琴羽は瑞蓮に手を引かれ、とある場所に来ていた。

 そこは——雲上の楽座。
 七福神たちが暮らす、神々の世界だ。

 瑞蓮に促されて宮殿に足を踏み入れた琴羽は、目を見張った。
 天井は高く、雲海が見渡せる大きな窓からは柔らかな光が差し込んでいる。
 床には美しい絨毯が敷かれ、調度品は見たこともない豪華なものばかり。

 「どうぞ、くつろいでくださいませ。少々賑やかですが、どうかお気になさらず」

 キョロキョロと落ち着かない様子の琴羽を気遣ってか、瑞蓮が笑顔を向ける。
 琴羽の緊張を解きほぐそうとするその優しさに、心がわずかに軽くなった。

 すると、廊下の奥から「わはは」とにぎやかな笑い声が聞こえてきた。

 おそらく廊下の先の部屋に、七福神たちがいるのだろう。
 声の賑やかさからして、すでに数人はいるようだ。

 琴羽は身を強張らせる。
 これから会うのは、畏れ多い七福神の方々。
 一体どのような神々しい会合が行われているのだろうか。

 瑞蓮の後を追うようにして、琴羽は意を決して廊下を進む。
 格式高い七福神に会うのだから、最初の挨拶から失礼のないようにしないと。
 そもそも、こんな普通の人間がこんな場所に来ること自体が失礼に当たるのではないか。

 (私のような者が、神様方にお会いするなんて……)

 そんな不安が頭によぎりながらも、大きな部屋にたどり着くと――
 そこでは七福神たちがカードを手に、大声で笑いながら大富豪をしていた。

 「がははははは!! 次こそは勝つ!!」
 「まーた負けたでちゅ! 恵比寿しゃん、やっぱりズルしてるんじゃないでちゅか?」
 「は? そんなんしてねーよ、俺はいつだって真っ向勝負だからな!」

 神々の笑い声と、カードを叩きつける音が広間に響いている。
 琴羽は完全に混乱していた。
 目の前の光景はまるで町の酒場での宴会のようで。

 (この方々が……七福神様? 本当に?)

 琴羽は瑞蓮の顔を見上げたが、瑞蓮は苦笑いを浮かべながら小さく頷いた。

 ***

 遡ること数時間前——

 水音京での騒動が収まった後、瑞蓮は琴羽を静かな神社へと連れて行った。

 「琴羽」

 月光に照らされた静寂な境内で、瑞蓮は琴羽を真剣な表情で見つめた。

 「私はあなたに謝らなければなりません」
 「……? どうしてでしょう?」

 「先ほど神気を流した時に見てしまったのです、あなたの記憶を。予期せぬ出来事だったとはいえ、決して心地良いものではなかったでしょう。深くお詫び申し上げます」

 誰だって、自分の心の奥底など覗かれたくはないだろう。
 それも出会ったばかりの見知らぬ男に。

 瑞蓮は申し訳なさそうに目を逸らす。
 正直なところ、嫌われても仕方ないと覚悟していたのだが、琴羽の反応は予想とは正反対だった。

 「それは……お見苦しいものをご覧に入れてしまって……申し訳ございません」

 琴羽は深く頭を下げる。
 自分の暗く惨めな過去が、瑞蓮に不快感を与えてしまったのではないかと案じたのだ。

 「いえ、そうではありません」
 瑞蓮が琴羽の顔をそっと上向かせる。

 「あなたがどれほど辛い思いをしてきたか、どれほど孤独だったか……それでも決して心を折ることなく、日々努力を重ね、音楽を紡いできた。その強さに、私は深く感動したのです」

 音楽とは、習得までに途方もない時間がかかるものである。
 一朝一夕で身につくものではなく、日々の積み重ねと絶え間ない努力が必要とされる。
 ましてや、琴羽のように声を封じられ、周囲から理解されない環境では、その道のりはさらに険しいものとなることは容易に想像がつく。

 長い間、人の心の醜さばかりを見てきた瑞蓮にとって、琴羽の魂の美しさは眩しすぎるほどだった。
 数百年という歳月を生き、どれほど多くの欲望と裏切りを目にしてきたことか。
 人は皆、自分の利益のために他者を踏みつけ、美しいものを汚していく。

 そんな絶望の中で生きてきた瑞蓮の心に、琴羽は光を灯したのだった。

 「他の人間なら、とうに心が折れて音楽を手放していたことでしょう。しかし、あなたは最後まで音楽を信じ続けた」

 ——目の前の少女を守りたい。二度と一人にしたくない。

 「あなたのような美しい魂を持つ人に出会えたことは、まさに奇跡……! 私は、あなたと生涯を共にしたい。ずっと、ずっとお側にいさせていただきたい」

 ——この世に、たった一人。心から愛したいと思える人に、ついに出会えた。

 感極まった様子の瑞蓮に琴羽は驚いて目を見開いた。
 神様からそのような言葉をかけられるなど、夢にも思わなかった。

 「私は……ただの人間で声だって不完全です。それに、失礼を承知で申し上げますと、瑞蓮のこともよく存じあげておりませんし……」

 確かにさっきは歌えたが、まだ完全ではない。
 琴羽は不安そうに喉に手を当てる。

 本当に自分でいいのだろうか。
 こんなにも美しく、高貴な方が。なぜ自分なんかを選ぶのか理解できずにいる。
 今まで誰からも愛されたことのない琴羽にとって、この状況はあまりにも現実離れしていた。

 「声については心配いりません」

 瑞蓮は優しく微笑んだ。

 「今は私の力で一時的に回復しておりますが、正式に結ばれれば、完全に美しいお声を取り戻していただけますから」
 「本当に……?」
 「ええ。あなたの過去も、痛みも、すべてを含めてあなたという人なのです。その全てを愛しています。どうか、私をお側に置いてくださいませんか?」

 琴羽の頬が赤く染まる。
 すべてを愛しているという言葉が、胸の奥深くに響いていく。
 あの辛い過去も、みじめな思い出も。その全てを受け入れてくれるというのだろうか。

 胸の奥が熱くなり、涙が頬を伝う。
 こんなにも深く他人に受け入れられたのは、生まれて初めてだった。

 こんな自分でもいいと言ってくれるのなら。
 この優しい人が、欠けだらけの自分を愛してくれると言うのなら。
 もう一度だけ、誰かを信じてみてもいいのかもしれない。

 「瑞蓮様が、よろしいのなら。……ご一緒、させていただきたいです」

 琴羽は恥ずかしそうに俯きながら答える。
 心臓が激しく鳴り、頬が熱くなる。
 こんな気持ちになったのは初めてで、自分でも戸惑いを隠せなかった。

 「本当に……本当によろしいのですか?」

 瑞蓮の声が感動で震えている。
 それは夢が叶った時のような、純粋な喜びに満ちた表情だった。

 「ありがとうございます、琴羽。こんなにも嬉しいことはありません」

 瑞蓮はそっと琴羽の手を取り、大切そうに握りしめた。
 その温かい手の感触に、琴羽は安らぎを覚える。
 今まで誰からも大切にされたことのなかった自分が、こんなにも愛おしそうに扱われていることが信じられなかった。

 「本当は今すぐにでも祝言をあげたいところなのですが。実は、私があなたと共にいるためには、少々手続きが必要なのです」
 「手続き……ですか?」
 「はい。神と人間が生涯を共にするには、雲上の楽座にいる七福神全員の承認をいただかねばなりません。ですが、どうかご安心ください。皆様、本当に良い方ばかりですから、きっと快く承認してくださいます」

 瑞蓮は嬉しそうに続けた。神という言葉に、琴羽は改めて瑞蓮の正体の重大さを実感する。

 もし瑞蓮が神ではなく、ただの人間だったとしても。
 琴羽の気持ちは変わらなかっただろう。
 地位や身分ではない。その優しさに、その深い愛情に、心を奪われたのだから。

 (私は……この人の隣で生きていきたい)

 琴羽は恥ずかしそうに俯きながら、小さく頷いた。

 ***

 雲上の楽座での神々の光景を目にした琴羽は、ポカンと口を開けて固まった。
 想像していた荘厳で神々しい光景とは、あまりにもかけ離れていたからである。

 「やっべー、また上がっちまったわ〜」

 チャラチャラした口調で笑っているのは恵比寿。
 日焼けした肌にボサボサの茶髪、サーフボードを背負って海パン一丁という格好で椅子に座っている。
 ニヤッと笑うと鋭い犬歯がのぞき、まるで海辺の若者のような軽い雰囲気である。

 これが七福神……? 琴羽の常識が音を立てて崩れていく。
 琴羽は夢でも見ているような気分だった。
 神様がカード遊びをしているなんて、一体どういうことなのだろう。

 「恵比寿、またお主か……老人に少しは勝ちを譲れ」

 困った様子でため息をついているのは福禄寿。
 異様に長い頭と真っ白なひげを蓄えた老人で、鼻にかけた小さな眼鏡がずり落ちそうになっている。

 「がはははっ! なんで俺だけ大貧民なんだよ! 運が悪すぎるぜ! がはは!」

 豪快に笑いながら怒鳴っているのは布袋。
 坊主頭に人懐っこい顔で、怒っているのか笑っているのかよくわからない。
 ぽっこりとした太鼓腹を揺らしながら、大きな手で手札を乱暴にテーブルに叩きつけている。

 「ぷくくく〜、布袋しゃんったら〜。運じゃなくて腕でちゅよ〜」

 独特の話し方でくすくす笑っているのは寿老人。
 小柄で華奢な体型、まるで美少女のような愛らしい顔立ちだが、実は男性の神様である。
 桜色の着物を着て、長い黒髪を結った姿は本当に少女にしか見えない。

 「おっ! 弁財天が帰ってくるなんて、珍しいじゃねーか」

 恵比寿に肩を組まれても、瑞蓮はいつもの笑顔を崩さず、動じない。
 琴羽はその予想外のノリに、ただただ固まって見ていることしかできなかった。
 世界が一変してしまったような感覚に、頭がついていかない。

 「お前、この前も地上の絵描きに女として描かれてたよな〜。もうすっかり女神様として定着してるじゃん」

 他の神々も、追い打ちをかける。

 「そりゃそうだ、その面じゃ男に見えねーもんな! がはははは!」
 「ぷくく〜、弁天しゃんのお顔、ちゅじろうより美ちいでちゅもんね〜」

 瑞蓮は苦笑いを浮かべながら、優雅に扇を開く。

 「皆様、それは先日もう十分お聞きいたしました。私はどのように描かれようと、一向に構いませんので」

 慣れた様子で受け流す瑞蓮を見る限り、いつものやりとりなのだろう。
 ガヤガヤとした雰囲気が続く中、恵比寿がまた何か言いかけた、その時――

 「静粛に」

 突然響いた低く威厳のある声に、その場の空気が一瞬で凍りついた。
 まるで氷の刃が空間を切り裂いたかのように、賑やかに笑っていた神々も、ぴたりと口を閉ざす。

 一喝したのは毘沙門天。
 黒い甲冑に身を包み、鋭い目つきで厳格な表情を浮かべた戦神だ。

 一人だけ大富豪に参加せず、腕を組んで立っている姿は、まさに武神の威厳を漂わせていた。
 その存在感は圧倒的で、琴羽は思わず身を縮め、息を呑んだ。
 
 この人だけは、他の神々とは明らかに雰囲気が違う。
 数秒の重い沈黙が流れる。

 「毘沙天しゃん、いっしょにやりましょうよ〜。お仕事ばっかりじゃ疲れちゃいまちゅよ〜」

 「くだらん遊戯に興じている時間などない。私にはやらねばならない仕事が山ほどある」
 
 毘沙門天が現れたところで、瑞蓮が優雅に立ち上がる。
 その所作には一点の曇りもなく、舞を踊るような佇まいであった。

 「皆様」

 そっと琴羽の手を取って前に出る。
 瑞蓮の手は温かく、指先まで優しさが宿っているようだった。
 琴羽は緊張で固くなっていた肩の力が、その手の温もりで少しずつほぐれていくのを感じる。

 (瑞蓮がいてくれるのなら、大丈夫)

 琴羽は瑞蓮の手をそっと握り返した。

 「改めてご紹介いたします。こちらは水無瀬琴羽。私が心から愛する女性であり、生涯を共に歩みたいと願う方です」

 琴羽への愛を隠すことなく、堂々と神々の前で宣言するその姿に、琴羽の頬がほんのり赤く染まる。
 恥ずかしさと嬉しさが入り混じり、どこを見ていいのかわからない。

 「そして琴羽、こちらが七福神の皆様です。今日は私たちの結婚をお認めいただくために、参上いたしました」
 「よ、よろしくお願いいたします……」

 琴羽が深くお辞儀をすると、恵比寿がカードを片手に琴羽をまじまじと見つめた。

 「おー、これが弁財天の彼女か〜。可愛いじゃん! その青い髪、地毛? 超イケてんな!」
 「恵比寿……もう少し落ち着いてくれんかのう……」

 福禄寿が眼鏡を直しながら疲れた様子で注意する。

 「がははははっ! 弁財天もついに恋に落ちたか! しかし人間選ぶとは意外意外! がはははは!」

 布袋がテーブルを叩きながら豪快に笑った。
 寿老人が琴羽の周りをくるくる回りながら、キラキラした目で言う。

 「わあわあ〜、本当に美ちい方でちゅね〜!弁天しゃんったら、いい趣味ちてる〜。ちゅじろうも応援ちまちゅ〜」

 そこに七福神の最後の一人、大黒天が温和な笑顔でお茶を運んでくる。

 「はいはい、みんな。ちょっとお茶でも飲んで落ち着いて? 琴羽ちゃんも弁財天も、遠慮しないで」

 細やかな気配りでみんなのお世話を焼く姿は、まさに理想的な好青年そのもの。
 瑞蓮ほどの華々しさはないが、爽やか系の優しい目元が印象的な美形であった。

 「あの、お茶なら私もお手伝いいたします」

 流石に神様にお茶を入れてもらうわけにはいかない。
 そんな恐れ多いことはできないと、琴羽は慌てて立ち上がろうとする。
 長い間、人に世話になることに慣れていない琴羽にとって、神様に気を遣わせるなど耐え難いことだった。

 大黒天は慌てて手を振る。

 「いやいや、客人にそんなことさせられないよ。座ってて」

 その優しい制止にも関わらず、琴羽の申し訳なさは収まらない。

 「でも、皆様にご迷惑をおかけして申し訳なくて……せめて何かお手伝いを」

 琴羽の真摯な申し出に、大黒天は困ったような、けれど嬉しそうな表情を見せる。

 「そんなに気を遣わなくても大丈夫だよ。でもそこまで言うなら……お茶菓子を切るのを手伝ってもらえるかな?」
 「はい、喜んで」

 琴羽は嬉しそうに立ち上がり、大黒天と一緒にお茶菓子を切り分け始める。
 包丁を手にした琴羽の手つきは慣れたもので、美しく均等な厚さに切り分けていく。

 「包丁使いも上手だし、本当に気遣い屋さんなんだなあ。弁財天が惚れ込むのも分かる気がするよ」

 大黒天は琴羽の手際の良さに感心しながら、切り分けられたお茶菓子を美しく皿に盛り付けていく。

 「お……恐れ入ります」

 その謙虚な姿勢に、大黒天の目が優しく細められた。

 琴羽は家では使用人同様の扱いを受けていたため、茶の準備や料理などには慣れ親しんでいた。
 しかし、特段他人に自慢できるほど上手なわけではない。
 ただ、生活のために身につけざるを得なかった技能に過ぎないのだ。

 琴羽が恐る恐る毘沙門天にお茶を差し出すと、彼は無言で受け取り、軽く会釈を返す。
 その一瞬の交流に、琴羽は少しだけ安堵した。
 毘沙門天は厳格だが、意地悪なわけではなくただ礼儀を重んじる方なのかもしれない。

 毘沙門天は瑞蓮に向き直ると、威厳に満ちた声で告げた。

 「さて弁財天よ、人間との婚姻には七福神"全員の"承認が必要だ。それは貴様も知っているはずだが」
 「はい、もちろんでございます」

 瑞蓮は恭しく頷く。
 いよいよ正式な審議が始まるのだと、琴羽の心臓が激しく鳴り始めた。
 恵比寿が勢いよく手を挙げた。

 「俺は賛成〜!美人だし、何より弁財天が幸せそうじゃん」
 「私も賛成じゃ……琴羽殿の人格は申し分ないし、品格も備えておられる……それに弁財天が選んだお相手なら間違いなかろう……」

 福禄寿が眼鏡を押し上げながら言った。

 「俺も賛成だ! 弱きを守ってこそ漢は一人前になる、なんてな! がはははは!」
 「ちゅじろうも賛成でちゅ〜! 恋愛っていいでちゅよね〜。ドキドキちちゃいまちゅ〜」

 布袋、寿老人に続いて、大黒天も温かい笑顔で頷く。

 「俺も。ただの勘だけど、琴羽ちゃんは優しい良い子って感じするし。弁財天にはもったいないくらいなんじゃない?」

 あとは、毘沙門天だけ。

 琴羽の胸に不安が広がっていく。
 他の神々は皆、温かく自分を受け入れてくれた。

 でも、もし。毘沙門天に反対されたら……。

 瑞蓮との未来は諦めなければならないのだろうか。
 心臓がドキドキと激しく鳴り、手のひらに汗が滲む。

 「……私は反対だ」

 毘沙門天の重い声が響いた瞬間、場が静まり返った。

 恵比寿のカードを切る音も、寿老人のくすくす笑いも、すべてが止まる。

 琴羽の頭の中が真っ白になる。
 やはり、こんな自分には無理だったのか。
 神様の伴侶になるなど、身の程知らずだったのかもしれない。

 「琴羽、と言ったな」
 
 毘沙門天は立ち上がり、琴羽の前に歩み寄る。
 体を動かすたびに、がしゃがしゃと甲冑の重厚な音が響く。

 「神と人間の婚姻は、それほど軽いものではない。確かに過去に例がないわけではないが、ほとんどが悲劇に終わっている。人間の短い寿命、神としての責務との相克……琴羽とやら、お前にその覚悟はあるのか」

 毘沙門天の鋭い視線が琴羽を射抜く。
 その威圧感に、琴羽は身を竦ませた。
 覚悟……本当に自分にその覚悟があるのだろうか。
 瑞蓮を愛する気持ちに嘘はないが、神様の世界のことなど何も知らない自分に、果たして神の花嫁が務まるのだろうか。

 「はい……瑞蓮様は私を救ってくださいました。声を失って絶望していた私に、希望を与えてくださったのです」

 今まで生きてきた中で、これほど確信を持って言えることはなかった。

 「私は何も持たない、ただの人間ですが……瑞蓮様のお役に立てるなら、なんでもします」

 たとえどんな困難が待ち受けていようとも、瑞蓮の側にいたい。
 この想いだけは、誰にも揺るがすことはできない。

 ——神としての責務がどれほど重いものであろうとも。
 共に背負っていきたいと心から願っていた。

 瑞蓮が一歩前に出る。

 「毘沙門天様、私も覚悟の上でございます。神としての責務も、琴羽がそばにいることで、より良く果たせると信じております」

 「だが、神と人間の結びつきは、しばしば人間側に過度な負担をかける。神の力に触れ続けることで、人間の魂は摩耗していくのだ」

 毘沙門天の言葉に、他の神々も重い表情を見せた。

 「だから」

 琴羽の心が一瞬で引き締まる。
 今度こそ、最終的な拒絶を告げられるのではないかと身構えた。

 「試練を課そう。それを突破できれば、汝に神と結ばれる資質があると認め、私も承認する」

 てっきり完全に否定されると思っていたので、琴羽は少し拍子抜けする。
 試練があるということは、まだ可能性が残されているということ。
 胸の奥で、小さな希望の灯火がゆらめいた。

 恵比寿がほっとしたようにカードを置きながら言った。

 「おー、毘沙門天の試練か〜。何やらせるの? まさか命懸けの戦闘とかじゃないよね?」

 毘沙門天は振り返ると、大きな窓の外を指差した。

 「見よ。水音京の精霊たちが減っている」

 琴羽たちが窓に近づくと、雲の上から見下ろす水音京の街が見えた。
 確かに、以前は街中にきらめいていた精霊の光が、まばらにしか見えない。

 「精霊たちの光が……こんなにも少なくなってしまっているなんて……」

 琴羽は驚きと悲しみの声を上げた。

 胸が痛む。かつて自分の歌声に集まってくれた精霊たち。
 湖で歌った時に現れてくれた、あの美しい光の存在たち。
 確かにその姿は、年々見かけなくなっている気がする。

 「闇市での呪具取引が原因だ。最近、精霊たちの力を吸い取る邪悪な道具が大量に出回り、多くの精霊が力を奪われ、消えていってしまっている。もともと精霊は邪気に弱い。ただでさえ、清廉な空気が必要となるというのに」

 瑞蓮も窓の外を見つめ、深い憂いを込めて言った。

 「私もこの問題にずっと悩んできておりました。音楽を司る神として、精霊たちをどのように救うべきか、策を練っていたところでございます」

 琴羽の心に強い使命感が湧き上がる。
 瑞蓮が悩み続けていた問題だというのなら。
 もし自分にできることがあるなら、力になりたい。

 毘沙門天は琴羽をまっすぐに見据えた。

 「課題はこうだ。二ヶ月後に開催される『神霊祭』にて、神器である天蓮琴で『千霊回帰の調べ』を演奏してみせよ」

 琴羽は聞き慣れない言葉に困惑した。
  『千霊回帰の調べ』とは曲名だろうか。
 これまで様々な楽曲を弾いてきた琴羽ですら、初めて聞く名だった。

 戸惑う琴羽の様子を見て、福禄寿が眼鏡を押し上げながら説明した。

 「神霊祭は、年に一度開催される神々と精霊たちの祭典。多くの神々や妖怪、精霊たちが集まる神聖な儀式で、神器と呼ばれる特別な楽器を奏でよということじゃ。『千霊回帰の調べ』は古より伝わる楽曲。失われた精霊たちの魂を呼び戻すことができると言われておる」
 
 おそらく、『千霊回帰の調べ』については福禄寿以外の神は知らなかったのだろう。
 皆驚いた様子で目を見開いている。そしてそれは、瑞蓮も同じだった。

 「神器の存在は存じ上げていましたが、まさかそんな曲があったとは。つまりその楽曲を神霊祭で完璧に演奏できれば、精霊の問題は一気に解決すると……」
 「ああ。ただし、これまで人間がこの曲を演奏し切った例はない。難易度が高い上に、神器は演奏者を選ぶ。二ヶ月という時間で、果たして習得できるかどうか……」

 恵比寿も珍しく真面目な顔で言った。

 「そもそも精霊の魂を呼び戻すのって、俺たちでも結構難しくね? 時間もかかるし、精神力も相当必要だし……」

 布袋も頷く。

 「がはは! 神霊祭の観客は気難しい連中ばかりだからな。失敗でもしたら、『神聖な儀式を汚した』とかキレて何しだすかわかんねーな! がはははは!!」

 琴羽の顔が青ざめていく。

 「そのような神器を、私のような者が使わせていただいても……」

 琴羽の声は不安に震えていた。
 神器と呼ばれるほど神聖で強大な力を持つ楽器を、自分のような一介の人間が扱っていいのだろうか。
 ましてや、精霊たちの命運がかかった重要な演奏を任されるなんて。

 もし失敗したら、瑞蓮にも迷惑をかけてしまうだろう。
 そんな責任の重さに、琴羽の心は押し潰されそうになった。

 瑞蓮が琴羽の手をそっと握った。

 「配には及びません。琴羽なら絶対にできます」

 その温かい手の感触に、琴羽の不安が少し和らぐ。
 瑞蓮がこれほど信じてくれている自分を。他でもない自分自身が信じられずにどうするのだ。
 
 「天蓮琴は確かに神器でございますが、楽器であることには変わりありません。琴羽の音楽の才能なら、必ずや天蓮琴もお応えくださるでしょう」

 やるしかない。
 琴羽の心の中で、迷いが決意に変わっていく。

 瑞蓮がこれほどまでに自分を信じてくれている。
 その期待に、その愛に。応えたい。

 「琴羽の音楽には、神の心をも動かす力がおありなのですから。どうか私を、そして何よりもご自分の力をお信じください」
 
 今まで誰からも必要とされなかった自分を。
 町中の人から見放された自分を。
 まっすぐに、心の底から信じてくれている人がいる。

 瑞蓮の重荷を、少しでも軽くしてあげられるなら。
 この人のために、自分に何かができるのなら。

 窓の外の街を見つめ、ふうっと息を吐いて決意を固める。

 「分かりました。……『千霊回帰の調べ』、必ずや演奏してみせます」

 瑞蓮と共に歩む未来のために。
 この人の隣に立つにふさわしい自分になるために。

 「よい覚悟だ。では、明日から練習を開始せよ。弁財天、天蓮琴の在り処は知っておるな?」
 「もちろんです」

 瑞蓮が恭しく頭を下げると、他の神々も口々に励ましの言葉をかけた。

 「琴羽ちゃん、俺たちも応援してるからね。困った時は遠慮しないで声をかけて。できる限りサポートするから」
 「そうそう! ちゅじろうも応援してまちゅ!」

 琴羽は感激で目を潤ませながら、深々と頭を下げた。

 「皆様……本当にありがとうございます。このように温かく迎えていただいて……」

 大黒天は琴羽の方を向き直すと、少し照れくさそうに言った。

 「弁財天をよろしく頼むよ。あいつ、時々不器用なところもあるけど、本当にいい奴だから。琴羽ちゃんのことを心から大切に思ってるのは間違いないしね」

 大黒天の温かい言葉に、琴羽の胸が温かくなる。
 瑞蓮が本当に優しい人だということを、他の神々も認めてくれているのだと実感する。

 しかし最後に大黒天は瑞蓮を見つめ、心配そうに言いかけた。

 「ただ……弁財天、君はまだ万全じゃないのに――」
 「大丈夫です」

 瑞蓮がきっぱりと遮った。

 体調が悪いのか、それとも何か別の問題があるのか。
 琴羽の心に不安が広がる。
 いつも完璧で美しく、強い存在だと思っていた瑞蓮にも、何か悩みや問題があるのかもしれない。

 でも、瑞蓮は自分のことを心配させまいと、きっぱりと否定した。
 なら、今はその優しさを信じたい。

 「神霊祭、楽しみにしてるぞ〜!」

 恵比寿も元気よく続ける。

 こうして、琴羽の人生を決する試練が始まることになった。

 神霊祭で『千霊回帰の調べ』を完璧に演奏し、失われた精霊たちを呼び戻すことができるのか。
 すべては、琴羽の音楽にかかっていた。

 ***

 次の日の朝、瑞蓮は琴羽を水音京の外れにある小さな島へと連れて行った。

 朝日に照らされた湖面を滑るように進む舟の上。琴羽は静かな期待に胸を膨らませていた。

 島の中央に建っているのは、「水鏡社」と呼ばれる美しい社。
 弁財天を信仰する人たちがかつて心を込めて建てた場所で、様々な楽器が大切に保管されているという。

 「ここなら静かな環境で、天蓮琴の練習に集中できます。大きな音を夜中に出しても問題ないでしょう」

 そこで琴羽は、神霊祭本番での演奏に向けた練習期間中の生活を、瑞蓮と共にすることになった。

 中に入ってみると、水鏡社は想像以上に立派で、琴羽は目を見張った。
 建物の随所に設けられた噴水からは清らかな水が流れ、美しい水音が静寂を彩っている。
 壁や柱には繊細なガラス細工が施され、光を受けて虹色に輝いていた。

 (このような素晴らしい場所で過ごせるなんて……)

 今頃、志津も麗華も、きっと琴羽がいなくなったことを喜んでいるであろう。
 その琴を思うと少しだけ胸が痛んだが、琴羽はすぐに首を振った。

 (今は瑞蓮様がいてくださる。それだけで十分)

 翌朝、琴羽は早起きして朝食の準備を始めた。

 台所も立派で、様々な調理器具が美しく整えられている。
 瑞蓮と同じ屋根の下で過ごす初めての朝。こんなにも幸せな気持ちで料理をするのは生まれて初めてだった。

 琴羽は心穏やかな気持ちで新鮮な野菜を切っていた……のだが。

 「琴羽!」

 瑞蓮が慌てて台所に駆け込んできた。
 とにかく急いでいたのだろう。
 寝癖で少し跳ねた銀髪が愛らしく、普段の完璧な美しさとは違った親しみやすさがあった。

 「私にも手伝いを……せめて何か……」

 琴羽は驚く。
 神様が料理のお手伝いなど、恐れ多いことであった。
 でも、瑞蓮の申し出が嬉しくて、胸が温かくなる。この人は本当に優しい。

 「いえいえ、瑞蓮様はお休みください。すぐにできますから」

 しかし瑞蓮は引き下がらない。
 その真剣な表情に、琴羽は少し困ってしまう。

 「そうはいきません。私もできる限りのことを……ほら、この鍋は琴羽には重そうですし」

 瑞蓮が陶器の鍋を手に取った瞬間、握る力が強すぎたのか、ガシャンという音と共に鍋が粉々に砕け散った。
 美しい顔が真っ赤に染まる。

 「お怪我はありませんか? 私一人で十分ですから、お気になさらないでください」
 「でも……私としても何かお役に立ちたいのです。昨夜の失態を挽回したく……」

 瑞蓮の声は次第に小さくなっていく。
 琴羽のために夕食を作ろうと張り切った瑞蓮は、包丁でまな板を真っ二つに割ってしまったのだ。
 その上、調味料を間違えて甘いお味噌汁を作り、結局琴羽が余った材料でおにぎりを握ったのであった。

 けれど、琴羽にとっては。
 不器用でも、一生懸命自分のために何かをしようとしてくれる瑞蓮の気持ちが嬉しくて仕方がなかった。
 瑞蓮の一生懸命さが愛おしくて、どう反応していいかわからなかったくらいには。

 「本当に大丈夫です。瑞蓮様には天蓮琴のご指導をしていただくだけで十分です。それに……瑞蓮様がお手伝いしてくださるお気持ちだけで、私はとても幸せですから」

 結局、朝食は琴羽が一人で作ることになった。
 炊きたての白いご飯に、湯気の立つお味噌汁、焼きたての魚と色とりどりの野菜の煮物。
 丁寧に作られた朝食が食卓に並ぶ。
 瑞蓮は申し訳なさそうに箸を進めながら呟いた。

 「美味しゅうございます……私も家事ができれば、もっとお役に立てるのですが。音楽のこと以外は、めっきりで」
 「瑞蓮様は音楽の神様ですから。誰しも得手不得手があります。そのようなことお気になさらず」

 (神様にもこのような可愛らしい一面があるなんて……意外で、なんだかほっとする)

 琴羽は瑞蓮の困ったような表情を見て、親しみやすさを感じていた。
 完璧な神様ではなく、不器用な部分もある、愛らしい人なのだと。

 午前中は、いよいよ天蓮琴の練習時間であった。
 瑞蓮が大切そうに取り出した天蓮琴は、見たこともないほど美しい楽器であった。

 弦は月光のように透明な銀色に輝き、まるで星屑を編み込んだかのような光沢を放っている。
 胴体は深い青色の木材で作られており、繊細に彫り込まれているのは精霊たちの姿。
 大きさも普通の琴よりも一回り大きく、触れただけで、ただならぬ力を秘めていることが分かる。

 「では、まず基本的な音階から」

 瑞蓮の優しい声に促され、琴羽は恐る恐る弦に触れた。
 指先が弦に触れた瞬間、天蓮琴からは普通の琴とは全く違う、重厚で神々しい音が響く。
 音色は確かに美しいが、まるで雷鳴のような迫力がある。

 「わ……!」
 あまりの音の迫力に、琴羽は思わず手を引いてしまった。
 心臓がドキドキと早鐘を打っている。

 普通の琴とは比べ物にならない、まるで雷鳴のような響きに全身が震えた。
 これが神器の力なのか。

 「大丈夫です。天蓮琴は神器ですから、普通の琴とは音も響きも全く違います。少しずつ慣れていきましょう」

 指の動きは琴と同じはずなのに、何か根本的に違う。
 弦を弾くたびに、まるで楽器の方が琴羽の心を覗き込み、その技量を測っているかのような感覚があった。
 琴羽の心の奥底まで見透かされているような、落ち着かない気持ちになる。

 時には弦が震えて拒絶するような音を立て、時には琴羽の指が思うように動かなくなる。

 まるで天蓮琴が「まだ早い」と言っているかのようだった。
 毘沙門天の言葉通り、天蓮琴は確かに奏者を選んでいた。

 三日、一週間と過ぎても、状況は変わらなかった。

 音は出るが、『千霊回帰の調べ』どころか、簡単な童謡すらまともに弾けない。
 琴羽の心に焦りと絶望が募っていく。

 このままでは試練に失敗してしまう。
 瑞蓮に迷惑をかけてしまう。

 毎日練習を重ねるたびに、自分の無力さを思い知らされる。
 神器を扱うなど、やはり身の程知らずだったのかもしれない。

 「申し訳ございません……全然うまくいかなくて。やはり私には無理なのでしょうか」

 琴羽は肩を落とし、申し訳なさそうに瑞蓮を見上げる。
 指先は練習のしすぎで少し腫れ、心も疲れ切っていた。

 「焦る必要はございません。きっとまだ琴の方が心を開いていないだけです」

 瑞蓮が琴羽の疲れた表情を見て、心配そうに眉を寄せた。

 「天蓮琴には一つ特性がございまして。演奏者を選ぶ……もっと正確に言えば、演奏者が音楽を心から楽しんでいるかを見極めるのです。緊張や不安で心が固くなっていると、まるで意地を張るように音を出すことを拒んでしまう」

 琴羽ははっとした。
 確かに、練習すればするほど焦りが募り、指に力が入りすぎていたかもしれない。
 音楽を楽しむどころか、ただ成功させなければという重圧に押し潰されそうになっていた。

 「もう一度、やってみます……」

 次こそ。琴羽が天蓮琴に手を伸ばそうとした時、瑞蓮がさっと止めた。

 「琴羽、少しお疲れのようにお見受けします」

 瑞蓮の声には深い愛情と心配が込められていた。

 「このまま無理を続けては、かえって天蓮琴との距離が開いてしまうかもしれません。ところで……琴羽は他の楽器の経験はおありですか?」

 意外な質問に少し驚く。しかしそれが、瑞蓮なりの配慮なのだとすぐにわかった。

 「実は、琴以外はあまり……子供の頃に少しだけ笛を習ったことはありますが。でも、父上が亡くなってからは……」
 「それでしたら、少し気分を変えて他の楽器に触れてみるのはいかがでしょうか? 天蓮琴から一度離れることで、心も軽くなるでしょうし、何より音楽そのものを楽しむ気持ちを思い出していただければと思うのです」

 確かに、このまま天蓮琴と格闘を続けていても、疲れてしまうだけかもしれない。
 まだ時間はある。焦らず、確実に進めていかなければ。
 瑞蓮の優しい提案に、固くなっていた心が少しずつほぐれていく。

 「まずは、心の準備を整えましょう。神器は奏者の心を映す鏡のようなもの。琴羽様の音楽への愛と理解がさらに深まれば、きっと天蓮琴もそれに応えてくれるはずです」
 「はい……お願いします」

 午後の稽古で、瑞蓮が用意してくれたのは見たこともない美しい楽器ばかり。
 琴羽は息を呑んだ。
 どの楽器も芸術品のように美しく、それぞれが独特の輝きを放っている。
 言うならば、ここは神の音楽室だろうか。

 こんな素晴らしい環境で音楽に触れられるなんて、夢のようだった。

 「上手に弾こうとしなくて構いません。ただ、音楽との対話を楽しんでいただければ」

 瑞蓮が微笑んだ。

 「では、まず笛から始めましょう」

 瑞蓮が手に取った笛は、琴羽が子供の頃に使っていた竹の笛とは比べものにならないほど綺麗な音がした。
 白い玉で作られているのか、真珠のような光沢があり、細やかな模様が全体に刻まれている。

 瑞蓮が軽く息を吹き込むと、天国の調べのような繊細な音色が響く。
 それは天使の歌声のように澄み切っていて、聞いているだけで心が洗われるようであった。

 「すごい……」
 「次は琵琶です」

 尺八、太鼓、そして見慣れない西洋の弦楽器まで……瑞蓮はどの楽器も完璧に、それも息をするように自然に演奏した。
 その様子は楽器たちが瑞蓮を慕い、その手に触れられることを喜んでいるようにすら見える。

 (楽器の方が瑞蓮様に語りかけているみたい)

 同時に、琴羽の胸には憧れが湧いていた。
 いつか自分も、楽器とそんな風に心を通わせることができたら、どんなに素晴らしいだろうか。

 「では、琴羽もやってみましょうか。そうですね……どうせなら、初めて触れるものがいいですね」

 瑞蓮が差し出したのは、西洋の弦楽器であった。木の胴体に六本の弦が張られている。

 「これはギターと呼ばれる弦楽器です。琴のように横に置くのではなく、胸に抱えるようにして弦を弾きます。琴とは奏法が異なりますが、きっと新しい発見があるはずです」

 琴羽が恐る恐るギターを受け取り、瑞蓮の指示通りに構えてみる。
 確かに琴とは持ち方が全く違う。
  慣れない姿勢に戸惑いながらも、琴羽は楽器の温かみのある手触りに少し心を和ませた。

 「力を抜いて、優しく弦に触れてみてください。急がなくて大丈夫です」

 瑞蓮の穏やかな声に励まされ、琴羽が慎重にギターの弦を弾こうとした時であった。
 プツンという鋭い音と共に、弦が勢いよく跳ね返った。

 「っ……!」

 琴羽は思わず声を上げた。
 切れた弦が指先を鋭く切り裂き、鮮やかな赤い血が滲み出てくる。

 「琴羽!」

 瑞蓮が慌てて琴羽のそばに駆け寄り、その手を取った。
  美しい指先から血が一滴、二滴と畳に落ちていく。

 「申し訳ございません、せっかくの大切な楽器を……」

 琴羽は痛みよりも申し訳なさで顔を歪めた。
 楽器を壊してしまった罪悪感で胸が苦しい。

 「いえ、楽器のことなど気になさらないでください。それよりも、弦の劣化に気付かなかった私の不注意です。琴羽に怪我をさせてしまって……」

 瑞蓮の声は自分を責めるように震えていた。
 琴羽の怪我を心配する気持ちが、その美しい顔に深い憂いとして刻まれている。

 そして琴羽の手を大切そうに両手で包み込むと、躊躇うことなく琴羽の傷ついた指を自分の唇に含んだ。

 「ず、瑞蓮様……!そのような恐れ多いことを……」

 琴羽は驚いて手を引こうとしたが、瑞蓮は優しくも確実に琴羽の手を押さえていた。

 「傷口から邪気が入ってはいけませんので。……少し、失礼をお許しください」

 瑞蓮の声は優しく囁くように響く。
 その温かい息が琴羽の指先に触れ、くすぐったさで身を捩る。

 「んっ……」

 恥じらいで指先の痛みなどすでに忘れていた。
 瑞蓮の柔らかな唇が琴羽の指に触れる感覚に、琴羽の心臓は激しく鼓動する。
 温かく、優しく。
 瑞蓮の舌先が傷口をそっと癒やす度に、琴羽の体に甘い痺れが走る。

 こんな気持ちになったのは初めてで、自分でも戸惑ってしまう。

 「まだ痛みますか? 力を抜いてください」

 瑞蓮が心配そうに顔を上げ、潤んだ瞳で琴羽の表情を見つめる。
 その瞬間、二人の距離はとても近く、お互いの吐息が混じり合うほどであった。

 琴羽は息を呑む。男性をこんなに近い距離で見るのは、生まれて初めて。
 瑞蓮の美しい翡翠色の瞳に自分が映っているのを見て、琴羽の胸が締め付けられるように苦しくなる。

 「い、いえ……もう痛くありません」

 琴羽の頬が桜色に染まり、言葉が途切れる。

 「そうですか。それなら安心いたしました」

 瑞蓮がゆっくりと琴羽の手を離す。
 まだ瑞蓮の唇の温もりが指先に残っている。

 その余韻に、琴羽の心は甘く切ない想いで満たされた。
 失われた温もりが恋しくて、思わずその指を握りしめそうになる。

 「もう大丈夫です。完全に治りましたから」
 「はい……ありがとうございます」

 確かに傷はしっかりと塞がっていた。
 これが神の力なのだろう。
 さっきまで血が滲んでいた指が、まるで何事もなかったかのように綺麗になっている。

 「このくらいの傷なら、神の力で触れずに瞬時に治すこともできたのですが……」

 瑞蓮が琴羽の耳元に近づき、囁くように続ける。
 その息づかいが耳たぶを撫でて、琴羽の背筋にぞくりとした感覚が走った。

 「琴羽があまりにも可愛らしいので。つい……意地悪をしたくなってしまいました」

 瑞蓮の瞳に悪戯っぽい光が宿る。
 琴羽の頬がさらに赤く染まり、もはや瑞蓮から目を逸らすことができない。

 ――その人の前では、いつも心が乱れてしまう。
 その人微笑む顔も、困った表情も。全てが愛おしくて仕方がない。

 恋とは、そういうものなのだろうか。