弁財天の花嫁


 水鏡社で天蓮琴の練習を始めて二週間が経った。
 指定された神霊祭まではあと一ヶ月と少し。

 一向に天蓮琴は琴羽の意のままにならない。

 毎日練習を重ねても、神器は相変わらず琴羽を試すような音を奏でるばかり。
 『千霊回帰の調べ』どころか簡単な曲すら満足に弾けずにいた。

 焦りがなかったわけではない。
 けれど、悪いことばかりでもなかった。

 琴羽にとって、とても嬉しい変化があったからだ。それは――

 「風よ舞い踊れ 雲間を抜けて 小鳥たちと共に 空高く舞い上がれ」

 徐々に声量が戻り、再び美しく歌が歌えるようになったのである。
 あの絶望的だった日々を思うと。
 今こうして昔ように歌えることは、奇跡のように思えた。

 「素晴らしい……」

 瑞蓮が琴羽の歌声に聞き惚れながら、うっとりとした表情で呟く。
 その瞳には、どこか熱っぽい光が宿っている。

 「琴羽の歌声は、日に日に美しくなっていきますね。やはり“毎夜のアレ”の効果が出ているのでしょう」
 (そ、そんないい方……)

 瑞蓮の意味深な言葉に、琴羽の顔が真っ赤になった。

 毎夜、瑞蓮は琴羽の声の回復のためと言って、神気を分け与えてくれていた。

 しかし、問題はその方法である。
 効果を高めるためにと、唇を重ねて直接神気を流し込んでくるのであった。

 瑞蓮の熱い吐息、優しく絡み合う舌先の感触……。
 毎晩のことを思うと恥ずかしくて、どこを見ていいのか分からなくなる。

 『治療のため』『神気を効率よく伝えるため』という瑞蓮の説明を、琴羽は恥ずかしながらも受け入れていた。
 本当にこれが治療なのだろうかと疑問に思いつつも。瑞蓮を疑うことなどできるはずもない。

 それだけではない。
 極自然な流れで瑞蓮が言い出した、『神気が安定するまで側にいる必要があるため、同じ部屋で寝る必要がある』という言葉。

 それにも、琴羽は顔を真っ赤にしながらも頷くことしかできなかった。
 男性と同じ部屋で寝るなんて、恥ずかしくて恥ずかしくて。
 最初の方は、毎晩眠れないほどだった。

 瑞蓮が琴羽の頬にそっと手を添える。
 その指先が優しく琴羽の肌を撫でた。

 「実は、もっと効率よく神気を流し込む方法もあるのですが……試してみます?」

 瑞蓮の声が少し低くなり、琴羽の耳元に囁くように響く。

 「だ、だだ大丈夫です!!!」

 その温かい吐息が耳に触れ、琴羽は思わずビクッと震えた。
 これ以上何をされるのか、考えただけで恥ずかしくて気が遠くなりそうだった。

 「ふふふ、琴羽にはまだ少し早そうですね」
 「そ、それより! 天蓮琴の方は……」

 話題を変えようとするように、琴羽は慌てたような声で言った。
 歌声は戻ったが、肝心の天蓮琴での演奏は一向に上達しない。

 瑞蓮が琴羽の不安を察して、優しく微笑んだ。

 「琴羽様の心と天蓮琴が完全に通じ合うまで、もう少し時間が必要なのでしょう。今夜も、しっかりと神気をお分けしますから。根気強く頑張りましょう」

 瑞蓮の囁くような言葉に、琴羽は「はい……」と小さく答えながら、また顔が赤くなってしまった。

 そのような時、小さな光がひらひらと琴羽の周りに舞い踊った。
 水の精霊たちだ。
  歌を歌うようになってから、彼らは琴羽の美しい歌声に引き寄せられ、日に日にその数を増やしていた。

 精霊の一匹が、小さな何かを運んできて琴羽の膝の上に落とした。

 「……手紙?」

 琴羽が恐る恐る手に取ると、見覚えのある文字で宛名が書かれている。
 差出人の名前を見た瞬間、琴羽の表情が曇った。心臓がドキンと嫌な音を立てる。
 なぜ、今になって……。

 「誰からですか?」

 瑞蓮が琴羽の表情の変化に気づき、心配そうに尋ねた。

 「蒼真……という、幼馴染からです」

 病室でのことを思い出して、胸がちくりと痛む。
 あの冷たい視線、軽蔑に満ちた言葉。
 せっかく瑞蓮との幸せな時間に浸っていたのに、過去の傷が急に疼き始めた。

 「ふむ、あの水軍の若造ですか」

 瑞蓮の表情が一瞬で氷のように冷たくなった。
 琴羽の記憶の中で彼を見たのだろう。
 美しい顔に浮かぶ微笑みは消え、まるで真冬の湖面のような静寂な怒りが宿る。

 「一応、読んでみても……」

 でも、なぜ今頃手紙を……?
 不安と期待が入り混じった複雑な気持ちで、琴羽は手紙の封を切り、文面に目を向けた。

 そこには蒼真の震えるような文字で、深い後悔が綴られていた。

 『琴羽

 この手紙を書く資格が俺にあるのか、何度も迷った。
 でも、どうしても伝えなければならないことがある。俺は最低だった。

 響玉を使った麗華の嘘を簡単に信じ込んで、幼い頃からずっと一緒にいたお前を疑って。
 ひどい言葉をかけてしまった。

 真実を知った時、自分の馬鹿さ加減に吐き気がしたよ。
 お前があの家でどれだけ苦しんでいたか、どれだけ孤独だったか。
 それなのに俺は、お前を守るどころか傷つけることしかできなかった。

 せめて直接会って、謝らせてくれ。
 一生かけても償いきれない罪を犯したことを、心から後悔している。

 送り先が分からなくて困っていたところ、湖辺で出会った精霊がこっそりお前の居場所を教えてくれた。
 もう一度だけ、話す機会をもらえないだろうか。

 蒼真』

 琴羽は手紙を読み終えると、複雑な表情で瑞蓮を見上げた。

 「蒼真が……とても後悔していて、直接謝りたいと」

 琴羽の声は迷いに満ちていた。
 蒼真からの手紙には、涙で滲んだような文字で深い後悔と謝罪の言葉が綴られている。
 彼が、こんなにも苦しんでいるなんて。思いもしなかった。

 「ほう」

 瑞蓮は扇を開き、冷ややかに微笑んだ。
 しかしその笑みには慈愛のかけらもなく、やはり氷の刃のように鋭い。

 「随分と都合の良い話ですね。散々琴羽を傷つけておいて、今更謝罪ですか」

 瑞蓮の声には、琴羽を傷つけた者への深い憤りが込められている。
 その怒りは琴羽を守ろうとする愛情の裏返しなのだと、琴羽にはわかった。

 「でも……蒼真も騙されていたわけですし……今、独りで傷ついているのかもしれません」
 「琴羽……あなたという方は……どこまで慈悲深いのですか。自分を傷つけた相手のことまで心配なさるとは」

 琴羽は恥ずかしそうに俯いた。
 自分でも馬鹿だと思う。でも、見捨てることができないのだ。

 「蒼真は幼い頃からの友人でしたから……きっと麗華に騙されて、混乱していただけだと思うのです。もう一度お会いして、きちんと話をしたい。……自分の声で」

 琴羽の心の奥には、蒼真との関係を修復したいという願いがあった。
 声を取り戻した今なら、きっと真実を伝えられる。

 「まったく。普通の人間なら、あのような仕打ちを受ければ憎悪に駆られるものです。それなのにあなたは……」

 瑞蓮が琴羽の頬にそっと手を添える。

 「けれど。そんな琴羽だからこそ、私は心の底から愛おしく思うのでしょう」

 その優しい言葉に、琴羽の胸が温かくなる。
 琴羽は真っ赤になりながらも、瑞蓮を見上げた。

 「では……お会いしてもよろしいでしょうか?」
 「お会いになりたいのでしたら止めはいたしません。ただし、私も同席させていただきます。琴羽を一人でお会いさせるわけには参りません」

 琴羽は安堵したように頷いた。
 瑞蓮が一緒にいてくれるなら、きっと大丈夫だろう。

 「それと」

 瑞蓮の瞳に再び鋭い光が宿る。

 「もしもその男が琴羽を少しでも傷つけるような言動をした場合……容赦はいたしません。琴羽の優しさにつけ込んで、再び心を踏みにじるような真似は、私が許さない」

 琴羽を何があっても守り抜く。瑞蓮の言葉には、そんな強い意志が込められていた。

 筆を取って返事を書き始める。
 その優しい横顔を見つめながら、瑞蓮は改めて思った。

 琴羽の心の美しさこそ、どんな神器よりも尊いと。

 ***

 返事を受け取った蒼真は、手紙を胸に抱きしめて安堵の涙を流した。
 琴羽が会ってくれる――それだけで、蒼真の心は希望の光で満たされた。

 (琴羽……本当にありがとう。そして、すまない)

 実は、あの「縁楽の舞」での衝撃的な真実が明らかになった直後、蒼真は居ても立ってもいられずに麗華に婚約破棄を申し込んだのであった。
 一刻も早く、関係を清算したかった。

 あの夜のことを思い出す。
 瑞蓮によって響玉の秘密が暴かれ、麗華の嘘が白日の下に晒された瞬間、蒼真の中で何かが音を立てて崩れた。
 今まで自分の命を助けてくれた恩人だと思っていた相手は、すべて虚構であったのだ。

 そして何より、琴羽への罪悪感が蒼真を押し潰しそうになった。
 幼い頃から共に過ごし、誰よりも純粋で優しい心を持った琴羽を、自分は疑い、傷つけ、見捨ててしまったのである。

 「麗華!」

 蒼真は水無瀬家の門をドンドンと叩いた。
 夜も更けていたが、もう一秒も待てなかった。

 現れた麗華は、目の下に薄っすらとクマがあり、肌の艶も失せていた。

 「蒼真様……このような夜更けに、どうなさいました? 何か急用でも?」

 麗華はにっこりと笑い、落ち着いた様子を装おうとしたが、その声にはかすかな緊張が混じる。

 「婚約破棄の契約書に印を押せ」

 蒼真の冷たい声に、麗華は一瞬表情を硬くした。しかし、すぐに笑みを作り直す。

 「そのような。婚約破棄については、もう一度考え直していただけませんかとあれほど……」
 「貴様が琴羽にしたことの真実を知ったからには、そうもいかない。響玉のこと、嘘のこと、すべてな」

 蒼真の声は氷のように冷たく、もはや麗華を見る目に愛情のかけらもなかった。

 「あ、あれは……」

 麗華は一瞬狼狽の色を見せたが、すぐに気を取り直して続けた。

 「あれは仕方なかったのです!母様が強く勧めて……私だって本当は……」
 「言い訳をするな」

 蒼真が麗華の言葉を遮った。

 「貴様は琴羽を苛め、嘘で俺を騙し、そして多くの人を欺いた。そのような奴と結婚などできるわけがない」

 麗華は涙を浮かべながらも、必死に食い下がった。

 「蒼真様……せめて、姉様にもお詫びしたいのです。姉様の居場所を教えていただけませんでしょうか? 私、これまでのことは心から反省しておりまして……」

 麗華の声は震え、いかにも後悔しているような演技を見せた。

 「貴様になど教えるものか」

 蒼真は冷たく言い放った。麗華の偽りの涙など、もう二度と信じない。

 「俺は近々、自分で詫びに行く」

 蒼真はそう言うと、振り返ることなく水無瀬家を後にした。

 麗華は蒼真の後ろ姿を見送りながら、表情を一変させた。
 先ほどまでの取り繕った微笑みは消え失せ、唇の端に邪悪な笑みがゆっくりと浮かんだ。

 (こやつ、あの女の居場所を知っているのか……)

 蒼真の懐から一通の手紙がのぞいているのを麗華は見逃さなかった。
 封筒の端がわずかに見えただけであったが、宛名には「琴羽へ」という文字が。
 「自分で謝罪に行く」という言葉から推察すると、琴羽への手紙に違いない。

 そして「自分で謝罪に行く」と言ったということは、すでに会う約束を取り付けているということであろう。
 やはりあの男は、琴羽の居場所を知っている。

 麗華の目に危険な光が宿った。
 唇の端に浮かんだ邪悪な笑みが、月明かりの下でより一層不気味に見えた。

 ***

 数日後、麗華と志津は水音京の最も暗い一角、闇市へと足を向けていた。

 響玉の一件が街中に知れ渡ってから、二人を取り巻く環境は一変した。
 朝の市場に顔を出せば、魚屋の親父は露骨に顔を逸らし、八百屋の女房は商品を隠すように店の奥へ引っ込めてしまう。
 かつては「水無瀬家の奥方様」「美しいお嬢様」と敬われていた二人だが、今では「嘘つき」「詐欺師」と囁かれる存在になっていた。

 「お母様、もうここにはいられませんわ」

 麗華は苛立ちを隠そうともせずに言った。
 美しく着飾った着物も、今では周囲の冷たい視線を集めるだけの道具でしかない。

 「あの忌々しい青ネズミのせいで……」

 志津の顔は憎悪で完全に歪んでいた。
 握りしめた拳は怒りで震え、口元には悪魔のような笑みが張り付いている。

 「それに、あの弁財天とかいう化け物も! 私たちをあのような恥ずかしい目に遭わせて……絶対に許さない」

 麗華も母と同じように憎悪の炎を燃やしていた。
 舞台で味わった観客たちの軽蔑の視線、響玉が砕け散る音、謝罪を強要された屈辱。
 すべてが悪夢のように蘇ってくる。

 「母様、響玉での稼ぎはもう無理ですし、街の商人たちも取引を断ってばかりですわ。このままでは食べていくことも……」
 「心配いらないよ、麗華」

 志津の目に危険な光が宿った。

 「あの女どもに思い知らせてやる方法がある。今度こそ、完全に叩き潰してやる」

 二人は家に残っていた貴重品をすべてかき集め、最後の蓄えまで持って水音京の暗部へと向かった。
 闇市――表の世界では決して手に入らない、禁断の品々が取引される場所。

 薄暗い路地を抜け、さらに奥へと進むと、怪しげな店が立ち並んでいる。
 呪具、毒薬、盗品……どれも一歩間違えば命に関わる危険な代物ばかりであった。

 その中で、二人は見覚えのある店を見つけた。
 以前「声封じ香」を購入した、あの呪具商の店。

 「おや、おや……ご無沙汰しております。以前のお客様ではありませんか」

 フードを深く被った怪しげな男が、二人の姿を見てにやりと笑う。

 「『声封じ香』の効果はいかがでしたかな? 満足いく結果は得られましたか?」
 「最初はよかったさ」

 志津が苛立たしげに答えた。

 「でもあの女、生意気な……!弁財天だか何だか知らないが、化け物をよこしやがって」

 呪具商の目が興味深そうにギラリと光る。

 「ほう……弁財天、神を相手に、でございますか。それは確かに手強い。普通の呪具では歯が立ちませんな」
 「もっと強力な物はないのか? そのような化け物を倒せるような、とびきり強いやつを!」

 志津が声を荒げると、呪具商はゆっくりと店の奥へ向かった。
 そして重厚な扉を開けると、さらに奥の秘密の部屋から二つの品を持ち出してきた。

 一つは黒曜石でできた短剣。
 もう一つは血のように赤い宝石の首飾り。

 どちらも禍々しい雰囲気を持つ品であることには代わりない。

 「これから紹介する品の、どちらかをお選びください。まずは『神封じの短剣』」

 呪具商が黒い短剣を持ち上げると、周囲の空気がじわりと重くなる。
 まるで呪いそのものが形になったかのような不気味さであった。

 「こちらは、神の力を大幅に弱体化させる結界を張り、異界の牢へと閉じ込めます。結界内では神といえども術を使うことができず、不死性も失われる。範囲に制限はありますが一度発動すれば、基本的には術者の許可なしには解けません」

 「ということは、その結界の中でそいつを使って刺せば……!」

 志津が呪具商の説明を遮った。

 「普通の妖怪なら結界内で命を奪えるかもしれませんが、さすがに神となると……。それでも、結界内では人間と変わらぬ存在に成り下がりますので、ダメージは絶大でしょう」

 呪具商が赤い水晶のネックレスを手に取ると、それが不気味に脈動し、まるで心臓のように生きているかのように見えた。

 「そしてこちらは『(みたま)の首飾り』。こちらはさらに恐ろしく——」

 「もう説明はいいから、両方さっさとよこしなさい!」

 志津が呪具商の説明を最後まで聞かずに即座に割り込んだ。
 手をバンと机に叩きつけて、まるで当然の権利であるかのように要求する。

 「ちょっとお待ちください」

 呪具商が慌てて手を上げた。

 「この二つは非常に危険で……これらの呪具は使用者の魂に多大な負担をかけます。一つでも相当なリスクがあるのに、両方を扱うなど……」
 「何ですって?」

 麗華が眉をひそめる。まるで、店主の方こそが理不尽なことを言っているかのように。

 「お金は十分に持ってきておりますわ。ケチケチしないでくださいまし。商売人のくせに客の足元を見るなんて最低ですわね」
 「いえ、これは金銭の問題ではなく」

 呪具商が必死に説明しようとするが、志津が苛立たしげに遮った。

 「うるさい! 私たちには急いでやらなければならないことがあるんだよ。グズグズしている暇はないんだ!」

 麗華も母に同調するように言い放った。

 「第一、あなたに私たちの心配なんてしていただく必要ございませんでしょう? 売りたくないなら他の店に参りますわよ」
 「そこまで言うのなら……分かりました。ですが、後で何が起きても一切責任は負いません」

 二人は呪具商の警告など聞く耳を持たず、品物を奪うように受け取った。

 「これで、すぐ麗華は水音京の歌姫に舞い戻れるさ。問題は、どうやって青ネズミの居場所を突き止めるかだけ……」
 「お母様。それについては私、使えそうな駒を知っておりますの」

 麗華は蒼真のことを思い出し、ニヤリと笑った。
 蒼真はいずれ、謝罪のためにあいつを呼び出すはず。
 その時まで見張りを続ければ、きっと居場所がわかるだろう。

 「今度こそ、姉様にたっぷりとお礼をして差し上げましょう。あの舞台での屈辱、百倍にして返してやりますわ」

 二人は呪具を抱えて、足早に闇市を去っていく。
 やがて、二人の姿が完全に暗闇に消えると、呪具商は一人呟いた。

 「愚かな……魂を弄ぶ者は、いずれ己の魂をも失うというのに」

 その表情には、哀れみとも嘲笑ともつかない複雑な感情が浮かんでいた。