世間の学生たちは昨日から夏休みを迎えていた。無論、僕たちも夏休みという果実を味わい始めているところだ。
 電車の窓から流れる景色を眺める。地元と肩を並べるような田舎風景が目に入る。
 窓ガラスにはうっすらと僕たちの姿が映っていた。
 月歌は隣でずっと外を見ていて、僕はそれを盗み見ながら、目的地までの距離を測るように、ぼんやりとした思考の波に漂っていた。
 あれから死にたい気持ちになる時はあるが、あの日のように行動に移すことはしていない。
 波のようなものだ。死にたくなったり、もう少し生きてみようと思ったり。
 そんなこと考えなかったり。
 そんな日々の連続だ。
 自殺は衝動的なものなんだと思う。
 こういう風に、波のようになっている人は、ある日突然何かを引き金に衝動的に自殺してしまう。
 あの日、彼女が屋上に現れなかったら、僕は今ここにいないだろう。
 あの日、死ななくてよかったかどうかわからない。
 死ぬことはいつでもできる。また死にたくなったら死ねばいい。
 今は、何となく生きている。
 小さな幸せと小さな不幸せを日々感じながら生きている。
 このころになると、もう少し彼女との日常を過ごしたいと思い始めていた。音楽を聴いてや絵を描いているときに、もう少し生きてみるかと思うことはあったが誰かのために生きようと思ったのはこれが初めてのことだ。
 彼女が僕に付きまとわなくなるまで生きようと思った。
 そんなことを思うのだから、少なからず彼女に対して特別な感情を抱きつつあったんだと思う。
 「ねぇ、ゆうくん」
 不意に名前を呼ばれて隣を向くと、月歌がこちらを見ていた。
 その視線は、僕の左頬のあたりに注がれていた。
 「それ、どうしたの?」
 一瞬何のことかわからなかった。けれど、彼女の目線を追って思い出す。
 指先でそれに触れると、まだ鈍い痛みが走った。
 「あざ?」
 「あ、ああ。なんでもないよ。ちょっと転んだだけ」
 「ふーん」
 彼女は興味なさそうに、ふたたび窓の外に視線をやった。
 僕は左頬をさすりながら、あざの経緯を一人で回想することにした。
 一昨日のことだ。
 グランドの裏の道。
 ひとけのない場所で僕は胸ぐらを掴まれていた。
 なんでそんな状況になったのかは、もう覚えていない。
 夏の暑さか、殴られたときの衝撃かで記憶が吹っ飛んでしまったようだ。
 蝉がやたらにうるさく鳴いていた。
 まるで僕がこれから殴られることを悲しんでいるようだった。
 ちょうど夕陽が斜めに差し込んでいて、赤い光の中で僕は壁際に追い詰められていた。
 コンクリートの壁は堅く背中に痛みを覚えた。
 痛い・・・
 「調子に乗ってんじゃねぇよ、お前」
 顔を歪めてながらそう言ったのは、噂のバスケ部の新井先輩様だ。
 長身で肩幅が広い。でもひょろっとしていた。
 顔をちらっと見ると、出目金のようだった。
 脇には、見覚えのないバスケ部らしき二人の男子が立っていた。何も言わず、ただ出目金の後ろに立ってニヤニヤとこっちを見ていた。
 「お前、花咲と付き合ってんのか?」
 僕の胸ぐらをより高く持ち上げた。自然と背伸びする格好になる。
 僕は何も言わなかった。こういう状況で命乞いをして助かったやつが今までいるのだろうか。
 考えてみればそうだ、後先考えず誰かと近づきすぎた結果だ。悪いのは僕。
 人間万事塞翁が馬。
 彼女の出会いを前向きに捉えていたのが馬鹿だったのだ。
 なら、相手の好きにやらせてあげよう。
 「俺の女といちゃいちゃしてんじゃねぇよ」
 事実とは異なることを捲し立てる出目金の目には猛獣が宿っていた。金魚のくせに。
 はあ。僕は心の中でため息をつく。
どうしてこうも人間関係というものは面倒で癪なんだ。
心底飽きれる。
 なぜ人は好きな人を自分の所有物にしたがるのだろう。
僕には理解しがたい価値観だった。
 彼女は誰のものでもないのに。
 僕は黙って、気が済むのを待った。
 けれど、胸ぐらを掴んで高く持ち上げるだけでは、どうやら溜飲が下がらなかったらしい。
 ドッ。
 硬い音とともに視界がぐにゃりと揺れる。
 次の瞬間、衝撃が頬から頭全体へと波紋のように広がった。
 左の頬骨になにか固いものがぶつかる感触があった。
 目の前がチカチカして、視界に白いノイズのような光が走る。
 殴られたのだ、と思った。
 喉の奥から息が漏れて膝が折れて、背中が壁に滑って地面に情けなく崩れていく。
 コンクリートの地面がやけに冷たくて、現実的だった。
 「ったくなんか喋れよ」
 出目金は舌打ちをしながら僕に文句を垂れる。
 僕は、早くこの痛みが消えればいいな、と意外にも冷静でいた。
 後ろにいた二人のうちの一人が笑い声をあげる。もう一人も肩をすくめて苦笑していた。
 まるで珍しい見世物でも眺めるような目だった。
 目の奥がジンジンして左の頬には鈍く焼けつくような痛みが残っていた。
 一発殴っただけでは気が済まなかった連中は、倒れている僕の胸ぐらを掴んで再度立たせた。
 僕はぎゅっと目を閉じて、反対側の頬を殴ってくれと言わんばかりに右頬を前に突き出した。
 もう一発同じところを殴られたら気絶してしまうんではないか、と思ったところで誰かの声が僕らのいざこざを仲裁した。
 「おい、手、放せよ」
 乾いた声が空気を裂いた。
 ゆっくりと歩いてくるのは金之助だった。
 いつもの気の抜けた笑みはなく、その目は鋭く光っているように見えた。
 出目金は血の気が引いていない様子で、「なんだよ、お前。関係ねぇだろ。消えろ」と威嚇した。
 金之助はすっと僕の横に立った。
 「関係あんだよ。こいつ俺の友達なんだ」
 「ほう?」
 出目金は、僕をおもむろに放すと、今度は金之助の胸ぐらを掴んだ。
 「いいんだな、おまいさん。後悔するぜ?」
 出目金の目が細くなった。
 「てめぇ、何様のつもりだよ」
 言葉を吐き捨てて、こぶしを振りあげた瞬間、金之助の体が沈んだ。
 重心を低くして、片足を軸に素早く半回転。
 出目金の腕を取って、腰をぐっと当てたかと思うと、相手の体が宙に浮いた。
 「おりゃっ!」
 気合いの入った金之助の声が夕焼けの空に響いた。
 一拍遅れて、ドンと鈍い音が鳴った。
 「っ!」
 取り巻きの二人が一歩後ずさる。
 金之助はふうっと息を吐いて、背中を軽く伸ばした。
 「いや、久しぶりに人投げたわ」
 悪戯っぽく笑う。
 出目金は歯を食いしばりながら立ち上げると、何も言わずに睨みつけるだけで、そのまま踵を返した。取り巻きの二人も顔を見合わせ、そそくさと後につづいた。
 「大丈夫か?」
 腰を抜かした僕に金之助が手を差し伸べる。
 太陽の逆光で、その輪郭がぼんやりして見えた。
 僕はしばらくその手を見つめた。
たった今、僕を殴ったやつを投げ飛ばしたばかりの手。
 「うん」
 声にならない声で応えながら、その手を取った。
 ぐいっと引き上げられる感覚があった。
 「いたそう・・・頬、真っ赤だで」
 僕の頬を見て金之助が心配する。
 「僕が入院したらお見舞い頼むな」
 冗談を言うと、小さく鼻で笑って「課題たくさんもっていくぜ!」と張り切った。
 「そういうのはしてくれなくてもいいんだけど」
 二人で吹き出した。
 僕らの笑い声が蝉しぐれと重なる。
 誰かがペットボトルを投げたみたいな音がして、木の葉が揺れた。
 「けぇろうぜ。冷てぇもんでも飲もうぜ」
 金之助が僕の肩を支えてくれた。
 その声は、日常に溶け込んでいて、特別じゃないのに、なぜか妙に安心した。
 ふたりの影が陽炎に揺れた。
 僕は心の中でありがとうとお礼を言った。
 
 「海なんて何年ぶりかな」
 電車の窓からうつる海をみて月歌がいった。
 僕は毎年おじいちゃんに会っているため、一年ぶりだ。一年経っても海に変わりはない。今日も程よい波をたたせ、たくさんの魚たちを育てている。
 電車を降りると風景がガラリと変わった。
 閑散とした小さな駅。
改札は一つしかなくて、改札機なんてものはなく、古びた木の柵があるだけだった。
 ホームの端にはベンチがぽつんとあって、誰かが置き忘れたスポーツ新聞が風にぱらぱらとめくれている。
 蝉の声が、まるで山と海とに反響しているみたいに大きく響いていた。
 ミーンミンミンミン。
 「うっひゃー。秩父と張り合える田舎度合だ」
 月歌は桃色のリュックサックを背負いなおす。
 「とりあえず、おじいちゃんに向かおうか」
 月歌は頷いた。
 改札を出ると、どこか懐かしい街の空気が出迎えた。
 古本屋、和菓子屋、床屋。
 そんなのが並ぶ商店街。風鈴の音が軒先で優しく鳴っている。
 「私、お腹空いた~」
 「おじいちゃんがお昼ご飯作ってくれてるらしい」
 「え!そうなの!もうはやく行ってよ!それでおじいちゃん家はどっち?」
 「この商店街を抜けて、海の方に行けばすぐだよ」
 「よし!張り切って行こう!」
 月歌はすっかり元気を取り戻し、大股で商店街を歩いた。
 かき氷屋の前を右に折れて、東へ進もうとした時、見覚えのある軽トラが八百屋の前で停まっていた。
 「おじいちゃーん」
 スイカ選びに忙しそうな、麦わら帽子を被った小柄な老人がこちらを向いた。
 「おう。ゆうじゃねぇか!よく来たな!・・・おや?お隣のべっぴんさんは誰だい?」
 月歌が一歩前に出た。
 「はじめまして!水瀬ゆうくんのクラスメイトの花咲月歌です!」
 彼女が丁寧に頭を下げると、おじいちゃんは破顔して「おお、可愛らしいお嬢ちゃんだ」と嬉しそうに笑った。
 「ちょうど魚もいいものが手に入ってな。腹減ってるだろ?まずは家で腹ごしらえでもしてけ」
 僕たちは軽トラの荷台に乗って、ガタガタ揺れる道をゆっくり走った。
 「風が気持ちいい~」
 潮風が頬を撫でていく。この風なら左頬のあざも治るような気がした。
 おじいちゃんの家は、海の近くにある木造の平屋だ。
 小さな庭には、トマトやきゅうりが育ててある。
 「よし、あがってくつろいでてくれ。すぐに丼をこさえるわ」
 おじいちゃんは台所へ急いだ。
 靴を脱いで、風通しの良い居間の畳に腰をおろしす。
 「潮の匂いがする~」
 「海が近いからね」
 「涼しくていいね!」
 月歌はリュックをおろし、足を崩した。
 「お昼、海鮮丼だって。おじいちゃん、昔漁師だったから魚だけは今でも新鮮なものをもらえるんだ」
 「うえーい!さいこう!海鮮丼大好き」
 しばらくすると、香ばしい醤油の匂いととに大きな漆塗りの器を両手にかかえてきた。
 「どーん!」 
 丼の中には、まぐろに鯵、甘海老、釜揚げ、しらす、そしてとろけるような鯛の切り身が贅沢に盛られていた。
 真ん中にはうず高く盛られた、わさびと大葉、その上に海苔がふわりとかぶさっている。
 「うわー!すごい!お店みたい!」
 月歌は拍手をしてしばらく「すごい!すごい!」と連呼していた。
 「さ、新鮮なうち食べろよ」
 「はーい!いっただきまーす」
 僕もしっかり手を合わせて「いただきます」といい、ひとくち口に運んだ。
 「・・・うまい」
 「うー。うまーい!うまい、うますぎる!」
 言葉が歯の裏でとけていく。身がぷりぷりしていて、米と醤油と上に潰した卵の黄身が口の中で広がる。
 彼女の言う通り、確かにうまい、うますぎる。
 「朝、とれたやつだからな。まだ生きてるみたいだろ?」
 おじいちゃんは笑いながら麦茶を片手に窓の風にあたるように腰をおろした。
 扇風機の回る音と、海の気配と、どこまでも澄んだ夏の青空。
 僕と月歌はしばらく無言で丼を味わいながら、ゆっくりと午後の始まりを迎えた。
 「どこで絵を描くのがいいかなぁ」
 丼を平らげた月歌が箸を置きながら呟いた。
 「んー、どうだろう。海もあるし、山もあるし」
 「せっかく来たんだから島にでも行ってこいな。俺の船を貸してやるよ」
 おじいちゃんが首だけを振り返らせて言う。
 「小さい船があるんだ。ゆう、昔よく釣りをしに行っただろう?」
 「ああ、あそこか。うん。覚えてるよ」
 「え!島!」
 月歌が案の定食いついてきた。 
 「ああ、島だ。あそこなら絵も描けるし、空気も綺麗だし。しかも誰もいないしな」
 「えーいくいく!ゆうくん早く食べて!」
 そういうと月歌は立ち上がり、台所で洗い物を始めた。
 僕は残った甘海老を一気に口に放り込んで月歌の横に並んだ。
 好きなものは最後までとっておくタイプだ。
 
 「操縦の仕方はわかるかい?」
 「エンジンかけて、車の運転の要領でしょう?」
 「ああ、そうだ。あそこは圏外だからトランシーバーを持っていけ。何かあったら連絡するんだぞ。くれぐれも気を付けてな」
 「うん、ありがとう」
 簡単な荷物を二人乗りの小型船に乗せる。先に僕が船に乗り、そのあと月歌が乗った。
おもちゃのような可愛い船に二人で乗りこみ、エンジンをかけた。
メルヘンな音を立ててエンジンがかかる。
「よーし!ゆうくん号しゅっぱーつ」
おじいちゃんが手を振って見送る。
その姿がだんだんと小さくなり、やがて米粒サイズになった。
 「その、島まではどれくらいかかるの?」
 「三十分くらいだよ」
 「へー!楽しみ~!」
 二人の乗りの白い船は、すうっと水面を滑っていく。
 午後の陽ざしがまぶしくて、海はきらきらと銀のうろこを撒き散らしている。
 頬杖をついて海を見ていた彼女が振り返って笑う。
 風で髪がふわりと揺れて、陽を受けて光っている。
 「ねぇ、夢みたいじゃない?」
 僕も笑って頷いた。
 モータの音は控えめで、時々カモメの鳴き声がそれを追い越していく。
 しばらく波に揺られていると、小さな島が見えてきた。
 「あれ?」指をさして彼女がいった。
 「うん、あれ」
 「本当に小さいね」
 嬉しそうだ。
 僕はスピードを緩めた。
 先に僕がロープを持って降り、近くの木に括りつける。月歌が降りるのを手伝い、そのあと荷物を下ろした。
 島の形は三日月のようになっており、縦の長さは百メートルほどだ。
 地元では猫背島と呼ばれているらしい。地図には載らないような、ひっそりとした無人島。
 降り立つと、潮の匂いと草の匂いがまじり合って空気がほんのりと青く感じられた。木々が覆い茂り、空には鷹が旋回して僕たちに挨拶をしていた。
 島の中心には緩やかな丘があり、その上には大きなアカマツが一本、風に揺れていた。
 ふたりは無言のまま丘を目指して歩く。途中、小さな鳥が枝から枝へ跳ね、草がすれ合う音だけが聞こえていた。
 この島には、喧騒というものが存在しない。
 草のざわめきも、木漏れ日の濃淡も、誰かに話しかけるような優しさをまとっていた。
 「ここ、いいかも」
 月歌が指さしたのは丘の中腹、海が見渡せる少し開(ひら)けた場所だった。
 潮風がふんわりと吹きけて、髪を揺らす。
 僕はスケッチブックを開いて、クレヨンを走らせ始めた。
 彼女は木陰に座って、じっとこちらを見つめていた。
 頬杖をついたまま、何も言わず「絵のモデル」として、その時間をすべて任せてくれているようだった。
 僕は完成まで手を止めなかった。
 空の色が変わるまで僕は絵を描きつづけた。
 「終わったよ」
 近づきながら言うと、彼女は顔を上げて笑顔で僕に駆け寄ってきた。
 「見せて見せて」
 スケッチブックを彼女に渡す。
 「うわー!めっちゃいいじゃん!すごい!私もすごい似てる!こりゃ、ゆうくん画家になれるよ!」
 「褒めすぎだよ。モデルがよかったのかな?」
 「うわ!なにいまの!ださー」
 彼女に茶化され少しムっとしたが、彼女がうはははっと笑うので僕もだんだんおかしくなりつられて笑った。
 「一生大事にするね!」
 「大げさだって」
 彼女は恭(うやうや)しく絵を受け取り日記帳に貼った。
 「素敵な島だね。なんか秘密基地みたい」
 僕らは砂浜に腰をおろして海を眺めた。
 「いいところでしょう?僕も久しぶりにきたけど、やっぱりいい」
 「なんか海を見ていると、この世の嫌なことを忘れられる」
 月歌はうっとりとした声色で言った。
 「嫌なことは海に流せばいい。昔おじいちゃんが言ってた」
 「海は広いもんね。私たちの悩みなんて海からすればちっぽけなものなのかもしれないね」
 しばらく二人とも黙って水平線を眺めていた。
遠くに目をやると逞しい入道雲が近づき始めていた。下の方は真っ黒で、遠くのほうで雷がゴロゴロ鳴っている。
「なんか怪しい雲だね」
月歌が言ったその時、空からぽつりぽつりと割と大粒目の雨が降ってきた。
それは明確なリズムを持ちはじめ、勢いが増していき、すぐに視界不良となった。
 「とりあえず、荷物を運ぼう」
 月歌は頷き、二人で荷物を木々の下に移動させる。多少雨漏りするが、たくさんの木々はシェルターになった。そのまま雨宿りをする形になった。
 「夕立っぽいね」彼女が不安そうに言った。
 「みたいだね」
 どしゃぶりの中、雷が至近距離で鳴り始めた。なんだか空が怒っているようだ。時折、すさまじい光を見せ、怒りを爆発させるような怒声が海に響いた。それは俺らに近づいているように思えた。
 「今の近いね」隣に座る、月歌がいった。
 すると先ほどよりも強い光が視界を襲い、もの凄い音が鼓膜を叩いた。雷は俺らの目の間に落ちた。
 「うわあ」
 二人は同時に声を上げる。
 「船大丈夫かなぁ?」
 「ちょっと心配」
 夕立のため、すぐに雷雨は過ぎ去った。僕はあわてて船を確認しに行く。
 「やっぱりか」
 「どうしたの?やっぱり雷にやれた?」歩いてくる月歌が心配そうに尋ねた。
 僕は何回かエンジンをかけてみるが舌打ちのような音を立てるばかりで全くかかる気配がない。
 落雷のせいで電装系がやられてしまいエンジンがかからなくなってしまったのだ。
 「エンジンがかからない」
 「うえー!あっ!トランシーバーは?おじいちゃんに連絡しよ!」
 僕は、その場に落ちていたトランシーバーを拾う。船から降り、電源を入れてみるが反応がなかった。こちらも雨か落雷の影響で壊れてしまったようだ。
 僕が首を横に振ると彼女は顔を曇らせた。
 「やばいじゃん!」
 「たぶん、おじいちゃんが迎えに来てくれるよ」
 慌てずに言った。
 「まぁそっか。焦っても仕方ないね」
 彼女は得意の切り替えの早さですぐに笑顔になった。
 「あ!」
 月歌がいきなり声を出した。
 「私じゃなくて、あっち、虹!」
 「ほんとだ」
 彼女が指さす方向に綺麗な虹が水平線にトンネルを作っていた。
 「きれい~。虹って猫みたい」
 「どうして?」
 「触れようとしたら逃げてしまうし、気がついたらいなくなっている。でも、いつだって美しい」
 ロマンチックなことをいう月歌の目はうっとり虹に見惚れているようだった。
 そこで二人のお腹が、ぐぅと鳴った。
 「うははははは」
 僕らは、虹まで届くような笑い声をあげた。
 「じゃ、食料を調達しに行こうか」
 「うん!いこう!いこう!ゆう隊長!」
 彼女は調子よく敬礼をした。
 僕らは崩れかけた堤防に回って、島の緑に沿うように歩いた。随所で海に向かって釣り糸を垂らしながら草むらを散策した。
 海と緑と風の音と。
 そこには、完全なふたりきりの空間が広がっていた。
 「これはノビル!たぶん」
 「絶対じゃないのかよ」
 「だいじょーぶ!もし違ってたら毒見してあげるから」
 彼女はひょいとそれを僕の鼻先に突き出す。
 「おい、やめろって」
 「お!男らしい言葉遣いもするんじゃん」
 笑いながら、またひとつ草をつまむ。
 足元にはどこからか流れてきた貝殻やちぎれた海藻が引っかかってくる。
 波が少し高くなって、足元をさらっていった。
 「なんか冒険している気分だね」
 月歌はやっぱり嬉しそうだった。
 「うん、ちょっとだけ原始人の気分」
 やがて船の場所まで戻ってきた。
 収穫は、魚三匹と月歌が判別した草がいくつか。それと、船に戻るまでの道中でなんと僥倖なことに浅瀬にロブスターを発見したのだ。
 「ねぇ、見て」
 彼女が足を止め、指さす。
 そこは腰ほどの深さの潮だまり。岩陰のような小さな水たまりの中で、何かかがのそのそと動いていた。
 暗い海藻の間から、つややかな殻が覗いている。
 目を凝らすと、それは小さなロブスターだった。
 はさみをゆっくりと持ち上げて、警戒するようにこちらを睨んでいる。
 「ゆうくん!ロブスターじゃない?」
 「うわ、ほんとだ。初めて見る」
 ふたりはしゃがみ込み、そっと水に手を入れる。
 ロブスターはひょっいと後ろに跳ねて逃げた。
 けれど、浅瀬だったため、僕の手がすっと伸びて、ついに胴体をつかむ。
 「つかまえた」
 「うそ!ほんとうに?みせてみせて!」
 手の中でじたばたと暴れるロブスターを、ふたりはまるで宝物のように見つめた。
 
 持参したマッチ棒は生きていたので、燃えそうな燃料を集めて火を起こした。
 すぐに燃え上がり、暗くなった周りを照らしはじめた。
 「これ、本当に食べられる草なんだよね?」
 「いけるいける!」
 月歌は何食わぬ顔でノビルを焙(あぶ)っている。
 木の枝にさした魚もうまく焼けているようで、皮が音を立てていた。
 なんとなく、内臓と血合いは洗い流していた。恐らく美味しく食べられるだろう。
 火を囲みながら、それぞれ焼けた魚を持ち、黙ってかじった。
 味は悪くなかった。塩なんてもちろんないし、油もない。それでも、目の前で焼いたというだけで、なんだかごちそうに思えてくる。
 普段の生活は恵まれていたのかもしれないと気まぐれに思った。
 「生きてるって感じがするね」
 ぽつりと月歌が言う。
 「ちゃんとお腹が鳴って、ちゃんと火で焼いて、ちゃんと笑えるってだけでさ。それだけでいいと思えちゃう。ふしぎだね」
 二人で魚を食べ、メインディッシュであるロブスターにかぶりついた。月歌のかぶりつきは上品で控えめだった。
 「うっますぎ!ね!ゆうくん!」
 「ほんとだね」
 なんだか彼女に似合わないなと勝手ながら思った。
 「これってさ、レストランとかだと一匹三千円くらいするよね?」
 「するねぇ。僕はそんな高価なレストランに行ったことないけど」
 「私も!でも自然ってすごいね」
空腹を満たし、なんとなく焚火が放つ旋律に耳を傾けた。
 彼女は頬で火を反射させるように笑った。
 炎の煌めきのせいか顔が少し赤く見える。
 「火を見ると落ち着くよね」と僕は言った。
 「だねぇ。本能的なことなのかな?」
 「そんな気がする」
 しばらく自然が奏でる音楽にうっとりしていると月歌が「こんな生活もいいかもね」といった。
 「ボヘミアンだよね」
 「うん、いいじゃない、ボヘミアン的な生き方」
 その時、ふと雲が割れた。
 夜の空から零れるように月が現れて、辺りを照らした。
 はちみつの雨を降らせているようだった。
 顔を戻して彼女を見ると、先ほどとは打って変わって俯いて切ない顔をしていた。
 彼女の髪が揺れて、月の光をすべらせた。
 その輪郭が淡くにじむように浮かびあがっていた。
 そして打ち明けるように、そっと言葉を置くようにいった。
 「わたし、病気なの・・・」
 「・・・病気?」
 僕はなんとかそれだけ口にした。
 「うん、散灯病(さんとうびょう)っていう珍しい病気なの」
 月灯りに照らされたその瞳は、まっすぐこちらを見ている。
 微笑んでいるようで、どこか遠くにいるようだった。
 散灯病。
 聞いたことあるような、曖昧な記憶だった。
 僕が黙っていたので、彼女がつづけた。
 「散灯病はね、消えてしまう病気なの。最後は死ぬんじゃなくて消えてしまう。消えた瞬間、全ての人の記憶からも消えてしまう。私は誰の記憶にも残らない」
 月が強く照っている。
 まるでそれが証明のように、彼女を浮かび上がらせていた。
 「だんだんと薄くなっていくんだ。でも、こうして月灯りだけは照らしてくれる。それ以外の照明だと意味なくて。月灯りだけなの。おかしな病気なんだよね」
 「だから月が嫌いって言ったの?」
 「うん、だって恥ずかしいじゃん。きっと最後は、月灯りの下だけでしか私を見ることができなくなる」
 言葉が風にさらわれていった。
 波の音が静かに絶え間なく寄せては返す。
 「でも、美しいよ」
 言葉を探した結果、本音が転がった。
 「えへへ。ありがとう。恥ずかしいな」
 その本音を拾いあげた彼女は、照れたように後頭部を搔いた。
 「ゆうくん、やっぱり今が大事だと思うの。今の中にすべてがある気がする。だから過去を見ていたら何も進めないと思うんだ」
 目の前に確かに彼女はいた。
 大きな月灯りの下で、まるで夜の精のように。
 そして、確かに名前を持ってここに今を生きていた。
 「・・・ゆうくん」
 「ん?」
 「もし私が消えたら、この海に私の記憶を流してくれない?」
 受け入れてしまったら、彼女が消えることも受け入れることになる気がして、僕は首を縦には振ることができなかった。
 「今がすべてなんでしょう?不確かな未来の話をするのはやめよ」
 彼女は少し黙って、やがて「そうだね」とこぼした。
 
 帰りの電車はほとんど空っぽだった。
 夏の光は夕方になるとどこか疲れたような顔をする。
 黄金色に染まった海辺の町を電車はゆっくりと抜けていく。
 僕の自殺を止めた時の言葉、「死にたくなる時もあるけどさ、もう少し生きてみない?せっかく健康に生まれたんだしさ、もったいないよ」
 カラオケ屋で僕に放った言葉、「十分じゃん!なんで未来のことを勝手に決めつけてマイナスに考えてるの?甘いよ!甘い!健康ならいいじゃん。勝手に不自由にしてるだけじゃん。健康なら自由に好きなように生きればいいじゃん!健康だけで・・・じゅうぶんじゃん」
 そうか。そういうことだったのか。
 こんな形で伏線が回収されるとは。
 でも彼女は死ぬのではない。消えてしまうのだ。
 それは残酷なことなのだろうか。
 僕には、それがどうしても、そうとばかりに思えなかった。
 むしろ、かつての僕はそれを夢想のように美しく思っていた。
 夜ベッドに沈み込んで眠りに着いたら、何一つ残さずに世界から抜け出す。
 そういう終わりに憧れていた。
 それでも消えていく人を目の前にしてしまうと、それはそれで悲しい結末な気もする。
 記憶にも残らない、生きていたことすら残らない。
 散灯病とはそういうものだ。
 僕は少し焦った。
彼女がいなくなる日はそう遠くない。
 その現実が音もなく、じわりと胸の奥に染みてくる。
 僕だけは彼女を忘れない。
 そう願うばかりが精一杯だった。
 隣からは、気持ちよさそうな寝息が聞こえてくる。
 僕はただ、何もできずにいた。
 助けることも、止めることも、引き換えに死ぬこともできなかった。
 僕は生きている。
 それだけが、なぜかどうしようもなく痛ましかった。
 生きることは罪深い。
 ガタンゴトン。
 電車は否応なしに僕らを目的地まで運んだ。
 僕の目的地までは一体何が否応なしに運んでくれるのだろう。
 家までの帰り道は二人とも、やや俯き加減で歩いていた。自然に。
 「今度はさ、私の家に来てよ!」
 しばらくの沈黙のあと、彼女は笑顔を張り付けた。
 「私のおばあちゃんの料理もめっちゃ美味しんだよ!」
 僕はいつもの彼女に安心する。
 「うん、じゃお言葉に甘えて」
 僕の頬も自然と弛緩していた。
 川沿いの道を歩く。
 「海もいいけどさ、川もいいよね」
 「それはなんかわかる」
 「おれおれ、お主も秩父が好きなんじゃなかろうか?」
 「どうかな」
 「もう、素直じゃないな~」
 人を信じることも、生きることも、どこまでも厄介で滑稽だ。
 だけど、彼女との日常は、まるで僕の人生にささやかな肯定を与えるようだった。
 夕暮れの風が頬を撫でた。
 家の灯りが遠くににじんで、夏の夕暮れはちょっとだけ涼しくなっていた。

 その今度が来たのは割と早く、五日後の八月の一週目が終わる頃だった。
 僕は、彼女に呼び出された。
 「今日もあつい・・・」
 駅前で待っていると、麦わら帽子を被った彼女が笑顔で歩いてきた。
 「おっす、お疲れ!さぁ行こうか!あっでもその前にラムネ買っていい?」
 「うん」
 この天気に負けないくらいの笑顔を今日も彼女は携えている。
 駅の売店コーナーに入り秩父名物!と書かれたラムネを買った。
 汗をそれなりにひかせるため、店内で飲むことにした。
 おかしな光景だ。地元の奴が地元のお土産コーナーにいるなんて。
 ここにいる人たちは、恐らくみんな秩父の人じゃない。
 ゆっくり味わい、運よく店内にゴミ箱があったので瓶を処理し、彼女のおばあちゃん家を目指して歩き始める。
 狂気的な太陽の下は、少し歩いただけでシャツがじっとりと肌に貼りつく。
 しばらく歩くと、舗装された道は土に変わり、横を流れる川のせせらぎが聞こえた。
 月歌は楽しそうな笑顔を張り付けて、小さく鼻歌を歌っていた。
 やれやれ。
でも、こんな炎天下でも笑顔を浮かべられるのは、素直にすごいと思った。
 「あれだよ」
 彼女が指さす先にクリーム色の平屋が見えた。
 近づくと、縁側に吊るされたすだれが風に揺れていた。
 「ただいまー!」
 「おかえり」
 中から優しい声が返ってきた。
 「お邪魔します」
 玄関をくぐると、ふわりと懐かしい匂いが鼻をかすめた。
 畳の香りに混じって、穂のかに蚊取り線香の甘くて焦げた匂いが漂っていた。
 無駄に大きな玄関でしっかり靴を揃えてから、家にあがった。
 「まぁまぁ。暑かったでしょう」
 声に負けないくらい優しそうなおばあちゃんがゆっくりと柔らかい口調で出迎えてくれた。
 僕はもう一度、おばあちゃに向かって「お邪魔します」と言う。
 廊下を通って居間に通されると、ちゃぶ台の上にはすでに四角く切りそろえられた羊羹が二つと、曇り一つないガラスのコップに注がれた麦茶が置かれていた。
 コップの表面にはうっすら水滴が浮かんでいる。
 それがなぜか夏を感じさせた。
 「さ、羊羹でも食べないね」
 勧められるまま座布団に腰をおろすと、涼しい風が障子越しにそっと入り込み、うっすら汗ばんだ首元を撫でた。
 いい気持ち。
 月歌はすぐに麦茶を手に取って一口飲むと「くー。やっぱりおばあちゃんの麦茶は最高だー!」と言って目を細めた。
 「ゆうくん、飲んでみて!この麦茶、おばあちゃんの手作りなんだよ!」
 彼女の言葉に一口飲んでみる。
 ほんのりと麦の香ばしさと邪魔にならない甘みが舌の上でころがった。
 「うん、おいしい」
 「でっしょー!」
 「これ、おいしいです」
 そう言うと、おばあちゃんは嬉しそうに笑った。
 次に羊羹も口にすると、ねっとりとした舌触りの中に控えめな甘さが広がる。
 クーラーは効いていないはずなのに、不思議と涼しさを感じる空間だった。
 「ゆっくりしてげいな」
 柔らかな秩父の方言でそう言うとおばあちゃんは台所の方へ消えていった。
 「うーん、羊羹うま!ゆうくんは洋菓子派?和菓子派?」
 「和菓子かな」
 「私も!やっぱり田舎育ちは和菓子派になるよね」
 「関係あるの?」
 「あるある!そういえば夕飯、おばあちゃんが作ってくれるみたいだからそれまで遊ぼ」
 「なにして?」
 僕は小皿の前で手を合わせ、心の中で「ごちそうさまでした」と呟きながら尋ねた。
 「ファミコン!」
 「古くない?」
 「ふたりでやれば面白いよ!」
 月歌は手慣れた様子でスイッチを入れ、ソフトを挿しこみ電源をつけた。
 カチッという軽い音ともに、古めかしいピコピコという音が流れ出した。
 テレビに映し出されたのは、どこか見覚えのあるドット絵の画面だった。
 「マリオ?懐かし」
 「勝負しよ!」
 「マリオで勝負?」
 彼女がコントローラを手渡してくる。どちらが先にミスるか、なんていう単純な勝負に僕たちは熱中した。
 気がつけば無言になっていた。
 小さな部屋の中に、ボタンを連打する音と笑い声が響く。
 外では蝉の声が絶え間なくつづき、風鈴がカランと鳴った。
 「ちょっと、そこ飛ぶんだってば!」
 「いや、無理でしょ、これ、タイミングむずい」
 そんなやりとりをしながら時間は進んでいった。
 まるで子どもに戻ったような感覚だ。
 昔、兄や妹とこうしてゲームをしたことがあった。
 彼女と笑いながらもそんな記憶を思い出して、一人でノスタルジーを感じていた。
 どこか取り戻せなかった時間をほんの少しだけ巻き戻してくれるような。
 ほんとうに戻ってほしいと思った。
 そんな午後だった。

 僕らが時間を思い出したのは、台所からいい匂いがしたからだった。
 「うっはーいい匂い」
 「ほんとだ。僕ちょっと手伝ってくるよ」
 「よし!私もファミコン片したらつまみ食いしにいく!」
 同時に立ち上がりそれぞれの持ち場に向かった。
 台所に顔を出すと、煮物と味噌の香りがした。 
 「おばあちゃん、手伝います」
 「あーわりんね。気遣わなくいいんに」
 「とんでもないです。こうやって手伝うの好きなんです」
 「そうかい。じゃご飯をよそってくれるかい?」
 「もちろんです」
 お茶碗の場所を教えてもらい、三人分の白米をよそう。
 すると月歌も台所へやってきて、冷やしトマトをつまみ食いした。
 「うまーい!」
 「そりゃうまいさ。おばあちゃんの畑で採れたんだからね」
 「やっぱり~。自然の味がする~」
 彼女の声が、湯気の立ちのぼる台所を賑やかにした。
 みんなで分担して、食器や料理を居間に運んでいく。
 大皿に並んだ煮物と焼き魚、小鉢に盛られた、ほうれん草のお浸しに冷ややっこ。
 彼女が先ほどつまみ食いをした冷やしトマトにきゅうりのぬか漬け。
 どれも手間がかかった料理だけれど、どれも当たり前みたいな顔をして並んでいる。
 「これは秩父でとれる川魚。ニジマスの塩焼きだよ」
 おばあちゃんは説明しながら、焼きたての魚を器ごと目の前に置いてくれる。
 うっすら焦げ目のついた皮がパリパリに弾けて、山椒がほんのり香った。
 とても美味しそうだ。
 「さ、あったかいうちに食べな」
 「いただきます!」
 三人で仲良く手を合わせた。
 おばあちゃんの料理はどれも絶品で箸が止まらなかった。
 煮物の大根に箸を入れると、じゅわっと出汁がしみ出て、食べてみると思わず目を閉じたくなるほどやさしい味が口の中に広がった。
 「月歌は毎日これを食べてるの?」
 「うん!そうだよ!でも毎日食べても、毎日新鮮で毎日美味しい!」
 「うらやましいな」
 「また来ればいいさ。うちはいつでも大歓迎さ」
 柔和な声でそう言い、僕たちのコップに静かに麦茶を注いでくれた。
 外では沈みきる直前の空が少しだけ赤みを帯びていて、蜩(ひぐらし)が名残惜しげに遠くのほうで鳴いていた。
 ぬるくなった空気の中で、静寂なこの時間がどこか宝物のように感じられた。
 美味しすぎて、僕も月歌も、ご飯を三杯おかわりした。
 おばあちゃんは嫌な顔一つせず、ご飯をよそってくれた。
 夕飯を食べ終え、星空の下、縁側に座って、僕は絵を描いていた。
 もちろん目線の先には月歌がいる。
 星空と私を描いてほしい、と夕飯で膨れたお腹をさすりながらお願いされたのだ。
 僕は了承し、渡されたいつもの画材で描きはじめた。
 下書きを終えて、もうイメージで描ける段階に入ったので、彼女はポージングをやめて隣に座った。
 僕はクレヨンを操り、さっと絵を描きあげて彼女に渡す。
 もう馴染みの光景になっている。
 「うん、やっぱり上手い!思ったんだけど、ゆうくんの絵ってゴッホが描く絵に似てない?」
 「そうかな?でも、ゴッホは一番好きな画家だからそういってくれるのお世辞でも嬉しいよ」
 「お世辞じゃないよ!」
 彼女の言葉が星空に溶けていくタイミングでおばあちゃんがスイカを持ってきてくれた。
 「スイカ切ったから。ふたりで分けて食べな」
 「あ、ありがとうございます」
 黒い種がまばらに散った赤い果肉にかぶりつくと、口いっぱいに甘さと水分が広がった。
 「あっ、あれ一番星じゃない?」
 スイカを頬張った彼女が夜空を指さして言った。
 「いや~、あれでしょ」
 各々、それっぽい星を指さす。
 「確かに、星が良く見えるね」
 「でっしょ~!」
 一拍おいて、空を見上げたまんま彼女が言った。
 「ゆうくんは、天国とか地獄とかあると思う?」
 「ないんじゃない?」
 「それは、つまり信じてないってこと?」
 「うーん、というより、死んでるのにまだ生きるような感じは嫌だな。死んだらずっと眠っていたい」
 「そっか~」
 「月歌は、信じているの?」
 「私は、信じたくないなぁ。天国にも地獄にも行きたくない。私は星になりたい!」
 小学生みたいなことをいう彼女。
 見ると彼女はまっすぐ空を見ていた。
 「なるなら、秩父の星になりたい!ここから見える星になりたい!」
 「星かぁ」
 「こんなふうに静かに真上から愛する秩父の人達を照らすの。ちゃんと見てるよって伝えるように光りたい」
 スイカの種を庭に飛ばしながら月歌は自分の発言に笑った。
 「なれるかな?なれるよね?」
 「なれると思うよ」
 「ゆうくんはなりたいものある?」
 なんでもないようにそんな質問をしてきた。
 なりたいもの・・・
 それはあった。
 「画家になりたい」
 わりと真剣なトーンで言ってみる。
 「嬉しかったんだ。海で絵を描いたとき言ってくれたでしょう?画家になれるよって。実は小さい頃からの夢だったんだ。あの時は、すごい嬉しかった」
 笑われると思った。夢追い人はいつだって笑われる。だから今まで黙っていた。誰にも打ち明けられなかった。
 でも本当は誰かに言いたかった。
 僕の心配は杞憂だったようで彼女は瞳を輝かせた。
 その瞳は、夜空の星よりも眩しくて、あたたかさがあった。
 「絶対なれるよ!ゆうくんの絵、私ほんと大好きだから。あの紫陽花も島で描いたあのスケッチも。ゆうくんの絵には心がある!だから大丈夫!」
 ただの励ましじゃなかった。
 僕は何も言えなかった。だけど、胸の奥がじんわり熱くなるのを感じていた。
 「私が言うんだから間違いないよ!」
 満点の星空の下、僕らは流れ星をたくさん見た。
 その状況はこの上なくロマンチックだった。
 今後、数十年、いや、もしかしたら一生訪れることのない状況だったかもしれない。
 そして気づく。
 死にたいと思っていた僕が数十年後のことを想う日が来るなんて・・・
 しばらく星を見ていると尿意を催した。
 調子に乗ってスイカを食べすぎたたせいか。
 「ちょっとトイレ借りていい?」
 「もちろん!突き当たったところ!」
 僕は腰をあげた。
 「ありがとう」
 廊下に出て、薄暗い中をスマホのライトを頼りに進む。
 トイレのドアにゴリラのアトリエ、という木でできた表札がぶら下がっていた。
 思わず吹き出してしまい、笑いながら中に入った。
 中は確かに、アトリエ風のデザインになっており少しだけ驚いた。
 それと同時に、そのセンスに感心する。
 彼女のセンスなのかおばあちゃんのセンスなのか。
 用を足してトイレから出て戻ろうと廊下を歩いていると前方のドアが開いた。
 おばあちゃんだった。
 近づいてくる。
 「ゆうくん。悪いがこれを受け取ってくれるかい?」
 おばあちゃんは声をひそめて、僕に封筒を渡した。
 「これは?」
 「十万円ある」
 「十万?」
 「ああ、これで月歌と旅行に行ってやってほしいんだよ。月歌の病気聞いただろう?」
 「え、ええ」
 「月歌はもう長くない。わかるんだ。わしの娘がそうだったからな。だから連れてってやってほしいだ。きっとゆうくんとなら月歌も喜ぶと思うんだよ。たのむ。年寄りのわがままだと思って聞いておくれ」
 おばあちゃんはそう言うと、僕の手をとって封筒を握らせた。
 「い、いや」僕は少し後ずさる。
 「わしももう年じゃ。足腰は悪いしな。それから、肺が悪いんよ」
 「で、でも、僕なんかでいいんでしょうか?」
 「いいに決まってるさ。あの子が友達を連れ来たことなんて一度もないんだよ。相当、信頼されてる証拠さ。だからお願いだよ」
 僕は少々驚き、「わ、わかりました。僕なんかで良ければ・・・」といった。
 「ほんとかい。よかったわ。ありがとうありがとう」
 「あーいえいえ」
 深々と頭をさげるおばあちゃんに困惑しつつ、見つからないよう封筒をポケットに隠し、怪しまれないように早々と縁側に戻ることにした。
 縁側に戻ると、夜の庭に小さな光の線が走っていた。
 「ゆうくん、遅いよ~!早くこっち来て!」
 月歌は振り返って、片手に手持ち花火を掲げていた。
 その先端からは、シュッと細く光が吹き出し、次第に色を変えながら燃えている。
 青。赤。みどり。金色。
 夜の闇にいくつもの色の音が浮かび上がっては消えていく。
 「きれい・・・」
 「でしょ!でしょ!きれいでしょ!」
 僕がしばらく見惚れていると、「ほら、こんなにあるから。選び放題だよ!」と月歌が色とりどりの花火が入った袋を差しだしてきた。
 言われるがまま僕は、袋の中から一つ選び、ろうそくで着火した。
 しゅっと小さな音が鳴って、火が立ちあがる。
 煙の匂いとともに、白くまっすぐに吹き出す光が庭を照らした。
 「これ名前ついてるんだって。ドラゴン花火!めっちゃ強そうじゃない?」
 「なにそれ?じゃ、これはなんて名前?」
 「えーと、たしか『星しぶき』だったかな。なんかロマンチック~!」
 庭のあちこちに小さな爆ぜる音が生まれ、空気が光と音で満たされていく。
 ぱちぱちと花火は弾け、僕らの笑い声が夜の静けさを心地よく破っていた。
 月歌は魔法使いのように花火を振って遊んでいる。
 ひとしきり遊んで、手持ちの花火が残り少なくなった。
 いつの間にか、おばあちゃんも腰をおろして、僕らを笑顔で見ていた。
 「よし!最後!線香花火しよう!勝負ね!勝った人は最後のスイカを食べられる!おばあちゃんも強制参加ね」
 「はいはい」
 月歌がそれぞれに線香花火を配った。
 「よーし」
 ろうそくの前に三人で集まり、同時に火をつけた。
 先端が火に溶けて、やがて火玉になった。
 喉を刺激するような匂いが漂って、三人の線香花火が等間隔に闇の中で揺れた。
 その火は小さな命そのものだった。
 美しくて、あたたかくて、どこか儚い。
 「私、この匂いが好き」
 月歌が告白した。
 「なんか、夏が詰まっている気がしてさ」その言葉は線香花火の火花に反芻しているようだった。
 「なんかわかる」
 「でっしょ~。てか、ゆうくん揺らさないでよ!」
 「揺らしてないよ」
 その言葉が夜風に溶けていった瞬間、ぽとりと火玉が落ちる音が重なった。
 「あ」
 三人の声も重なる。
 「同時?」
 僕は笑いながら言った。
 「ほんとだね!じゃあさ、みんなで食べよ!」
 そう言って笑った月歌の声が、まるで花火の火玉みたいに僕の中で揺れる。
 君は本当に消えてしまうのか?
 そんな疑問も火種のように僕の中で散ってすぐに心の奥に落ちていった。
 スイカを三等分して三人仲良く並んで縁側に腰掛けた。
 蚊取り線香の煙が漂って空にのぼっていく。まるでそれは何かの生物のようで生きているみたいだった。
 月歌もいつかこんなふうに煙になって消えてしまうのだろうか。
 また、僕の中に火種ができる。
 彼女が自由に見えたのは家庭環境もおおきいのかもしれない。
 散って。
 あと何回彼女に付き合えるのだろうか。
 また火花が散る。
 急にいろいろなことを不安に思った。
 やがて、心の奥に落ちた。
 鼻の奥では、まだ線香花火の匂いが微かに残っていた。
 月歌の光がより強くっていることに関しては誰も触れなかった。
 まるで蚊取り線香の匂いに誰も言及しないような感じで。