水鏡社での修行が始まって三週間が過ぎた頃。
 ついに天蓮琴の練習に光明が見えてきた。

 琴羽の指が弦に触れると、これまでとは明らかに違う音が響いた。
 拒絶するような不協和音ではなく、神器らしい荘厳で美しい音色が部屋に満ちる。
 まだ完璧とは言えないが、確実に楽器との距離が縮まっているようだ。

 「大変よくできました」

 瑞蓮が満足そうに微笑み、琴羽の頬にそっと唇を寄せた。
 ご褒美のキスに、琴羽の頬が桜色に染まる。

 「でも、まだ曲は弾けませんし……」

 琴羽は不安そうに呟いた。
 神霊祭まで残り三週間と少し。

 音は出るようになったものの、肝心の『千霊回帰の調べ』はまだ一小節も弾けずにいた。

 「そもそも、この楽譜……普通の楽譜とは全然違いますね」

 琴羽が手にしているのは、古代文字で書かれた神秘的な楽譜であった。
 音符の代わりに不思議な記号が並び、まるで呪文のようにも見える。

 「神代の楽譜でございますからね。この記号は音の高さを、この曲線は音の長さを表しております」

 瑞蓮が楽譜を指差しながら丁寧に説明してくれる内容を、一筆箋に書き留めていく。
 古代文字の読み方を一つ一つ教えてもらい、琴羽は少しずつ楽譜が理解できるようになってきた。

 「まず歌って音程を取ってみましょうか」

 瑞蓮が提案すると、琴羽は楽譜を見つめながら恐る恐る歌い始めた。
 しかし複雑すぎるメロディーに、すぐに音程が分からなくなってしまう。

 「難しいですね……」
 「では、私がメロディーを奏でますので、合わせて声を出していただけますか」

 瑞蓮は黒い大きな鍵盤の前に座り、ポロリと美しい音を響かせた。
 その楽器は、瑞蓮が楽器の中でも特に気に入っているようでピアノという名らしい。

 最近日本にも入ってきたようで、これからどんどん普及していくだろうと瑞蓮は言った。
 琴羽にとっては初めて見る楽器だったが、その豊かな音色に魅了された。

 時折一人で調べを奏でている瑞蓮の姿は、そのあまりの美しい佇まいに琴羽が思わず息を呑むほどだった。
 横顔に差し込む夕日の光が銀髪を金色に染め、優雅に踊る指先から生まれる音色は、まさに神の調べとしか言いようがない。

 こんなにも美しい人が、自分のために音楽を奏でてくれている。
 その事実だけで胸がいっぱいになってしまう。

 「どうなさいましたか?」

 瑞蓮が琴羽の視線に気づき、微笑みながら振り返る。
 声をかけられて慌てて目を逸らしたが、頬の赤みは隠せなかった。

 「い、いえ。何も……」

 見惚れていたなんて、恥ずかしくて言えない。
 でも、瑞蓮がピアノを演奏する姿が。心に焼き付いて離れなかった。

 瑞蓮の指が再び鍵盤に触れると、『千霊回帰の調べ』の戦慄が流れ出した。
 琴羽はそっと息を吸い、瑞蓮の奏でる音に導かれるように歌声を重ねる。

 古代の楽譜の複雑な旋律も、瑞蓮のピアノと共になら不思議と歌うことができた。
 琴羽の透明感のある歌声と、瑞蓮の優雅なピアノが織りなす音色。
 その調べの重なりを父が聞いたら、さぞ喜んだことだろう。

 「ね、歌えたでしょう?」

 曲が終わると、瑞蓮は満足そうに琴羽を見つめた。
 一方、その美しい表情にはほんの少しの疲れが垣間見えた気がして、琴羽の心に不安が芽生える。
 ぱっと見はいつも通りにも見える瑞蓮だが、微かに息を整えているように見えたのだ。

 「瑞蓮様……毎晩神気を分けてくださって、大丈夫なのでしょうか? お体に障りはございませんか?」
 
 毎夜、自分のために神気を与えてくれる瑞蓮。しかし神様にだって、限界があるのではないだろうか。
 自分のために瑞蓮が弱ってしまうなんて、そんなことがあってはならない。

 「心配は無用です。ここは水音京。私の領域でございますからね」

 その優しさが嬉しい反面、瑞蓮の身体に負担をかけているのではないかという不安が日に日に大きくなっていた。

 「七福神には、それぞれゆかりのある場所があるのです。恵比寿は海辺の町、大黒天は豊かな田園地帯、毘沙門天は武士の館がある城下町……。そして私は、この音楽の都である水音京」

 瑞蓮が窓の外の美しい湖を見つめながら続けた。

 「ここは私が長い間守り続けてまいりました土地。精霊たちとも深い絆があり、湖や音楽そのものが私の力の源なのです。だからこそ、この場所では私の力は他の領域よりもずっと強く、神気の回復も早いのですよ」
 「そうだったのですね」

 ならば。
 少し疲れて見えたのは、きっと気のせいだったのだろう。
 琴羽が安堵の表情を見せると、瑞蓮は少しいたずらっぽく微笑んだ。

 「それに……」

 瑞蓮が琴羽の耳元に囁く。
 その温かい息づかいが肌を撫でて、琴羽の背筋に甘い震えが走った。

 「琴羽がそばにいてくれますから。あなたといると、力が湧いてくるのです」
 「瑞蓮様……」

 琴羽が照れたように呟くと、その美しい眉がほんの少し寄せられる。

 「そのようなことより……」

 瑞蓮がゆっくりと琴羽に近づき、二人の距離がさらに縮まる。
 琴羽の心臓がドキドキと音を立てた。

 「いつになったら、その『様』付けをやめてくれるのですか? 私たちの関係に、そのような堅苦しい敬称は必要ないでしょう」
 「で……でも、瑞蓮様は神様でございますし……」

 瑞蓮が琴羽の顎をそっと持ち上げ、見つめ合う。

 「あの男のことは、呼び捨てで呼ぶのに?」

 あの男とは蒼真のことだろう。
 瑞蓮の声に少しだけ嫉妬が混じっているのを琴羽は感じ取った。

 「蒼真は幼馴染でしたから……」

 琴羽がもじもじと言い訳をすると、瑞蓮はわざと悲しそうな表情を作った。

 「そうですか……やっと私も琴羽と少しは親しくなれたと思ったのですが。所詮、私はただの『他人』なのでしょうね」

 その演技じみた悲しい表情に、琴羽は慌ててしまう。
 瑞蓮が他人なわけがない。一番大切な人なのに。

 「そのようなことは……っ! でも、やはり神様だから……」

 琴羽が必死に言葉を返すと、瑞蓮はため息をついた。

 「では……」

 瑞蓮が琴羽の唇に自分の唇を近づけ、吐息が混じり合うほどの距離で囁く。
 その距離に、琴羽の思考が停止しそうになった。

 「今夜は神気をお分けするのを、やめてしまいましょうか」
 「!?」

 少しいたずらっぽい脅しに、琴羽は慌てた。
 神気がなければ歌えなくなってしまう。でも、それ以上に瑞蓮が離れてしまうことが怖かった。

 「そのような、困ります……」
 「どうして困るのですか?」

 瑞蓮がさらに迫る。
 その翡翠色の瞳が、琴羽の心の奥を覗き込んでいるようだった。

 「だって……瑞蓮様がいらっしゃらないと……私……」

 歌えない、と続けようとして口籠もる。
 本当にそれだけの理由だろうか。
 瑞蓮がそばにいてくれると安心するし、一緒にいるとただそれだけで幸せなのだ。

 「『様』が付いておりますね」
 「あ……」

 琴羽は困ったような表情を見せた。
 無意識に敬語が出てしまう。瑞蓮は諦める気配がない。

 「それでは、やはり今夜は一人でお休みいただきましょうか」
 「ま、待って!」

 琴羽が慌てて瑞蓮の袖を掴む。その手は震えていた。

 「どうなさいました?」

 瑞蓮が期待に満ちた目で琴羽を見つめる。
 その優しくも意地悪な微笑みに、琴羽は観念した。
 琴羽はしばらくもじもじしていたが、やがて観念したように小さく息をつく。

 「わ、分かった……から」

 琴羽は恥ずかしそうに俯きながら、すうっと大きく息を吸い、震えるような小さな声で呟いた。

 「……瑞、蓮」

 その名前を呼ぶ声が、あまりにも愛おしくて。瑞蓮の胸が締め付けられる。

 「何でしょうか? 愛しい琴羽」

 瑞蓮は姫君を扱うかのように優雅に頭を下げると、琴羽の青い髪に軽やかにキスを落とした。

 (こんなの、ずるい……)

 その優雅な仕草に、琴羽の心臓は激しく鼓動した。

 ***

 翌日の夕方、琴羽は瑞蓮と共に約束の場所へ向かった。
 蒼真との待ち合わせ場所は、水音京の郊外にある古い神社。
 人里離れた静かな場所だからこそ、落ち着いて話をするには適している。

 神社へ向かう道中、志津と麗華は茂みに身を潜めて二人を尾行していた。

 「本当にあの男はバカだねえ。つけられてることに全く気がついてないよ」
 「あのバカ、警戒心なんて全然ございませんでしたもの」

 麗華が勝ち誇ったような表情で続ける。

 「罠の準備は万端。今度こそ、あの忌々しい青ネズミを完全に始末してやるわ」

 二人は慎重に距離を保ちながら、琴羽たちの後を追った。

 一方、琴羽は瑞蓮と歩きながら、不安そうに呟いていた。

 「緊張していらっしゃいるのですか」

 瑞蓮が琴羽の手をそっと握る。
 確かに琴羽の手は少し震えていた。

 「久しぶりに蒼真と話すから……きちんと話ができるか心配で」
 「大丈夫です。私がそばにおりますから」

 瑞蓮の温かい声に、琴羽はほっと息をついた。
 自分を信じてくれる人が隣にいてくれる。
 それだけで、どんなに心強いことか。

 境内は夕日に照らされて幻想的な雰囲気を漂わせていた。
 苔むした石灯籠が並び、大きな古木が静寂な空気を作り出している。
 参拝客の姿はなく、鳥のさえずりだけが静かに響いていた。

 蒼真は既に境内の中央で待っていた。
 まるで何日も眠れずにいたかのような疲れた表情であったが、琴羽の姿を見つけると、その瞳に光が宿った。

 「琴羽……来てくれたのか」

 蒼真は慌てて立ち上がり、声は嬉しさと申し訳なさで震えていた。
 蒼真の視線が琴羽の隣に立つ瑞蓮に向けられる。

 「貴方が弁財天様……」
 おそらく、あの日の一件はすでに街でも噂になっているのだろう。
 蒼真は緊張した面持ちで瑞蓮を見つめた。

 「私のことは気になさらず」

 瑞蓮が優雅に微笑んだ。

 「お二人でお話しください」

 「蒼真」

 琴羽は温かい表情で蒼真を見つめた。
 久しぶりに見る幼馴染の姿に、胸の奥で複雑な感情が渦巻いている。

 「まず謝らせてくれ」

 蒼真が深く頭を下げた。
 夕日が彼の肩を照らす。その姿は心から悔いているように見えた。

 「俺は最低だった。お前を疑って、あのようなひどいことを言って……本当にすまなかった」

 瑞蓮は少し離れたところで、静かに二人の様子を見守っていた。
 その美しい翡翠色の瞳には警戒の光が宿っているが、口は挟まない。
 全ては琴羽の意思を尊重するため。

 「麗華の嘘に騙されていたとはいえ、俺がお前を信じなかったのは事実だ。幼い頃からずっと一緒だったのに……」

 琴羽はしばらく蒼真を見つめていたが、やがて優しく微笑んだ。

 「蒼真……もういいの。私は蒼真を恨んではないから。麗華の響玉は本当に巧妙だったし……騙されるのも無理はなかったと思う」
 「琴羽……」
 「何より、蒼真が生きていてくれて良かった。また、蒼真と昔みたいに話せたことが……嬉しいから。まだ、私の友達でいてくれる?」
 
 蒼真の心が苦しくなる。こんな自分にも、琴羽は優しくしてくれると言うのか。
 自分は彼女を疑ったのに。幼馴染だった彼女を信じることができなかったのに。

 守ると誓ったはずなのに、守れなかったのに。
 それどころか、自分が傷つけてしまったのに。

 琴羽の優しい言葉に、蒼真は少しの間言葉を失った。

 「ありがとう……本当に、ありがとう。一生かけて償うから。もう二度と、お前を疑ったりしない」

 蒼真の言葉が境内に響いた瞬間、茂みの奥で麗華の口元に邪悪な笑みがゆっくりと広がった。
 まるで獲物を前にした猫のように、その美しい顔が残酷な喜びに歪む。

 「今度こそ地獄に落ちなさい!!!」

 麗華が黒曜石の短剣を高々と掲げる。
 光に照らされた麗華の表情には、もはや美しい令嬢の面影など微塵もない。

 その瞬間、麗華が隠れていた茂みの向こうから、三人の足元の石畳にヒビが入り、大きな亀裂が口を開けた。
 黒曜石の短剣から禍々しい黒い光が立ち上がり、黒い半透明の結界がシャボン玉のように三人を囲むように形成される。

 「危ない!」

 瑞蓮が咄嗟に琴羽の肩を押し出し、間一髪で結界から外へと避けさせた。
 瑞蓮自身と蒼真は、不気味に揺らめく黒い結界の中に囚われてしまう。

 「瑞蓮! 蒼真!」

 結界の外に押し出され、地面に膝をついた琴羽の悲鳴が夕暮れの境内に響いた。
 結界は黒く濁った水のように揺らめいているが、手で触れようとすると冷たく弾き返されてしまう。
 まるで見えない氷の壁があるかのように、琴羽の手は結界の表面で止められた。
 その時、森の奥から聞き覚えのある高笑いが響いてきた。

 「はははは! こんなにも計画がうまくいくとはね!」
 「お姉さま、今度こそ思い知りなさい!」

 茂みから志津と麗華が姿を現した。瑞蓮が結界の中から蒼真を鋭い目で睨みつける。

 「謝罪を口実に、私たちを嵌めたのですか?」

 結界の中で蒼真は困惑しながら状況を理解しようとしていた。

 「俺は本当に知らなかったんだ! 琴羽に詫びたい一心で……まさか麗華たちがここにいるなんて」

 蒼真の額には汗が滲み、手は震えている。
 自分が琴羽を危険に晒してしまったという事実に、顔は青ざめていた。
 その様子をみて、瑞蓮は彼が嘘をついていないと理解した。

 「あはははは、愉快だねぇ!!」

 志津が心底馬鹿にしたような笑い声をあげながら言い放った。
 その目には勝利への確信と、復讐心が燃えている。

 「つけられているとも知らずに、のこのことそいつの居場所まで案内してくれるとは。まったく、親切なこったぁ」

 瑞蓮は扇を取り出し、いつものように優雅に術を使おうとした。

 しかし、何も起こらない。
 美しい扇がかすかに光るだけで、いつもの神々しい力は全く発動しなかった。
 まるで体の中から力が吸い取られているかのように、神気が感じられない。

 「術が効かない……」

 瑞蓮の美しい顔に初めて動揺の色が浮かんだ。
 普段の余裕に満ちた表情は消え、困惑と焦りが混じった表情に変わる。
 神としての力が封じられていることへの衝撃が、その美しい顔に刻まれていた。

 「神封じの結界が張ってあるからねえ。足掻いても無駄だよ」

 志津の言葉に、麗華が黒曜石の短剣を誇らしげに撫でながら続けた。

 「これでおしまいですわ」

 琴羽は結界の前で膝をついたまま、恐怖で体が震えていた。
 瑞蓮も蒼真も結界に囚われ、自分を守ってくれる人は誰もいない。
 死への恐怖が琴羽の心を支配していく。

 きっと、自分はここで死ぬのだ。
 琴羽の脳裏に、これまでの人生が駆け巡った。
 父との幸せな日々、いじめられていた頃の記憶、瑞蓮との出会い、そして温かい愛情に包まれた最近の日々。
 瑞蓮と出会ってからは胸が締め付けられるほど愛おしい思い出ばかりだった。

 せっかく声も戻り、愛する人も見つけられたのに。
 神霊祭での演奏も、瑞蓮との未来も、すべてがここで終わってしまうのであろうか。
 涙が頬を伝い落ちる。

 麗華が短剣を高く掲げ、怪しい光がより一層強くなった。その光は琴羽の心臓に向けて収束していく。

 「消えな、ゴミクズ」

 麗華の声には狂気じみた喜びが込められていた。

 結界の中から瑞蓮と蒼真のくぐもった声が聞こえるが、黒い結界に阻まれて手を伸ばすことすらできない。
 琴羽は覚悟を決めて、ぎゅっと目を瞑る。

 ――本当は。瑞蓮と、もっと一緒にいたかった。

 まだ名前を呼ぶのも恥ずかしくて、やっと慣れ始めたばかりだったのに。
 毎晩の神気を分けてもらう時間も、同じ部屋で眠る幸せも、天蓮琴の練習で励まし合った日々も。

 自分には勿体無いくらい優しくしてくれて、愛してくれて。

 ――お父様、今そちらに行きます。

 ただ、最後に願いが叶うなら……もう一度だけ、彼の声が聞きたい。

  「琴羽!!!!」

 最後に届いた瑞蓮の声に、涙が頬を伝い落ちる。
 その雫が石畳にポタリと落ちたとき、麗華が短剣を振り下ろした。

 ――瑞蓮、愛しています。

  「琴羽ちゃん!」

 しかし、予想していた痛みは来なかった。代わりに、聞き覚えのある優しい声が境内に響いた。

 「よ、かった…………」

 恐る恐る目を開けると——そこにいたのは大黒天だった。

 雲上の楽座にいるはずの彼が、なぜここに。

 しかしそれ以上に驚いたのは——
 麗華が振り下ろした短剣が、大黒天の左腕に深々と刺さっていたことだ。

 「うっ……!」

 大黒天が小さく呻き声を上げ、その腕からドクドクと血が流れ出す。
 普段の優しい表情に苦痛が走っているのを見て、琴羽の胸が痛んだ。

 「大黒天!」

 結界の中から瑞蓮の驚きの声が響いた。
 神である大黒天が人間の攻撃により負傷するなど、通常ならありえないことであった。
 神封じの能力を持つ、黒曜石の短剣だからこそなせたことだろう。

 「何よこの邪魔者は! まとめて結界の中に落ちて消えなさい!」

 麗華が苛立ちを露わにして黒曜石の短剣を振り回すと、その時、突然足元の地面が再び崩れ始めた。
 今度は琴羽と大黒天を巻き込むように、黒い結界が二人を包み込んでいく。

 「きゃあ!」

 琴羽の悲鳴と共に、大きく裂けた亀裂から、四人は暗い地下空間へと落ちていった。

 ***

 琴羽が意識を取り戻すと、そこは古い蔵のような地下空間だった。
 石の壁に囲まれ、天井は高く、微かに湿った空気が漂っている。
 頭上を見上げると、先ほどまでいた神社の境内はもう見えない。

 まるで深い井戸の底にいるかのようであった。

 「瑞、蓮……?」

 琴羽がゆっくりと起き上がると、体のあちこちが痛んだ。
 落下の衝撃で打ち身ができているようだが、幸い大きな怪我はない。
 すぐ近くで瑞蓮が心配そうに見つめている。

 「琴羽!」

 瑞蓮の声が震えていた。
 その美しい翡翠色の瞳に、涙が溢れそうになっている。

 「無事で……本当に無事で良かった……」
 「瑞蓮……」

 琴羽の胸が熱くなる。
 あの時、もう二度と会えないと思った人が、こうして自分を心配してくれている。
 意識を取り戻すまで、ずっと手を握っていてくれていたのだろう。
 瑞蓮の手の温もりが、今も琴羽の右手を包んでいた。

 「はい、私は大丈夫です……瑞蓮こそ、お怪我は?」
 「私のことなどどうでもいい。琴羽が無事なら、それで……」

 起きた半身を強く抱きしめられ、瑞蓮の体が震えていることに気がつく。
 その声に、普段の余裕はない。

 あの時、結界に阻まれて琴羽を守れなかった無力感が、まだ瑞蓮を苦しめているようだった。
 自分のことをこれほどまでに思ってくれる誰かがいてくれる。
 それだけで、琴羽には十分すぎるくらいだった。

 振り返ると。視界の先には、石の床に倒れたまま意識を失った蒼真の姿が。
 その呼吸は規則正しく、顔色も悪くない。

 そうだ、怪我をしたのは——

 「大黒天様はどこに!! 私のせいでお怪我を……」

 琴羽は慌てて立ち上がろうとしたが、瑞蓮が優しく制した。

 「落ち着いてください。大黒天なら、あちらに」

 瑞蓮が指差す方向を見ると、大黒天が古い木箱にもたれかかって座っている。
 左腕を右手で押さえており、指の間から鮮やかな赤い血が滲み出ているのが見えた。
 いつもの爽やかな笑顔は変わらないが、額には汗が浮かぶ。

 「琴羽ちゃんが、無事でよかったよ」
 「その傷……私のせいで、本当に申し訳ありません!」
 「そんなに謝らなくて大丈夫。僕には神の治癒力があるから、この結界の外にさえ出られれば治るしね」

 大黒天はいつものように穏やかに微笑んだが、その声にはかすかな疲労が混じっていた。
 いつもの温和な表情の奥に、痛みを堪えている様子が隠しきれていない。

 「ここは一体……どこなのでしょうか」
 「おそらく、結界の中でしょうね。異空間に閉じ込められたようです」

 改めて周囲を見回すと、そこは確かにボロボロの古い蔵の中。
 石造りの壁は所々ひび割れ、天井からは時々小石がぱらぱらと落ちてくる。

 古い木箱や瓶が雑然と置かれ、長い間使われていなかったことが伺えた。
 空気は湿っぽく、カビの匂いがかすかに漂っている。

 「これほどの呪具を人間が扱うなんて、きっと相当な対価を払ったんだろうねぇ」

 大黒天が苦笑いを浮かべながら答えた。
 傷を押さえる手に少し力が入り、痛みが増しているのが分かる。

 「僕でこの傷だから、琴羽ちゃんだったら……」

 大黒天は言いかけて言葉を飲み込んだ。
 琴羽を不安にさせまいと配慮したのであろう。

 「本当に君が無事でよかったよ。全く、最近の呪具は怖いねえ」

 琴羽の表情が暗くなった。
 傷を庇う大黒天と、横になったまま意識の戻らない蒼真を見つめながら、不安そうに呟く。

 「本当に、すみません。蒼真は……大丈夫なのでしょうか?」
 「気を失ってるだけだと思う。人間にはこの空間の神気が重すぎるんだろう。呼吸も安定してるし、命に別状はないよ。むしろ今の状況では、意識がない方が楽かもしれない」

 大黒天は蒼真に視線を向ける。

 「琴羽ちゃんが起きていられるのは、瑞蓮の神気を分けてもらってるからかな。体が神気に慣れてるんだろう……、っ!」

 大黒天の顔が苦痛に歪む。
 傷からの出血が増しているようで、右手が血で赤く染まっている。
 血の量が思ったより多く、神様とはいえ危うい状況かもしれないと不安が募る。

 「一旦、あるもので止血をしましょう」

 瑞蓮が自分の着物の袖を少し破いて布を作ると、大黒天の傷口にそっと当てて圧迫した。
 琴羽も慌てて自分の着物の裾を破り、包帯代わりに差し出す。

 「そもそも、大黒天。なぜあなたがここに?」

 瑞蓮が眉をひそめながら、手早く布を巻きつけて止血を施しながら尋ねた。

 「様子を見に来たんだよ。二人がラブラブで仲良くやってるかってね」

 神様同士は、その神気でおおよその居場所がわかるという。
 大黒天はいつもの調子で軽く答えたが、その笑顔には疲労の色が濃く見える。
 琴羽が心配そうに大黒天の顔色を覗き込んだ。

 「こんな時に冗談はよしなさい」
 「いや、半分は本当なんだけど……まぁ、ちょっと伝言があって」

 大黒天の表情が急に真剣になった。傷を押さえる手に少し力が入る。

 「水音京で精霊が減っている件、毘沙門天が調査したところ、思っていたより深刻らしい。おそらく呪具の流通が増えたせいだろうけど、このままだと精霊たちが完全に姿を消してしまう。そうなれば人間と妖怪、精霊たちとの交流は途絶え、彼らの姿を見ることもできなくなるだろう」

 瑞蓮が深いため息をついて続けた。

 「妖怪や精霊たちが街を訪れなくなれば、水音京は種族を超えた音楽の交流で成り立つ貴重な交易の街ではなくなる。そうなれば、この街に音楽のために流れてくる富も商人たちも消えるでしょうね」

 琴羽は改めて水音京の重要性を実感した。
 人間だけでなく、妖怪や精霊、狐の一族まで、様々な種族が音楽を愛し、共に暮らすこの街。
 父もかつて、「水音京ほど美しい音楽が響く街はない」と言っていた。

 その大切な街を、精霊たちと共に守りたい。
 音楽を愛する者として、この美しい街を失いたくない。

 「それで、毘沙門天から伝言だ。もし神霊祭で天蓮琴を鳴らすことができればいいけど、そうじゃない時には……」

 大黒天の言葉が途切れ、瑞蓮と意味深な視線を交わした。
 二人の間に流れる緊張した空気が、何か重大な話であることを物語っていた。
 自分にも関係のあることのはずなのに、置いてけぼりにされているような気分になる。

 「その件なら、覚悟はできております」

 瑞蓮の声は静かだが、その奥に強い決意が込められていた。
 しかし同時に、どこか悲しげな響きも含んでいる。
 瑞蓮のそんな表情を見るのは初めてだった。

 琴羽は二人の会話についていけず、困惑していた。
 精霊を呼び戻すには、天蓮琴の演奏以外に何か別の方法があるのだろうか。
 そして、瑞蓮の「覚悟」とは一体何を意味するのか。

 胸に不安が広がり、息苦しくなる。
 まさか、瑞蓮に何か危険が及ぶようなことなのではないか。

 「……琴羽ちゃんの前で言うことじゃなかったね。君だって、本調子じゃないのに。ごめん、弁財天」

 大黒天が苦笑いを浮かべる。
 まるで何か重要な秘密を口にしかけたかのような表情であった。

 「構いません。いずれ話さなければならないことですから」

 瑞蓮が静かに答えたが、その表情には複雑な影が落ちていた。
 琴羽は瑞蓮の横顔を見つめながら、胸がきゅっと痛んだ。
 いずれと言うことは、今はまだ、力不足なのだろうか。
 
 しかし琴羽には、今2人の会話に割って入り、真相を確かめる勇気はなかった。

 「それにしても、ここは水の加護がすごくて、僕にはちょっときついな……」
 大黒天が額の汗を拭いながら言った。話題を変えて、重い空気を和らげようとしているようだった。

 「どういうことですか?」

 琴羽が心配そうに尋ねると、瑞蓮が説明した。

 「この蔵は湖の水神の加護が濃く漂っているのです。大黒天は豊穣と大地を司る神でございますから、水の領域では思うような力が出せないのです」

 確かに、蔵の中は湿気が多く、壁からは水滴が滲み出ている。
 空気そのものが水の精霊の力で満たされているかのようであった。

 「とはいえ、そもそもここは霊力が封じられてるから、そもそも何にもできないんだけど。いやー参ったな、これは」

 傷の血は止まる気配がなく、むしろ徐々に広がっているようにも見える。
 琴羽は何とか脱出しようと、蔵の壁を調べ始めた。

 石造りの壁に手を這わせ、ひび割れや隠し扉がないかを丁寧に探る。
 しかし、どこを触っても頑丈な石の感触しかなく、出入り口らしきものは見当たらない。

 「瑞蓮、術で壁を壊すことは……」
 「試してみましたが、やはり神封じの結界の影響で力が出ません。まったく、厄介な呪具をです」

 瑞蓮の美しい眉が困惑に歪んでいた。
 いつもなら軽々と解決できる問題が、この密室では手も足も出ない。

 琴羽がさらに奥の方を調べていると、薄暗い蔵の角に木製の扉を見つけた。

 「……扉?」
 「手がかりがあるかもしれませんね。行ってみましょう」

 瑞蓮が立ち上がろうとすると、大黒天が疲れた声で言った。

 「僕は少し休憩してても良いかな? 地上だと体力消耗も多くてね。それに、この子のことも誰かが見ておいた方がいいと思うし」

 大黒天は壁にもたれたまま、チラリと横になったままの蒼真に視線を送った。

 「分かりました。何かあったらすぐに呼びますから」

 瑞蓮が心配そうに大黒天を見つめた後、琴羽と共に扉の向こうへ進んだ。
 扉の向こうは薄暗い石の廊下が続いていた。
 湿った空気がより濃くなり、足音が静かに響く。
 廊下を進むと、やがて美しい部屋に辿り着いた。

 そこは水の精霊たちの聖域のような、幻想的な空間であった。
 壁には光る苔が青白く輝き、天井からは水滴が美しい音を立てて落ちている。
 床には水の植物が生い茂り、まるで湖の底にいるかのような神秘的な雰囲気に包まれていた。

 「綺麗……」

 琴羽は思わず息を呑んだ。しかし、感嘆している場合ではない。

 「まずは出口を探しましょう」

 瑞蓮が部屋の四隅を調べ始める。
 琴羽も同じように、光る苔に照らされた壁を手で探る。
 水の植物をかき分け、隠し扉や通路がないかを丁寧に調べた。

 「こちらにも出口らしきものは……」
 「私の方も見当たりません」

 二人とも同じ結果であった。
 この美しい部屋も、結局は行き止まりのようで。

 琴羽は落胆しながら、光る苔の前に座り込んだ。
 瑞蓮もその隣に並んで座る。

 (大黒天様のお怪我も心配だし、蒼真も意識が戻らない……それに)

 琴羽の胸に不安が渦巻いていた。
 先ほどの大黒天と瑞蓮の会話が頭から離れない。

 あの時の瑞蓮の表情、声の震え、そして「覚悟」という言葉。
 胸の奥で何かが重くのしかかっている。

 (瑞蓮は何か私に隠している……大切なことを)

 琴羽の心は複雑だった。

 瑞蓮を信頼している。愛している。
 でも、自分だけが知らされていないことがあるという事実が、寂しくて仕方がない。

 恋人なのに、大切な話から除け者にされているような気持ちになる。
 二人きりになった静寂の中で、琴羽は勇気を振り絞って口を開く。

 「瑞蓮……」

 琴羽は何か言いたそうに瑞蓮を見つめていたが、どう切り出せばいいのか迷っていた。
 どんなに近い距離の恋人同士や夫婦でも、知られたくない部分は誰にでもあるだろう。
 相手の全てを無理に暴こうなんてことは、微塵も思わない。

 けれど、瑞蓮が一人で何かを抱え込んでいるなら。辛い思いをしているのなら。

 支えてあげたい。
 力になってあげたい。

 この先の人生を、共に歩むと決めた相手なのだから。

 「大黒天の話が気になるのですね」

 瑞蓮が琴羽の心を読み取ったかのように、優しく微笑んだ。

 その優しい笑顔が、逆に琴羽の胸を痛くした。
 きっと心配をかけまいとして、無理に笑ってくれているのだろう。
 琴羽は小さな声で続ける。

 「もし天蓮琴を鳴らせなければ、どうなるのかについて……聞かせてくれない?」

 自分の声が震えているのがわかった。
 答えを聞くのが怖い。
 でも、知らないことの方がもっと怖い。

 「まず、不安にさせてしまって申し訳ありません」

 瑞蓮の声には深い謝罪が込められていた。

 「いずれきちんと話そうとは思っていたのです。ただ、琴羽を余計な心配で悩ませたくなくて……それに、天蓮琴の演奏で解決できると信じていましたから。もちろん、それは今でもです」

 瑞蓮は琴羽の手をそっと取り、その温かさを確かめるように握った。

 「でも、こうして結界に閉じ込められてしまった今。もしかすると神霊祭に間に合わないかもしれない。それなら、琴羽にも真実を知っていただく必要があるでしょう」

 その手の温もりが、琴羽の不安を少しずつ和らげてくれる。

「少しだけ、私の過去の話をさせてください」

 どんな話でもいい。瑞蓮のことをもっと知りたい。
 この人が歩んできた道のり、背負ってきた重荷、隠してきた痛み。

 もし自分にできることがあるなら、少しでも支えになりたい。
 一緒に背負わせて欲しい。

 愛する人の過去も現在も未来も、共に分かち合えたら。

自分にそんな資格があるかはわからないけれど、
 今はただ、心からそう願っている。