弁財天の花嫁

 その頃、黒い結界の中では――志津と麗華が絶望的な状況に置かれていた。

 瑞蓮によって閉じ込められてから、もう何時間、いや何日が経っただろうか。
 暗闇の中には時計がないため、時間の感覚が失われて久しい上に。
 この場所には、太陽の光も一筋たりとも届かない。

 結界の壁は冷たく、触れると氷のような冷気が手に伝わってくる。

 「この状況をなんとかして脱出するのよ!」

 麗華が苛立ちを隠せずに叫んだ。
 声は結界の壁に反響し、空しく響く。

 美しく整えていた髪は乱れ、丁寧に施していた化粧も汗と涙で崩れ。もはや美貌の面影はない。

 「私たちにはもう他に方法が……」

 体力の限界が近いのだろう。志津も同様に疲れ果てている。
 普段の威圧的な態度はすっかり影を潜め、結界の壁に背中を預けてただ座り込んでいた。

 その時、麗華がふと思い出す。

 (そういえば、あの時呪具屋が代償がどうのって言っていたような……)

 暗い闇市で呪具を購入した時の断片的な記憶が蘇る。

 麗華の目がギラリと光った。
 胸元の着物の奥に隠していた赤い水晶の欠片で作られた小さなペンダント。

 ――これを使えば、この忌まわしい結界から脱出できるかもしれない。

 「ねぇ……私と取引をしない?」

 麗華が震える手で赤い水晶のペンダントを取り出し、それを胸の前に掲げながら囁いた。

 すると血のように赤い色をした水晶が、心臓の鼓動のように、ドクン、ドクンと不気味に脈動を始めた。

 『久方ぶりに呼ばれたか……我は汝の願いを一つだけ叶えてやろう。何を望む?』

 どこからともなく、男の声が結界の中に響く。
 呪具の声と思われるそれには、人間の絶望を糧にして生きているかのような、邪悪な満足感が含まれていた。

 「あら素敵ね。なら、この結界から脱出させてちょうだい。そして……」

 麗華の目に激しい憎悪の炎が宿る。
 心の奥底から煮えたぎるように沸き上がってくるのは、琴羽と瑞蓮への激しい恨みだ。

 「殺したい奴らが二人いるの。琴羽という女と、弁財天。あいつらに復讐する力をちょうだい。絶対に、絶対に許さない」
 『ほう……だが、生命力には生命力で償わねばならぬ。それが呪いの掟だ』
 「なんでもするわ。あの2人を殺せるのなら」

 このまま朽ち果てるよりは、何でもいいから試してみたい。
 わずかな希望を纏った麗華の声に、志津も興味深そうに身を乗り出した。

 「麗華、それを使えば本当に出られるのかい?」
 「ええ、きっと大丈夫よ。ようやくこの地獄から脱出できるのよ」

 『では聞こう。代償として、其方は私に何をくれる?』

 自分に差し出せるものなど、もう何も残っていない。
 しかし、少し考えてから思いついた。

 我ながらあまりにいいアイデアで、ニヤリと口元が緩んだ。

 「母様をあげるわ」

 復讐のためなら、何でもする。
 出した答えに、迷いなど欠片もなかった。

 「え?」

 志津の顔が瞬時に青ざめた。
 まさか娘が。自分を犠牲にするつもりだとは微塵も思わなかったからだ。

 「ちょっと待ちなさい、麗華! それって私を……私を犠牲にするということ?」
 「ごめんなさいね、母様。確かに『ここから出られる』とは言ったわ。でも……」

 少し間を空けて、麗華の目に冷たい光が宿った。

 「一緒に、とは言ってないじゃない?」
 「麗華……私はあなたの母親よ! あなたを産んで、育てて、ここまで大きくした母親なのよ!」

 志津が必死に訴えても、麗華は聞く耳を持たない。
 赤い水晶が激しく光り始め、邪悪な力が結界内に満ちていく。

 『契約成立だ』

 呪具の声と共に、赤い光が志津を包み込み始める。

 「母様、今までお疲れ様でした。私のために、死んでくださる?」

 麗華の声には、もはや人間らしい温かみなど欠片も残っていない。

 「この裏切り者が! 麗華……私があなたのためにどれだけ……」

 志津が必死に手を伸ばそうとするが、体はもう自由になることはなく。
 指先から足先まで。次第に彫像になっていくかのように動きを失い、やがて砂粒となって風に舞い散った。

 その途端、結界がバリンと砕け散り。
 外の冷たい夜風が一気に吹き込んでくると同時に、麗華の全身には禍々しい力が流れ込んでいく。

 麗華は新たに得た邪悪な力に酔いしれながら、崩れた結界の隙間から這うように外へと現れた。

 その顔に浮かぶのは、もはや人間のものではない。
 恐ろしいまでに冷たく、どこか爬虫類を思わせる不気味な笑みであった。

 「あははは、あははははははっ! うふふふふ、きゃははははははっ!」

 狂ったような笑い声が夜の静寂を引き裂く。

 「あの忌々しい青ネズミを……今度こそこの手で!」

 (逃がさない……絶対に……絶対に……!)

 夜の闇に紛れて、麗華の影が消える。
 水音京に、新たな災いの種が撒かれた瞬間であった。

 ***

 いよいよ迎えた神霊祭当日。

 水音京の中央広場は、まるで天界の祭典のような光景に包まれていた。
 空には色とりどりの提灯が幾重にも張り巡らされ、夕暮れの空とのコントラストがこれまた美しい。

 神霊祭は、4年に一度だけ開催される。
 人間の参拝者も訪れるが、その多くは神々や高位の妖怪、霊格の高い精霊たちが集う格式高い儀式でもあった。

 今日も朝から続々と参列者が集まり、羽衣をまとった天女や、威厳ある龍神、雅な装束の稲荷神たちが優雅にその姿を現している。
 まさに神々の社交界と呼ぶにふさわしい、荘厳な雰囲気に琴羽は息を呑んだ。

 広場の中央には特設の舞台が設けられ、その周りを囲むように観客席が配置されている。
 特設された貴賓席では、七福神たちが揃って座っていた。

 「おー、すげぇ人だかりだな! 琴羽ちゃん人気者じゃん!」

 恵比寿が興奮気味に手を振りながら観客席を見回した。

 「琴羽ちゃんなら絶対大丈夫だよ。あの子の音楽には、人の心を動かす特別な力があるからね」

 大黒天が温かい笑顔で控えの間の方向を見つめる。

 「ぷくく〜、琴羽しゃん頑張って〜! ちゅじろうも応援してまちゅ〜!」

 寿老人が小さく手をひらひらと振った。

 そんな中、一人だけ厳格な表情を崩さない毘沙門天が、じっと控えの間を見つめている。
 その鋭い視線には、琴羽への期待と同時に、厳しい審査の意志が込められていた。

 「すごい人だかりですね……」

 琴羽は控えの間で、窓から外を眺めながらつぶやいた。

 観客席には数百人もの人々が詰めかけている。
 人間の参拝者に混じって、狐の面をつけた稲荷神の使いたちがちらほらと見え、空中には羽衣をまとった天女たちが優雅に舞っていた。

 練習は重ねた。
 毎日毎日、指が痛くなるまで弦を弾き続けた。

 瑞蓮の指導のおかげで、技術的にはもう問題ないはずだった。

 それでも、不安は尽きない。

 もし間違えたら?
 もし途中で止まってしまったら?
 もし精霊たちが来てくれなかったら?

 琴羽の胸には、様々な恐怖が渦巻いていた。

 「琴羽、大丈夫ですか?」

 瑞蓮が心配そうに声をかける。
 琴羽の顔は少し青ざめており、手も微かに震えていた。

 「……こんなにたくさんの方々の前で演奏するなんて、初めてで」
 「大丈夫。私はいつでも琴羽と共にいますから」

 瑞蓮が琴羽の手を握る。
 琴羽の青い髪には瑞蓮からもらった翡翠の髪飾りが美しく輝いていた。

 ――でも、もし失敗したら瑞蓮は……。

 その恐怖が、琴羽の心を再び締め付けた。
 愛する人を失うかもしれないという重圧が、肩にのしかかる。

 外では太鼓の音が響き始めた。いよいよ神霊祭の開始が告げられる。

 「琴羽様、お時間です」

 係の者が声をかけた。
 琴羽は立ち上がり、大きく深呼吸をした後に舞台へ向かう。

 瑞蓮も後に続く。

 そして、ついに琴羽が舞台に上がると、観客席からどよめきが起こった。
 
 「なんと美しい……」
 「人間にもあのような美しさを宿す者がいるとは」
 
 観客席の天女たちや稲荷神が感嘆の声を上げる。

 それはまさに、音楽の女神が降臨したかのような荘厳な美しさであった。

 金糸で月と蓮の花が繊細に刺繍された、深い藍色の着物。
 その袖や裾には細かな真珠があしらわれ、動くたびに上品な光を纏う。
 そして何より、琴羽の青い髪は美しい衣装によく映えた。

 琴羽は舞台中央に設置された座布団に正座し、天蓮琴の上に指を置いた。
 
 数百の視線が自分に注がれているのを感じる。

 (落ち着いて。今まで練習してきた通りに)

 会場が静寂に包まれる。
 瑞蓮が舞台の端で深く一礼し、清らかな声で告げた。

 「本日は貴重なお時間をいただき、ありがとうございます。これより、水無瀬琴羽による『千霊回帰の調べ』の奉納演奏を行わせていただきます」

 琴羽の指が弦に触れる。
 最初の音が、夜の静寂を美しく切り裂いた。

 何度も何度も弾いてきた、慣れ親しんだ旋律。
 緊張とは裏腹に指は迷うことなく正確に動き、、美しい音色を紡いでいく。

 (いつもの通りに弾けば大丈夫。瑞蓮が教えてくれた通りに)
 
 不安だった心が、次第に落ち着きを取り戻していく。

 富も権力も。老いも若きも。人も妖も。
 全ての垣根を乗り越えて、皆に幸福を届ける。

 琴羽の信じた音楽が、そこにはあった。

 演奏は順調に進んだ。
 観客たちは息を呑んで聞き入り、神々さえも琴羽の音楽に魅了されているようだった。

 やがて、不思議な現象が起こり始める。
 琴羽の音楽に導かれるように、無数の光る精霊たちが空中に現れ始めたのだ。

 最初は小さな光の粒子のようだったそれは。
 やがて蝶のような形、鳥のような形、花びらのような形へと変化していく。

 「これは……精霊の舞か」
 「なんと美しい光景だ」
 「人間の奏でる音楽に、これほどの精霊が……」

 会場全体が淡い光に包まれる。
 
 (精霊たちが……来てくれた)

 観客席からささやき声が次々と上がり、琴羽の心に深い安堵が広がった。

 楽曲は中盤に差し掛かり、いよいよクライマックスへ。

 このまま行けば、きっと成功できる。
 瑞蓮を救うことができる。

 そう確信した――その時だった。

 突然、会場の片隅から禍々しい気配が立ち上がった。
 観客席の一角が異様に暗くなり、氷のように冷たい風が吹き始める。

 美しく舞っていた精霊たちが一瞬身を竦ませ、その光が揺らいだ。

 「きゃはははははっ!!」

 狂ったような笑い声が、神聖な夜の静寂を引き裂く。
 観客たちがざわめき始め、神々も警戒の表情を浮かべる。

 暗闇の中から現れたのは――見覚えのある人影だった。

 (麗華……)

 琴羽の指が一瞬止まりそうになる。しかし、必死に演奏を続けた。

 ――あと少し、この演奏をやめるわけにはいかない。

 現れた麗華の姿は、以前とは明らかに異なっている。
 目は縦に裂け、髪は逆立ち、全身から邪悪な気配を放っていた。

 「今度こそ、今度こそあの忌々しい青髪を血祭りに上げてやる!!!」
 「この瘴気、やばすぎだろ……っ!」

 恵比寿が立ち上がろうとするが、見えない鎖に縛られているかのように体が言うことを聞かない。
 麗華の放つ邪悪な瘴気はあまりにも濃く、近づくどころか、身動き一つ取ることすら困難だった。

 「琴羽ちゃんを助けないと!」

 大黒天が舞台に向かって身を捩った瞬間、毘沙門天の鋭い声が響いた。

 「待て、大黒天!」

 毘沙門天が邪気に抗いながら必死に体を動かし、大黒天の腕を掴んで制止する。
 その額には汗が浮かび、相当な力を振り絞ってやっと動けた様子だった。

 「迂闊に近づくな。あの者が持つペンダント……あれは生命力を喰らい続ける呪具だ。昔、古い書物で読んだことがある。その対象は人に限らず、神も妖怪も、あらゆる生命体の霊力を根こそぎ奪うと。あの瘴気を見る限り、おそらく既に何者かの魂を取り込んでいる。我々といえども、触れれば霊力ごと侵食されるだろう」

 毘沙門天の表情は険しい。
 七福神の中でも最も武に長けた彼でさえ、この邪気の前では自由に動くことができないのだ。

 「でも、このままじゃ琴羽ちゃんが……!」
 「ここは水音京。瑞蓮ならば、この土地の力を借りて時間稼ぎくらいはできるだろう。彼女にはその間に逃げてもらうしか——」

 「皆様、至急避難を!」

 瑞蓮が咄嗟に観客席に向かって叫びながら、両手を広げて結界を展開した。
 しかし、湖との契約で力の半分を失った瑞蓮の結界は、以前ほど強力ではない。金色の神気が薄く、不安定に揺らいでいる。

 「ハハハ!!実の母親を生贄にした私の力の前では、結界など無力よ!」
 麗華が嘲笑いながら赤黒い呪力を凝縮させ、巨大な槍のような形にして瑞蓮に向けて放った。
 瑞蓮は優雅に扇を一閃するが——

 「くっ!」

 呪力の槍が瑞蓮の扇を弾き飛ばし、その肩を深く貫いた。瑞蓮が膝をついて血を吐く。

 「瑞蓮!」

 琴羽が演奏を止めて立ち上がろうとする。

 「琴羽、演奏を続けてください!」

 瑞蓮が血を流しながらも必死に叫んだ。

 「瑞蓮……血が……」
 「私を……どうか信じてください。あなたの音楽こそが、この状況を変える唯一の——」

 言葉が途切れるながらも、瑞蓮はいつもの笑顔を向ける。
 しかし麗華の攻撃は止まらない。
 次々と放たれる呪力の矢が瑞蓮の体を貫き、美しい白い装束を血で染めていく。

 「あはははははは! 今宵こそ、あの屈辱の数々を百倍にして返してやるわ! 覚悟なさい!」

 麗華が両手を天に向けて掲げると、巨大な呪力の渦が舞台を覆った。
 その禍々しい力は観客席にまで及び、神々さえも恐怖で身を竦ませている。

 (力が……足りない)

 瑞蓮が絶望的な表情で立ち上がろうとするが、体が思うように動かない。

 琴羽の心も揺れていた。
 愛する人が目の前で傷つけられていく光景に、指が震える。
 それでも、瑞蓮を信じて。

 「次はお前の番さ! 今度こそ完全に始末してやる!」

 麗華が琴羽に向かって巨大な呪力の塊を放つ。
 瑞蓮は立ち上がろうとするが、傷が深すぎてもう動けない。

 (琴羽を……守れない)

 絶望が瑞蓮の心を支配する。愛する人を守ることもできない、欠けた神の自分。
 ――もう、終わりなのか。

 もはやこれまでだと思った瞬間——

 「……まだ終わらせない」

 瑞蓮と一緒にいたい。瑞蓮と一緒に生きていたい。

 自分を信じてくれた人が、「演奏を続けて」と言ったなら。
 愛する人が最後まで自分を信じてくれるなら。

 ――私はそれに応える。どんなことがあっても。

 琴羽が天蓮琴に両手を置き、深く息を吸う。もう震えはなかった。

 瑞蓮と一緒にいたい。だから。
 どんなことがあっても、最後まで弾き抜いてみせる。

 琴羽の指が弦を弾く。
 今度は迷いのない、力強い音色だった。そして、魂の奥底から歌い始める。

 「月影宿る 湖面に 映る想いは ただひとつ 愛しき人よ 目覚めよと 歌う この声」

 ――私を、信じてくれてありがとう。だから今度は、私が瑞蓮を信じる番。
 
 世界中の人が「不可能だ」と言っても、神々が「諦めろ」と言っても。
 私は瑞蓮を信じる。愛する人の言葉を信じる。

 「千の精霊 舞い踊り 心と心 結びて 永久に響け 愛の調べ 今 ここに」

 琴羽の歌声が会場に響き渡る。
 その声は今までで一番美しく、一番強く、一番愛に満ちていた。

 瞬間、無数の精霊たちが琴羽の歌声に応えて再び現れた。
 その光は今までとは桁違いに強く、美しく、温かかった。
 精霊たちは一斉に瑞蓮の元へと舞い飛び、その傷ついた体を優しく包み込む。

 「精霊たちが……」

 瑞蓮の傷が見る見るうちに癒されていく。
 精霊たちの光が瑞蓮の体に浸透し、失われた血も神気も回復していく。

 ――その時、瑞蓮の脳裏に閃きが走った。
 
 (きっと、これなら……)

 「琴羽……あなたを信じてよかった」

 瑞蓮が感謝に満ちた声で立ち上がる。

 「私は今は完全ではない神です。けれど……欠けていたからこそ、琴羽に出会うことができた」

 瑞蓮が湖の方向を見つめる。
 精霊たちが瑞蓮と湖の間を光の橋で結んでいるのが見えた。

 「不完全だったからこそ、人の営みの美しさを知ることができた。そして……琴羽に出会うことができた」

 瑞蓮の声に深い感謝と愛情が込められている。
 自分の欠けた部分こそが、最も大切な宝物を与えてくれたのだと言うように。

 たとえ世界が私を哀れんでも、周囲が自分を欠けた神と呼んだとしても。

 「そして今、琴羽の呼んだ精霊たちが私と湖を結んでくれている。ならば……もう湖との契約は必要ありません」

 瑞蓮が湖に向かって呼びかける。

 「水底の主よ。長い間お預けした我が力を、今こそ返していただきます。これだけの数の精霊がいれば、もう契約は不要でしょう」

 その瞬間、湖の方角から眩いばかりの光の柱が立ち上がった。
 水底に眠っていた瑞蓮の霊力が、精霊たちの導きによって舞台へと流れ込んでくる。

 「何を寝言を……精霊だかなんだか知らないけど、今の私の力の前では——」

 麗華が嘲笑いながら最大の呪力を放つ。
 しかし、完全な力を取り戻した瑞蓮は、それを片手で受け止めた。

 「愛を知らないあなたには、理解できないでしょうね」

 瑞蓮が静かに微笑む。その表情には怒りではなく、深い憐れみが宿っていた。

 「欠けているからこそ、得られるものがあるということを」

 欠けているからこそ、巡り合える出会いがある。
 失ったものがあるからこそ、与えられるものの尊さを知る。
 支える喜び、新しく補い合うことができる喜びを理解できる。

 そうしたものを永遠に知ることができないのは、なんと哀れなことか。

 瑞蓮の瞳に、麗華への同情が浮かぶ。
 憎悪に支配され、愛を知ることなく消えていく魂への、神としての慈悲であった。
 
 その言葉と共に、瑞蓮が扇を軽やかに一振りした。
 神気の刃が麗華の胸元に光る赤い水晶のペンダントを正確に切り裂く。

 ――パリン。

 乾いた音と共に、ペンダントが粉々に砕け散った。
 その瞬間、麗華の体から禍々しい気配が一気に失われる。

 「あ……ああああああ!」

 麗華が絶叫する。母親から奪った生命力と共に得た邪悪な力が消え去り、その反動で急激に老化が始まった。
 美しかった黒髪が一瞬で白髪に変わり、肌には深い皺が刻まれていく。

 「私の……私の美貌が……力が……!」

 麗華が震え声で叫ぶが、瑞蓮は冷たい視線を向けるだけだった。

 「当然の結末でしょう」

 瑞蓮の声には、一片の同情もない。
 愛する琴羽を傷つけようとした者への、冷徹な裁きがあった。

 やがて、琴羽の『愛の調べ』が美しい余韻を残して静かに終わった。
 天蓮琴から手を離し、ゆっくりと立ち上がる。

 会場が神聖な静寂に包まれた。

 麗華の放った邪気で多くの観客は石に変えられたが、琴羽の歌声によってその呪いは解け、人々は元の姿に戻っていた。
 しかし、あまりの恐怖に体が動かず、その場にへたり込んでいる者も多い。
 七福神をはじめとする高位の神々も、先ほどまでの邪気の影響でようやく身動きが取れるようになったばかりだった。

 彼らは遠巻きに、この神聖な戦いの結末を見守っている。
 琴羽は麗華の前までゆっくりと歩いていき、見下ろした。

 そこには見るも無残に老いさらばえた醜い老婆になった麗華がいた。

 「麗華」

 琴羽の声は静かで、しかし揺るぎない威厳に満ちていた。
 まだ恐怖で震えている観客たちも、息を呑んでその姿を見つめている。

 もう恐れはない。もう悲しみもない。

 「あなたは私から多くのものを奪おうとした。私の声、私の髪、蒼真との関係、そして父の形見の琴まで」

 琴羽が一歩近づく。

 「でも、あなたがどんなに私を陥れようとしても……」

 私は幸せになった。瑞蓮という、かけがえのない人と出会えた。

 「私は、幸せだから」

 「琴羽、お願い……」

 麗華が震える手で琴羽の着物の裾にすがりつこうとする。

 「私、確かに意地悪もしたけれど。私、本当は姉様のことを……大切に……」

 麗華は作り笑いを浮かべながら、涙と絶望で途切れがちになった声で擦り寄る。
 しかし琴羽は、麗華の手を静かに、しかしきっぱりと振り払った。

 今さら何を言っても、心に響くわけがない。

 「今さら何を言っても遅いわ。この結末は、すべて……あなたが選んだ道」

 琴羽が振り返る。
 その後ろ姿には、もう一片の迷いもない。

 「さようなら、麗華。どうか今度生まれ変わった時は、人を憎むのではなく、愛することを覚えてください」

 冷ややかに琴羽が告げたのち、瑞蓮が入れ替わるかのように静かに前に出る。
 月光を浴びたその姿は、慈悲深い女神でありながら、同時に厳格な裁定者でもあった。

 「あなたの罪は重すぎます」

 瑞蓮の翡翠色の瞳が神聖な光を宿して輝く。
 その美しい顔に浮かぶのは、もはや怒りではなく、冷徹な正義だった。

 「実の母を殺め、神聖な祭典を穢し、何より……」

 瑞蓮の声が一層厳しくなる。愛する人を守る神としての、絶対的な意志が込められていた。

 「私の愛しい琴羽を、長きにわたって苦しめ続けた罪。もはや償いの機会を与える必要もないでしょう」

 瑞蓮がゆっくりと手をかざすと、琴羽の歌で完全に回復した神聖な力が、純白の光となって麗華を包み込んだ。
 それは浄化の光——すべての穢れを清める、絶対的な神の裁き。

 「ここで……消えなさい」
 「いやあああああああ!」

 麗華の絶望的な叫び声が夜空に響く。
 しかし、琴羽の愛によって完全となった瑞蓮の霊力の前では、呪いの力など塵芥に等しかった。

 麗華の体は純白の光に包まれ、まるで罪深い魂が浄化されるように、静かに光の粒子となって夜風に舞い散っていく。
 その光は美しく、恨みも憎しみも残さない清らかなものだった。

 やがて麗華の姿は完全に消え去り、後には何一つ残らなかった。

 ――すべてが、終わった。

 会場を包んでいた重苦しい空気が嘘のように晴れ、星空が再び美しくその輝きを見せている。
 琴羽と瑞蓮は手を繋いだまま、静かにその場に立っていた。愛が憎悪に勝利した、神聖な夜であった。

 会場の片隅で、深いフードを被った男がその光景を静かに見つめていた。闇市の呪具商である。

 「やれやれ……」
 男は呆れたように肩をすくめながら呟いた。

 「散々警告したのに、聞く耳を持たぬ愚か者め。欲に目が眩んだ末路としては、実に分かりやすいがな」

 男は首を振ると、夜の闇に紛れて姿を消した。
 全てを見届けるために、わざわざここまで足を運んでいたかのように。

 会場に静寂が戻る。そして次の瞬間、盛大な拍手が響いた。
 琴羽の勇気と成長、そして愛の力の勝利を讃える拍手であった。

 瑞蓮が琴羽のもとに駆け寄り、安堵と感動の表情で抱きしめる。

 「琴羽……本当にお疲れ様でした。あなたの愛の音楽が、すべてを救ってくれました」

 その時、貴賓席から重厚な足音が響いた。
 毘沙門天が立ち上がり、ゆっくりと舞台へと歩いてくる。

 「水無瀬琴羽」

 その表情には、これまで見たことのない穏やかな光が宿っていた。

 「見事であった。『千霊回帰の調べ』の完全なる演奏、そして何より、愛の力で邪悪を浄化してみせた。汝の心の強さと音楽への純粋な愛は、神の位に相応しいものである」

 毘沙門天が琴羽の前で深く頭を下げた。
 戦神が人間に敬意を示すという、前代未聞の光景に琴羽も息を呑む。

 そして毘沙門天は懐から美しい金の証書を取り出した。
 それは神々の文字で記された、最高位の音位証明書。

 「水無瀬琴羽、汝にここに『神音』の位を授与する」

 会場が静寂に包まれた。神音――それは人間が到達できる最高峰の音位で、歴史上でも数えるほどしか認められたことのない、伝説の位。かつて琴羽の父が夢見た音位である。

 「さらに」

 毘沙門天が続けた。

 「汝の功績を讃え、特別に『聖音』の位を新設し、これを授与する。精霊を癒し、邪悪を浄化し、神をも感動させる汝の歌声こそ、この位に相応しい」

 金の証書が光を放ち、琴羽の手に収まった。

 
 これは夢なのではないだろうか。
 琴羽の目が大きく見開かれる。
 神音でさえ想像を絶する名誉だったのに、それを超える新しい位が自分のために作られたというのか。
 頭が混乱し、現実感が薄れていく。

 観客席からささやき声が上がる。
 無音から聖音へ。最下位から最高位、否、史上初の新しい音位への大逆転劇に、人々は息を呑んでいた。
 
 「そして弁財天よ」

 毘沙門天が瑞蓮に向き直る。

 「汝もまた、神としての責務、そして愛する者のために全てを賭ける覚悟を示した」

 毘沙門天が会場を見回すと、無数の精霊たちが光となって舞い踊っている。
 その数は以前とは比べものにならないほど多く、水音京全体が神々しい光に包まれていた。

 「見よ、これほど多くの精霊が蘇った今、水底の主との古き契約もその役目を終えたであろう。汝の霊力は完全に解放され、もはや湖に縛られることもない」

 毘沙門天の言葉に、瑞蓮の目が大きく見開かれた。
 長年背負ってきた重い枷が、ついに外れる時が来たのである。

 毘沙門天の表情に、珍しく満足の笑みが浮かんだ。

 「私も認めよう。汝らの結ばれることを、心より祝福する」

 会場がさらに大きな拍手に包まれた。厳格な毘沙門天からの祝福は、他の何よりも重い意味を持っていた。
 琴羽は安堵と感動で膝から力が抜け、その場にへたり込みそうになった。

 長い戦いが、ようやく本当に終わったのだ。
 無音に落とされた屈辱から、最高峰の聖音へ。
 それは琴羽の成長と勝利の証であった。

 「琴羽!」

 瑞蓮が慌てて琴羽を支える。
 その腕の中で、琴羽の目から安堵の涙がこぼれ落ちた。

 「瑞蓮……私たち、やったのね……」
 「ええ、琴羽。あなたが成し遂げたのです」

 瑞蓮の声も感動で震えている。琴羽の顔を両手で包み込み、額を合わせるように顔を近づけた。

 「あなたがいてくれたから……私も、本当の幸せを見つけることができました」

 二人の瞳が見つめ合う。周りの喝采も、観客たちの歓声も、すべてが遠のいて聞こえる。
 この瞬間、世界には二人だけしかいないかのようであった。

 そして自然と、二人の唇が重なった。
 愛に満ちた、静かで深い口づけ。

 月光と舞台の灯りに照らされた二人の姿に、会場からは温かい拍手と歓声が響いた。
 神霊祭は、愛の勝利とともに幕を閉じた。