瑞蓮は光る苔の淡い青光に照らされながら、遠い記憶の扉を開いた。
 琴羽の不安そうな瞳を見つめていると、もうこれ以上隠し続けることはできない。

 琴羽には、すべてを知っていてもらいたい。
 自分の弱さも、背負ってきた重荷も。

 「数百年前のことです。水音京は外海から押し寄せた"異界の潮"に襲われました」

 あの日のことを思い出すと、今でも胸が締め付けられる。

 「その潮には怨霊や怪異が混ざり込み、湖を汚し、精霊たちを次々と喰らっていきました。このままでは湖が死に、都市も滅びてしまう……そのような絶望的な状況でした」

 街が、罪のない下界の人間たちが。
 すべて黒い波に飲み込まれそうになっていくあの絶望を、今でも鮮明に覚えている。
 神でありながら、最初は何もできずにただ立ち尽くすしかなかった自分の無力さも。

 「そこで、私は湖そのものの意志――『水底の主(みなそこぬし)』と呼ばれる古の水神と契約を結ぶことにしたのです」

 あの時、他に選択肢はなかった。
 何度も何度も検討を重ねた末の、苦渋の決断。
 それでも、街と人々を救うためには、それしか道はなかったのだ。
 その代償の重さも、すべて承知の上で。

 「湖は強大な霊力を持っていましたが、外敵を防ぐためには神の力を常に流し続ける必要がありました。そこで私は、自らの霊力の半分を湖に捧げ、代わりに湖が永続的な結界を張り続けることを可能にしたのです。いわば、私の力と湖の力を鎖で繋いだような状態になりました」

 契約を結んだ瞬間の痛みを、瑞蓮は今でも体に覚えている。
 自分の心臓の半分を差し出すような、深く鋭い痛み。

 それが半永久的に続することも、自由を失うことも承知の上だった。

 そして何より――これは神として欠けた存在になるということでもあった。
 完全ではない神。制約に縛られた神。そんなものは果たして神と呼べるのだろうか。
 皮肉なものだ。あの状況において神としての完全性を捨てることが、最も神らしい選択だったとも言えるなんて。

 「随分と……重い代償を」

 琴羽が心配そうに呟く声に、瑞蓮は胸の奥が温かくなった。
 自分のことを心配してくれる人がいるということが、このようにも嬉しいものだとは。
 長い間、そんな感情を忘れていた。

 「これにより外敵は退けられましたが、私は湖と一心同体となりました。湖から遠く離れると力の供給が途絶え、一度に使える霊力も制限されるようになりました。全盛期の力は、もう出せません」

 瑞蓮は自分の手をじっと見つめた。
 昔は光り輝いていたこの手も、今では力の大半を湖に預けている。
 それでも、街が救われるなら、人々が笑顔でいられるなら。

 「大黒天様が心配なさっているのは、そのことなのですね」
 「ええ、彼は優しい方でございますから。私を気遣ってくださっているのです」

 情けないと思う気持ちと、琴羽に弱さを見せてしまった申し訳なさが胸に混ざり合う。

 「湖との契約以降、私は『自分は水音京を守るために存在している』『守るためなら何でも犠牲にするのが役目』と思い込むようになりました。個人的な幸せや望みを求めることは、もはや許されないことだと……神としての責務を果たすために、そうした感情は封じ込めるべきだと考えていたのです」

 長い間、それが当然だと思っていた。
 神としての責任、守るべきもののために自分を犠牲にするのは当たり前のことだと。
 神の存在は人の幸福のためにあり、自身の幸福など不要なのだと。

 自分の選択を後悔したことはなかった。本当に、一度も。
 けれど、琴羽に出会ってから、その気持ちに小さな変化が生まれ始めていた。

 「それでも……長い年月の中で疲れや孤独が募ると、ひそかに下界へ降りることがありました。街角の演奏会や湖畔の宴を遠くから眺めたり、子どもたちの童歌に耳を傾けたり……人々の笑顔や美しい音楽に触れて『この街を守ってよかった』と思える瞬間が、私にとってささやかな慰めだったのです」

 あの頃の記憶は、瑞蓮にとって小さな宝物であった。
 人々の笑顔、美しい音楽、平和な日常。
 いつも一人で、遠くから眺めているだけの「誰かの幸せ」。
 それらを守るために自分は存在しているのだと、自分に言い聞かせるために。

 「そして、ある年のことです。湖に異常な渇きが訪れ、水位が急激に下がりました。契約で湖を守る私は、水底の主の安定を保つために自らの霊力を長時間注ぎ込み続け、やがて消耗しきって水辺に倒れ込んでいました」

 体中の力が抜けて、もう立っていることもできない。
 意識が薄れ、このまま湖の底で消えてしまうのかと思った時であった。

 「そのとき、遠くから聞こえてきた澄んだ歌声が、湖面を揺らし、私の霊力を少しずつ癒していきました。その声の主こそ……まだ幼い琴羽だったのです」

 あの歌声の美しさは、今でも鮮明に覚えている。

 天からの贈り物のような、清らかで温かい声。
 まるで母の子守唄のように優しく、それでいて力強い生命力に満ちていた。

 その歌声に包まれて、瑞蓮は初めて「救われた」と感じた。
 神である自分が、一人の人間の歌声に救われるという奇跡。

 琴羽は驚いて目を見開いた。

 「私……?」
 「ええ。近づくことはできませんでしたが、その声を胸に刻み、以来ずっと探し続けてまいりました。琴羽こそ私の恩人なのです。あなたがいなければ、私はあの日、湖の底で力尽きていたでしょう」

 瑞蓮の瞳に深い感謝の光が宿る。
 あの日から、一日として忘れたことはない。

 「そして『縁楽の舞』の夜。声封じの呪いを受けていても、私にはすぐにわかりました。あの時私を救ってくれた、美しい歌声の主だと」

 運命だと思った。
 探し続けてきた人に、ついに出会えた時の喜びは言葉では表せない。

 瑞蓮は琴羽の手を両手で包み込む。
 この温かさをもう失いたくないとばかりに。

 「だからこそ、琴羽の『千霊回帰の調べ』に賭けているのです。あなたなら、きっと奇跡を起こすことができる。あの時、絶望の淵にいる私に希望の光をもたらしてくれたように……」
 「でも……もし弾けなかった場合は?」

 その不安そうな問いに、瑞蓮は胸が痛んだ。
 琴羽を悲しませたくない。
 このような重い話をするべきではなかったのかもしれない。 

 けれど。真実を隠し続けることは、もうできない。
 琴羽には、すべてを知る権利がある。

 瑞蓮は一瞬躊躇したが、やがて静かに口を開いた。

 「……精霊が減り続けている今、もし『千霊回帰の調べ』が弾けなかった場合、最後の手段として……残りの霊力をすべて湖に捧げ、私自身の存在を湖と完全に融合させて精霊たちを呼び戻すことになっています。つまり……」

 瑞蓮は言葉を選びながら続けた。

 「私という個人は消え、湖そのものになるということです。水音京の守護神として、永遠に湖の底で街を見守り続けることになります」
 これは精霊の減少が深刻化した時から、毘沙門天に告げられていたことだ。

 琴羽が神霊祭に出ることになるずっと前から、雲上の楽座ではこの可能性について話し合われていた。
 神自身は神器を奏でることができない。

 だからこそ、琴羽を神霊祭に送り込むという毘沙門天の決断は、彼なりの瑞蓮への――そして彼を愛する琴羽への優しさだったのだろう。きっと彼なりに、自分を“生かす”ための最後の道を模索してくれたのだ、と瑞蓮は思った。

 琴羽の顔が見る見る青ざめていく。

 「そんな……それでは瑞蓮が……」

 その表情を見ていると、瑞蓮の心は引き裂かれそうになる。
 もう後戻りはできない。そう、これが現実なのだ。

 「神とはそういうものなのです。街と人々を守ることが最優先で、個人的な望みなど二の次。私は消えても、新しい弁財天が水音京を守ってくれるでしょう。そうすれば、この街の音楽も、人々の笑顔も。すべて守られるのです」

 琴羽と過ごしたこの短い時間が、どれほど幸せであったか。
 どれほど、乾ききっていた心を満たしてくれたか。
 失うものの大きさを、今更ながら実感していた。

 「そんなの、おかしい」

 琴羽の声は震えていた。

 「みんな神様にお祈りして、お願いして、守ってもらってるのに。神様だけが一方的に与え続けて、自分のことは何も求めちゃいけないなんて。私が生きていて良かったと思えるようになったのは、瑞蓮がいてくれたからなのに」

 琴羽の言葉に、瑞蓮の胸が締め付けられる。

 「なのに、どうして瑞蓮だけが犠牲にならなければいけないの。瑞蓮だって、もっと自分の幸せを考えていいはず。笑って、美しい音楽を奏でて、好きな人と一緒にいて……そういう、当たり前の幸せがあってもいいはず」

 当たり前の幸せ。
 それはいつだって自分のためではない“誰か”のものであって。もはや手の届かないものだと思っていた。

 「私、絶対に『千霊回帰の調べ』を成功させる。瑞蓮は、もう十分すぎるほど街のために尽くしてきたじゃない。今度は瑞蓮自身の番。一緒に笑って、一緒に音楽を奏でて……瑞蓮が心から笑える、そんな穏やかな日々を。私は、瑞蓮と過ごしたい」
 「琴羽……」

 琴羽は瑞蓮の手を両手でしっかりと握りしめた。

 誰かがこのようにも自分のことを想ってくれる。
 自分の幸せを願ってくれる人がいる。
 このような幸せなことがあっていいのであろうか。

 「私はもう、昔のような完全な神ではありません。力の半分を失い、制約に縛られている……それでも」

 もう諦める必要はないのかもしれない。
 琴羽となら、諦めた未来を築けるかもしれない。

 琴羽が神霊祭を成功させると信じている。その言葉に嘘はない。
 だからこそ、万が一の話をして、不必要に不安がらせる必要はないと思っていたことも本当だ。
 しかし――きっと心の奥底では、ただ怖かったのだ。

 自分が、万能の神ではないと知られることが。
 ようやく見つけた愛する人に、自分の弱さを知られてしまうことが。

 「完全な神ではない私でも。琴羽の隣にいることを許していただけるでしょうか」
 「そんなの……決まってるじゃない」

 琴羽の目に涙が溢れ、それでも嬉しそうに微笑んだ。
 涙で濡れた頬に笑顔が浮かぶその姿は、瑞蓮の心を深く打った。

 「瑞蓮は……声のない私に、歌を歌わせてくれた。羽のない私に、空を見せてくれた。だから今度は私が……瑞蓮に本当の幸せをあげたい。制約に縛られない、心からの笑顔を」

 琴羽の決意に満ちた声に、瑞蓮の心が震える。
 この人は、自分のために戦ってくれると言うのか。

 数百年間、誰にも求められることのなかった自分の幸せを、こんなにも切実に願ってくれるなんて。
 こんな幸せがあっていいのだろうか。

 「ありがとう、琴羽」

 瑞蓮の声は感謝に満ちていた。

 「なら、すぐにここから出て神霊祭に向かわなければなりませんね。私たちの未来のために」

 瑞蓮は、いつもの優雅な微笑みを取り戻した。

 しかし、その瞳には新しい輝きがあった。
 もう一人ではない。愛する人のために、そして自分自身のために戦うのだという、強い意志の光が。

 ***

 二人が蔵の奥の部屋から戻ってくると、大黒天が心配そうに迎えた。

 「どう? 何か見つかった?」
 「いえ……目ぼしいものは見つかりませんでした。ですが琴羽と話す中で、一つ考えが浮かびました」

 瑞蓮はぐるりと周りを見渡す。

 「この蔵は水の加護で満たされており、奥の部屋には水の精霊たちが愛する植物も生い茂っております。ここは神封じの結界により私たちの術や妖の霊力は使えませんが……。美しい水草や光る苔を見る限り、精霊たちは自由に行き来できているようです」
 「つまり、精霊の力なら借りられるかもしれないと?」
 「ええ。琴羽の歌声で精霊たちを呼び、結界に穴を開けていただくのです。ただ……」

 瑞蓮の表情が少し曇った。
 この作戦を決行するには一つだけ、足りないものがある。

 「ここが結界の外なら、琴羽の歌声だけでも精霊たちは集まってくるでしょう。しかし、ここには精霊が嫌う呪具の力が満ちております。歌声だけでは、おそらく彼らは怯えて出てこない。琴羽、そして精霊たちにとっても、深く思い入れのある楽器があれば……より強く精霊たちの心を惹きつけることができるはず」

 精霊たちにとっても、深く思い入れのある楽器。
そう聞いて、琴羽が真っ先に思い浮かべたのは、父からもらった琴だった。

琴羽の声は小さく震えていた。
 
 「でも、父からもらった琴は……もうボロボロに壊れて……」

 象牙の装飾が美しく輝いていた、あの愛用の琴。
 砕け散った無残な姿を思い出すと、胸の奥が鋭く痛む。
 あれさえあれば、きっと精霊たちも……。

 その時である。床に倒れていた蒼真がゆっくりと瞼を開いた。

 「琴なら……ある」
 「蒼真!」

 琴羽が驚愕の声を上げた。

 蒼真は半身を起こすと、手元の包みからそっと何かを取り出す。
 現れたのは、美しく作り直された一弦琴。
 持ち運びができるほど小さいながらも、細部に至るまで丁寧に作られており、確かに琴羽が愛用していた琴の面影を宿している。

 「これ、琴羽の壊れた琴の破片を使って一弦琴に作り直したんだ。お前が消えちまった後、街のゴミ捨て場に捨てられているのを見つけて」

 蒼真の声には、深い後悔の色が滲んでいた。

 「謝罪の気持ちを表すには、これしか方法が思いつかなかった。ただ……まだ未完成なんだ。一弦琴を作るのは初めてで、どうしても最後の仕上げが分からなくて。普通の琴の修理は慣れてるけど、一弦琴は構造が違うから。完璧な響きを作るには、俺の技術じゃ足りなくて」

 困ったような表情を浮かべる蒼真の前に、瑞蓮が静かに歩み出る。

 「では、私が」

 瑞蓮は一弦琴を手に取ると、その構造を慎重に確認していく。
 細い指先が胴体の木目を辿り、弦の張り具合を確かめる。

 「楽器には、それぞれ最も美しく響く『黄金点』があります。胴体の厚み、弦の位置、すべてが完璧に調和した時にのみ、真の音色が生まれるのです」

 胴体を耳に当て、内部の共鳴を確かめる。
 次に弦を軽く爪弾いて音の響きを聞き、わずかずつ位置を調整していく。

 その手つきは実に丁寧で、まるで楽器と対話をしているかのようであった。
 瑞蓮の指先が触れるたび、一弦琴から零れる音色が少しずつ変化していくのがわかった。

 「完成しました。琴羽、歌ってみてください」

 果たして、呪具の力に満ちたこの空間で、精霊たちは琴羽の呼びかけに応えてくれるであろうか。

 琴羽は父の琴から作られた一弦琴を胸に抱き、そっと弦に指を触れる。

 「水の底で眠る魂よ 光の道を辿り 命の糸を手繰り寄せて この世に戻りなさい」

 最初は何も起こらなかった。
 しかし、琴羽が心を込めて歌い続けると、やがて蔵の隅から小さな光がひとつ、ふたつと現れ始める。水の精霊たちであった。

 「来てくれた……」

 琴羽の歌声に引き寄せられた精霊たちは、次第にその数を増していく。
 蔵全体が淡い青い光に包まれ、幻想的な美しさに満たされていった。

 「すごい……」

 大黒天が感嘆の声を上げる。
 そして驚くべきことに、精霊たちの光が大黒天の傷に触れると、みるみるうちに血が止まり、傷口が塞がっていく。

 「傷が……治っている」

 その光景を見ていた蒼真は、突然何かを理解したように目を見開いた。

 「そうか……あの日の歌声は……」

 蒼真の記憶に、湖で溺れた時のことが蘇ってくる。
 意識を失いかけた時に聞こえた、あの美しい歌声。

 蒼真は確信した。
 あれは琴羽が自分を救うために歌ってくれていたのだと。


 (琴羽……お前が俺を助けてくれたんだな)

 取り返しのつかないことをしてしまった。
 だが、せめて今この瞬間から、自分にできることを――。

 その時、精霊たちの光が結界に触れ始めた。
 淡い青い輝きが黒い半透明の壁を包み込むと、まるで氷が溶けるように亀裂が走り始める。

 「今です!」

 瑞蓮が精霊たちに向かって両手を差し伸べる。
 その声に呼応するかのように、精霊たちは琴羽の歌声と完全に共鳴し、光の渦を作り出した。

 「脱出できます!」

 ついに結界が砕け散る。
 黒い壁が粉々になって消え去ると、重苦しい呪具の力が薄れ、外の夜風が流れ込んでくる。

 四人は互いを支え合いながら急いで蔵から這い上がる。
 月明かりが差し込む夜の神社に足を踏み入れた時、空を見上げ、琴羽は思った。
 こんなに美しい星空を見たのはいつぶりだろうか、と。

 ***

 その夜、水無瀬家の居間では志津と麗華が上等な酒を開けて勝利を祝っていた。
 暖炉の火が二人の頬を赤く照らし、室内は芳醇な酒の香りと高笑いに満ちている。

 「あはははは! 今頃全員地下で息絶えているであろうよ」
 「ふふふっ。これで私たちの邪魔をする者はいなくなりました」
 「今度こそ完全に始末がついたんだ。あの化け物も一緒にねぇ」
 「これで私たちの天下ですわ、お母様」

 二人は夜更けまで飲み続け、琴羽への復讐が成功したことを心ゆくまで祝った。
 酒杯を何度も空にし、お互いの成功を讃え合う。勝利の美酒は格別に甘く感じられるのであった。

 しかし――その時である。
 玄関の扉が音もなく、まるで風に押されるように静かに開いた。

 「ずいぶんと楽しそうですね。私も混ぜてはいただけませんか?」

 優雅で美しい声が、酒に酔った二人の耳に響く。
 それはあまりにも涼やかで、まるで夜風に乗って運ばれてきた鈴の音のようであった。

 振り返ると、そこには瑞蓮が立っている。
 その顔には氷のように冷たい笑みが浮かんでおり、夜闇に浮かぶその表情は、まさに裁きを下す神のそれであった。

 「ま、まさか……」

 志津の手から酒杯が滑り落ち、床でバリンと乾いた音を立てて砕け散る。酒の雫が畳に染み込んでいった。

 「どうして……今頃地下でで死んでいるはずでは……」

 麗華も青ざめた顔で立ち上がる。
 完全に始末したはずなのに、なぜここにいるのか。
 まるで悪夢でも見ているかのような現実に、頭が追いついていかない。

 「本当に懲りない方々ですね」

 瑞蓮が優雅に扇を開きながら、ゆっくりと室内に足を踏み入れた。
 その足音は絹を踏むように静かでありながら、二人の心臓には雷鳴のように響く。

 「まったく。どれほど卑劣な手を使えば気が済むのでしょうか。……お二人には、たっぷりと“お礼”をお楽しみいただきましょう」

 志津と麗華は慌てて裏の勝手口へ向かって逃げようとした。
 足がもつれそうになりながらも、必死に暗闇の奥へと駆けていく。

 志津が息を切らしながら勝手口の戸を開けようとすると、そこには爽やかに微笑む大黒天が立っていた。

 「おっと。逃がさないよ」

 麗華が悲鳴を上げながら今度は別の方向へ走ろうとしたが、瑞蓮の扇が淡く光り始める。
 その瞬間、部屋の空気が氷のように冷たく変わった。

 「ひ、ひいいい!」
 「私としてはもっと厳しい罰を与えたいところですが、琴羽が悲しみますので……ご自身の運の良さに感謝なさい」

 志津が慌てて黒曜石の短剣に手を伸ばそうとしたが、瑞蓮の扇が一閃すると、短剣は粉雪のように砕け散った。

 そしてもう一度。瑞蓮が扇を優雅に振ると、砕け散った黒曜石の破片が宙に舞い上がる。
 破片は暗い光を放ちながら融合し、二人の周りに黒い結界を形成していく。

 それは先ほど自分たちが琴羽を閉じ込めたのと同じ、あの忌まわしい結界であった。

 「しばらくそこで、ご自分たちの行いをじっくりと反省なさい。あ、そうそう……」

 結界が完成すると、志津と麗華は慌てて壁を叩き始めたが、もちろん出ることなどできはしない。
 瑞蓮が扇で口元を隠しながら、意地悪そうに微笑む。

 「期限はいつまでにいたしましょうか? 一週間では短すぎますし……一年でもまだ足りませんでしょうね。やはり……十年? 百年? それとも、心の底から悔い改めるまで永遠に?」

 瑞蓮はわざとらしく考えるような仕草をしながら、扇を軽やかに揺らした。

 「お腹が空いても、喉が渇いても、眠くなっても……いつまで続くのかわからない。時間の経過もわからぬまま、永遠とも思える恐怖の中で過ごしていただきましょう。きっと、琴羽がどれほど苦しんでいたか、身をもって理解できることでしょう」

 結界の中から聞こえてくる悲鳴を聞きながら、瑞蓮は心底楽しそうに続けた。
 指先で扇を回しながら、芸術作品を鑑賞するかのように結界を眺めている。

 「ああ。でも心配はございません。死にはしませんから。ただひたすら苦しみ続けるだけです。琴羽に与えた苦痛を、何倍にもしてお返しいたします」

 結界の中で二人はもがき苦しみ、必死に助けを呼んだ。
 その姿を見届けると、瑞蓮は満足そうに微笑んで優雅に踵を返した。

  ***
 水鏡社に戻ると、大黒天が琴羽の前に立って深々と頭を下げた。
 その端正な顔には心からの感謝が表れている。

 「琴羽ちゃん、本当にありがとう。君の歌声のおかげで傷が治った」
 「いえ、そんな……私は何も特別なことはしておりません」

 琴羽は謙遜しながら手を振ったが、大黒天は温かく微笑んだ。
 左腕の傷は完全に癒え、もう痛々しい血も流れていない。

 「君は本当に謙虚だね。きっと神霊祭も素晴らしい演奏になる」
 楽しみにしてるよ、と告げて、大黒天は爽やかに手を振りながら雲の彼方へと帰っていった。
 大黒天が帰った後、蒼真も琴羽の前に立って深く頭を下げる。

 「琴羽……本当にありがとう。俺の命を救ってくれて。そして、今まで本当にすまなかった」
 
 湖での出来事、そしてその後の誤解。すべてを思い出すと、まだ胸の奥がチクリと痛む。
 それでも、あの琴を。再び持ってきてくれたのも、蒼真だ。
 今こうして素直に謝ってくれる蒼真を見ていると、幼い頃の優しかった彼を思い出す。

 「蒼真こそ、私の琴を作り直してくれて……ありがとう。大変だったでしょ?」

 琴羽は一弦琴を大切そうに抱きしめた。
 父の形見が新しい形で蘇ったことに、胸が温かくなる。

 「当然だろ。俺がお前に迷惑かけたんだから。これくらいで済むと思ってないよ」

 蒼真は真剣な表情で続けた。
 そして昔のような親しみを込めて――何気なく、その右手が琴羽へと伸ばされる。

 しかし、その時であった。

 「蒼真殿、琴羽との距離が近すぎるのではありませんか?」

 瑞蓮の眉がぴくりと動く。

 「は? 別に普通だろ。幼馴染なんだから」

 蒼真は無邪気に答えたが、それがさらに瑞蓮の機嫌を損ねた。

 「ああ、そうですか」

 瑞蓮が優雅に手を伸ばすと、一弦琴がふわりと宙に舞い上がった。

 「この一弦琴を完成させたのがどなたか、お忘れではありませんか?」

 琴羽への愛情の深さゆえの、少し子供っぽい嫉妬であった。

 「ちょ、ちょっと待ってください! す、すみませんでした! 本当にありがとうございました、弁財天様!」
 「ふふふ、最初から素直にそう言えばよろしいのに」

 瑞蓮が満足そうに微笑み、一弦琴をそっと琴羽の手に戻した。

 「今回は琴羽の顔を立てて、特別に許してさしあげます」
 「神様って……結構嫉妬深いんだな」

 蒼真が小声で苦笑いを浮かべると、瑞蓮は優雅に扇で口元を隠した。
 「嫉妬ではありません。あなたへの『教育』です」
 「……瑞蓮!」

 琴羽が慌てて止めに入ったが、瑞蓮はニコニコと楽しそうに微笑んでいる。

 「……ったく、琴羽は大変なのに好かれちまったな。また何かあったら遠慮しないで連絡しろよ」
 「蒼真、ありがとう。またね」

 琴羽が温かく微笑むと、蒼真は手を振りながら夜の闇に消えていった。

 蒼真が去った後、ようやく二人きりの時間が訪れる。
 静寂な水鏡社に響くのは、夜風が窓を軽やかに撫でていく音と、二人の静かな吐息だけ。

 淡い月明かりが、二人の姿を幻想的に照らし出していた。

 「琴羽はご自分では気づいていないかもしれませんが。その歌声には精霊の力を借りて癒しをもたらす特別な力があるのです」

 小さい頃から。
 歌を歌っていると、不思議と精霊がよく寄ってくることは知っていた。

 だが、特別な力とは――いったいなんなのだろう。

 「蒼真殿の命を救い、大黒天の傷を癒し、そして神である私に霊力を注いでくださったその力。琴羽は精霊に愛され、歌を通じて、生命力を与えることができるのでしょう。霊音や神音の血を引く女性には稀にいると聞いておりましたが……『歌姫の血脈』と呼ばれるものかもしれません」

 自分にそのような特別な力が宿っているなどと、考えたこともなかった。
 確かに自分が歌えば精霊たちが集まってくることはあったが、それが何か特別な意味を持つものだったとは。

 「声を失う前はまだ幼かったでしょうから、完全には発現していなかったのでしょう。けれど琴羽の歌声には……神々しいまでの癒しの力が秘められているのです」

 瑞蓮が琴羽に顔を近づけ、その美しい翡翠色の瞳でじっと見つめる。

 琴羽の歌声に宿る癒しの力は、湖との契約で霊力の大半を失った瑞蓮を深く癒していた。
 瑞蓮が琴羽に神気を与えて声を取り戻させたように。
 琴羽もまた、その特別な歌声で瑞蓮の疲れた魂を癒していたのである。

 互いを支え合い、補い合う。
 2人の間にあるのは、そんな特別な絆だった。

 「そして、その恩恵を私も毎日いただいているのです。琴羽の歌声からの癒しはもちろんなのですが……」

 そう愛おしげに囁くと、瑞蓮はそっと琴羽の唇に自分の唇を重ねた。
 柔らかく、温かく、愛おしい感触。まるで魂同士が触れ合うような、深い愛情に満ちた口づけであった。

 「こうした時間にも……ね?」

 瑞蓮の甘い囁きに、琴羽の頬が桜色に染まる。

 「っ……!」
 「ふふっ。今夜もどうぞ、よろしくお願いいたします」

 瑞蓮の微笑みがより一層甘く、魅惑的になる。
 そこにあったのは、美しくも冷ややかな神の表情ではない。
 琴羽だけに向けられる特別な、愛おしさに満ちた優しい恋人の顔であった。