「いいよ、いいよ、月影くん!
こっち向いて!
そう、笑って笑って!」
かしゃかしゃと、シャッターを切る音がぼくに襲いかかる。
容赦なくフラッシュが光り、目を閉じてしてしまうが、「駄目、目開けて!」と鋭い指摘が飛んできて、ぼくは必死に目を閉じないように顔に力を入れる。
文化祭も近づき、ジュリエットの衣装が出来上がったというので見てみると、レースやフリルがたくさんあしらわれたウェディングドレスのようなロングドレスだったので、ぼくは絶句した。
裁縫が得意な女子が数人がかりで作り上げたというそのドレスを試着してほしいと言われたのだが、あまりの恥ずかしさに、とても彼女たちの前で着る勇気が出ずに、持ち帰って家で着てみると、ぼくとしては珍しく強引に約束を取り付けて帰宅した。
部屋へ入り、覚悟を決めてドレスに袖を通す。
部屋には鏡がないので、1階の洗面所で衣装を着て、同時に渡された金髪のウィッグを被る。
これほど滑稽な姿があるかと、ぼくはとっさに鏡を割りたくなった。
着替えてしまおうと洗面所を出たところで、帰宅した千葉くんと玄関で鉢合わせしてしまった。
ぼくの格好に、千葉くんが眼鏡の奥の瞳を丸くする。
「……月影くん……?」
ぼくを見つめる千葉くんの視線が痛くて、階段を上がって逃げようとするぼくの腕を千葉くんが捕らえた。
「か……」
「……か?」
「可愛い……!」
千葉くんはかばんを放り出してスマホをポケットから取り出すと、無言のままシャッターを切った。
「え、いや、どうしたの、千葉くん……?」
戸惑うぼくを、様々な角度から、撮影していく。
ぼくは逃げたくなったが、悪いことは続くもので、撮影会のように千葉くんが撮影に夢中になっている最中に、玄関が開けられた。
「……は?」
戸隠くんが玄関ドアに手をかけたまま固まっている。
その後ろにはなんと羽田くんの姿まである。
みんな、最近帰りが遅かったのに、どうしてこんなときに限って帰宅が早いのだろうと、ぼくは泣きたい気分になった。
そして、ジュリエットと化したぼくの撮影会がはじまってしまったのだ。
「可愛いなあ、可愛いなあ、慧くん」
羽田くんが、うっとりした目で撮った画像を確認しながらうわ言のようにぶつぶつ言っている。
千葉くんと戸隠くんは、理性が働いたのか、羽田くんほどあからさまに称賛の声は上げないけれど、それでも熱視線を痛いほどぼくに突き刺してくる。
「……も、もういいんじゃないかな?
ぼく、お風呂掃除してこないと……」
「もうちょっとだけ!
もうちょっと堪能させて!」
羽田くんに言われ渋々その場に留まる。
しかしみんな、一体ぼくのなにが気に入ってこういう扱いをするんだろうと理解できず、ぼくは不思議でしかない。
そういえば、久坂部くんも衣装合わせをするよう言われていたはずだ。
どうしているだろう、と思っていると、ようやく撮影会から解放されたぼくが着替えてきたタイミングで、久坂部くんが帰ってきた。
「お帰り、久坂部くん」
ぼくが声をかけるが、久坂部くんはむすっとした顔をしたまま階段を上がり部屋に入っていってしまった。
ばたん、と怒りをぶつけるようにドアを閉める音が2階から響いてきた。
「あーあ、ご機嫌斜めだねえ」
それを見ていた羽田くんが、可笑しそうにスマホの画像をぼくに見せてくる。
そこには、テーマパークのキャストのような王子様然とした衣装を着せられて憮然とした表情の久坂部くんが写っていた。
衣装を担当した女子生徒から羽田くんにこの画像が送られてきたらしい。
不機嫌の理由はこれか。
不謹慎にも、ぼくはぷっと小さく吹き出してしまった。
間近に迫った文化祭に向けて、ぼくたちキャストは放課後や休日に集まり、台詞を合わせる作業を続けた。
本番が近づくにつれて、段々と雰囲気に熱気が帯びはじめる。
やるからにはいいものにしよう、誰からともなくそんな思いが生まれ共有されていく。
羽田くんの陣頭指揮のもと、鍛えられたぼくの声も出るようになり、羞恥心も薄れはじめていた。
喜劇を描くなら、演じるほうも心から楽しんでいなければ、『楽しい』とか『おもしろい』という空気感は観客には伝わらない。
ぼくは緊張を高めつつ、それでも楽しむことは忘れずに、稽古に専念することにした。
終始テンションが高く、ロミオに情熱的に愛をささやくというジュリエットには手を焼かされたが、稽古も終盤になると声も出るようになったし身振り手振りも大胆になり、台詞も不自然ではないくらいにはこなせるようになった。
ジュリエットになりきり、久坂部くん相手に告白するのは恥ずかしくもあり、なんだか気持ちよくもあった。
ステージに立つことは緊張もするけれど、反面、楽しみな気分にもなった。
文化祭当日。
ぼくは着せ替え人形となっていた。
朝早くから準備のために登校し、待ち受ける女子たちからメイクを施され、衣装を着た姿をひっきりなしにやってくる野次馬にこれでもかと写真を撮られた。
『可愛い!可愛い!』と言いながらぼくを撮る女子たちが理解できず、またそのあまりの熱量にあてられて、嫌という勇気もなく、ぼくはしばらくされるがままになっていた。
手鏡に映る自分の顔に戦慄して恥ずかしさに顔を赤くしたり、失敗したらどうしようと突如湧き上がった不安に顔色を青くしたりしていたら本番の時間が近づいてきた。
劇としては、1時間にも満たないほど短いものだが、内容は濃厚でかなり展開が早い。
昨日、一昨日と、大道具担当の男子が創り上げた舞台セットで、本番さながらのリハーサルを繰り返したので、あとは練習の成果を発揮するだけだ。
徐々に席が埋まっていくさまを、舞台袖で刻々と眺めていたぼくは、緊張と高揚感も覚えていた。
──大丈夫、きっとお客さんに喜んでもらえる。
胸に手を当てながら自分に言い聞かせる。
これは、過去の罪を言い訳にして消極的に生きてきた自分を変えるいい機会なのではないかとぼくは思っている。
自分の殻を破りたい、というのは常々考えていたことだ。
耳が聴こえないことをクラスメイトに受け入れてもらえたことで、ぼくの人生はたいぶ変わったといえる。
コンプレックスを隠す必要がなくなり、他人に甘える術も覚えつつある。
新しい自分のはじまりが、まさに今日という日なのかもしれない。
すると、背後に気配を感じて振り向いたぼくの目に、メイクを施された王子様姿の久坂部くんが飛び込んできた。
すらりとした長い脚が強調された衣装で、まさしく中世ヨーロッパの王子様といった印象で、ぼくは一瞬で見惚れてしまった。
「格好いいね、久坂部くん」
ぼくの言葉が気に入らなかったのか、久坂部くんが険しい表情になるのが暗闇でもわかった。
「笑いたきゃ笑えよ」
「え、いや、本気で格好いいと思ったんだけど……」
「お前はずいぶん可愛いな」
「えっ、本当?
似合ってるのかな?
可愛いって、思う?」
「なに真に受けてる、嫌味だ、嫌味」
「そっか、残念。
すごい人だよ、緊張するね」
ぼくが再び客席を覗こうと向きを変えると、後ろから久坂部くんがぼくを抱きしめて耳元でささやいた。
「嘘、可愛いに決まってんだろ」
驚きつつ、ぼくは頬が緩むのを感じた。
「ふふ、ありがと。
でも、本番直前にどきどきさせるの、やめてくれる?」
「うるせえ、少しはくっつかせろ。
最近授業やらなくなったから、スキンシップ不足なんだよ」
ぼくが補聴器を着けたことで、久坂部先生による夜の授業は終わりを告げた。
確かに最近、こうしてスキンシップする機会は減っているかもしれない。
少し前までは毎日のように部屋で押し倒されてキス寸前、というイベントがあったので、実は物足りなかったりする。
でも、それを言えば変な目で見られそうで、言い出すことはできなかったから、久坂部くんから密着してくれるのは素直に嬉しい。
しかし、久坂部くんは時と場所を選ばない。
舞台裏はひっきりなしに人が行き交うのでいくら暗がりとはいえ誰かに見られてしまうのではないかと、ひやひやした。
「久坂部くん、クラスの子に見られちゃうよ」
「別にいいだろ。
それに、好きなんだろ、こういう背徳的なやつ」
「ぼくを変態みたいに言わないでほしいなあ」
あまりに緊張感の欠片もない久坂部くんに、ぼくの緊張も削られ、非常にリラックスさせてもらった。
そして、幕が上がる──。
ぼくと久坂部くんは、先陣を切って舞台に踏み出した。
舞台の中央まで進むと、万雷の拍手に迎えられた。
長いドレスの端を踏まないよう慎重に歩くと、ぼくは軽く息を吸って口を開いた。
『ああ、なんという美しいお人。
ぜひお名前を教えてくださいませんか。
あなたは、女神に愛されたお方、神々が創りしこの世の奇跡。
どうか、わたくしと結婚してください』
マイクに乗って、ぼくの声が満員のホールに響き渡る。
『誰だ、お前。
気安く声をかけるな。
でも、そんなに俺の名前が知りたいのなら教えてやらんこともない。
ロミオだ』
久坂部くんの台詞に笑いが起きる。
誰あれ、格好いい、という声までステージ上に届いた。
白金髪に王子様の格好の久坂部くんは、本当に様になっていると思っていたので、ぼくは得意な気持ちになる。
ステージ上からは意外にも、客席が見渡せた。
前列に、千葉くんと戸隠くんの姿が見える。
軽く手を振ってくれたふたりに、なんだか安心したような、力づけられたような気がしてぼくは台詞を続けた。
順調に舞台は進行していく。
誰も台詞を忘れることなく、アドレナリンでも出ているのかみんな練習より役柄に馴染んで生き生きと演じている。
面白いと思ってほしいところで笑いが起き、驚いてほしいところでざわめきが起きて、ああ、届いているんだ、と演じながら実感させられた。
重ねてきた努力は裏切らない。
ぼくは万感の思いでときどき客席を眺めながら、まだ終わってほしくない、この時間が続いてほしいとさえ思った。
外れくじなんて思ったことを申し訳なく感じるくらい、ぼくはステージを堪能していた。
そして、眠り薬を飲んで倒れ伏すジュリエットの横で、ロミオと羽田くん演じるパリスが剣を合わせるシーンまで話は進む。
いよいよクライマックスだ。
派手なアクションを演じたあと、ついにロミオがパリスに勝利し、目覚めたジュリエットと結ばれる──話が佳境に入ったその瞬間のことだった。
「待ちなさい、そんなの許さないわよ!」
客席から、素っ頓狂な女性の声が響いた。
ぼくや久坂部くんは、驚いて演技を止めてしまう。
とっさに客席に目を向けると、ひとりの女性が立ち上がってステージを睨んでいた。
「久坂部くんの……」
「おふくろ……?」
灯りが落とされた客席で大声を上げていたのは久坂部くんのお母さんだった。
「あの子は紗雪から将来を奪った罪人なのよ!
犯罪者なのよ!
こんな結末、私は許さないから!
絶対に引き離してみせるから!」
観客の視線が一斉に久坂部さんに向けられる。
ぼくたちも一様に戸惑って芝居がしばらく中断してしまった。
『紗雪って誰?』
『なに、あの人』
『もしかして、これも演出?』
『きっとそうだ、あの人もエキストラなんだよ』
『凝った造りしてるなあ』
『羽田くんが脚本書いたんだよね?
面白いこと考えるなあ』
『さすが羽田先輩』
客席から声が面白いほど明瞭に届く。
ぼくや久坂部くんが動揺していると、剣に倒れたパリス役の羽田くんが、「続けて」と小声で指示をした。
「ロミオ様、愛しいロミオ様!
わたくしたち、永遠に結ばれるのですね。
決して離しませんわ、愛しいお方!
どうかわたくしと逃げてくださいませ!」
ぼくは起き上がって久坂部くんに抱きつく。
「紗雪、目を覚ましなさい!
帰ってくるのよ!」
久坂部さんはまだ劇を邪魔しようと大声を張り上げる。
客席は、その野次も含めて演出だと疑わないようである。
久坂部さんの言葉に、笑いすら起きている。
それでも、ぼくの動揺はおさまらない。
ぼくは、まだ許されたわけじゃないんだ。
まだ、罪人のままなんだ。
久坂部さんにとって、ぼくは文字通り憎き相手。
そんな人間が、愛する息子と同じステージに立って、楽しそうにしていることなど、久坂部さんの逆鱗に触れてもおかしくない。
だって、ぼくは──。
「俺たちの仲を引き裂くことは誰にもできない。
長年遺恨のある両家の血筋も俺たちの邪魔はできない。
愛している、お前を」
ぼくが沈み込んだ気持ちでいると、久坂部くんが台本にない台詞を発したので、びっくりして見上げると、久坂部くんが小さく笑った。
久坂部くんは、頭上を見上げてライトが当たっていることを確認すると、行くぞ、と小さく言った。
久坂部くんは、ぼくを抱き留めると、顔を近づけてきた。
まさか、と思う間もなく、久坂部くんはぼくにキスをした。
ホールがざわめく。
長い、長いキスだった。
まるで、久坂部さんに見せつけるかのような、熱い口づけだった。
「いいぞ、もっとやれ!」
男子生徒の声が飛んで、どっと笑いが起きる。
『ねえ、あれ、本気でやってないよね?』
『寸止めでしょ』
『本当にキスしてるみたい!』
『これがBLってやつか』
唇をそっと離した久坂部くんがぼくを抱きしめる。
『若いふたりの熱い想いによって、両家の和解は果たされた。
両家の遺恨は水に流された』
いつの間にか舞台袖へはけていた羽田くんが、台本にない即興のナレーションを入れる。
本当なら、ロミオとジュリエットは街を離れ、ふたりきりで暮らすラストが描かれていたはずだが、羽田くんの機転でラストシーンが変えられた形だ。
拍手喝采の中、幕が降りる。
ぼくを含めたキャストが、一度は壊れかけた劇が無事終わりを告げたことに、ほっと胸を撫で下ろしていた。
ステージの成功を確信し達成感と疲労感を滲ませるキャストたちから一歩離れた場所で、ぼくは自分の唇に触れた。
久坂部くんの温もりが残っている気がして、ぼくは堪らない気分になる。
「お前は悪くない、堂々としてろ」
近づいてきた久坂部くんが、ぼくの肩を叩いてそう言った。
「でも……」
顔を上げると、久坂部くんはぼくの唇を再びふさいだ。
ぼくは目を丸くする。
「ごちゃごちゃうるせえ、俺がいいって言ってんだ、いい加減理解しろ。
俺はお前を恨んではいないし、もちろん手放すつもりもない。
お前は俺のことを好きでいればそれでいい。
母親のことは気にするな、俺がなんとかする」
ぼくは小さくうなずく。
「愛してる、慧」
ぼくの額にキスすると、久坂部くんは窮屈な衣装を脱いでくる、と言い残して舞台から去っていった。
「かんぱーい!」
羽田くんの陽気な声が響く。
ぼくたちは、シェアハウスで文化祭の打ち上げをしていた。
クラスメイトとの打ち上げも帰宅する前に行われているので、2次会的なささやかなものだ。
「いやー、どうなることかと思ったけど、無事終わってよかった!
劇も好評だったし、文化祭自体も大成功だったみたいだね、雄也?」
羽田くんが疲れを濃くした千葉くんの持つグラスに自分のグラスをぶつけながらそう言った。
「まあ、そうだな。
しかし、健大、なんだったんだ、あの演出は?」
「え?あれ?
まあ、ああいうのもありかなって」
羽田くんには、久坂部さんとの事情をかいつまんで話してある。
本当に簡単に、ぼくと久坂部くんが過去に関わりがあり、軽く揉めたことがある、程度のものだったが。
羽田くんは深く追求してこなかったし、また、それを吹聴するような人でもない。
だから、羽田くんは、久坂部さんのことを訊かれるたび、のらりくらりと誤魔化してくれた。
「さて、ここからは本題だ」
すると、和気あいあいと盛り上がっているぼくたちに聴こえるよう、羽田くんが声を、張り上げた。
「本題?」
オレンジジュースを飲みながら戸隠くんが首をかしげる。
「そう、とっても大事なこと。
みんな、忘れてない?」
「なんのことだ」
千葉くんも訝しそうに羽田くんへと視線を向ける。
ひとり立ち上がった羽田くんは、注目を一心に集めると言った。
「あのキスのこと」
ぼくはスプーンを取り落としそうになる。
隣では久坂部くんがむせている。
「あれ、本気でキスしてたよね?」
羽田くんが名探偵よろしく切り込んでくる。
「う、あ、あれは……」
ぼくはしどろもどろとなりながら、久坂部くんに助けを求めるように視線を送る。
憮然としていた久坂部くんが、やれやれといった調子で口を開いた。
「本気でしていたが、なにか問題か?」
「あるよ!
問題大あり!
ずるいよ、みんなの慧くんをひとり占めして!
あれ、どういうつもりなの?
ただ仲が良いってだけじゃ、あんなキスできないよね?」
羽田くんと久坂部くんが視線を交錯させ、ばちばちと音が聴こえそうなほどぶつかり合っている。
千葉くんと戸隠くんまで久坂部くんを睨みつけている。
ぼくはどうすべきかわからず、ただおろおろとするばかりだった。
「そうだな、ただ仲が良いだけならあんなキスはしないだろう。
ただ、俺たちは違う」
「……特別な関係ってことだね?」
羽田くんが唇を噛みしめながら悔しそうに訊く。
「まあ、そうだな」
「恋愛関係、と捉えていいんだな?」
千葉くんが絶対零度の声音を出すので、ぼくはすくみ上がった。
「そうだ。
俺と月影は付き合っている」
うう、と戸隠くんが頭を抱えてテーブルに突っ伏した。
一瞬の沈黙のあと、わっとみんなが声を上げた。
「ずるいよ!
いつの間にそんな関係になってたのさ!
僕だって慧くんのこと好きだったのに!」
羽田くんが叫べば、
「共同生活の規律を乱すな、羨ましい!
僕だってまだ諦めてないからな、認めることは断じてできん」
千葉くんが矛盾した主張を展開する。
「……もっとライブに呼ぶべきだったか」
戸隠くんはやはり頭を抱えたまま呻くように低く声を発していた。
「慧くんが久坂部くんを選んだのは認める。
だけど、それが永遠の恋だなんてことはないはず。
僕は慧くんの気を変えさせるためにアプローチやめないから」
羽田くんがなんとも不吉な言葉を織り交ぜながら、久坂部くんに宣戦布告する。
「お前、喧嘩売ってんのか?
いいだろう、受けて立つ。
俺は月影を絶対に手放さないけどな」
「すごい自信だな。
でも、そう言っていられるのも今のうちだ。
僕の本気を舐めてもらっては困るな」
千葉くんまで羽田くんのあとを追って久坂部くんと敵対する。
もう誰も、本心を隠そうとしなかった。
ぼくはあわあわと、みんなに落ち着くよう呼びかける。
「慧くん、僕、絶対諦めないから!
僕を好きになってもらうように頑張るから!
それまでは、みんなの慧くんでいてよ!」
「付き合ってるって言ってるだろうが!
月影は絶対に渡さねえ」
久坂部くんが気色ばんで、ぼくの身体を引き寄せる。
「ああ!
久坂部くんが抜け駆けした!
僕だって慧くんに触りたいのに!」
わざわざテーブルを回り込んで、羽田くんがぼくと久坂部くんを引き離そうとする。
それに、みんなも加わって、取っ組み合いの喧嘩のようになった。
止める人がいないので、ぼくは揉み合いに巻き込まれたあと、疲れたみんなからようやく解放された。
「ま、まあ、今日のところはこれくらいにしておくか。
……疲れたし」
千葉くんがズレた眼鏡を直しながら、冷静さを取り戻して言った。
「そ、そうだね、また、明日から慧くん争奪戦といこうか」
羽田くんもぜえぜえとしながら千葉くんに同意する。
「ただ……月影を好きなのは、俺たちだけじゃないって現実がある。
学校のやつらだって、月影を好きなやつは大勢いる。
ライバルは俺たちだけじゃないぞ、久坂部。
気を抜くとすぐに負けるからな」
戸隠くんが椅子に座り、グラスの中身を飲み干しながら苦々しげに言った。
──そんなに、ぼくのことを好きな人がいるはずがないのに。
ぼくにはまるで、みんなに好かれているという実感がない。
なぜ、ぼくなんかを好きになってくれるのか、いまいちわからない。
でも、ときどきこういう話に出会う。
それが不思議でたまらなかった。
「今日のところはお開きだ。
明日も学校はあるしな。
また明日から、戦闘開始だ」
千葉くんの一言に羽田くんたちがうなずき、さっきまでの殺伐とした空気が嘘のようにみんなで協力して片付けをすると、順番にお風呂に入ってそれぞれの部屋に引き揚げていく。
疲労が極限にまで達していたぼくは、ベッドに倒れ込むと、すぐにも目を閉じてしまいそうだったが、ドアが開かれた音に意識をそちらに向けた。
とたん、身体になにかが覆い被さってくる。
「……久坂部くん……?」
ぼくにのしかかっていたのは久坂部くんだった。
「どうしたの?」
そう訊くなり、キスされた。
久坂部くんの首筋から、清潔な石けんの香りが漂っていた。
「お前は、誰にも渡さないから。
他のやつにほだされるんじゃねえぞ」
ぼくはむきになっている久坂部くんに、つい笑ってしまった。
「わざわざそれを言いにきたの?
大丈夫、安心して、ぼくは久坂部くんだけだよ」
いつの間にか、こういう恥ずかしい言葉も口に出せるようになっていた。
久坂部くんに、自分の気持ちを伝えようと必死だったからだ。
「好きだよ、久坂部くん」
そう言ったところで、ぼくは眠気に抗えなくなり、目を閉じた。
「愛してる」
意識を手放す直前、久坂部くんの声が聴こえた。
波乱の文化祭から数日が経った。
相変わらず、シェアハウスは騒がしい。
ぼくは敵対する久坂部くんと千葉くんたちの間に挟まれて、悩ましい日々を送っていた。
そんな中、珍しく遅くに帰宅した久坂部くんの出で立ちに、ぼくは声を失った。
「久坂部くん、ど、どうしたの、その髪……」
ぼくが訊くと、トレードマークだった白金髪を真っ黒に染めた久坂部くんが、気まずそうに頬をかきつつ言った。
「別に……髪色にちょっと飽きたから、変えただけだ」
なんでもないことのように言っているけれど、久坂部くんの心情になんらかの変化が生じたのは確かだろう。
「明日からリハビリに行くから、帰りは遅くなるぞ」
「リハビリ?」
久坂部くんが手をひらひらと振ってみせた。
「ピアノ、復帰することにした」
「……え?」
「今、なんの支障もなく使えているんだ。
ちょっと鍛えてやりゃまたピアノくらい弾けるようになるだろ」
「そ、そっか……」
そう言ったぼくの顔を見た久坂部くんがぎょっとした表情に変わる。
「な、なに泣いてんだ、お前」
ぼくは鼻をすすりながら溢れる涙を止められないでいた。
「よかった……本当によかった、立ち直ってくれて……。
ずっとぼくのせいで久坂部くんが夢を諦めたこと、気になってたから」
「それは、気にしてないって何度も言っただろ」
「うん、でも、やっぱり申し訳ないって気持ちはどうしても消えなかったんだ」
ぼくが言うと、ふい、と久坂部くんは視線を逸らしながら言う。
「お前の先生役も終わって、時間が空いたから復帰しようかと思っただけだよ。
別に、戸隠に影響されてとか、そういうわけじゃねえからな」
「うん、わかってる。
ピアノ、頑張って」
「あんまり期待すんな。
相当のブランクがあるんだから」
「大丈夫だよ、久坂部くんは神童なんだから。
久坂部くんのピアノ、いつか聴かせてね、ぼくの耳が聴こえるうちに」
なるべく明るい声音で言ったつもりだけど、久坂部くんの表情が強張る。
「あ、いや、えっと、完全に聴こえなくなるまでにはまだ時間があるだろうから、そんなに焦らなくていいんだけど」
慌てて付け加えたぼくを、久坂部くんが抱擁する。
「精進するよ、お前に綺麗なピアノを聴かせるために。
なにが聴きたい?」
久坂部くんは、曲名を聴きたかったのだろうが、ぼくはあえて的外れなことを言ってみた。
「久坂部くんの、声が聴きたいかな」
「欲がないやつだな。
そんなの、毎日だって聴かせてやるよ、飽きるくらいにな」
耳元でそうささやかれ、ぼくはくすぐったくて小さく笑みを零した。
「お前の耳が限界になるまで、聴かせてやる」
「うん」
聴力を失う前、最期に聴きたいのは久坂部くんの声だと、ぼくは遅まきながらはっきりと自覚した。
「あと、うちの母親のことだけど。
実家に行ってうるさい母親を説得してきたから」
「え……大丈夫だったの?」
ぼくは久坂部さんの目の前で久坂部くんとキスしたことを思い出して顔を赤らめながらも不安を隠せずに訊いた。
「この家で暮らすことは承諾させた。
もうお前に会いにきたりはしないから安心しろ」
「そっか……わかった」
久坂部さんから、大事な息子を奪ってしまうようで心苦しいけど、ぼくの毎日の暮らしに久坂部くんがいないなんて、もう耐えられそうになかったので、そこは割り切って甘えさせてもらうことにする。
「だから、好きなだけ俺の声を聴け」
「うん、きみの声が、聴きたい」
ぼくたちが再び熱く抱き合っていると、リビングのほうから「慧くーん?」とぼくを呼ぶ羽田くんの声が聴こえた。
ぼくたちは、慌てて身体を離す。
「あれっ、不良くんが黒髪になってる!
一体どういう風の吹き回し?」
廊下に出てきた羽田くんが、玄関先で佇む久坂部くんを見て目を丸くする。
「うるせえ、関係ないだろ」
「まーねえ、別に久坂部くんが黒髪になろうが僕にはなんの関係もないけどさ。
それより、慧くん、マヨネーズってストックもうないの?」
羽田くんはシャツと短パンの上にエプロンをかけていた。
「あっ、ストック切れてたかもしれない。
ぼく、ちょっとスーパーまで買いに行ってくるよ」
ぼくがサンダルを突っかけて外に出ようとすると、「一緒に行く」と言って久坂部くんも外へと逆戻りした。
梅雨もまだまだ明けない湿っぽい夕方の中を並んで歩く。
久坂部くんがそっと手を握ってきたので、ぼくもそれに応えて握り返す。
言葉はいらなかった。
ぼくたちは、歩幅を合わせてスーパーまでの短い道のりを辿った。
繋いだ手をいつまでも離さない、この人を裏切ったりしない、いつまでも、大切にする──沈みゆく夕日に、心の中で強くそう誓った。



