その日、突然の嵐に見舞われた水音京の湖面は、激しく荒れ狂っていた。
雷鳴が空を切り裂く中、湖の上の小舟がぐらりと大きく揺れる。
その様を、美しい青い髪をした一人の少女が湖畔から不安そうに眺めていた。
――危ない。
大きく揺れた小舟を前に、少女の胸に嫌な予感が走る。
水軍専属の調律師・蒼真は、舟の上で必死にバランスを取ろうとしていた。
重い軍服が濡れて体に纏わりつき、体は木の葉のように翻弄されている。
次の瞬間、巨大な波が舟を飲み込み、蒼真の体は濁流の中へと消えていく。
助けを。早く助けを呼ばなければ。
焦燥に駆られた少女は、急いで周囲を見渡すも、広々とした湖畔には人の影一つすらない。
「そ……ま……誰…か……ごほっ、ごほっ」
助けを呼ぼうと必死に声を絞り出そうとする。
しかし、喉からは汚い咳が漏れるだけで、うまく音にならない。
本当はそんなことはわかっていた。
自分の口元からは、悲鳴ひとつすら上げることができないのだから。
その少女――水無瀬琴羽は声を出すことができないのだった。
それでも、大切な幼馴染である蒼真が死の淵で苦しんでいる今、そんなことはどうでもよかった。
(助けなければ……!)
琴羽は迷うことなく荒れ狂う湖に身を躍らせた。
青い髪が水中で揺れる中、沈みゆく蒼真を必死に抱え上げる。
水を吸い込んだ軍服は重い。まして水軍の装飾も布量も多い軍服となれば尚更だ。
下へ下へと引きずられそうになりながらも、琴羽は必死に力を振り絞って岸へと泳ぎ着いた。
しかし蒼真の唇はすでに紫に変色し、脈は今にも止まりそうなほど弱々しい。
このままでは――死んでしまう。
琴羽の胸に、激しい恐怖が走る。
医師を呼ぶ時間はない。
絶望の淵で、琴羽は無意識に口を開いた。
なぜそうしようと思ったのかは、自分でもよくわからない。
それでも「歌わねば」と心の奥底から強く感じたのだ。
「みず……の……そこで……ねむる……たま……しいよ……」
幼い頃、優しい父が歌ってくれた子守唄。
声を失ってから一度も歌えなかった、魂の奥に眠る大切な記憶。
最初は息だけが漏れるだけであった。
しかし次第に、血の味と共にかすれた声が震え出す。
喉が引き裂かれるような痛みに耐えながら、琴羽は歌い続けた。
「ひかり……の……みちを……たど……り……いのち……の……いと……を……たぐり……よせて……」
その瞬間、奇跡が起こった。
湖面が神秘的な青い光に包まれ、水の精霊たちが光の粒子となって舞い踊り始める。
決して美しいとは言えない、掠れ、傷ついた歌声。
だが琴羽の魂を込めた歌声が、湖全体を癒しの力で満たしていく。
蒼真の胸が、かすかに上下した。
(息をしている……!)
安堵と同時にやってきたのは、激しい疲労感。
まるで魂を削り取られたように、体がずしりと重い。
(どうして……こんなに疲れているんだろう? あれ……意識が……)
徐々に視界がぼやけ始める。
琴羽は蒼真の手を握りしめながら、その場で意識を失った。
***
一方、湖の対岸では、その一部始終を見つめていたひとつの人影があった。
流れる水銀のように光を受けて輝く長い銀髪。
湖面よりも美しく澄み切った、深い翡翠色の瞳。
そして磁器のように白く滑らかな肌。
その美貌は人の世の言葉では言い表せぬほど神々しく、天界から舞い降りた存在が人の姿を借りているかのようであった。
音楽と美を司る神、七福神の一柱――弁財天・瑞蓮。
数千年の時を生きる神でありながら、その美しい瞳には今、深い感動の涙が宿っていた。
「ようやく……見つけました」
たとえその声がどのように傷ついていても、間違いない。
湖畔で響く、か細く傷ついた歌声。その中に、瑞蓮は確かに感じ取った。
あの日の記憶を。
あの純粋な魂の響きを。
そして確信した。
――少女の歌声こそ、絶望の淵にいた自分に希望の光をもたらしてくれた、奇跡の調べであると。
「やっと、会えた……」
瑞蓮の瞳から涙が溢れた。
(ずっとずっと、貴方に会いたかった)
瑞蓮の瞳から落ちる涙は、湖面に触れた瞬間、小さな蓮の花となって咲く。
「彼女こそが、私の魂を救った運命の人」
しかし、当の琴羽はもちろんそんなことは知らない。
自らの歌声が、かつて神の心を救ったことがあるなど――夢にも思わずにいるのだった。
雷鳴が空を切り裂く中、湖の上の小舟がぐらりと大きく揺れる。
その様を、美しい青い髪をした一人の少女が湖畔から不安そうに眺めていた。
――危ない。
大きく揺れた小舟を前に、少女の胸に嫌な予感が走る。
水軍専属の調律師・蒼真は、舟の上で必死にバランスを取ろうとしていた。
重い軍服が濡れて体に纏わりつき、体は木の葉のように翻弄されている。
次の瞬間、巨大な波が舟を飲み込み、蒼真の体は濁流の中へと消えていく。
助けを。早く助けを呼ばなければ。
焦燥に駆られた少女は、急いで周囲を見渡すも、広々とした湖畔には人の影一つすらない。
「そ……ま……誰…か……ごほっ、ごほっ」
助けを呼ぼうと必死に声を絞り出そうとする。
しかし、喉からは汚い咳が漏れるだけで、うまく音にならない。
本当はそんなことはわかっていた。
自分の口元からは、悲鳴ひとつすら上げることができないのだから。
その少女――水無瀬琴羽は声を出すことができないのだった。
それでも、大切な幼馴染である蒼真が死の淵で苦しんでいる今、そんなことはどうでもよかった。
(助けなければ……!)
琴羽は迷うことなく荒れ狂う湖に身を躍らせた。
青い髪が水中で揺れる中、沈みゆく蒼真を必死に抱え上げる。
水を吸い込んだ軍服は重い。まして水軍の装飾も布量も多い軍服となれば尚更だ。
下へ下へと引きずられそうになりながらも、琴羽は必死に力を振り絞って岸へと泳ぎ着いた。
しかし蒼真の唇はすでに紫に変色し、脈は今にも止まりそうなほど弱々しい。
このままでは――死んでしまう。
琴羽の胸に、激しい恐怖が走る。
医師を呼ぶ時間はない。
絶望の淵で、琴羽は無意識に口を開いた。
なぜそうしようと思ったのかは、自分でもよくわからない。
それでも「歌わねば」と心の奥底から強く感じたのだ。
「みず……の……そこで……ねむる……たま……しいよ……」
幼い頃、優しい父が歌ってくれた子守唄。
声を失ってから一度も歌えなかった、魂の奥に眠る大切な記憶。
最初は息だけが漏れるだけであった。
しかし次第に、血の味と共にかすれた声が震え出す。
喉が引き裂かれるような痛みに耐えながら、琴羽は歌い続けた。
「ひかり……の……みちを……たど……り……いのち……の……いと……を……たぐり……よせて……」
その瞬間、奇跡が起こった。
湖面が神秘的な青い光に包まれ、水の精霊たちが光の粒子となって舞い踊り始める。
決して美しいとは言えない、掠れ、傷ついた歌声。
だが琴羽の魂を込めた歌声が、湖全体を癒しの力で満たしていく。
蒼真の胸が、かすかに上下した。
(息をしている……!)
安堵と同時にやってきたのは、激しい疲労感。
まるで魂を削り取られたように、体がずしりと重い。
(どうして……こんなに疲れているんだろう? あれ……意識が……)
徐々に視界がぼやけ始める。
琴羽は蒼真の手を握りしめながら、その場で意識を失った。
***
一方、湖の対岸では、その一部始終を見つめていたひとつの人影があった。
流れる水銀のように光を受けて輝く長い銀髪。
湖面よりも美しく澄み切った、深い翡翠色の瞳。
そして磁器のように白く滑らかな肌。
その美貌は人の世の言葉では言い表せぬほど神々しく、天界から舞い降りた存在が人の姿を借りているかのようであった。
音楽と美を司る神、七福神の一柱――弁財天・瑞蓮。
数千年の時を生きる神でありながら、その美しい瞳には今、深い感動の涙が宿っていた。
「ようやく……見つけました」
たとえその声がどのように傷ついていても、間違いない。
湖畔で響く、か細く傷ついた歌声。その中に、瑞蓮は確かに感じ取った。
あの日の記憶を。
あの純粋な魂の響きを。
そして確信した。
――少女の歌声こそ、絶望の淵にいた自分に希望の光をもたらしてくれた、奇跡の調べであると。
「やっと、会えた……」
瑞蓮の瞳から涙が溢れた。
(ずっとずっと、貴方に会いたかった)
瑞蓮の瞳から落ちる涙は、湖面に触れた瞬間、小さな蓮の花となって咲く。
「彼女こそが、私の魂を救った運命の人」
しかし、当の琴羽はもちろんそんなことは知らない。
自らの歌声が、かつて神の心を救ったことがあるなど――夢にも思わずにいるのだった。

