弁財天の花嫁


 琴羽の指が天蓮琴の最後の音を奏でると、水鏡社の静寂な空間に美しい余韻が響いた。

 深くお辞儀をしてから、期待と不安が入り混じった気持ちで瑞蓮の表情を窺うと……。
 少し間が空いて、パチパチと小さな拍手の音が聞こえてくる。

 「お疲れ様でした。とても美しい演奏でした」
 「でも、やはりいつも同じところで……」

 もう何度も練習を重ねているのに、楽曲の最も難しい部分で必ず躓いてしまう。
 目に見えない壁があるかのように、どうしてもその先に進めない。

 「あと一歩なのに、どうしても最後の転調部分が指に馴染まなくて……もう神霊祭まで時間もないのに」

 琴羽の声には焦りと自分への苛立ちが込められていた。
 練習すればするほど、完璧からは遠ざかっているような気がしてしまう。

 「確実に上達しているではありませんか。昨日よりも今日の方が格段に美しい調べでしたよ」

 瑞蓮が琴羽の肩にそっと手を置く。
 瑞蓮の励ましに、琴羽は小さく頷いた。

 (瑞蓮を失うなんて、絶対に嫌……)

 琴羽は毎日天蓮琴に向かい続けている――愛する人を守りたいという一心で。

 翌日も、その翌日も。
 琴羽と瑞蓮の天蓮琴の練習は続いた。

 水鏡社の静かな空間に、毎日美しい調べが響く。
 しかし、その美しさの陰で、琴羽の心は少しずつ疲れを見せ始めていた。

 曲の完成まで、本当にあと一歩。
 しかし、神霊祭まで残り一週間となっても、琴羽は相変わらず『千霊回帰の調べ』の最終部分で躓いてしまう。

 何度練習しても、あと一歩のところで指がもつれてしまうのだった。
 呪いにかかったかのように、同じ場所で同じ失敗を繰り返す。

 「また……」

 完璧な演奏ができなかったことに肩を落とす日々にも、もう慣れた。
 指先は練習のしすぎで血が滲み、痛みを堪えながらの練習が続いていた。
 それでも弾き続けるのは、瑞蓮への愛があるからだ。

 「お疲れ様でした。今日はここまでにしましょう」

 瑞蓮が優しく声をかけたが、琴羽の表情は晴れない。
 最近はずっとこの調子で、練習を重ねても上達している実感がなく、日に日に心が重くなっていく。
 瑞蓮は優しく励ましてくれるが、琴羽には自分の成長が感じられなかった。

 (このままで本当に大丈夫かしら……)

 ここ数日間、琴羽は天蓮琴の前に座りながら、どこか上の空であった。
 いつものように弦を弾いても、心がこもっていない。
 集中しようとしても、なぜか気持ちが散漫になってしまう。
 心に霧がかかったように、音楽に向き合うことができずにいた。

 「琴羽、体調が優れませんか?」

 瑞蓮が心配そうに琴羽の顔を覗き込んだ。
 その美しい翡翠色の瞳に、深い愛情と心配の色が浮かんでいる。

 「すみません……なんだか集中できなくて」

 琴羽は申し訳なさそうに俯いた。
  瑞蓮に心配をかけてしまっていることが、さらに心を重くする。

 「何か心配事でも?」
 「父の命日が近くて……毎年この時期は、どうしても気持ちが沈んでしまうのです。それに、もう時間もないのに、最後の部分が一度も弾けずにいて……」

 琴羽の声が小さくなる。
  瑞蓮への申し訳なさが胸の中で渦巻いていた。

 「そうでしたか……配慮が足らずにすみません」

 瑞蓮が琴羽の手をそっと握った。
 その温かい手に、琴羽の心が少し落ち着く。

 「実は、最後の部分について少しお話ししたいことがあります。千霊回帰の調べは、元々『月影恋歌』という名前でした。のちに精霊を呼び起こす儀式にも使われるようになり名前が変わったのですが……昔ある宮廷音楽家が作った曲で、悲しい恋の物語があるのです」
 「恋の物語?」

 琴羽が顔を上げる。
 歌に物語があることはよくあるが、こうした古い曲にも同じように物語があったなんて。

 「その音楽家は、身分違いの女性を愛していました。しかし、彼女は病気で若くして亡くなってしまったのです」

 瑞蓮が遠い目をしながら語り始める。

 「音楽家は深い悲しみの中で、彼女への愛と、再び天で会えることを願ってこの曲を作りました。特に最後のパートは『愛の調べ』とも呼ばれており、天に召された愛する人への呼びかけを表現しているそうです」

 琴羽は瑞蓮の話を聞きながら、その音楽家の姿を想像していた。

 それでも愛を込めて旋律を紡ぐ姿。
 天に向かって手を伸ばすような、切ない呼びかけの調べ。

 自分も父を失った時の悲しみを知っているからこそ、その音楽家の痛みが痛いほどわかった。
 もう言葉では届かない愛する人への想いを音楽に込めるしかなかった、その切ない気持ちが。

 「琴羽が苦戦されているのは、まさにその部分です。愛する人への想いが込められた、とても大切な旋律なのです」

 ただ技術的に難しい部分だと思っていたが、そこには深い愛の想いが込められていたとは。
 瑞蓮が琴羽の指先を見つめ、心配そうな表情を浮かべた。

 「指が切れているではありませんか。痛みませんか?」
 「少しだけ……でも大丈夫です」
 「無理をしてはいけません……今日は早めに切り上げて、気分転換をしませんか?」
 瑞蓮がにっこりと笑う。

 「気分転換?」
 「街を歩いてみるのはいかがでしょう? 外に出かけるのも、良い息抜きになるかもしれません」
 「でも、神霊祭まで、もうあまり時間が……」
 「では、言い方を変えましょうか」

 瑞蓮は琴羽の前で優雅に膝をつくと、いつもの完璧な微笑みを浮かべた。

 「……私と、デートをしていただけませんか?」

 琴羽は驚いて顔を上げた。心臓がドキンと跳ねる。

 「デ、デート……!?」

 「はい。私はこれまで、いわゆる普通の恋人同士のようなデートをしたことがありません。せっかく下界にいるのですから。琴羽と一緒に、街を歩いてみたいのです」

 元気のない琴羽の様子を見て、瑞蓮なりに気を遣ってくれたのだろう。
 沈んでいた気持ちが、少しだけ軽くなったような気がする。

 「私でよければ、ぜひ」

 琴羽の答えに、瑞蓮は満足そうに微笑んだ。

 ***

 翌日の朝、瑞蓮は琴羽を水音京の繁華街へと連れて行った。
 石畳の通りには色とりどりの暖簾が風に揺れ、商人たちの呼び声が響いている。
 湖から吹く爽やかな風が、二人の髪を優しく撫でていた。

 「街を歩くのであれば、まずは、琴羽に相応しい装いを選びましょう」

 瑞蓮が立ち止まったのは、街でも評判の高級呉服店。
 「錦屋」と書かれた看板は金文字で彫られ、店構えからして格式がある。
 ショーウィンドウには絹の光沢が美しい着物が飾られており、琴羽は少し躊躇した。

 「このような立派なお店……私には場違いなのでは」
 「そのようなことはありません。琴羽は何を着ても美しいのですから」

 瑞蓮が琴羽の手を引いて店内に入ると、畳敷きの上品な内装が目に入った。
 壁一面に色鮮やかな反物が並び、香木の上品な香りが漂っている。
 すぐに店員が駆け寄ってきた。

 「いらっしゃいま……せ!?」

 現れたのは、三十代くらいの女性店員。
 髪を派手に結い上げ、紅を濃く差した唇が印象的である。
 琴羽と瑞蓮の姿を見た瞬間、その目がキラキラと光った。

 「うわあああ! 美男美女! 美男美女がいらっしゃった!」
 「あ、あの……」
 「お客様! この美しさは一体……! まるで絵巻物から抜け出してきたかのような!」

 店員が次々と着物を持ち出しながら、目を輝かせて迫ってくる。
 琴羽は少し驚きながらも、その熱意に圧倒される。
 ふと、店員が持ってきた着物の値札がちらりと目に入った瞬間、琴羽の顔が青ざめる。
 とても高い値段だった。琴羽にとっては、数年分の生活費にもなりそうな金額。

 「わ……私、こんなに高価なものは……」
 「お金のことは気になさらず」

 瑞蓮が琴羽の心を読み取ったかのように、すかさず優雅に微笑んだ。
 店員の異様なテンションにもまったく動じていない様子は、さすがは神様である。

 「琴羽の好きなものを、好きなだけお持ちください」
 「旦那様、素敵な上にお優しい! 私、今日は良い仕事ができそうです!」

 店員がハンカチで嬉し涙を拭いながら、感激している。
 (旦那様ではないけれど……)

 琴羽の頬がほんのり赤く染まる。側から見たらそういう風に見えるのだろうか。
 一応、本当の恋人同士なのだから、そんな風に見られても不思議ではないはず。
 それなのに、公の場で瑞蓮と並んで歩くことがまだ慣れなくて、胸がドキドキしてしまう。

 結局、琴羽は水色の地に白い梅の花と雪輪が散りばめられた美しい訪問着を選んだ。
 帯は薄い金色の袋帯で、梅の花の刺繍が施されている。
 店員の勧めもあり、髪には白い梅の花をかたどった銀の髪飾りを挿し、足袋は真っ白な絹、草履は薄い金色の鼻緒がついた上品なものを合わせた。

 店員の着付けの腕は意外にも確かで、手際よく美しく装ってくれた。さすがは巷で評判の老舗店。
 接客のテンションは独特だが技術と商品は一流であった。

 瑞蓮が選んだのは、控えめな鼠色の地に小さな菊の花が散らされた小紋。
 帯は落ち着いた茶色の名古屋帯、帯締めと帯揚げも同系色でまとめ、髪飾りは質素な木製の櫛一本だけ。
 しかし、どのような質素な着物を着ても、その神々しい美しさは隠せない。
 むしろ、控えめな装いがより一層瑞蓮の品格を引き立たせていた。

 「完成ですわ!!!」

 店員が涙を流しながら手を叩いた。
 鏡に映った琴羽は、まるで別人のように美しく装われていた。
 水色の着物が琴羽の青い髪によく映え、白い梅の花が清楚で上品な印象を与えている。

 琴羽は自分の姿に驚く。
 鏡に映る自分が別の誰かに見えるほどだった。
 こんなに美しく装ってもらえるなんて、夢のようだ。

 「もう、もう!このように美しいお二人を見られて私の人生に悔いはございませんっ!!!! 絵に描いて永遠に保存したいくらいですわ! 本当に素敵〜〜〜!」

 店員の大袈裟な賞賛に、琴羽は照れながらも嬉しさを感じる。

 「あ、ありがとうございます……」

 瑞蓮が琴羽の後ろに立ち、鏡越しに微笑みかけた。

 「その着物、琴羽によく似合っております」

 瑞蓮の翡翠色の瞳が、琴羽を愛おしそうに見つめている。

 「とても綺麗ですよ」

 好きな人に綺麗だと言われることが、こんなにも嬉しいなんて。
 鏡の中の自分が、いつもより輝いて見えるのは、瑞蓮の愛情に包まれているからだろうか。

 「ありがとう、瑞蓮」

 琴羽は嬉しそうに着物の袖を翻した。
 このように美しく装ったのは、父が生きていた頃以来である。

 あの頃、同い年の女の子たちが恋愛の話で盛り上がっていても、琴羽はいつも音楽のことばかり考えていた。
 誰かに恋をするとはどういうことなのか、想像すらできなかった。

 でも今は違う。瑞蓮に「綺麗」と言われる喜び、愛されることの幸せ。
 相手の一言でこんなにも心が満たされる気持ちがあるなんて、知らなかった。

 「ありがとうございました! またのお越しをお待ちしております〜!」

 店員が涙を浮かべながら、二人を見送ってくれる。
 錦屋を出ると、琴羽は新しい着物に身を包まれた自分に、まだ少し照れていた。
 瑞蓮が自然にさしだした腕に、恐る恐る手を添える。

 「さあ、街を歩いてみましょうか」

 瑞蓮が優雅に微笑む。
 石畳の通りを歩く二人の姿に、行き交う人々が振り返る。 

 店員が最初に口にした通り。
 誰が見ても、絵巻物から抜け出したような美しい2人だった。

 ***

 石畳の通りを歩きながら、琴羽は瑞蓮の腕にそっと手を添える。
 こんなに堂々と街を歩くのは久しぶりで。
 少しの緊張を感じつつ、瑞蓮の傍にいると自然と心が落ち着いた。

 「あ、あそこにお団子屋さんが」

 琴羽が指差した先には、香ばしい匂いを漂わせる小さな団子屋があった。
 「みたらし屋 福助」と書かれた素朴な看板が風に揺れている。
 炭火で焼かれる団子の良い香りが、通りまで漂ってきていた。

 「団子……でございますか」

 瑞蓮が首を傾げる。

 「瑞蓮は食べたことがないの?」
 「恥ずかしながら、神は基本的に人間の食べ物を必要としませんから。嗜好で口にする者もいますが、あくまで趣味の範囲ですね」
 「でも、水鏡社にきた日。料理を作ろうとしてくれたじゃない?」
 「あの時は……見栄を張って琴羽に料理を作ろうとしましたが。実際のところ食べ物の知識はほとんどないのです。琴羽の食事は私も大変気に入っているのですが、“食べる”という行為そのものについて、時に見よう見まねだったりもします」

 瑞蓮が少し恥ずかしそうに告白した。
 普段の威厳ある神としての姿とは違う、どこか人間らしい可愛らしさがあった。
 
 (まな板が真っ二つになったのを思い出すと、納得かも……)

 琴羽は心の中で苦笑しながら納得した。
 あの時の瑞蓮の困った顔を思い出すと、今の告白も頷ける。

 「でも、琴羽と一緒なら、なんでも美味しく感じられそうです」

 その優しい言葉に、琴羽の胸が温かくなる。

 二人は団子屋の前の小さな縁台に座った。
 木製の素朴な縁台だが、二人が座るとまるで特別な席のように見える。
 店主が焼きたての団子を持ってくると、湯気とともに甘辛いみたらしの香りが漂ってきた。

 「はい、どうぞ。焼きたてですよ。お似合いのお二人さんですねぇ」
 「ありがとうございます」

 琴羽が瑞蓮に団子を差し出すと、瑞蓮は慎重に手に取った。
 串に刺さった白い団子には、つやつやと照りのあるみたらしが絡んでいる。

 「これは……どのようにいただけば?」

 瑞蓮が困惑した表情を見せる。
 神としての威厳はどこへやら、まるで初めてのことに戸惑う子どものようであった。
 その姿が愛らしくて、琴羽は微笑んでしまう。

 「そのまま食べればいいのよ。でも熱いから、少しずつね」

 琴羽が自分の団子を口に運んで見せた。
 瑞蓮が真剣な表情でその様子を見つめているのが可愛らしい。
 瑞蓮が恐る恐る団子を口に運ぶ。
 その瞬間、瑞蓮の美しい翡翠色の瞳が驚いたように大きく見開かれた。

 「これは……」
 「いかがでしょうか?」

 琴羽が期待を込めて尋ねる。

 「甘いのに……ほのかにしょっぱくて……そして温かい」

 瑞蓮がゆっくりと味わいながら言葉を探している。
 初めて体験する味に、彼が素直に驚いている様子が微笑ましい。

 「みたらしは醤油ベースの甘辛いタレなの。昔からある庶民の味よ」
 「庶民の味……なるほど」

 瑞蓮が団子をもう一口頬張る。
 今度は少し慣れた様子で、美味しそうに食べていた。

 「琴羽、これは素晴らしい食べ物ですね。身体が温まるだけでなく、心も満たされます」
 「瑞蓮が気に入ってくれて嬉しい」

 二人は並んで座りながら、ゆっくりと団子を味わった。
 街の雑踏の中で、ほんのりと甘い時間が流れていく。
 瑞蓮が人間の食べ物を楽しんでいる姿を見ていると、琴羽の心も温かくなった。

 ふと、瑞蓮が琴羽を見つめる。

 「ここにタレが……」

 琴羽の頬に少しみたらしのタレがついているのを見つけて、瑞蓮がそっと指でそれをすくい取った。
 そして、何の迷いもなく、その指を自分の口に含んで舐めとった。
 琴羽の顔が真っ赤になる。心臓がドキドキと激しく鳴った。

 「ず、瑞蓮……!」
 「甘くて美味しいですね」

 「ふふ、琴羽の方が甘くて美味しいですね」

 瑞蓮は何の悪気もなく微笑んでいる。
 琴羽の動揺など気づかないかのように、自然な仕草だった。

 「こうして一緒に味わうと、格別ですね。人間が食事を大切にする理由が、ようやく理解できました。愛する人と分かち合うからこその味わいなのでしょう」

 瑞蓮の言葉に、琴羽の心がふわりと温かくなった。
 確かに、一人で食べる団子よりも、瑞蓮と一緒に食べる団子の方が、何倍も美味しく感じられる。

 ***

 その後、二人は街の楽器屋を巡った。
 楽器に触れる瑞蓮の指先は、まさに神技そのもので、琴羽は改めて瑞蓮の才能に見惚れてしまう。
 自分も音楽を愛する者として、もっと様々な楽器に挑戦したい。
 古い楽器専門店で瑞蓮が手に取った三味線や琵琶を美しく演奏する様は、楽器屋の店主を何度も驚かせた。

 夕方には通りがかりの小さな縁日へ。
 射的では瑞蓮が見事に的を射抜いて大きなぬいぐるみを獲得し、琴羽にそれをプレゼントしてくれた。
 さらに型抜きでは複雑な龍の形を完璧に抜き取って見せる瑞蓮に、周りの子供たちが「すごーい!」と歓声を上げる。
 瑞蓮が、こうして庶民の遊びを楽しんでいる姿を見ていると、なんだか特別な時間を共有しているような気持ちになる。

 そんな時、人混みの中から聞き覚えのある声が響いた。

 「水無瀬さん?」

 振り返ると、白衣を着た中年の男性が立っていた。
 琴羽が意識を失って入院していた時の主治医である。

 「先生……! あの時は大変お世話になりました!」
 「元気そうで良かった。あの日、無理に退院したから心配だったんです。それに……」

 医師が瑞蓮を見つめ、驚いたような表情を浮かべた。記憶を辿るように、じっと瑞蓮の顔を見つめている。

 「君は、あの時の……」

 医師の視線がじっと瑞蓮に注がれる。
 何かを思い出そうとしているようだった。

 「あの嵐の夜、意識を失った水無瀬さんを病院まで運んでくれた方ですね? その翡翠色のきれいな瞳。とてもよく覚えている」

 瑞蓮が自分を病院まで……? 
 そんなことがあったなんて、初めて聞く話だった。
 瑞蓮を見つめると、彼は静かに頷いた。

 「ご無沙汰しております、先生。あの時は唐突に押しかけ、名乗りもせずに失礼いたしました」
 「いやいや。ほほぅ、君たちはそういう関係だったのか。お似合いのお二人だね」

 医師が温かい笑顔を浮かべる。

 「じゃあ、僕は若いお二人の邪魔をしないよう、失礼するね。水無瀬さん、お幸せに」

 そう言って立ち去った医師の後ろ姿を見送りながら、琴羽は瑞蓮を振り返る。

 「あの嵐の夜、私を助けてくれたのは瑞蓮だったの?」

 心臓がドキドキと鳴っている。

 どういうことなのだろう。
 いつから瑞蓮は自分のことを知っていたのだろうか。

 「はい。あの日、ようやく琴羽を見つけることができました。しかし、とても消耗しているご様子でしたので、すぐに病院へお連れしたのです。ただ……見知らぬ男が突然現れて病院に連れて行ったとなれば、琴羽が恐がられるのではないかと思い、名乗らずに立ち去りました」

 瑞蓮の声には、あの時の心配と迷いが込められていた。
 琴羽への気遣いが、その言葉の端々から感じられる。

 「ありがとう、瑞蓮」

 琴羽の胸が熱くなり、涙がこみ上げてくる。
 あの時、麗華は自分を残して蒼真だけを病院に連れて行った。

 あの嵐の中、誰にも気づかれず、一人で倒れていた自分。
 もしかしたら、そのまま死んでいたかもしれない。

 ーーでも、瑞蓮が助けてくれた。

 その事実を知った琴羽の心は、感謝と愛おしさでいっぱいになった。
 瑞蓮との繋がりが、思っていたよりもずっと深いものだったと知って、今日という日がさらに特別なものに感じられる。

 楽しい時間はあっという間に過ぎ、気がつけば夕暮れに藍色の空が混じる時間になっていた。
 二人は街角のベンチに腰を下ろし、獲得した景品を眺めながら一息ついた。

 「私、毎日毎日家のことばかりで。お父様が生きていた頃も、ほとんど音楽しかやってこなかったし。こうやって誰かと遊んだことなんてなかったから……全部が新鮮で、楽しくて。今日は本当にありがとう」
 「それは、私もですよ」

 小高い丘の上からは、街並みが一望できる。
 街にはすでに明かりがつき始めており、夕食の時間だからだろうか。炊事場から多無理が立ち上る家も多い。
 そんな人々の暮らしを見ながら、瑞蓮が微笑む。

 「人はこうして何気ない営みを重ねながら、幸せを育んでいくのですね。琴羽と過ごす時間は、何物にも代えがたい宝物です」

 夕日に照らされた二人の表情は、穏やかで幸せに満ちていた。
 しばらくの沈黙の後、琴羽が静かに呟いた。

 「最後に……お父様のお墓に立ち寄っても?」

 瑞蓮が静かに立ち上がると、琴羽も頷いた。
 水音京の外れにある静かな墓地へと向かう道すがら、琴羽の足取りは少しずつ重くなっていった。
 楽しかった一日の余韻が残っている一方で、父への想いが心の奥から湧き上がってくる。

 夕暮れの空が紫色に染まり始め、遠くから聞こえる寺の鐘の音が、どこか厳かな雰囲気を醸し出している。
 墓地は古い桜の木々に囲まれ、静寂に包まれていた。

 石灯籠がほのかに灯り、参道を照らす。
 「水無瀬清隆」と刻まれた墓石の前で、琴羽は持参していた白い菊の花を丁寧に供えた。

 「お父様……今日は大切な方をお連れいたしました」

 琴羽が墓前に手を合わせると、瑞蓮も隣で静かに膝をつき、深く頭を下げた。
 その姿は、いつもの神としての威厳を脱ぎ捨て、ひとりの人として琴羽の父に向き合っているようであった。
 しばらくの沈黙の後、瑞蓮が慎重に口を開いた。

 「清隆様……瑞蓮と申します。琴羽を……心より愛しております」

 瑞蓮の声は静かで、深い敬意が込められていた。
 琴羽の目に涙が浮かんだ。瑞蓮がこのようにも真摯に父に向き合ってくれていることが嬉しかった。

 「お父様……私、今とても幸せです。瑞蓮に出会えて、このようにも大切にしていただいて……」

 夕風が墓地を静かに吹き抜けて、桜の葉がさらさらと音を立てる。
 しばらくの沈黙ののち、やがて琴羽が小さく呟いた。

 「私は、瑞蓮と生きていきたい」

 二人は無言で手を合わせ、静かに祈りを捧げた。
 父に見守られながら歩む新しい人生への、静かな決意が二人の心に宿っていた。

 墓参りを終えた二人は、近くの小高い丘に登った。
 瑞蓮が琴羽の手をそっと握ると、琴羽も安らかに微笑む。
 そこは琴羽が幼い頃、父とよく星を見に来た思い出の場所であった。

 丘の上からは水音京の街が一望でき、湖面には星空が美しく映り込んでいる。
 街の明かりがきらきらと瞬き、まるで地上に星座が降りてきたかのようであった。

 「なんて美しいの……」

 夜空には無数の星が瞬き、天の川がほのかに見えている。
 風は涼やかで、秋の虫たちが静かに調べを奏でていた。

 「琴羽」

 瑞蓮が琴羽を振り返ると、少し緊張した面持ちで懐から小さな桐の箱を取り出した。

 「もしよろしければ……これを受け取っていただけませんか」

 箱を開けると、中には美しい翡翠の髪飾りが入っていた。

 「これは……?」
 「私の神気を宿した髪飾りです」
 
 瑞蓮が箱から髪飾りを取り出す。
 透明感のある薄緑の翡翠に繊細な金の細工が施され、小さな真珠があしらわれている。
 月光の下で神々しく輝き、まるで湖の水面のような美しさであった。

 「西洋では愛する人に指輪を贈る風習があると聞きますが、神の婚姻においては神石に心を託す習わしがあります。もしこれを身につけていただけるなら、どこにいても、いつでも、私があなたを守ることができます。この翡翠は湖の底で何百年もの間、清らかな水に育まれてきた神石。これを身につけている限り、たとえ私の姿が見えなくても、必ずあなたを守り抜きます」

 瑞蓮が髪飾りを手に取り、琴羽の髪にそっと挿してくれた。

 「私の神気と、あなたへの想いを込めました。これからどんなことが起ころうとも……私の想いは永遠です。たとえ……私の姿が見えなくなっても、心は必ずあなたと共にあります」

 瑞蓮は優しく微笑んだ。
 しかし、その微笑みの奥に深い悲しみが隠されているのを、琴羽は感じ取る。
 瑞蓮の翡翠色の瞳が、いつもより潤んで見えるのは気のせいだろうか。

 「琴羽……もし私がいなくなっても、どうか笑顔でいてください。あなたの美しい歌声で、たくさんの人を幸せにしてください。そして時々……時々でいいから、私のことを思い出してくれませんか」

 嫌だ。瑞蓮がいない未来など。考えたくもない。
 琴羽の心が激しく拒絶する。

 声を取り戻してくれたのも、愛することを教えてくれたのも、生きる意味を与えてくれたのも、全部瑞蓮だったのに。
 瑞蓮がいなくなったら、私は何を心の支えにーー。

 「この髪飾りを見るたび、私があなたをどれほど愛していたか……あなたに出会えたことが、どれほど幸せだったかを思い出してほしいのです。これが、私からあなたへの……最後の贈り物かもしれませんから」
 
 「瑞蓮……」

 琴羽の涙が頬を伝い落ちる。
 瑞蓮の優しさが、愛の深さが。痛いほど伝わってくる。

 「そんなこと……そんなこと言わないで。私、絶対に成功させる。瑞蓮を失うなんて嫌! やっと、やっと幸せになれたのに……」
 
 口では強がっても、琴羽には痛いほどよくわかっていた。
 ――どんなプロでも、演奏に絶対はない。

 もし神霊祭で失敗したら、瑞蓮は消えてしまう。
 仮に成功したとしても、本当に精霊が以前の通りに戻ってくるのかの確証はない。
 その恐怖と絶望を感じながらも、瑞蓮は自分への愛を遺そうとしてくれている。

 その恐怖と絶望を感じながらも、瑞蓮は自分への愛を残そうとしてくれている。
 なんて優しい人なのだろう。なんて愛の深い人なのだろう。

 瑞蓮も、きっと同じように苦しんでいる。
 愛する人を残して去らなければならない痛み。
 数百年間の孤独の末に見つけた愛する人を、また失うかもしれない恐怖。

 でも、それでも最後まで彼が願うのは琴羽の幸せだ。

 涙が頬を伝って落ちる。
 声を失って絶望していた日々、一人ぼっちで寂しかった夜々。
 それらすべてが、瑞蓮と出会ったことで意味を持った。

 この幸せを失うなんて、考えられない。

 「この髪飾り、一生大切にする。でも……でも、瑞蓮にはずっと一緒にいてほしい。お願い、私を置いていかないで」

 星空の下で、二人は静かに抱き合った。
 風が優しく吹いて、二人の髪を揺らしている。瑞蓮の銀髪と琴羽の青い髪が、月光の中で美しく混じり合う。
 明日への不安を抱えながらも、今この瞬間の愛だけは確かなものだった。

 お互いの鼓動を感じながら、二人は無言で愛を確かめ合っていた。
 この温もりを永遠に忘れたくないと、琴羽は瑞蓮をぎゅっと抱きしめる。

 「琴羽……」

 瑞蓮が琴羽の名前を呼びながら、その顔をそっと両手で包み込む。
 月光が瑞蓮の銀髪を照らし、琴羽は出会ったあの日を思い出した。

 湖畔で初めて見た瑞蓮の美しさ、そして今もなお変わらぬその愛おしさに、心が満たされる。

 「あなたに出会えて、本当に良かった。これまで数百年、いえ、数千年の時を重ねてきましたが……生きているということを初めて実感できました。琴羽と出会い、初めて気がついたのです。神もまた、ひとつの魂を持つ存在として、愛し、愛されることを求めてもよいのだと」

 琴羽も、同じ気持ちだった。涙がとめどなく頬を伝い落ちる。

 自分が幸せになることなんて考えたことがなかった。
 声を失って、家族からも見捨てられて。
 生きている意味なんてないと思っていた、あの暗い日々。

 けれど瑞蓮に出会って、すべてが変わった。
 初めて自分の名前を呼んでもらった時の嬉しさ。
 一緒に練習した天蓮琴の音色。毎晩の優しい口づけ。

 誰かに愛されるということを知った。
 誰かの腕の中で眠る温かさを知った。
 好きだからこそ、その一挙手一投足が気になってしまうくすぐったさを知った。

 ――たとえ世界の全てが自分を信じてくれなかったとしても。

 自分を信じてくれる人がいる安心感を知った。

 ただそこにいて。生きていてもいいのだと思える幸せを知った。

 そして今――愛しているからこそ、失うことがこんなにも怖い。

 (瑞蓮を失ったら、またあの暗闇に戻ってしまう。一人ぼっちの、音のない世界に)

 そんなことは、もう耐えられない。

 「私も……今、同じ気持ち。もっと早く……もっと早く瑞蓮に出会いたかった」

 琴羽が瑞蓮の手に自分の手を重ねた。
 涙で声が震えて、うまく言葉にならない。

 「瑞蓮に出会って……どんなに暗い夜でも、あなたがいる朝が来ると信じられるようになった。初めて自分がここにいていいのだと思えた。だから……だから、ずっと、ずっと一緒に……」

 琴羽の声が途切れる。
 愛しさと切なさで、胸がいっぱいになって言葉にならない。

 でも、その想いは瑞蓮にしっかりと届いているのを感じた。

 瑞蓮がゆっくりと琴羽の唇に自分の唇を重ねる。
 その幸せが、もしかしたら永続しないかもしれないという現実。

 でも今は、瑞蓮の唇の温かさに、すべてを委ねていたい。
 ――この瞬間だけは、永遠であってほしい。

 「一度は失いかけた命を繋いでくれたのは、あなたです。たとえ神としての力を全て失い、ただの魂だけになったとしても、永遠にあなたを愛し続けるでしょう。それだけは……お約束いたします」

 嬉しいのに、切ない。
 愛おしいのに、怖い。
 
 ――でも、そんな痛みすら。

 「琴羽……愛しています」

 今の琴羽には、愛おしく感じられた。

 その時、二人の愛に応えるかのように、夜風に乗って淡い光の粒子が舞い踊り始めた。

 「あれは……」

 琴羽が息を呑む。
 光る粒子は美しい蝶のような形をとって、二人の周りを優雅に舞っている。
 水の精霊の祝福が、2人を包んだのだった。

 「月影恋歌を作った音楽家からの、贈り物でしょうか」

 光の精霊たちが琴羽の周りを舞うにつれて。
 どこからともなく聞こえてくる、美しい旋律。
 それは千霊回帰の調べ、かつての月影恋歌のメロディーだった。

 琴羽の胸の奥で、音楽が鳴り響く。
 これまで弾けなかった最後の部分……『愛の調べ』の旋律が、確かに鳴り響いている。

 「聞こえる……愛の調べが」

 ――今なら分かる。この曲に込められた深い愛情が。

 たとえ愛する人にもう会えなかったとしても。
 その人を想い続けていたいという、何にも変え難い強い思いが。

 痛みも、切なさも、別れの恐怖さえも――すべて愛ゆえのものだということが。

 光の精霊たちは二人を祝福するように一度大きく舞い上がると、星空に溶けるように消えていった。

 しかし、琴羽の心には確かに残っていた。
 千霊回帰の調べを完奏できるという、確かな予感が。