評議会から一週間が過ぎた頃。
 琴羽が庭の掃除に勤しんでいると、とある老人が訪ねてきた。

 「琴羽様、その後いかがお過ごしでございましょうか」

 老人は先日の音位査定で審査員を務めていたうちのひとりだという。
 琴羽は慌てて箒を置き、汚れた手を着物で拭う。
 まさか評議会の方がこのような所まで足を運んでくださるとは。

 「先日の査定は、誠に残念な結果となってしまいましたが……私個人といたしましては、琴羽様の琴の演奏に深く感動いたしました。あのような美しい音色は、長年この仕事をしていても滅多に聞けるものではございません」

 これほど演奏者冥利に尽きる言葉があるだろうか。
 自分の演奏をそう言ってくれる人がいるだけで、琴羽は十分すぎるほどの喜びを感じた。

 「この水音京で暮らすとなれば、無音の位では、確かにご苦労もおありかと存じます。しかし一部の音楽愛好家たちの間で、琴羽様は『声なき琴姫』として非常に高く評価されておりまして……。あの琴の技術は、評議会内でも大変話題になったのですよ」

 それでも気持ちは晴れない。
 もちろん褒めてもらえたことに対して嬉しい気持ちはあるが、話題になったところで、無音の評価が今更覆るとは思えなかった。

 「そこで、ぜひとも今年の『縁楽の舞』で、琴での奉納演奏をしていただきたく参りました」

 その言葉に、琴羽の目の色が変わる。
 『縁楽の舞』といえば、水音京で年に一度開催される音楽の祭典で、人間だけでなく様々な妖や異種族が集まる一大行事。
 多くの人々がそこで音楽にまつわる仕事の契約を結んだり、結婚相手を見つけたりする、水音京で最も重要な社交の場でもある。

 (私のような無音の者が……そのような大舞台に?)

 自分を指差して、首を傾げる。
 それだけで老人は意図を汲み取ってくれたようだ。

 「今年は九尾の狐・銀月様が訪れる予定なのですが、なんでも『音位に関わらず、我の心を震わせる真の音楽を奏でる者を求む』とおっしゃっておりまして。それと、銀月様が花嫁を探していらっしゃるという噂も……。ですから、今年の『縁楽の舞』は、いつにも増して多くの音楽家が参加を希望しているのです」

 (まさか、無音の私にこんな大きなチャンスが来るなんて)

 このチャンスを逃すわけにはいかない。
 老人が去った後、琴羽はより一層練習に打ち込むようになった。
 『縁楽の舞』という大舞台への出演が決まり、今度こそ自分の音楽を人々に届けたいという想いが燃え上がる。

 毎日、日が昇る前から日が沈むまで、琴羽は水路沿いで琴を弾き続けた。
 指先が血に染まることもあったが、演奏は決して止めなかった。

 麗華や志津が、どんなにたくさんのものを奪っていったとしても。
 音楽を好きな気持ちだけは誰にも奪えないはず。
 そんな想いを込めて、琴羽は一音一音に魂を込める。

 (お父様、見ていてください。私はまだ諦めておりません。声を失っても、音楽家として生きてまいります)

 湖の精霊たちも時折姿を現し、その切ない音色に静かに耳を傾けているのが見えた。

 琴羽のお気に入りの練習場所は、湖畔の近くにある古い小屋。
 昔は漁師が使っていたらしいその小屋は今では誰も使っておらず、琴羽にとって静かに練習できる貴重な場所になっていた。
 ここからは湖の全景が見渡せ、時には水軍の演習も眺めることができる。

  湖上では複数の軍船が隊列を組み、戦術訓練を行っていた。

 (蒼真も今日は演習に参加しているのね……)

 遠くの船上に小さく見えるのは、音楽隊の指導を担う蒼真の姿。
 船と船の間を蒼真を乗せた小舟が行き交い、号令の声が水面に響く。

 幼い頃はよく一緒に遊んでいた蒼真だが、彼が水軍に入って専属の調律師兼音楽指揮官になってからは、滅多に会えていない。
 それでも幼い日の思い出たちは、今でも琴羽の心を温めてくれる。

 (せめて私の琴の音が、あなたに届けばいいのに)

 琴羽は切ない想いを込めて弦を弾いた。
 その美しい音色は、湖面を渡って遠くまで響いていく。

 やがて空気が重くなり、ぽつりぽつりと雨粒が頬を濡らし始めた。

 見上げれば空は厚い雲に覆われ、遠くで雷鳴が低く唸っている。
 湖面は既に波立ち始め、軍船も小舟も不安定に揺れていた。

 (今日は嵐になりそう……そろそろ私も帰らなくちゃ)

 琴羽は蒼真の姿を目で追いながら、心配そうに琴から指を離した。

 その時、激しい風が吹き荒れ、湖面に大きな波が立った。
 高い波がうねりを作り、小舟はまるで木の葉のように上下に揺さぶられる。

 (危険だわ……大丈夫かしら)

 次の瞬間――大きな波が舟を襲った。

 「……そ……ま!」

 琴羽は叫ぼうとしたが、声にならない。
 いつも通り喉に鈍い痛みが走り、空気が震えるだけ。

 他の軍船からも慌てた声が聞こえてくるが、突風で湖面が荒れ、すでに蒼真の姿は見えない。

 琴羽はその場を駆け出し、迷わず湖に飛び込んだ――

 * * *

 琴羽が目を覚ましたのは、見知らぬ部屋であった。
 白い壁に薬草の香り。しばらくして、そこが診療所だと分かった。

 「……っ!」

 ヒリッとした喉の感覚に、思わず指を添える。
 体は重く、喉が火が通ったようにズキズキと痛む。

 (そうだ……蒼真が溺れて……私、湖に飛び込んで……)

 断片的に記憶が蘇ってくる。
 冷たい湖水の感触、意識を失いかけた蒼真を必死に岸まで引き上げたこと。
 そして――瀕死の蒼真に向かって、父の子守唄を歌ったこと。

 声を失ってから初めて、血の味と共に絞り出した歌声。

 (あの時、確かに蒼真の胸が動いて……息をしていた。助かった……の?)

 湖面が光って、精霊たちが現れたような気もするが、それが現実だったのか夢だったのかは定かではない。

 「お目覚めになりましたか。二日間は生死を彷徨い、その後五日間も、高熱でうなされていらしたのですよ」

 医師が心配そうに顔を覗かせる。

 「湖で倒れているところを、通りすがりの男性が発見されて……」

 琴羽は蒼真のことを尋ねようとしたが、やはり声が全く出ない。

 「声の件でございますが……以前から患っておられた喉の損傷が、今回の件でさらに悪化してしまったようです。しばらくは絶対安静が必要でしょう」

 医師は筆と紙を差し出してくれた。
 琴羽は震える手で文字を書く。
 普段は時間がかかるので筆談はしないが、今回は仕方がないだろう。

 『蒼真は……大丈夫でしょうか?』
 「蒼真様、ですか? 確か、数日前に病院を退院なさったと思いますが。どうなさいましたか?」
 『それが聞ければ十分でございます……ありがとうございます』

 琴羽は大きく安堵のため息をつく。

 蒼真が生きている。
 それだけで、救われた気持ちになった。

 その時、ガララと部屋の扉が開いた。入ってきたのは、機嫌の悪そうな顔をした志津。

 「もう意識が戻ったのなら十分でしょう。お金がもったいないから、さっさと家に帰りなさい」
 「しかし、まだ完全に回復しておりません。せめてあと数日は……」
 「必要ございません」

 キッパリと言い切ってから、志津はいつもの冷ややかな目で琴羽を見下ろす。

 「家で寝かせておけば治るでしょう。それに、今日は『縁楽の舞』の準備で忙しいのよ」

 その言葉を聞いて、琴羽は慌てて紙に書いた。
 『私の出場は!?』
 意識を失っていてすっかり時間感覚がわからなくなっていたが、今日はもう舞台の当日だったなんて。

 「なくなったさ。そんなこともわからないのかい」

 グサリと。志津の言葉が琴羽の心を抉る。

 「もう辞退の手続きは済んでいる。代わりに麗華が歌ってくれるんだから、感謝なさい」
 「そうですわよ。急遽出場なんて、迷惑も甚だしい」

 コツコツと靴音を響かせ、志津の後ろから現れたのは、勝ち誇ったような笑みを浮かべた麗華。
 その表情はセリフに合わず、出場への喜びーー否、琴羽の舞台の邪魔ができたことへの喜びで満ちている。

 「でも仕方ございませんわ。だって、お姉さまって本当に不吉なのですもの」
  
 そして麗華を追うように、すぐにもうひとつの靴音が近づいてくる。
 その人物を見て、琴羽は驚いた。そこには、腕に包帯を巻いた蒼真の姿があった。

 (蒼真!)

 大きな怪我はなさそうな様子に琴羽は安堵した。

 数年ぶりの再会。普通なら、もっと互いに喜ぶべき場面かもしれない。
 しかし、肝心の蒼真は琴羽と全く目を合わせようとしない。
 その表情はどこか困惑しているようでもあるが……何かあったのだろうか。

 「そもそも、あの船の転覆だって怪しいものでございますわ」

 麗華は蒼真の顔を見つめ、さも心配そうな表情を作る。

 「お姉さまが練習していた場所のすぐ近くで事故が起きるなんて、偶然にしては出来すぎていると思いませんこと?」

 嫌な予感がする。
 麗華が何を言いたいのか、琴羽は考えないようにしていた。

 「蒼真様、思い出してください。溺れている時、何か不気味な歌声が聞こえたとおっしゃっていたでしょう?」

 琴羽は青ざめた。まさか、その歌声というのは……。

 「確かに……何か聞こえたような気がするとは話したけれど。意識がもうろうとしていて……あれはてっきり夢だと……」
 「夢なんかじゃございません!」

 麗華は声を張り上げた。

 「お姉さまが呪いの歌を歌って、蒼真様を湖の底へ引きずり込もうとしていたに違いありません!」

 琴羽の心臓が凍りつく。

 「私がちょうど通りかからなければ、どうなっていたことか」

 琴羽は必死に筆を取り、震える手で真実を書こうとしたが、手が震えて文字にならない。
 呪いの歌などあり得ない。今すぐ否定しなければ。

 すると、手元の紙を麗華が大きく払いのけた。

 「きゃー、蒼真様!」

 麗華は演技たっぷりに蒼真にしがみつく。

 「怖いわ、お姉さまったら、そんな恐ろしい目で私を見て……また呪いをかけようとしているのかしら……」
 「琴羽、聞いたぞ」

 蒼真は即座に麗華を庇うように立ち、琴羽を鋭く睨んだ。

 「お前が麗華にどんな酷いことをしてきたか、全部な」

 (え? 何のこと……? 私は麗華に何も……)

 琴羽は何のことだかわからず、必死に首を振る。
 しかし蒼真の表情は怒りと失望で歪んでいた。

 「お前、変わっちまったんだな。清隆様が生きていた頃は、いい奴だと思っていたのに」

 覚えのないことで責められて、琴羽は困惑した。

 麗華に意地悪をされた回数は数知らず。
 しかし、自分が麗華に一体何をしたというのだろう。

 「麗華に聞いたんだ。お前が階段で麗華を突き飛ばそうとしたことも、大切な物を隠したことも。陰湿な嫌がらせの数々を全部、な」

 (そんなこと……一度もしてない。蒼真、どうして信じてくれないの?)

 琴羽は必死に首を振った。
 そんなことは、神に誓って一度もしていない。

 「まだ嘘をつくのか?」

 蒼真の声は怒りに震えていた。
 麗華は涙を流しながら蒼真の腕にすがりつく。

 「もうおやめください。お姉さまが何をしても、蒼真様がいてくださるから大丈夫です」

 琴羽は2人の距離感に違和感を覚えた。
 確かに、水瀬家に調律師として出入りしていた蒼真は麗華と面識はある。
 だが当時を振り返っても、この2人に特に深い接点はなかったはず。
 麗華は楽器を触ろうとしなかったし、蒼真は楽器にこそ興味があったのだから。

 そんな琴羽の心情を読み取ったかのように、麗華は勝ち誇った笑みを浮かべた。

 「そうそう、お姉様には正式な報告がまだでございましたわね。私たち、先日婚約が決まったんですのよ。母様が蒼真様のご両親とお話しして、とんとん拍子に」

 婚約者? 蒼真が……麗華と?
 あまりに唐突すぎて、眩暈がした。そんなことが、あり得るのだろうか。
 悪い夢を見ている気分だ。

 しかし、目の前の現実が2人の関係性を容赦なく突きつけてくる。
 
 「麗華は俺の命の恩人だ。婚約者として、もう琴羽には近づかせない」

 おそらく、麗華は蒼真に嘘をついている。
 意識を失う直前、湖の辺りで歌う姿を麗華に見られたのだろう。
 そして意識を失った後、蒼真だけを助け、病院に連れていった。

 それなら、最初の医師の反応にも納得がいく。

 (では私のことは、誰が病院に……?)

 思考を遮ったのは、麗華のわざとらしいため息だった。

 「蒼真様、もういいんです……お姉さまに恨まれるのは慣れておりますから。私たちの婚約が、さぞ気に入らないのでしょうね。幼い頃から、蒼真様に想いを寄せていらしたようですし」
 「お前がそんな陰湿で意地悪な奴だったとは……見損なったよ、琴羽」

 (蒼真、そんな目で私を見ないで……お願い……)

 琴羽は震える手で筆を取ろうとしたが、蒼真は冷たく制した。

 「二度と俺の婚約者に近づくな」
 
 琴羽は初めて知った。
 人が本気で他人を軽蔑する時に向ける、瞳の冷たさというものを。
 蒼真の瞳の奥に、もはや琴羽への愛情は微塵も残っていない。
 愛情どころか、期待も。尊敬も。信頼さえも。
 その現実が、琴羽の心を深く抉っていく。

 「さっ、お姉さまへの報告も終わったことですし。そろそろ私たちはお暇しましょうか」

 麗華は蒼真の背中に軽く手を当て、そそくさと彼を病室から追い出してから、満足そうな笑みを志津に向けた。
 蒼真がいると、不都合な話でもあるのだろうか。

 「そういえば」

 麗華からの無言の合図を受けた志津が、ニヤリと笑った。

 「お前に土産があってねえ。麗華がわざわざ拾ってきてくれたんだよ」

 志津の後ろに、何やら大きな箱らしきものが置かれているのが見えた。
 あまりの古さに病院の備品か何かと思い込み、特に気にも留めていなかったのだが――
 それは、よく見ると琴羽の愛用の琴であった。

 「蒼真様を助けたあの日」

 琴羽の手から筆が落ちた。まだ確定していない。
 どうかその先だけは、言わないで欲しい。

 しかし、そんな願いが麗華に届くわけもなく。

 「湖のそばの小屋の中で見つけたの。でも……あの雨にさらされて随分と痛んでしまって」
 
 その姿は見るも無残で、美しかった胴体は無数のひび割れで覆われ、一部は完全に砕け落ちている。
 弦は何本も切れ、傷だらけで音も正しく出ないだろう。
 どこもかしこも故意に破壊されたかのように、ボロボロに打ち砕かれている。

 (私の大切な琴が……)

 父との最後の絆である琴が、こんな姿になるなんて。
 だが、実際に壊れた琴を見たことのある琴羽にはすぐにわかった。

 これは放置されただけの損傷ではない。
 そもそも木材の割れ方が不自然で、まるで何かで叩き壊されたような跡すらある。
 この琴を"わざわざ"壊したのが誰か――考える必要すらないだろう。

 志津が琴羽の耳元に口を寄せる。

 「これで弾けるものなら弾いてごらん。無音のお前には、これがお似合いだろう」

 (お父様がくれた……あの美しい琴が……こんなに……)

 琴羽は震える手で破壊された愛琴の破片を拾い上げた。
 父が七歳の誕生日に贈ってくれた、象牙の装飾が美しかった琴が。
 一緒に音楽を奏でた、かけがえのない思い出の楽器が。
 いよいよ、琴羽の心は完全に砕け散った。

 「……っ! あ、あ……あ」

 声にならない嗚咽が喉の奥から溢れ出し、涙が止めどなく流れ落ちる。
 まともに泣くことすらもできない自分が惨めで、琴羽はまた涙を流した。

 その日の午後、街には『縁楽の舞』の演目変更を知らせる触れが回った。

 「琴羽様の体調不良により、麗華様が代わりに歌唱をご披露いたします」

 街の人々からは様々な声が聞こえてくる。

 「残念ですな、琴羽様の琴を楽しみにしていたのに」
 「まあ、あの方は呪術を使うという噂もありますし……」
 「不吉な女だという話も……麗華様の方が安心ですな」

 麗華の流した噂は、あっという間に街中に広がっていた。

 ***

 その夜、琴羽は一人で家を抜け出した。
 行く当てなどもちろんない。それでも家で一人でいるよりは外の方が幾分かはましだった。

 「縁楽の舞」の開催に街はどこも浮き足立っていて、色とりどりの提灯が風に揺れていた。

 笑い声と音楽が夜空に響き、人々は華やかな衣装に身を包んで楽しそうに歩いている。
 屋台の香ばしい匂いが漂い、子供たちのはしゃぎ声があちこちから聞こえてくる。
 自分だけが別世界にいるかのように、祭りの明るさが余計に琴羽の孤独を際立たせていた。

 遠くの特設舞台からは、響玉から流れる麗華の美しい偽りの歌声と観客の盛大な喝采が響いてきた。

 「素晴らしい!」
 「さすが水無瀬家の歌姫!」
 「神音の位も夢ではございませんな!」

 賑やかで幸せに満ちた街の様子とは対照的に、琴羽の心は深い絶望に沈んでいた。

 (すべてを失った……お父様がくださった琴も、蒼真の信頼も……私だけが取り残されて……)

 人々の楽しそうな声を背に、琴羽は街の光から離れ、暗い湖畔へと向かった。
 古い桟橋に座り、粗悪な琴を手に取る。
 弦は半分しかまともに張られておらず、音程もめちゃくちゃ。

 皮肉にも志津の言う通り。
 その傷ついた姿は、まるで今の琴羽自身のようだ。

 月夜が照らす静かな湖のほとり。
 琴羽は、父から教わった子守唄を歌い始めた。

 「みず……の……そこで……ねむる……たま……しいよ……」

 ――ただ、誰かに音楽を届けたかった。

 震える指先が琴の弦を辿る。歌声は途切れがちで、時に血の味も混じる。
 琴の音も酷いものだが、もうそんなことはどうでも良い。
 美しくなくても、完璧でなくても。

 「ひかり……の……みちを……たど……り……いのち……の……いと……を……」

 ――向けてもらった期待に応えたかった。

 誰かの役に立ちたかった。
 必要とされたかった。
 いや、それよりも。

 「このよに……」

 ――たった一人でいい。

 誰かに、愛して欲しかった。
 ただ、そこにいることを認めて欲しかった。

 琴羽の歌声は掠れ、血の味が喉の奥に広がる。
 涙が頬を伝い落ちる。それでも構わず、歌い続けた。
 
 (……生きる意味とは、なんなのだろう。早く楽になりたい。もうこのまま生きていても……)

 その時、湖面に大きな蓮の花がゆっくりと開いた。
 花弁は月光を受けて銀色に輝き、その光の中から一つの人影が現れる。
 水面を歩むように、音もなく岸に近づいてくる美しい人物。
 
 「美しいお声ですね」

 突然自分にかけられた声に、琴羽は驚いて息を呑む。
 上品な白い装束に身を包み。月光に揺れる長い銀髪と、中性的で美しい顔立ち。

 一見女性にも見えるが、百八十は超えているであろう身長を鑑みるに男性だろうか。
 その人物は絵画から抜け出してきたような、この世のものとは思えない美しさであった。

 「ですが、その歌声には呪いの鎖が巻きついている……誰がこのような卑劣なことを」

 琴羽は驚いて声を出そうとしたが、やはりかすれた音しか出ない。
 美しい人物は琴羽の顔をそっと両手で包み込んだ。
 翡翠色の瞳が月光の下で神秘的に輝き、琴羽の魂を見透かすように見つめている。

 「少しばかり、失礼をお許しいただけますでしょうか」

 男の顔がゆっくりと近づいてくる。

 そのあまりの美しさにぼんやりとしたまま、琴羽は瞳を閉じた。
 そして——静かに唇が重ねられる。

 琴羽はただ、その口付けを受け入れることしかできなかった。

 瞬間、世界が光に包まれた。
 琴羽の喉に温かな力が流れ込み、固く閉ざされていた何かが、氷が溶けるように少しずつ緩んでいく。

 一方、男の方も自身にある変化を感じていた。
 琴羽の記憶が、その美しい男――瑞蓮の脳内に走馬灯のように流れ込んでいったのだ。

 声封じの香で声を失った絶望。
 麗華に髪を無残に切られて流した涙。
 冷たい物置部屋で震えながら過ごした夜々。

 そしてすべてを奪われてもなお、大好きな音楽を続けようとした査定の帰り道。

 (こんなにも辛い思いをしてきたなんて……可哀想に……)

 胸が痛んだ。と同時に、そのすべての苦しみを乗り越えて今ここにいる少女への愛おしさが、心の奥底から溢れ出てくる。

 時が止まったような、永遠とも思える一瞬であった。

 「あ……あ……」

 喉にこれまでにないわずかな違和感を抱き、琴羽は恐る恐る声を出してみた。
 まだ完全とは言えないが、確かに音程が取れる。

 「声が……!」

 涙が溢れ出す。
 あの絶望の淵から、どれほどこの日を望んだことであろう。

 「今宵お分けしましたのは、ほんの僅かな力」

 男は慈愛に満ちた微笑みを浮かべる。

 「されど、そのお声は必ずや神にまで届くものに育ちましょう――もし、あなた様がそれをお望みでございましたら」

 また、歌える。
 琴羽にとって、それは生きる希望そのものであった。

 「今日は月が美しい。もしよければ、一曲この私めに聞かせてはくれないでしょうか」

 (この人は、一体……)
 
 だが今は、この男の正体よりも、声が戻った喜びの方が大きかった。
 琴羽は男に一礼すると、その場で立ち上がり、粗悪な琴を手に取る。
 そして大きく息を吸い込み、父から教わった子守唄を再び歌い始めた。

 「水の底で眠る魂よ 光の道を辿り 命の糸を手繰り寄せて この世に戻りなさい」

 すると、湖の奥から小さな光がひとつ、ふたつと現れ始める。
 水の精霊が琴羽の歌声に引き寄せられ、久しぶりに姿を現したのである。

 琴羽の美しい歌声は、静寂な湖面を伝って街にまで響き渡っていった。

 ***

 その頃、特設舞台を少し離れた街の高台から見下ろしていた銀月は、麗華の歌に耳を傾けていた。

 確かに美しい歌声である。
 技巧も申し分なく、観客たちも魅了されている様子。
 しかし世界のあらゆる音楽を聴き尽くした銀月にとって、その乾いた音色はどこか物足りない。

 舞台上では麗華が、得意満面で観客に笑顔を向けている。
 袖に隠した響玉から流れる歌声に完璧に唇を合わせ、観客席を見渡しながら自分の「美しい歌声」に酔いしれる。
 もちろん、響玉のことを知っているのは志津だけだ。

 (あの女の泣き顔、本当に気持ちよかったわ! 蒼真もすっかり私のものになったけれど、銀月に気に入られれば乗り換えてもいいわね。九尾の狐の妃になれば、一生安泰ですもの)

 麗華は勝利感に浸っていた。すべてが計画通りに進んでいる。

 その時であった。
 湖の方角から、別の歌声が風に乗って聞こえてきた。
 最初はかすかで、麗華の歌声にかき消されそうなほど小さかった歌声。
 しかし、その美しい旋律を銀月が聞き逃すわけがなかった。

 「あの歌声は……?」

 湖からの歌声は次第に大きさを増していく。
 そして、会場付近の湖面にも小さな精霊の光がいくつも浮かび上がり始めた。

 「なんと……」

 銀月は息を呑んだ。
 千年以上生きてきた彼が、これほど心を奪われる歌声を聞いたのは初めてであった。
 徐々に大きくなる歌声に、観客たちもざわつき始める。

 「湖の方から別の歌が……」
 「なんと美しい……」

 人々の視線が次第に舞台から湖の方角へと向かっていく。
 麗華は異変に気づき、必死に響玉の音量を上げようとしたが、琴羽の歌声の美しさには到底敵うはずもなく。
 舞台袖で見ていた志津も、苛立ちを隠せずにいた。

 「まさか、あの青ネズミ! どうやって……」

 銀月はもはや麗華の歌に興味を失っていた。
 狐火を従えながら、声に導かれるようにフラフラと高台を降りて歩き出す。

 「これこそ我が求めていた真の音楽……この美しい声の主はどこに」

 ***

 一方、湖畔では、琴羽と男が対峙していた。

 「失礼ながら、お嬢様。お名前をお聞かせ願えますでしょうか?」
 「琴羽……水無瀬琴羽と申します」

 この男が何者なのかはわからない。
 しかし、その気品ある佇まいから、高貴な血筋の人であることは疑いなかった。
 今日は九尾の銀月が聴きにきていると聞くし、狐の一族の方かもしれない。

 「琴羽……なんと美しいお名前でしょう。私は瑞蓮と申します」

 瑞蓮は慈愛に満ちた微笑みを浮かべる。

 「あなたはもう一人で羽ばたく必要はないのです。もしよろしければ、私があなたの翼となりましょう」

 琴羽がその手を取った瞬間、瑞蓮は優雅にお姫様抱っこの体勢で彼女を抱き上げた。

 「あなたをある場所までお連れします。少しばかり、失礼をお許しください」

 その声は、頬を撫でる夜風のように優しい。
 二人はまるで星に導かれるように、そっと宙に舞い上がる。

 街の明かりが宝石のように足元に煌めき、「縁楽の舞」の賑わいが遥か眼下で踊る。
 自分が暮らしていた街が、こんなにも美しかったなんて。
 琴羽の青い髪が夜風に揺れ、瑞蓮の銀髪と絡み合うように舞った。

 (どこへ行くんだろう)
 
 しかし、眼下に広がる美しい景色を見ながら、温かな腕の中で琴羽は思い直した。

 ――行き先など、どこでも構わない。
 心配してくれる家族など、自分にはいないのだから。

 なら、いっそこのまま、どこまでも。
 琴羽は瑞蓮の腕の中で、生まれて初めて心からの安らぎを感じていた。
 風に身を委ね、すべてを手放して――これが自由というものなのだろうか。

 やがて二人は、混乱の渦中にある特設舞台の上空に到着した。
 麗華は観客たちの視線が湖の方へ向いてしまったことに焦り、志津と共に何とか状況を立て直そうと必死になっていた。
 瑞蓮は琴羽を抱いたまま、ゆっくりと舞台上に降り立つ。
 突然現れた二人に、観客たちは驚きの声を上げる。

 「あの青い髪の女性は……」
 「琴羽様ではないか? 辞退されたと聞いたぞ」
 「なぜここに……」

 麗華と志津は琴羽の姿を認めると、怒りに震えた。

 「な、何よあれ……! あの女、なんでここに!」
 「まだ諦めていなかったのか! どこから湧いて出てきやがった! 邪魔しやがって!」

 琴羽の体が恐怖に震える。
 何をされるかわからない。きっと家に戻れば、またあの地獄が――

 瑞蓮は琴羽をそっと足元に降ろすと、静かに扇を取り出し、氷のような冷たい笑みを浮かべる。

 「さて……醜い偽りを暴かせていただきましょうか」

 まるで別人のように。
 その声は先ほどまでの慈愛に満ちた優しさとは正反対で、凍てつくような冷たさを帯びていた。
 
 ゆっくりと扇で空中を一撫ですると、麗華の袖から小さな玉が勢いよく飛び出し、宙に浮かぶ。
 麗華は血相を変えて宙の玉に手を伸ばすが、玉は意志を持つかのように瑞蓮の前まで飛んでいく。

 「か……返して!」

 瑞蓮は優雅にその玉を手に取り、観客に見せつける。

 「皆様、これは響玉と申します。他人の声を封じ込め、まるで自分が歌っているかのように装うことができる道具でございます」

 観客たちはざわめいた。

 「響玉? そのようなものが……」
 「まさか麗華様が……」

 周囲がざわめく中、瑞蓮は優雅に扇を閉じると、その響玉を軽やかに叩く。
 舞台上の水鏡に、一人の女性の姿が浮かび上がった。
 涙を流しながら自分の声を響玉に封じ込める、痛ましい姿。

 借金に追われ、泣く泣く自分の美しい歌声を売り払った――本来の持ち主の記憶であった。
 静寂が会場を包む。

 最後に、パリンという澄んだ音と共に玉が砕け散り、中から溢れ出したのは女性の悲しげな歌声。

 「今お聞きになったのが、響玉に封じられていた本来の持ち主の声でございます。麗華様の歌声と、そっくりではございませんか?」

 水鏡は次に、麗華がその響玉から流れる音に合わせて口を動かしているだけの姿を映し出した。

 (何よこいつ……どこまで知ってるっていうの!)

 麗華の顔が青ざめる。
 さらに、闇市で響玉を購入する麗華と志津の姿まで克明に映し出される。

 観客たちは衝撃を受けた。

 「つまり麗華様は……」
 「歌ってすらいなかったのか……?」

 ざわめきが会場全体を包み込む。
 麗華は必死に平静を装おうとするが、その手は小刻みに震えていた。

 「さあ、麗華様。今度はご自分の本当のお声で歌っていただけませんでしょうか? 皆様もきっと、あなた様の真の実力をお聞きになりたがっていらっしゃいます」

 瑞蓮の笑顔に、麗華は青ざめた。
 響玉なしでは、自分には何の才能もないことがばれてしまう。

 「……その……急に声の調子が……」
 「あら、先ほどまであれほど楽しそうにお歌いになっていたではありませんか。どうぞ、遠慮なさらずに。それとも……ご自分のお声では歌えないのでしょうか?」

 瑞蓮の言葉は丁寧であったが、その挑発は明らかであった。
 追い詰められた麗華は、琴羽を指差して叫ぶ。

 「きっとあいつが呪術を使って、私を陥れようとしているのよ! あの女こそ化け物なの!」
 「わ、私はそのようなことしておりません」
 「無音が悔しいからでしょう?! 高音の私に嫉妬して……」

 『無音』という言葉が響いた瞬間、琴羽に向けられた観客の視線が一斉に変わる。
 軽蔑と嫌悪の色を帯びた、あの忌まわしい視線。

 蒼真に冷たい目を向けられたあの日と、まったく同じ目だ。

 私はやっていない。なのに、なのに――
 どうして誰も信じてくれないの? また一人ぼっちになってしまうの?

 (お願い、誰でもいいから信じて……もう、もう耐えられない)

 琴羽の心臓が激しく鳴り、冷や汗が背中を伝い落ちる。
 視界の端がぼやけ始め、立っているのもやっとだった。

 包囲されているような恐怖に、息をするのも苦しくなっていく。

 「琴羽に押し付けるなど……醜悪にも程がございますね」

 震える琴羽を見て、瑞蓮の表情が一変する。
 先ほどまでの優雅な微笑みは消え、氷のような冷たさが瞳に宿った。

 「他人の才能を盗み、神聖な祭りの場を貶め、それでもまだ責任を逃れようとするなど言語道断」
 「何よ……私は水無瀬の正当な跡継ぎなのよ!」
 「正当な跡継ぎ?」

 瑞蓮は冷ややかに笑う。

 「盗んだ声で偽りの栄光に酔いしれる方が正当とは……実に滑稽ですね。さあ、琴羽に詫びを入れなさい」
 「は? なんで私が……」
 「今すぐに」

 瑞蓮の声は有無を言わせぬ威圧感を帯びていた。

 「あなたが琴羽にしてきた数々の仕打ちを、この場にいる皆様の前で懺悔なさい。さもなくば……」

 瑞蓮の扇が妖しく光ると、舞台全体に重圧のような殺気が漂う。

 「水無瀬の名を汚し、音楽そのものを冒涜した大罪人として、その穢れに満ちた舌を根元から引きちぎって差し上げましょう。そうすれば、二度と嘘をつくことも、盗んだ声で歌うこともできなくなりますからね」

 麗華は瑞蓮の恐ろしい宣告に、恐怖で顔面蒼白になる。
 舌を根元から引きちぎられるなんて……想像しただけで気が狂いそうだった。

 「琴羽に対して、あなたはそれ以上の地獄を味わわせたのです。生きながらにして、永遠に沈黙の闇を彷徨っていただきましょう」

 麗華は震え声で口籠る。

 「な……なんで私が……」
 「聞こえませんね」

 瑞蓮は氷のような残酷な笑みを浮かべながら言った。

 「もしかして、恐怖でもう舌の感覚が麻痺してしまいましたか? では、私が。謝罪のお手伝いして差し上げましょうか」

 瑞蓮が扇を持ち上げると、麗華は恐怖で声を振り絞った。

 「わ……私が悪かったわ!! 姉さまを苛めて、響玉で嘘をついて。すべて私が悪かったから!!!」

 観客たちは麗華の告白に息を呑んだ。
 次に瑞蓮は、くるりと志津の方に向き直る。

 「あなたもです。愚かな娘と共に、この神聖な舞台を汚した罪……どのような償いをお望みですか? 舌を封じるのは娘と同じでは芸がありませんね。何か他の方法で報いを受けていただきましょうか」
 
 志津は恐怖で震え上がりながら、慌てて頭を地面に叩きつけるように下げる。

 「す、すみませんでした! 琴羽様、本当に申し訳ございませんでした! 私が悪うございました! どうか、どうかお許しを!」

 二人からの謝罪を受け、琴羽は困惑していた。
 今まで自分を苦しめ続けてきた二人が、こうして頭を下げる日が来るなんて――夢にも思わなかった。

 長い間、ただひたすら耐え続けてきた日々。
 声を失い、髪を切られ、冷たい視線に晒され続けた月日。
 それがすべて、今この瞬間に報われたような気がする。

 しかし、これ以上の争いは琴羽の心を痛めるだけだった。

 「瑞蓮様……もう、もう十分です」

 観客たちの糾弾の声が響く中、瑞蓮は琴羽の言葉を聞いて表情を和らげる。

 「琴羽の慈悲に感謝なさい。二度とこのような愚行を働かぬよう、心に刻んでおくことですね。ただし、偽りと卑劣な行いで塗り固められた汚物に、この神聖な舞台を踏む資格はございません。這いずって去りなさい」

 志津と麗華は慌てて舞台から逃げ出していった。
 その背中には「水音京の恥さらし!」「許せない!どこまで卑劣なの!」と観客たちからの罵声が浴びせられ、もはや会場に二人の居場所はなかった。

 舞台に静寂が戻ると、瑞蓮は琴羽の方を振り返った。
 先ほどまでの冷ややかな表情は消え、再び優しい微笑みが戻っている。

 「琴羽様、少々手荒な方法で申し訳ございませんでした」

 瑞蓮は優雅に頭を下げた。

 「偽りを暴くためとはいえ、あのような恐ろしい姿をお見せしてしまって……」

 琴羽は静かに首を振る。
 あれほど冷酷な一面を見せたにも関わらず、目の前の瑞蓮は、不思議と怖くはない。
 むしろ、生まれて初めて本当に自分を守ってくれる人が現れたのだと、心の奥深くで実感していた。

 「ありがとう、ございます……」
 
 言葉が続かない。
 胸の奥が熱くなり、涙がこぼれそうになる。

 長い間、誰からも守られることなく、一人で耐え続けてきた琴羽にとって、その感覚は新鮮で。
 そして何よりも温かかった。

 「礼には及びません。これでようやく舞台が整いました」

 瑞蓮は琴羽に向かって手を差し出す。

 「どうぞ。この舞台は、あなた様のものです」

 観客たちも次第にざわめきを収め、琴羽に注目し始めた。

 「琴羽様、歌を聞かせてください!」
 「お願いします、琴羽様!」

 長い間、誰からも求められることのなかった自分の歌を。
 多くの人が聞きたがってくれている。

 どれほど夢見たことか。どれほど憧れたことか。
 琴羽は深く息を吸い込み、歌い始める。
 その歌声が舞台に響き渡ると、観客たちは息を呑んだ。

 (歌える……私、歌えている……みんなが聞いてくれている)

 湖から再び精霊たちが現れ始め、舞台を幻想的な光で包んでいく。
 妖たちが座る観客席からも、感嘆の声が漏れた。

 歌が終わると、しばらく静寂が続く。
 そして観客席から沸き起こったのは、割れんばかりの盛大な拍手だった。

 ――急がねば。誰かが彼女に声をかける前に。
 歓声と指笛が鳴り止まぬ中、ようやく舞台にたどり着いた銀月は慌てて階段を駆け上がった。
 銀月は乱れる息のまま深く首を垂れ、琴羽の前に膝をついた。

 「あなたこそ真の歌姫だ。どうか私の妃になってくれまいか。九尾の狐の妻として、永遠の幸福を約束しよう」

 まさか無音の自分が。あの高貴な銀月様に。
 目の前で起こっている現実を理解するのに、時間がかかった。

 するとその時、瑞蓮が優雅に扇を開いて前に出る。

 「恐れ入りますが、私が先にお声をかけさせていただいております」

 瑞蓮の扇を見た銀月は、一瞬でギョッとした表情になった。
 その扇に描かれた紋様を見て、顔色が青ざめる。

 銀月の体が小刻みに震え始めた。
 それは、妖の中では位の高い九尾の狐ですら、決して逆らえぬ存在の印。

 「ま、まさか……この紋様は……七福神の!!」

 そして即座に平伏した。

 「弁財天様……! あなた様のお相手に横恋慕など、とんでもない無礼を働いてしまいました! この無知な狐め、死んでお詫びいたします! どうか、どうか一族の命だけはお許しください!」

 銀月は額を地面に押し付けるように深々と頭を下げ、全身を震わせていた。
 瑞蓮は優雅に微笑みながら、扇をそっと閉じる。

 「よいのです、銀月。琴羽の歌に心を奪われるのは、当然のことですから。優れた感性を持つ者ほど、彼女の魅力を感じ取ってしまうものです」

 瑞蓮の穏やかな声に、銀月はほっと息をついたが、それでも頭を上げることはできなかった。

 「申し訳ございませんでした!!」
 「お顔をお上げください」

 瑞蓮は優雅に笑う。
 その瞬間、観客席が大きくざわめいた。

 「弁財天? 今、弁財天と言ったのか?」
 「音楽の神様が水音京に? ありがたや……ありがたや……」

 街の人々は次々と膝をつき始めた。
 中には涙を流しながら手を合わせる者もいる。
 瑞蓮は優雅に微笑みながら、琴羽に向かって丁寧に一礼した。

 「申し遅れました。神というものは時代や地域によって様々な名で呼ばれるもので……私は、世間では弁財天と呼ばれることもございます。ですが仰々しい呼び名は苦手でして。琴羽には、ぜひ瑞蓮とお呼びいただければ」

 琴羽は驚愕した。

 (弁財天って七福神の!? この方は、神様だったの!?)

 目の前にいる男は、音楽を司る七福神の一柱・弁財天だったのである。