弁財天の花嫁



 ――時は四年前に遡る。琴羽はまだ十二歳だった。

 音楽で人の格を決する都市「水音京」は、七つの湖に囲まれた美しい都。

 この街では音楽の才能を"音位"として格付けし、その高低が家の名誉や将来を左右する。
 水音京において、音位は社会的地位そのもの。
 最高位の「神音」は神に等しい存在として崇められ、「霊音」の位を持つ者は貴族と同等の扱いを受ける。
 「雅音」「高音」なら音楽教師として安定した生活が約束され、「中音」でも一般的な暮らしは保障された。

 しかし「低音」「凡音」となると話は変わる。
 まともな結婚相手も見つからず、商売でも相手にされない。

 そして最下位の「無音」――音感がないか発声不能とされる者たちは、社会の底辺で生きていくしかなかった。

 水無瀬家は代々続く音楽の名門で、十二歳の琴羽は父・清隆と共に霊音の位にあった。
 霊音とは精霊を呼び寄せる歌声を持つ者で、各世代に数人しか現れない貴重な存在である。

 つまるところ――琴羽には音楽の才があった。

 「さすがは水無瀬の娘」

 人々はしきりにそう口にする。

 しかし、琴羽はわかっていた。
 音楽の才とは、天から与えられるものではなく、自身のたゆまぬ努力によって培わるものであることを。

 だから毎日、朝から晩まで。誰よりも練習を続けた。
 特に幼い頃から、琴羽が愛していたのは歌だ。

 「素晴らしいぞ、琴羽。前回よりもまた一段と上手になったな。毎日の練習の賜物であろう」
 「はい!昨日も朝から晩まで練習いたしました。特に高音の部分を何度も……」
 「そうかそうか。努力が歌声に表れているな」

 父の優しい声に、琴羽は目を輝かせて応える。
 生まれてすぐに母親を病気で亡くしたが、琴羽には愛しい父がいた。
 
 琴羽にとっての日々の幸せといえば、父の琴に合わせて歌う時間。
 その澄んだ歌声は、水音京の人々や訪れる異種族たちをも魅了した。

 この黒髪が多い水音京にあって、琴羽は湖面を映したような美しい青い髪を持つ。
 その歌声には小さな水の精霊や風の妖が引き寄せられ、青い髪の周りをキラキラと舞い踊ることもしばしば。

 「あの子の歌声は天使のようですな」
 「さすがは音楽家の家系。水音京一の美声と言っても過言ではございません」
 「あの青い髪、羨ましいですわぁ」

 街の商人たちは琴羽の歌声を聞くために水無瀬家を訪れ、遠方から来た旅人たちも噂を聞いて足を止めていく。

 「琴羽、お前もうすぐ誕生日だろう? 贈り物を用意したんだ」

 ある日の稽古の終わり、父は立ち上がって奥の部屋へ向かった。

 父が七歳の祝いに贈ってくれたのは、象牙で装飾された美しい琴。

 「わあぁ……! とても美しい琴……! でも、こんな立派なものを私がいただいても?」
 「遠慮はいらない。お前の才能にこそふさわしい楽器だ。大切にしなさい」

 琴羽はあまりの喜びに、もらったばかりのそれをギュッと抱きしめた。

 「はい! この琴と共に、もっともっと歌も上手になってみせます」

 小さな手にも琴は馴染み、主人の意のままに音楽を紡いだ。
 その音に引かれて、窓辺に小さな水の精霊がひょっこりと顔を出し、楽しそうに手を叩く。

 愛する父以外に、琴羽の生活を支えてくれていたのが、調律師の息子である蒼真だ。
 蒼真は琴羽より一歳年上で、父親の仕事に同行して幼い頃から水無瀬家を訪れていた。

 「蒼真、今日もありがとう。お前のおかげで楽器の調子が良い」

 父は蒼真の調律技術を高く評価し、まるで自分の息子のように可愛がっていた。

 「俺、ここに来るの好きなんで。琴羽と清隆様の音楽を聞けるだけで、十分です」
 「蒼真! 今日も来ていたのね!」

 駆け寄ってくる琴羽を見て、蒼真も嬉しそうに笑みを浮かべる。
 琴羽にとって蒼真は、音楽を通じて心を通わせる大切な幼馴染だった。

 「蒼真、この琴も見てもらえる?」
 「うーん。この弦、ちょっと緩んでるな。最近雨が多いし、湿気のせいかもな」

 琴羽が父からもらった愛用の琴を差し出すと、蒼真は慎重に弦を確認する。

 「これで完璧だ。琴羽、ちょっと弾いてみてくれ」

 恐る恐る、差し出された琴を再び触る。
 調律された琴の音色は、これまでより一層美しく響いた。

 「すごい……すごいわ蒼真! 調律って、きちんとするとこんなに音が変わるのね」
 「お、俺がすごいんじゃなくて。この琴がいいんだよ。さすが霊音、清隆様の目利きは一流だ」

 そう言って、蒼真は照れくさそうに頭を掻くと、後ろに立てかけた自身の三味線を手にとる。

 「せっかくだし、何か一緒に合わせてみねぇか?」

 琴羽の美しい歌声と琴。
 そして蒼真の三味線が調和して、部屋を優しい音楽が満たしていく。

 「琴羽、歌また上手くなったんじゃねーの?」
 「ふふっ、ありがとう。蒼真の三味線も上手よ。とても優しい音がするもの」

 琴羽の素直な賞賛に、蒼真は嬉しそうに照れた。
 そんな二人の様子を見ていた父が、茶目っ気たっぷりに口を挟む。

 「お前ら本当に仲がいいな。いっそ蒼真が、うちに婿に来てくれればいいのに」

 父のからかうような口調に、蒼真の顔がみるみる赤くなる。

 「き、清隆様! 俺たちはそんなんじゃ……」
 「蒼真。お父様のいつもの冗談よ。そんなに顔を真っ赤にしなくても」

 琴羽がくすくすと笑うと、蒼真はさらに慌てふためいた。

 「俺は、その……まだ子供だし……」
 「はいはい、分かっている」

 言って、父は満足そうに笑いながら琴羽に向き直ると、いつもの優しい表情を向けた。

 「琴羽、いずれお前は神音の位に至るだろう。そうなれば、時に辛いこともあるはずだ。だがお前には、蒼真がいる。二人とも、水無瀬の誇りだ」

 才能に向けられるのは賞賛だけではない。
 僻みや嫉妬。醜い感情を向けられるのもまた、才のある者ゆえの苦労だと、父は知っていた。
 くしゃっと頭を撫でられた蒼真は照れながらも、真剣な表情で答える。

 「清隆様。琴羽のことは……俺が守ります」
 「えーそんなの気にしなくていいのに。神音になったら、私が蒼真の欲しいものなんでもあげる!」
 「んなっ……そこは『お願いします』っていうところだろ!」
 
 真っ赤になった蒼真がプイッと顔を背ける。
 何かおかしなことを言っただろうか。

 神音になれば、大概の願いは叶う。
 街に少ししか入らない、高価で珍しい楽器にもたくさん触れることができるだろう。
 そうしたら蒼真が欲しい楽器を手に入れて、ずっと2人で合奏ができるのに。

 こうして、琴羽の音楽の才能は日々磨かれていった。

 しかし運命は、彼女にあまりにも過酷な試練を用意していたのだった。

 琴羽が十歳の時、父が原因不明の病に倒れたのである。
 医師や琴羽の懸命な看病も空しく、父はみるみる弱っていく。
 ある夜、父の弱々しい声が琴羽を呼んだ。

 「琴羽……最後に……あの唄を……聞かせてくれないか……」

 琴羽は涙をこらえながら、父の手を握って歌い始めた。

 「水の底で 眠る魂よ 光の道を 辿りなさい……」

 昔、父が琴羽に歌って聞かせてくれた子守唄。
「琴羽が眠るまで歌ってあげよう」と言って、温かな声で何度も繰り返してくれた大切な思い出の歌だった。

 (夜中に怖い夢を見て泣いた時、お父様は必ずこの歌を歌いながら、背中をさすってくれた)

 病床の父は、残りのわずかな力で琴羽の手を握り、弱々しくも慈愛に満ちた瞳で最後までその歌に耳を傾けていた。

 「美しい……歌声だ……」

 それが、父の最期の言葉だった。
 
 そして父の死後、琴羽の生活は一変する。
 家の主導権が後妻である義母・志津の手に渡ったからだ。
 
 実は父は、病気が重くなり死期を悟ったとき、琴羽が天涯孤独とならないよう、将来を案じて再婚していた。
 家長である父が生きている間は、取り繕っていたのだろう。
 二人は、葬儀が終わると同時に化けの皮が剥がれ、恐ろしい本性を現したのである。
 
 志津には実娘がいた。

 琴羽より二歳年下の麗華は、その名の通り麗しい容姿に恵まれていたが、練習を嫌がり、音楽を嗜む様子は見たことがない。
 志津自身も音楽への関心は薄いようだったが、過去には麗華と共に舞台に立った経験があるらしく、街の人々に他国でのコンサートの話を自慢気に語ることがあった。もちろん、その真偽は定かではないが。
 
 父が志津と再婚した当初、母娘は琴羽にとても優しく接してくれていた。

 「これからよろしくお願いいたします。お姉さまのお歌、本当に素晴らしいですわ。私も頑張らなくては」
 「琴羽は本当に才能に恵まれているのねぇ。麗華も見習いなさい」

 父は病床で、琴羽に向かってこんな言葉をかけたこともある。

 「琴羽が一人になってしまっても、家族がいれば心強いであろう。私の願いは、家族が末長く幸せに暮らすことだけだ」

 しかしその願いは叶えられることなく、父の葬儀が終わったその日から、琴羽の地獄の日々が始まったのである。

 ***

 「グズグズするんじゃないよ!! お前はさっさと物置きに移れ! これからは麗華が跡取りだ、青ネズミはさっさと出でおいき」

 琴羽は初め、耳を疑った。
 自分を「青ネズミ」と罵る目の前の女が、あの志津だとはとても思えなかったからである。
 それは、麗華とて同じ。
 朝起きてから夜眠るまで、琴羽は水瀬家の中で、使用人以下の扱いを受けるようになった。

 食事は冷めた残り物、着るものは継ぎはぎだらけの古着。
 父の部屋から追い出され、物置同然の薄暗い部屋に押し込められた。

 志津と麗華の狙いは明らかだった。
 水無瀬家の地位と財産を、すべて実の娘である麗華のものにするつもりなのだ。
 もちろん、国外での演奏経験の話も嘘。
 すべては水瀬家の遺産と、権力を狙っていただけのこと。

 「ったく。あのジジィがようやくくたばったと思ったのに、邪魔なもんおいてきやがって。お前のことも一緒に連れてってくれればよかったのに」
 「本当に。青ネズミの駆除に労力を割くこちらのみにもなって欲しいですわ。あら……? この着物なかなか悪くないわね」

 麗華は嫌味たっぷりに笑いながら、琴羽の美しい着物を自分の部屋に持っていく。

 「待って! それは母の着物で……」
 「は? その気持ち悪い色の髪じゃ、何を着たって豚に真珠でしょ」

 着物だけでなく、琴の手入れ道具、楽譜、髪飾り――父との思い出が込められたものが、次々と麗華の部屋へ運ばれていく。
 酷いことをされても、ただ黙って見ているしかできない。
 抵抗すれば、さらにひどい仕打ちが待っているのは目に見えていたからだ。

 それでも琴羽には歌があった。
 どんなに辛い日でも、父から教わった歌を歌えば、少しだけ心が軽くなる。

 「琴羽様の歌声は、本当に天使のようですね」
 「あの青い髪。水無瀬家の長女様は、やはり格が違います」
 「それに比べて麗華様は……」

 街を歩けば、人々は今でも琴羽を褒めた。
 そんな声を聞くたび、麗華の心の中では怒りが渦巻いていく。

 (なによ、あの女……! 私の方が美しいし、家の跡取りなのに! なぜみんなあいつばかり褒めるの!?)

 表どんなに着飾っても、どんなに練習をしても。
 琴羽の自然な才能と美しさには勝てない。
 その現実が、麗華をさらに狂気に駆り立てていた。

 (いつか必ず……あの女から全てを奪ってやるんだから)

 そして琴羽が十三歳の誕生日を迎えた日、人生を決定的に変える最悪の日が訪れる。
 その日の朝、琴羽は一人で父の仏壇の前に座っていた。
 いつものように小さな花を供え、父の写真に向かって心の中で語りかける。

 (今日で十三歳になりました。私、お父様が夢見た神音の位まで……きっと上がってみせますから)

 琴羽は立ち上がると、父の写真に向かって深くお辞儀をした。
 今日という特別な日に、これまで育ててくれた父への感謝を込めて。

 「お父様、見守っていてください」

 小さく呟いてから、琴羽は稽古場へ向かった。
 今日も練習に励もう。
 もっと上達するために。たくさんの人に音楽を届けるために。

 稽古場の扉を開けると、そこには珍しく志津と麗華の姿が。

 「おや、琴羽。お誕生日おめでとう」

 志津の珍しすぎる祝いの言葉に、琴羽は目を見張る。
 父が亡くなってから、誕生日を祝ってもらったことなど一度もなかったからだ。

 「あ……ありがとうございます」

 二人とはうまくいっていないと思っていたが、もしかして、志津と麗華も少しずつ自分を受け入れてくれているのかもしれない。
 琴羽は嬉しさで胸がいっぱいになった。

 「今日は特別な香を焚いてやったんだよ。麗華と街でわざわざ探してきたんだ、感謝なさい」

 志津が稽古場で香炉に火を入れる。
 最初は花のような甘い匂いだったが、時間が経つにつれて鼻の奥がツンとする不快感が混じってくる。
 しかしそれでも、琴羽は二人が自分のために何かをしてくれたことが嬉しかった。

 「さあ、歌の練習をなさい。今日は誕生日だから、特別に聞いてあげようじゃないか」
 「姉様のお歌、楽しみですわ」

 琴羽は心から感謝を込めて頭を下げた。

 「ありがとうございます」

 琴羽は甘い煙が立ち上る中、心を込めて父から教わった唄を歌い始める。
 今日は誕生日だから、父が一番好きだったあの子守唄を歌おう。
 そうだ、今度は麗華も誘って一緒に練習をしてみるのもいいかもしれない。

 (この歌声で、もっとたくさんの人を幸せにしたい。お父様や、街の人たちの期待に応えたい)

 しかし、琴羽が最高音に向かって声を伸ばした瞬間――まるで喉に焼けた鉄の棒を突き刺されたような、想像を絶する激痛が走った。

 「あ……あが……っ!」

 琴羽が大きく吸い込んだのは「声封じの香」――古来より歌姫を葬ってきた禁断の呪香。
 美しかった歌声は砕け散り、次の音は血の味と共にかすれて消えた。
 琴羽は喉を掻きむしるように押さえ、その場に崩れ落ちる。

 「痛い……喉が……!! お義母様(かあさま)……何が……」

 喉の奥で何かが焼け焦げているような感覚。
 息をするたびに激痛が走り、唾を飲み込むことさえできない。

 (焼けた鉄を飲み込んだような痛み……歌っていただけなのに……なぜこんなことが……)

 「誕生日の贈り物、喜んでくれたかしら? ふふ、嬉しくて声も出ないわよね。今のは母様から。次は私からの贈り物よ」

 見上げると、麗華が冷たく微笑んでいる。
 その手に握られているのは、大きな料理用の包丁。
 刃先がギラリと光り、思わず本能で後ずさる。

 「どうせもう人前で歌えないんだから、髪も短くして手入れを楽にして差し上げましょう。そのみっともない青髪、もう見たくないの」

 志津が後ろから琴羽の腕を強く押さえ込んだ。

 (何!? 何が起こっているの!?)

 「動くんじゃないよ、クソガキ。大人しくしてな」

 琴羽の目から恐怖で涙があふれ出た。

 (誰か……助けて!)

 琴羽は必死に身をよじって逃れようとしたが、その努力も虚しく、志津の腕からは逃れられない。
 優しく髪を撫でながら「琴羽の髪は湖のように美しい」と言って、微笑んでいた父の声が蘇る。

 「はな……ごほっ、ごほ!!」

 琴羽は喉の痛みで途切れ途切れになりながらも、必死に叫ぼうとした。
 しかし、かすれた声は全く役に立たない。

 ーー助けを呼んでも、誰にも届かない。

 その事実は、琴羽を深い絶望へと突き落とした。
 志津の力は強く、麗華の持つ包丁が次第に近づいてくる。
 最後の抵抗を試みて身を捩るもーー

 「暴れるんじゃない!」

 麗華が琴羽の頬を平手で叩いた。
 パチンと乾いた音が部屋に響き、琴羽の頬に赤い手形が残る。

 程なくして、今度はザクザクと髪を切る音が響く。
 一房、また一房と。
 父の愛した美しい青い髪が無残に散らばっていく様子を。
 琴羽は身を震わせながら、見つめることしかできなかった。

 「あー、スッキリした! あら、新しい髪型も案外お似合いですわよ?」

 鏡を見た琴羽は、自分の変わり果てた姿に愕然とした。

 美しく長かった髪は、ある部分は肩の長さで、ある部分は耳より短く。
 またある部分は中途半端な長さで、まるでノコギリで切ったようにガタガタになっている。

 「おお、醜い。魚が食んだ後の水草みたいですわ……青ネズミ改め『水草頭(みずくさあたま)』なんてどうかしら? バラバラ頭にぴったりだと思いません?」

 志津と麗華の笑い声が響く中。
 琴羽は震える手でガタガタに切られた髪を触りながら、涙を流すことしかできなかった。

 (ひどい。なんてことを……)

 琴羽は必死に声を出そうとした。
 しかし、少し声を出そうとするだけで激痛が走る。
 口から出てくるのは、血の混じったかすれ声だけ。

 (早く、お医者様に……診てもらわなければ……)

 琴羽は痛みに耐えながら、麗華と志津の醜い笑い声が響く家を出て、よろめくように医師の元へ向かった。
 街の医師の診療所で、琴羽の惨状を見た医師は青ざめた。

 「発声器官が破壊されている上に、霊的な封印まで施されています。……二度と歌うことは叶わないでしょう。それどころか、普通に話すことさえ困難になるかもしれません」

 (歌えない……? そんな……私には、歌しかないというのに……)

 「お気の毒に……しばらくは絶対安静が必要です。声を出そうとするだけで、傷が悪化します」

 医師は同情の表情を浮かべながら、琴羽の喉に包帯を巻いた。

 「今は治療に専念してください」

 しかし、本当の地獄はこれからだった。
 数日後、音位評議会から再査定の知らせが届いたのだ。
 水音京では五年に一度、すべての人が音位の査定を受けることが義務付けられている。

 これは音楽家の技術向上を促し、街の音楽水準を保つための制度だった。
 重大な事故や病気により音楽能力に変化があった場合は、特別査定が行われる。

 「つきましては来週の金曜日、評議会館にお越しください」

 公文書の冷たい文面が、琴羽の現実を突きつけていた。
 霊音の位を保てるとは思えない。
 しかし、どこまで下がるかも査定を受けてみなければわからない。
 
 査定の会場である評議会館に向かう道中、琴羽の心は重く沈んでいた。
 立派な石造りの建物が見えてくると、足取りがさらに重くなる。

 「あれは水無瀬の……」
 「髪がひどいことに……」
 「声を失ったそうですよ」

 街を歩く人々の視線が痛い。
 ガタガタに切られた髪と、首に巻いた包帯が、琴羽の惨めな境遇を物語っていた。

 ――それでも、この町で音楽家として生きていきたいのなら。

 どんな結果が待っていても、受け入れるしかない。
 査定の会場で、琴羽は震える手で査定書に記入した。

 「発声不能につき、器楽演奏のみ」と。

 文字を書くたびに、現実の重さが胸に圧し掛かってくる。

 「では、琴の演奏をお聞かせください」

 査定官たちの前で、琴羽は父から贈られた琴を抱えて正座した。

 (歌えないなら、弾けばいい。私の声は、もうこの琴なのだから)

 声を失った日から、琴羽は狂ったように練習した。
 朝は日が昇る前から、夜は星が見えなくなるまで。
 指先が血に染まっても、爪が割れても、決して止めなかった。

 食事を抜いて。睡眠を削って。時間の許す限り、ただひたすら弦を弾き続けた。
 歌えない分、すべての想いを指先に込めて。

 誰よりも練習した。誰よりも琴を愛した。
 悲しみも、怒りも、絶望も、そして父への愛も――すべてを音に変えて。

 (お父様、見ていてください。私の魂のすべてを、この演奏に込めます)

 琴羽の指が弦を弾くと、美しい音色が会場に響いた。
 それは技術的に申し分ない演奏だった――いや、琴羽がまだ十三であることを考えれば上手すぎるくらいだった。
 査定官たちも感心したような表情を見せている。

 血と涙で培った、琴羽だけの音楽がそこにあった。

 しかし結果は無情だった。

 「水無瀬琴羽、音位を『無音』に降格いたします」

 無音――それは音感がないか発声不能とされる最下位の位。
 霊音から無音への転落は、天と地ほどの差があった。

 「琴の技術は確かに素晴らしく、我々も心から感嘆いたしました」

 ならば、どうして。

 「しかし水音京の音位制度では、声楽を主体とした総合的な音楽能力で判定されます。実際、当評議会にも盲目でありながら高音の位にある琵琶奏者や、聴覚に障害がありながらも中音の位で活躍する太鼓奏者の方もいらっしゃいます」

 別の査定官が補足したが、言葉が耳から耳へと通り過ぎ、うまく頭に入ってこない。
 それほどに、無音への降格がショックだった。

 「しかし声に関しては……前例がありません。楽曲の解説、他の演奏者との意思疎通、観客への挨拶、そして何より合奏での指導など、音楽家として必要な最低限のコミュニケーション能力を鑑みた結果です」

 音楽とは、そうした言葉の垣根を超えて響くものではないのだろうか。
 富も権力も。老いも若きも。人も妖も。
 全ての垣根を乗り越えて、皆を幸せにできるのが、音楽ではないのだろうか。

 飲まず食わずで、練習にかけた時間は。
 声を失ってもなお、琴と懸命に向き合ってきた日々は。
 ――私の信じた音楽とは。

 一体、なんだったのだろうか。

 年配の査定官が立ち上がり、琴羽に向かって提案した。

 「琴羽様、一つご提案があります。水音京以外の街でなら、あなた様の琴の技術なら間違いなく高い評価をいただけるでしょう。そちらで音楽家としての道を歩まれてはいかがでしょうか」

 その言葉は善意から出たものだったが、今の琴羽には刃のように突き刺さった。

 (この街から出て行けということ……? 水音京には、もう私の居場所はないということ……?)

 「なんと、あの琴羽様が無音に……」
 「霊音から無音だなんて……」

 同情されることがこんなにも辛いものだとは思わなかった。
 琴羽は震える手で査定証を受け取ると、何も言わずに会場を後にした。

 街を歩けば、かつて琴羽を慕っていた商人たちも、今では遠慮がちに接してくる。
 音位は社会的地位そのものであり、無音に降格した琴羽は、もはや以前の琴羽ではなかった。
 無音の者との商取引は忌避され、結婚の申し込みなどもちろん皆無。

 琴羽は社会的に死んだも同然の存在になったのだ。

 一方、麗華は闇市で手に入れた響玉を使って、次々と演奏会を成功させていた。
 響玉とは、歌声を保存できる魔法の道具。水音京の闇市では、落ちぶれた音楽家たちが生活のために自らの声を売り払うことがあり、その声は響玉に封じ込められて取引される。

 つまりは、響玉から流れる声に合わせて唇を動かすことで、まるで自分が歌っているかのように見せることができるのだ。

 麗華が手にしていたのは、かつて神音の位にまで上り詰めた女性歌手の響玉だった。
 その歌手は借金に追われ、泣く泣く自分の美しい歌声を売り払ったのだという。
 
 志津と麗華には声封じの香を買ってもまだあまりあるお金があった。

 一流の音楽家であった清隆が「家族へ」と残した遺産があったからだ。
 そして麗華はその強かな性格ゆえに演技が得意で、「歌っているフリ」がとてもうまかった。

 「麗華様、この度『高音』の位に昇格でございます」

 評議会での発表に、会場は大きな拍手に包まれた。
 志津と麗華はこの街に来てまだ五年に満たないため、本来なら査定を受ける義務はない。
 しかし響玉に味を占めた麗華は、より高い地位を求めて自ら査定に挑んだのである。

 高音なら、音楽家として十分成功できるレベルだ。
 宮廷での演奏資格も得られ、貴族たちとの社交も可能になる。
 麗華の社会的地位は琴羽を大きく上回り、求婚者も引く手あまたとなるだろう。

 「麗華様って、水無瀬家の正統な跡継ぎになられたんでしょう?」
 「すぐに霊音にも達するでしょうね」

 人々の賞賛の声を聞きながら、麗華は心の中で高笑いしていた。
 すべて響玉の力だが、誰も気づかない。

 麗華は確信した。
 音楽や絵画。その曖昧な良し悪しなんて、本当のところは誰もわからないのだと。
 みんなが良いというものを、人は良いものだと信じたくなる。

 一度実績さえ作ってしまえば、愚かな観衆を騙すのは簡単。
 たとえそれが嘘で塗り固められたものだったとしても。

 麗華の高笑いが、水音京の街に響いた。

 琴羽が街から帰宅する途中、豪華な着物に身を包んだ麗華が取り巻きたちと談笑しながら歩いてきた。
 顔を見なくても、その顔に嫌味たっぷりな笑みが張り付いているとわかる。

 「これはこれは。無音の方は高音の私に道をお譲りになるのが筋でしょう? 身分をわきまえてくださいまし」

 すれ違いざま、べちゃりと音がした。
 着物に視線を落とすと、何やらどろっとしたものがこびりついている。
 振り返ると、くすくすと笑い声が。

 取り巻きの一人の風呂敷から、麗華が卵を取り出し、琴羽に向かって投げつけたのだった。
 べちゃり、べちゃりと。
 その数は増えていき、他の取り巻きたちも面白がって次々に卵を投げつける。

 俯いて唇を噛む琴羽の前を見下ろすように、麗華がわざとらしく手で口を押さえながら、甲高い笑い声を上げた。

 「可哀想なお姉様。声が出ないと助けも呼べませんからね。ふふふ、本当にお気の毒ですこと」

 麗華は友人たちに聞こえるよう上品に声をかけると、琴羽のそばを通り過ぎざま、耳元で囁いた。

 「身の程知らずのゴミクズが。みっともない」

 麗華の勝ち誇った笑い声が響く中、琴羽は黙って頭を下げて立ち尽くしていた。

 こうして、姉妹の運命は正反対の道を歩み始めた。
 一人は社会の底辺へと転落し、もう一人は栄光の階段を駆け上がっていく。

 しかし琴羽は、まだ知らなかった。
 この絶望の淵で待ち受ける、さらなる試練と、運命的な出会いが少しずつ近づいていることを――。