あれから半年が過ぎた。
水鏡社での穏やかな朝。
初夏の陽光が縁側に差し込み、庭の花々が美しく咲き誇っている。
琴羽は縁側に座り、一弦琴を奏でながら、幸福な時を味わっていた。
こんな平和な日常が、本当に自分のものなのだろうか。
「んーっ、今日もいい天気!見てみて、すっごい青空!」
琴羽が両手を上に伸ばして見上げると、雲ひとつない澄み切った青い空が広がっている。
湖面には陽光がダイヤモンドのようにきらきらと反射し、水の精霊たちが嬉しそうに踊り回っていた。
庭先では色とりどりの蝶が花から花へと舞い移り、小鳥たちが美しいさえずりを奏でている。
まさに楽園のような、平和な朝だ。
「そうですね。ですが、琴羽がいてくださる毎日はいつだって素晴らしいですよ?」
瑞蓮が微笑みながら答える。
その言葉に琴羽が頬を赤らめて「そういうことじゃなくて……」と恥ずかしそうに俯く様子を見て、瑞蓮はくすりと笑った。
瑞蓮が琴羽の隣にそっと座る。
「今日は何を歌いましょうか?」
瑞蓮が愛おしそうに琴羽を見つめる。
最近の二人は、毎朝こうして一緒に音楽を奏でることが日課になっていた。
精霊たちも二人の音楽を聞きつけて集まってくるのが常で、庭はいつも小さなコンサート会場のような賑わいを見せている。
「あの新しい曲はどう?昨日の夜、瑞蓮が作ってくれた」
「ああ、あの曲ですか。では私が伴奏を」
瑞蓮が優雅に琴の前に座ると、琴羽は大きく息を吸った。
朝の清々しい空気が肺を満たし、心も軽やかになる。
美しい旋律が水鏡社に響き始めた。
――このひと時が、何よりも愛おしい。
やがて最後の音符が静かに消えていき、二人は満足そうに微笑み合った。
精霊たちもゆっくりと光を和らげ、庭には再び穏やかな朝の静寂が戻る。
「あ、そうそう。蒼真から手紙が来てたんだっけ」
美しい翡翠色の瞳に、ほんの少しだけ不機嫌の色が浮かぶ。
「また蒼真殿ですか……最近頻繁ですね」
瑞蓮の声には、努めて平静を装おうとしているものの、明らかに嫉妬の響きが含まれていた。
神といえど、愛する人への独占欲は隠しきれない。
「ふふふ、そんな顔しないで」
眉間に皺を寄せた瑞蓮を見て、琴羽がくすくすと笑いながら手紙を開く。
「調律師の仕事で他の街に行くことになったみたい。『まだ水音京にはない、新しい楽器を見つけて帰るから』って書いてある」
「ふむ……良い旅になるといいですね」
水音京の街は、すっかり平和を取り戻していた。
精霊たちの数も神霊祭以降に大幅に増え、再び種族を超えた音楽の交流が盛んになっている。
街角では楽器を取引する人間の商人と妖怪たち。
湖畔で共に歌う子供たちと精霊。
そんな光景が、水音京の日常となっていた。
「そういえば、大黒天からもお誘いがありましたね。来月の宴会に参加しませんかと。琴羽、いかがでしょう?」
「ぜひ! 七福神の宴会なんて、賑やかになりそう」
瑞蓮が苦笑いを浮かべる。
きっと恵比寿がはしゃぎ回り、布袋が豪快に笑い、寿老人が踊り回るのだろう。そんな光景が、すぐに思い浮かんだ。
「その時は何を演奏しましょうか? 二人で合奏する曲を新しく作ってみても素敵ですね」
「素敵! どんな楽器がいいかしら」
夕暮れ時になると、二人は散歩に出かけた。
道行く人々が二人の姿を認めると、顔を綻ばせて温かく手を振ってくる。
「琴羽様、瑞蓮様!」
「今日もお美しいですね!」
「お幸せそうで何よりです!」
街の人々の祝福に満ちた声に、二人も笑顔で手を振って応える。
神霊祭以来、琴羽は街の人々にとって希望の象徴となり、瑞蓮と共に愛される存在となっていた。
時折、街角で即興の演奏を披露することも。
瑞蓮が懐から美しい竹笛を取り出し、琴羽がそれに歌声を重ねると、自然と人だかりができる。
向かったのは、初めて瑞蓮が翡翠の髪飾りを贈ってくれたあの場所。
空は徐々にオレンジから深紅へと色を変え、湖面に夕陽が金色の道を作り出していた。
「あの時は、まさかこんなに幸せな日々が待っているとは思わなかった」
琴羽が瑞蓮の手をそっと握りしめる。
髪に挿した翡翠の髪飾りが、夕日を受けて宝石のように優しく光っていた。
――声を失って、無音に落とされて、世界中から見捨てられたと思った時。
あの頃の自分は、こんな未来が来るなんて想像もしていなかった。
毎日が絶望で、ただ生きているだけで精一杯で。
「でも瑞蓮に出会って、こんな私でも、大切な存在だと言ってくれる人がいるなんて……」
――自分の存在を認めてもらえた。初めて愛されるということを知った。
「瑞蓮は私にたくさんの初めてをくれた。初めて心から笑えた、初めて生きていて良かったと思えた。そして……初めて誰かを愛おしいと思った」
瑞蓮はゆっくりと琴羽の前に膝をつき、その手を両手で大切そうに包み込む。
夕日が二人を黄金色に染め上げ、まるで天界からの祝福を受けているかのような神々しさに満ちていた。
「琴羽……それは私も同じです」
瑞蓮が恥ずかしそうに、しかし深い愛情を込めて微笑む。
「数千年生きてきて、初めて知ったのです。誰かのために心が痛むということを。誰かの笑顔だけで幸せになれるということを」
――長い長い年月、ただ責務を果たすためだけに存在していた。
湖との契約を結んでから、自分の幸せなど考えたこともなかった。
神とはそういうものだと諦めていた。
「琴羽は……私に『愛』を教えてくれた、たった一人の人です」
瑞蓮の翡翠色の瞳が、夕陽に照らされて美しく輝きながら琴羽を見つめる。
「神として背負ってきた孤独も、果てしない責務も、すべてはこの瞬間のためにあったのだと今なら分かります」
――すべての苦しみも、悲しみも、琴羽と出会うために必要だったのだと。
「我が愛する人……どうか私の妻となって、この先の永遠を、喜びも悲しみも、すべてを分かち合わせてください」
「はい、喜んで……!」
瑞蓮と一緒にいたい。
この命尽きるまで。永遠に、ずっと。
「瑞蓮がしてくれたように、今度は私が瑞蓮を守る番。瑞蓮が悲しい時は一緒に泣いて、嬉しい時は一緒に笑って……」
――今度は私が、瑞蓮を支える人になりたい。
「ずっとずっと、瑞蓮のそばにいる。私の歌も、私の心も……全部あげる」
夕日が二人を温かく包み込み、湖面には最初の星がきらめき始める。
風が優しく吹き、まるで世界全体が二人の愛を祝福しているかのようであった。
瑞蓮が琴羽の髪にそっと口づけを落とす。その仕草は神聖で、愛に満ちていた。
「愛しています、琴羽」
そして二人は自然と、あの『千霊回帰の調べ』を静かに奏で始めた。今度は試練のためではなく、ただ純粋に愛を歌う、美しい調べとして。
瑞蓮の美しい笛の音色と琴羽の歌声が星空に響くと、無数の精霊たちが光となって舞い踊る。
その光は優しく、温かく、二人の愛を祝福するように輝いていた。
水音京の街には今夜も美しい音楽が響き、精霊たちが楽しそうに舞い踊っている。
琴羽と瑞蓮の愛の物語は、これからも続いていく。音楽と愛に満ちた、美しい永遠とともに。
~完~
水鏡社での穏やかな朝。
初夏の陽光が縁側に差し込み、庭の花々が美しく咲き誇っている。
琴羽は縁側に座り、一弦琴を奏でながら、幸福な時を味わっていた。
こんな平和な日常が、本当に自分のものなのだろうか。
「んーっ、今日もいい天気!見てみて、すっごい青空!」
琴羽が両手を上に伸ばして見上げると、雲ひとつない澄み切った青い空が広がっている。
湖面には陽光がダイヤモンドのようにきらきらと反射し、水の精霊たちが嬉しそうに踊り回っていた。
庭先では色とりどりの蝶が花から花へと舞い移り、小鳥たちが美しいさえずりを奏でている。
まさに楽園のような、平和な朝だ。
「そうですね。ですが、琴羽がいてくださる毎日はいつだって素晴らしいですよ?」
瑞蓮が微笑みながら答える。
その言葉に琴羽が頬を赤らめて「そういうことじゃなくて……」と恥ずかしそうに俯く様子を見て、瑞蓮はくすりと笑った。
瑞蓮が琴羽の隣にそっと座る。
「今日は何を歌いましょうか?」
瑞蓮が愛おしそうに琴羽を見つめる。
最近の二人は、毎朝こうして一緒に音楽を奏でることが日課になっていた。
精霊たちも二人の音楽を聞きつけて集まってくるのが常で、庭はいつも小さなコンサート会場のような賑わいを見せている。
「あの新しい曲はどう?昨日の夜、瑞蓮が作ってくれた」
「ああ、あの曲ですか。では私が伴奏を」
瑞蓮が優雅に琴の前に座ると、琴羽は大きく息を吸った。
朝の清々しい空気が肺を満たし、心も軽やかになる。
美しい旋律が水鏡社に響き始めた。
――このひと時が、何よりも愛おしい。
やがて最後の音符が静かに消えていき、二人は満足そうに微笑み合った。
精霊たちもゆっくりと光を和らげ、庭には再び穏やかな朝の静寂が戻る。
「あ、そうそう。蒼真から手紙が来てたんだっけ」
美しい翡翠色の瞳に、ほんの少しだけ不機嫌の色が浮かぶ。
「また蒼真殿ですか……最近頻繁ですね」
瑞蓮の声には、努めて平静を装おうとしているものの、明らかに嫉妬の響きが含まれていた。
神といえど、愛する人への独占欲は隠しきれない。
「ふふふ、そんな顔しないで」
眉間に皺を寄せた瑞蓮を見て、琴羽がくすくすと笑いながら手紙を開く。
「調律師の仕事で他の街に行くことになったみたい。『まだ水音京にはない、新しい楽器を見つけて帰るから』って書いてある」
「ふむ……良い旅になるといいですね」
水音京の街は、すっかり平和を取り戻していた。
精霊たちの数も神霊祭以降に大幅に増え、再び種族を超えた音楽の交流が盛んになっている。
街角では楽器を取引する人間の商人と妖怪たち。
湖畔で共に歌う子供たちと精霊。
そんな光景が、水音京の日常となっていた。
「そういえば、大黒天からもお誘いがありましたね。来月の宴会に参加しませんかと。琴羽、いかがでしょう?」
「ぜひ! 七福神の宴会なんて、賑やかになりそう」
瑞蓮が苦笑いを浮かべる。
きっと恵比寿がはしゃぎ回り、布袋が豪快に笑い、寿老人が踊り回るのだろう。そんな光景が、すぐに思い浮かんだ。
「その時は何を演奏しましょうか? 二人で合奏する曲を新しく作ってみても素敵ですね」
「素敵! どんな楽器がいいかしら」
夕暮れ時になると、二人は散歩に出かけた。
道行く人々が二人の姿を認めると、顔を綻ばせて温かく手を振ってくる。
「琴羽様、瑞蓮様!」
「今日もお美しいですね!」
「お幸せそうで何よりです!」
街の人々の祝福に満ちた声に、二人も笑顔で手を振って応える。
神霊祭以来、琴羽は街の人々にとって希望の象徴となり、瑞蓮と共に愛される存在となっていた。
時折、街角で即興の演奏を披露することも。
瑞蓮が懐から美しい竹笛を取り出し、琴羽がそれに歌声を重ねると、自然と人だかりができる。
向かったのは、初めて瑞蓮が翡翠の髪飾りを贈ってくれたあの場所。
空は徐々にオレンジから深紅へと色を変え、湖面に夕陽が金色の道を作り出していた。
「あの時は、まさかこんなに幸せな日々が待っているとは思わなかった」
琴羽が瑞蓮の手をそっと握りしめる。
髪に挿した翡翠の髪飾りが、夕日を受けて宝石のように優しく光っていた。
――声を失って、無音に落とされて、世界中から見捨てられたと思った時。
あの頃の自分は、こんな未来が来るなんて想像もしていなかった。
毎日が絶望で、ただ生きているだけで精一杯で。
「でも瑞蓮に出会って、こんな私でも、大切な存在だと言ってくれる人がいるなんて……」
――自分の存在を認めてもらえた。初めて愛されるということを知った。
「瑞蓮は私にたくさんの初めてをくれた。初めて心から笑えた、初めて生きていて良かったと思えた。そして……初めて誰かを愛おしいと思った」
瑞蓮はゆっくりと琴羽の前に膝をつき、その手を両手で大切そうに包み込む。
夕日が二人を黄金色に染め上げ、まるで天界からの祝福を受けているかのような神々しさに満ちていた。
「琴羽……それは私も同じです」
瑞蓮が恥ずかしそうに、しかし深い愛情を込めて微笑む。
「数千年生きてきて、初めて知ったのです。誰かのために心が痛むということを。誰かの笑顔だけで幸せになれるということを」
――長い長い年月、ただ責務を果たすためだけに存在していた。
湖との契約を結んでから、自分の幸せなど考えたこともなかった。
神とはそういうものだと諦めていた。
「琴羽は……私に『愛』を教えてくれた、たった一人の人です」
瑞蓮の翡翠色の瞳が、夕陽に照らされて美しく輝きながら琴羽を見つめる。
「神として背負ってきた孤独も、果てしない責務も、すべてはこの瞬間のためにあったのだと今なら分かります」
――すべての苦しみも、悲しみも、琴羽と出会うために必要だったのだと。
「我が愛する人……どうか私の妻となって、この先の永遠を、喜びも悲しみも、すべてを分かち合わせてください」
「はい、喜んで……!」
瑞蓮と一緒にいたい。
この命尽きるまで。永遠に、ずっと。
「瑞蓮がしてくれたように、今度は私が瑞蓮を守る番。瑞蓮が悲しい時は一緒に泣いて、嬉しい時は一緒に笑って……」
――今度は私が、瑞蓮を支える人になりたい。
「ずっとずっと、瑞蓮のそばにいる。私の歌も、私の心も……全部あげる」
夕日が二人を温かく包み込み、湖面には最初の星がきらめき始める。
風が優しく吹き、まるで世界全体が二人の愛を祝福しているかのようであった。
瑞蓮が琴羽の髪にそっと口づけを落とす。その仕草は神聖で、愛に満ちていた。
「愛しています、琴羽」
そして二人は自然と、あの『千霊回帰の調べ』を静かに奏で始めた。今度は試練のためではなく、ただ純粋に愛を歌う、美しい調べとして。
瑞蓮の美しい笛の音色と琴羽の歌声が星空に響くと、無数の精霊たちが光となって舞い踊る。
その光は優しく、温かく、二人の愛を祝福するように輝いていた。
水音京の街には今夜も美しい音楽が響き、精霊たちが楽しそうに舞い踊っている。
琴羽と瑞蓮の愛の物語は、これからも続いていく。音楽と愛に満ちた、美しい永遠とともに。
~完~

