
 「お前、進路は決めたのか?」
 新聞を読みながら、父親が僕に尋ねてきた。
 父親は進路の話しかしない。
 またかよ。と心で思いながらも、今日は試してみることにした。
 「父さん。・・・僕、画家になりたいと思っているんだけど」
 父親の視線が鋭く僕に向いた。
 兄もタブレットから顔を上げ、訝しげにこちらを見つめている。
 その言葉を聞いた瞬間、リビングの空気がぴんと張りつめた。
 父の眉間にしわが寄り、次いで低い声が飛んでくる。
 「画家になって飯が食えると思っているのか?」
 父はつづけた。
 「世の中を甘く見るな。夢で人間は生きられない。お前は現実から逃げているだけだ」
 兄もため息をつき、同じ調子で言葉を重ねる。
 「趣味として描けばいいんだよ。仕事はきちんと選べ」
 胸の奥がじわりと熱くなる。
 けれど、言い返すことはできなかった。
 父の視線も兄の言葉も、すべてが愛情のない正しさとしてのしかかってくる。
 世間体のために形だけが整えられた家庭。
 やはり、その中に自分の居場所はないように思われた。
 僕は諍いをさけるために、控えめにごちそうさまでした、と手を合わせ自室に戻ることにした。
 リビングを後にするとき、「どうして、あんな子に育ってしまったんだ」と父親が呟いていたけれど、僕は聞こえないふりをした。
 ドアを閉めると、急に世界が静まり返る。
 ベッドに倒れ込むと、天井の白が目に刺さった。
 やっぱりそうだ。
 夢を語っても笑われて、現実を見ろと言われるだけ。
 ならば、もういい。
 彼女が消えてしまったら、僕も終わりにしよう。
 彼女が笑っているから、まだ生きているだけなんだ。
 暗い部屋で彼女の声が耳の奥に蘇る。
 「絶対、画家になれるよ!」
 その言葉に縋るように、目を閉じた。
 しばらくすると、スーと何かが頬をつたった。

 それからの数日は、まるで季節が優しく背中を押すように過ぎていった。
 僕と月歌は、秩父の街を歩き回った。
 朝早く起きて、鍾乳洞に向かい、冷たい地中の空気に触れて、ひんやりとした岩肌を指でなぞり、薄暗い中を奥へ奥へと進んだ。
 「涼しくて気持ちいい~」
 笑い声が洞窟の中で反響した。
 次の日には滝を見に行った。
 緑に囲まれた山道を歩きながら、蝉の声と川のせせらぎが鳴いていた。
 落差のある滝壺の前に立つと、月歌は帽子を押さえて両手を広げた。
 「やっぱり秩父はいいねぇ」
 彼女の声は水音にかき消されそうだったけれど、その笑顔ははっきりと焼きついた。
 一緒に水に足を入れて遊んだ帰り道は二人ともズボンの裾がびしょびしょになり「風邪ひくー」などとぼやいた。
 はたまた別の日には、月歌のおばあちゃん家の庭でバーベキューをした。
 夏野菜を焼いた香ばしい匂いと冷えたサイダーの瓶。
 縁側に座って、うちわを仰ぎながら、蚊取り線香の煙の中でゆっくりと時間を過ごした。
 夜になると、草むらから虫の声や、田んぼからはカエルの合唱が聞こえてきた。
 「いろんな声が聞こえるね」
 「うん、たくさん鳴いてる」
 「ね。夏って、夜のほうが生き物の声がする気がする」
 そう言って月歌は、うっとりと庭を見つめていた。
 そのとき。
 ふと肩に何かがふわりと触れた感覚があった。
 視線を落とすと、小さな蛍が僕の肩にとまっていた。
 ほんのりと淡く、揺れるような緑の光。
 まるで夜の中に息づく小さな心臓のようだった。
 それに気づいた月歌がそっと声をあげる。
 「・・・わぁ。きれい~」
 蛍は何か伝えるわけでもなく、ただ静かに呼吸して、やがて肩から離れ、夜の空気に紛れるように飛び立っていった。
 その光は、しばらくふわふわと宙を漂いながら、草むらの奥へと吸い込まれて見えなくなった。
 僕らは無言でそれを見送る。
 虫たちの声だけが変わらずに続いていた。
 月歌が上目遣いで、「私も蛍みたい?」と言った。
 「肩なら貸しますよ?」と、うそぶいてみた。
 「だっさー」と茶化すように笑う。
 夜が更けていき、頃合いだと思い、腰を上げようとすると、肩に重さを感じた。
 「まぁ。少しだけ。肩貸してよ」
 小さい頭が僕の肩にのっかった。
 蛍と違い、その光は、僕から離れていかなかった。
 いつの間にか僕らは残された夏を貪るように遊び倒した。
 けれど、そのたびに彼女の輪郭が淡くなっていくのも現実だった。
 日差しの中で少し目を凝らすと、その姿が溶けてしまうんじゃないかと思う瞬間が日に日に増えていった。
 写真を撮ろうとスマホを向けると、まるで逆光に飲まれるように、画面越しの彼女は不思議なほど透明だった。
 そして、ある夜。
 僕はスマートフォンでこれまで描いた絵や月歌との思い出の写真を見ていた。
 紫陽花や夏の日々の断片が画面いっぱいに広がる。
 海、縁側、星空、メリーゴーランド、かぼちゃの観覧車、ドーナツ、スイカ。
 どれもに、笑う彼女があった。
 どの描写にも、確かに彼女はいる。
 だけど、そのすべてが少しずつ霞んでいるように見えて胸が締め付けられた。
 その時、スマホがバイブレーションし始めた。
 画面には花咲月歌の名前が表示される。
 僕はすぐに携帯を耳にあてた。
 「もしもし?どうした?」
 『・・・いま、出られる?あの公園にいるんだけど』
 彼女の声は、いかにも儚げだった。
 「わかった。すぐに行く」
 僕は電話を切ると自転車を飛ばした。
 
 公園に着くと、葉桜の下に彼女はいた。
 でもそれは、いる、とは少し違っているように思えた。
 月歌はまるで、夜の中に紛れる淡い灯りのようで、輪郭がほんのりと光っていた。
 近づくと、風と一緒に飛んでいってしまいそうなほど薄かった。
 「来てくれてありがとう」
 月歌は微笑んで隣に座るよう促した。
 「なんかね。妙に寂しくなっちゃって」
 「それは消えちゃうから?」
 僕が尋ねると、彼女は首を横に振った。
 「ううん。そうじゃないの。この世界からいくなることなんかじゃなくて、ゆうくんとくだらない話をしたり、旅行に行ったり、日常をすることができないって思ったらね。なんだか、すごい寂しくなっちゃって」
 彼女の声はとても静かで、でも真理だった。
 「こうして、ゆうくんと夜を過ごすの、きっとあと少しなんだろうなぁ」
 月歌がうつむき気味に言った。
 僕は言葉を探した。
 「来年の夏も蛍見れるといいな」
 僕は楽しい会話に舵を切ってみる。
 「え?」
 「ほら、おばあちゃん家でまたバーベキューしてさ、月歌が肉ばっかり焼いて、僕が野菜を焦がしたりして。それに今度は北の方に旅行に行くのもいいんじゃない?」
 僕は、慌てて言葉を紡いだ。
 「うふ。うふふふふ」
 月歌が笑った。
 隣を見ると、やや涙ぐんでいるようにも見えた。
 「・・・うれしい」
 「え?」
 「今の、なんか、すごいうれしかった」
 「なんで?」
 「だって、未来のこと話してくれたから」
 月歌はまっすぐ僕を見つめて言った。
 「・・・ありがとう」
 か細い声で、絞り出すように彼女が言葉を置いた。
 「なんだよ、それ」
 「だってあの時、人生を終わらせようとしてた人がこんな前向きに私との日常を私との未来を描いてくれてるんだよ?嬉しいに決まってる」
 改めて口に出されると、なんだか背中が痒くなってくる。
 「だから消えたりするなよ」
 「うん!」
 やっぱり彼女は泣いているようだった。
 
 そして二日後。
 彼女は、この世から姿を消した。
 音もなく、前触れもなく。
 気がつけば、そこにはいなかった。
 誰かに呼ばれるように。
 あるいは、ずっとそう決まっていたみたいに。
 そう、夏の終わりみたいに・・・