百合ヶ丘高校では、六月の終わりごろ、文化祭が催される。

 文化祭を運営するため、千葉くんは激務をこなしているらしく、ここ最近、ぼくの部屋にきてはストレス発散のためか大泣きして帰っていく。

 千葉くんと入れ違いにぼくの部屋へ入ってくる久坂部くんは、必ずジト目でぼくを見る。

「う、浮気なんかしてないから!」

 ぼくが、ぶんぶんと手を振りながら弁解すると、久坂部くんは「当たり前だ」と言いながら、またしてもぼくを床に押し倒す。

「そんなことになったら、あいつが泣いてるところ撮って拡散させてやる」

 千葉くんがぼくの前でだけ泣いているのは、偶然現場を目にした久坂部くんだけが握る秘密だ。

 でも、そのことを、他のみんなに黙っている気遣いもできるのが久坂部くんだと、ぼくは勝手に思っている。

「んじゃ、はじめるか」

「はーい、先生」

 今日も今日とて、ぼくは久坂部先生の授業を受ける。

 最近ぼくには、新たな悩みが生まれていた。

 いつか、完全に聴こえなくなったら、ぼくは久坂部くんの声を忘れてしまうんだろうか。

 忘れなくない、と強く思う。

 でも、聴力は落ち続けている。

 音を(うしな)った世界で、久坂部くんのことはどう見えるのだろう。

 それを考えると、置いて行かれたような、取り残されたような、この世でたったひとりきりにされたような、なんとも言えない気持ちになってしまう。

「久坂部くん」

「……あ?」

 授業の途中で、堪らなくなったぼくは声を上げる。

「好きって言って」

 思いの外、懇願するような声になってしまった。

「ああ?
 お前、真剣に授業受けろよ。
 そういうのは、今日の勉強が終わったあとな」

 根が真面目な久坂部くんは、自分に課した『先生役』を遂行しようとする。

「いやだ、今言って」

 はあ、とあからさまに溜め息をつくと、久坂部くんがぼくの耳元に口を寄せてささやく。

「好きだ、慧」

「もう一回」

「ああ?
 しょうがねえなあ、好きだよ、慧、愛してる」

 久坂部くんの耳が真っ赤になるのを見逃さなかった。

 同時に、ぼくはなんてことを言わせているのだろうと、我に返った。

 でも、ぼくは幸せだった。

 愛をささやいてくれる久坂部くんの声を忘れたくない。

 何度も、何度も、ぼくは久坂部くんの声を脳内で反芻する。

 刻みつけるように。

「ほら、続けるぞ、わがまま生徒」

「うん、先生。
 よろしくお願いします」

 落ち込みそうになるとき、ぼくの支えになるのは久坂部くんだけだ。

 どれだけ甘えても、久坂部くんなら応えてくれる。

 だから、罪滅ぼしではないけれど、久坂部くんから「好きって言え」と強要されたら、ぼくは久坂部くんと同じだけの熱量で「好き」だと言う。

 この幸せな時間が永遠に続けばいいのに、ぼくは現実逃避するようにそんなことを考えていた。

 
 
 六月初旬、ぼくのクラスは文化祭で演劇を披露することが決まった。

 文化祭の出し物としては、ベタなことこの上ないのだけれど、演劇部でもあるクラス委員長の一押しもあって、『ロミオとジュリエット』をやることになった。

 ところが、みんな面倒臭がって、クラスの士気はまったく上がらず、話し合いでも決まらなかった役柄を、くじで引いて決めることになった。

 恨みっこなしのくじの結果、ぼくはジュリエット役の、そしてなんと久坂部くんがロミオ役のくじを引いてしまった。

 完全に外れくじを引いた格好で、人前に出るのが苦手なぼくは、この世の終わりのような気分になった。

 他の役柄を不幸にも引き当ててしまったクラスメイトもぼくとそう変わらず、一様にお通夜のような顔をしている。

 しかし、難を逃れたクラスメイトは、この結果を面白がり、だんだん乗り気になってきた。

「いいじゃん、今流行りのBLってやつで、主人公が男同士って面白いかもな」

「大丈夫だ、月影、お前は長髪のウィッグを被ってメイクをすれば、その辺の女子より可愛くなるぞ」

「あ、あたしメイクしてあげるよ!
 月影のことだから、絶対可愛くなるって!」

「じゃあ、あたし衣装担当やろうかな。
 月影の細さならロングドレスとか似合うと思うから、あたし作ってあげるよ」

「俺は大道具やるか。
 DIY好きだし」

 わいわいと盛り上がるクラスメイトをよそに、ぼくは久坂部くんの表情を窺う。

 久坂部くんは、未だ学校では話さないキャラを貫いている。

 どうするのかと思って見ていると、羽田くんが久坂部くんに寄っていって、久坂部くんの机に頬杖をついて、視線を合わせると、にっこりと笑顔を咲かせた。

「頑張ろうね、久坂部くん。
 ぼくが演技指導してあげるし、久坂部くんをイメージして脚本書くから、だから安心して」

 演劇部の羽田くんは、脚本を担当することになっている。

 すると、羽田くんの態度にイラッときたのか、「うるせえ」と久坂部くんが低い声を発した。

 その途端、クラス中が沈黙した。

「え……久坂部が、喋った……」

 久坂部くんは、はっとしたが、にんまりとあやしく笑った羽田くんを見て鋭い目で睨みつけた。

 シェアハウスでともに暮らしている気安さもあって、羽田くんに多少なりとは心を開いていた久坂部くんは、まんまと羽田くんの挑発的な言葉を受け、家にいるときのように言葉を発してしまったのだ。

「なんだ、久坂部くん、ちゃんと喋れるんじゃん」

 羽田くんが勝ち誇ったように(わら)った。

 久坂部くんは、取り返しがつかないと悟ったのか、溜め息をついた。

 クラスメイトみんなが目を丸くして驚いているなか、吐き捨てるように久坂部くんは続けた。

「俺はやらないからな、こんなくだらないこと」

 そう言って、席を立とうとする。

「えー、くだらないって酷くない?
 僕たち演劇部は結構本気でやってるんだけどなあ」

 羽田くんは久坂部くんを恐れるクラスメイトと違い、臆することなく畳みかける。

「今の感じで、ぶっきらぼうに喋ってくれていいよ、そのようにキャラの設定するから。
 そうすれば、演技する必要ないし、ちょっとクセのあるロミオなんて、面白そう。
 月影くんも、そのまま、おどおどしたジュリエットもいいかもね。
 ああ、でも脚色しすぎかなあ。
 これじゃ悲劇じゃなくて喜劇になっちゃうかもなあ。
 どうしよう……その方向でいくか、原作に忠実にいくか……ああ、迷っちゃう」

 ぶつぶつ言いながら、羽田くんの頭の中では、脚本ができあがっていっているらしい。

 ぼくは、羽田くんからなにを要求されるか戦々恐々としていた。

 生徒や保護者で埋まるホールで、ステージに立ち照明を浴び、演技をする──。

 羽田くんや、戸隠くんならステージ慣れしているだろうが、ぼくにとっては悪夢でしかない。

 人前に出て演技するなんて無理だ。

 めまいを覚えながら、そんな大役は無理だと断ろうとしたが、クラスの雰囲気はもうすでに盛り上がっていて、今さら断るもなにもできそうな状態ではなかった。

 クラスの喧騒から置いていかれたぼくは、顔を青くしてくじを引いた自分を呪うばかりだった。

「頑張ろうね、月影くん、久坂部くん」

 にっこりと笑う羽田くんの笑顔は、可愛らしくもあり、悪魔のようでもあった。


 魂が抜けたまま帰宅し、今日の料理当番である千葉くんの作った夕食を味がほぼわからないまま食べたあと、流れ作業のように風呂に浸かって部屋へと戻ると、早速久坂部先生の今日のおさらい授業がはじまった。

「おい、聴いてるのか」

「え、うん、聴いてるよ」

 ぼくはやっぱり上の空だった。

「今日はこの辺りで止めるか。
 お前も、集中できそうにないからな」

「う、ごめん」

 ぼくが教科書を片づけていると、久坂部くんがぼくのベッドに寝転がったまま、文庫本を開いて読みはじめた。

「ふーん、結構ばたばたと死ぬんだな」

 そう呟く久坂部くんに、「なに読んでるの?」と訊く。

 久坂部くんが、ブックカバーを外して表紙を見せてくれる。

「ロミオとジュリエット!?
 なんでそんなの読んでるの?」

「なんでって、下準備はしておいたほうがいいだろ」

「下準備……?」

「ジュリエットって13、4歳なんだってよ、知ってたか?
 有名な『あなたはなぜロミオなの』って台詞も、こんなにさらっと出てくるんだな」

「……久坂部くん……」

「んん?」

 久坂部くんが顔をこちらに向ける。

「もしかして、久坂部くんって、すっごく真面目?」

「はあ?
 なんだそれ。
 褒めてんのか、けなしてんのか?」

「どっちでもないけど……。
 なんでそんなに乗り気なの?」

「乗り気じゃねえよ。
 けど、いい加減なことやって他のやつに迷惑かけたら格好悪いだろ」

「……やるからには全力投球……。
 やっぱり真面目だ……」

 ぼくは久坂部くんに聴こえない声量で呟いた。 



「脚本ができたよー!」

 悪夢から数日、羽田くんが意気揚々と教室にその声を轟かせた。

 配られた脚本は、映画やドラマの台本のような立派なものだった。

 羽田くんの手によって描き出されたロミオとジュリエットは、かろうじて原型を留めてはいるものの、かなり脚色されていた。

 ぼくが演じるジュリエットは、ロミオに一目惚れし、とにかく積極的で、ロミオにぐいぐい迫る。

 対して、久坂部くんが演じるロミオは、特にジュリエットに執着はしない。

 しかし、ロミオはいわゆるツンデレで、会話の節々からジュリエットへの想いが垣間見えるが、素直になれない男、という設定だ。

 内容そのものは、途中まではほぼ原作に忠実に描かれている。

 だが、如何せんキャラの脚色がひどい。

 キャラが個性的すぎて、羽田くんが言っていたように、悲劇というより喜劇に近い。

 昨今流行りのライトノベルみたいだ。

 そして、問題はその結末だ。

 ジュリエットの母親の甥であるティボルトを殺害したロミオは、街を追放され、ジュリエットとのすれ違いから、あの有名な悲劇的な結末が訪れる──のだが、羽田くんが書いた脚本では、ロミオはジュリエットに眠り薬を渡した僧ロレンスの庵室(あんしつ)に姿を隠していて、そのあと起こるすべての出来事を知っている。

 パリスから結婚を迫られたジュリエットが、眠り薬で仮死状態となり、埋葬されたあと、恋敵であるパリスをロミオが討ち、目覚めたジュリエットと結ばれ、ふたりはヴェロナの街を出て幸せに暮らす──これが羽田くんが書いた新訳ともいえる、タイトルが『シン・ロミオとジュリエット』だ。

 つまり、ロミオとジュリエットから、最大の見せ場である『悲劇』を大胆に削り取った形だ。

 ぼくは台本に目を通すと、暗澹(あんたん)たる気持ちに陥った。

 ロミオを溺愛するジュリエットの台詞があまりに大胆すぎてとても恥ずかしい。

 こんな台詞、ぼくからは絶対に生まれない。

 でも、とふと思った。

 これは、ぼくが普段久坂部くんに言いたくても言えない言葉なのではないだろうか。

 つまりぼくは、ジュリエットの台詞を借りて、全校生徒の前で久坂部くんに愛の告白をする、そういうことになるのではないか。

 恥ずかしい、けれど、なんだか大勢の前で、久坂部くんといちゃいちゃするだけの展開にしかならない気がする。
 
 これはシェイクスピアへの冒涜にならないかと心配になるくらいだ。

「じゃあ、早速今日の放課後から練習開始ね!」 


 気が重いまま迎えた放課後。

 教室には、ぼくや久坂部くんを含めたキャストが集められ、羽田くんの指揮のもと、本読みが行われた。

「じゃあ、まずは一番最初、ロミオとジュリエットが出会う場面から。
 キャピュレット家のパーティーに潜入したロミオに、ジュリエットが一目惚れしたところね、はい、月影くんの台詞から」

 みんなの視線を一心に受け、ぼくは震える唇を開いた。

「ああ、なんという美しいお人。
 ぜひお名前を教えてくださいませんか。
 あなたは、女神に愛されたお方、神々が創りしこの世の奇跡。
 どうか、わたくしと結婚してください」

「ストップ、ストーップ!」

 ぼくが真っ赤になった顔を台本で隠しながら蚊の鳴くような声でぼそぼそと台詞を読むと、即座に羽田くんがそれを遮った。

「全然気持ちが入ってないよ、月影くん!
 声も細いし、まずは腹式呼吸から教えないと駄目かなあ。
 せめて、口を大きく開けて、発音もはっきりするように心がけて」

「う、うう……ごめんなさい。
 ……本当に、ぼくにこんな大役がつとまるのかな……?」

「つとめてくれなきゃ困るよ。
 外れくじであることはわかるけど、人に見せるものだからね、そこは割り切ってもらわないと」

 さすが演劇部員、この劇に懸ける羽田くんの情熱は本物だった。

「じゃ、次、久坂部くん」

 久坂部くんがつまらなそうにピアスをいじりながら台本を読み上げる。

「誰だ、お前。
 気安く声をかけるな。
 でも、そんなに俺の名前が知りたいのなら教えてやらんこともない。
 ロミオだ」

 こちらは、いつも通り、ぼくの前で見せる久坂部くんのテンションそのままだ。

 羽田くんが久坂部くんをイメージして書くと言っていただけあって、演じているふうもなく、それが逆にロミオのキャラにリアリティを持たせている。

「ロミオ様、わたくしの太陽。
 愛しております、わたくしはジュリエット、どうかお見知り置きを。
 あなた様のためならこの人生、すべて懸けてみせますわ。
 どうかわたくしと、添い遂げてくださいませんこと?」

「お前がジュリエットか。
 俺と結婚したいだと?
 ふん、考えてやらんこともない」

「ああ、どうか恋い焦がれるロミオ様、わたくしと永遠を誓ってください」
 
──暗転、ロミオの独白。

「ジュリエット姫が俺を選んだ。
 この俺をだ!
 こんなに嬉しいことがあろうか!」

 出会いの場面はここで終わる。

 ぼくと久坂部くんの台詞を聴いた羽田くんは、険しい顔をして、「練習、頑張ろうね」と非常に(くら)い声で言うばかりだった。



 家に帰り、ぼくは虚ろな眼差しでベッドに寝転がり、天井を見上げていた。

 はあ、と無意識に溜め息が出る。

 台本には何度か目を通し、自分の台詞を覚えようと努力したが、恥ずかしさが邪魔をしてなかなか頭に入ってこない。

 と同時に、ぼくはある決断を迫られていた。

 ぼくの人生を左右しかねない決断を。

 考え込んでいると、ノックもなしにいきなり部屋のドアが開けられた。

 怠惰に横たわるぼくを、久坂部くんが呆れたような目で見ていた。

「おら、授業はじめるぞ、ぐうたら生徒」

 ぼくは、はーい、と返事をしてのろのろと起き上がる。

 ラグの上にあぐらをかいた久坂部くんを、じっと見つめる。

「なんだよ?」

 怪訝な目で久坂部くんが見つめ返す。

「……久坂部くん、ちょっと相談があるんだけど」

 ぼくは覚悟を決めると久坂部くんの隣に座った。

「あのね、実は……」

 ぼくの告白を聞いた久坂部くんは、しげしげとぼくを見つめたあと、神妙な顔つきで言った。

「お前が決意したのなら、それが正解なんじゃないか?」

「そう……なのかな」

「失敗したら俺が責任取ってやるよ」

「なんで久坂部くんが責任取るの?」

 ぼくはつい、くすっと笑ってしまったが、久坂部くんの目は真剣そのものだった。

 揺るがない久坂部くんのメンタルが少し羨ましく、頼もしい言葉をくれる久坂部くんに憧れも抱いた。

 ぼくはその夜、とある決意を胸に眠りについたのだった。



 翌朝、ぼくは緊張しながら学校へと登校した。

 心臓をどきどき走らせながら、教室へ入る。

「おはよう、月影……ん?」

 声をかけてくれたクラスメイトがぼくを見るなり首をかしげた。

 他のクラスメイトも、徐々にぼくの異変に気づきはじめ、教室内はいつもよりざわざわとしだした。

「月影、お前、それどうした?」

 みんなの視線はぼくの耳の、補聴器に向けられていた。

「あ、うん……実は……」

 ざわめきが、今までより多少クリアに、明瞭に耳に届く。

 それでも、子どものころよりは聴力は確実に失われている。

 ぼくは口ごもりながらも続けた。

 背後にいた久坂部くんが、誰にも気づかれない程度にぼくの背中を軽く叩いた。

「聴こえ、ないんだ、ぼくの耳。
 だから、家にいるときは補聴器を着けてる。
 それでも満足に聴き取れるわけじゃないんだけど……。
 コンプレックスだったから、学校では聴こえるふりをして隠してた」

 クラスメイトはあんぐりと口を開けてぼくの言葉を聴いている。

「聴こえてない……?
 嘘だろ、お前、全然そんなこと感じなかったぞ」

 クラスメイトが信じられないというように言った。

「読唇術でなにを言ってるかは理解できてたんだ」 

「だからお前、あんまり喋んなかったの?
 大人しいだけだと思ってたけど、そういうことか」

 すると、女子生徒がなぜか嬉しそうに笑顔を浮かべ言った。

「じゃあ、今あたしの声はちゃんと聴こえてるってことだよね?
 どう、あたしの声、綺麗?」

「え、あ、うん……」

 ぼくが面食らっていると、クラスに、「なーんだ」という空気が生まれる。

「最初から補聴器着けて学校くればよかったのに。
 誰も笑ったり馬鹿にしたりしないよ」

 そうだそうだと、その言葉にみんなが賛同のうなずきを返す。

 ぼくはなんだか泣きそうになってしまった。

 ぼくは一体なにを怖がっていたのだろう。

 一歩踏み出してみれば、世界はこんなに優しかったというのに。

「みんなの声が聴こえて、ぼくも嬉しいよ」
 

「だろ?
 だから遠慮なんかする必要なかったんだよ」

「逆によく聴こえないなか1年以上耐えたな。
 そっちのがすげーわ」

「読唇術ってすごいんだねえ」

 クラスメイトが口々に意見を述べる。

「でも、なんで急に隠してたこと話す気になったの?」

 それは当然の疑問といえる。

「文化祭の劇をやることになって、限界を感じたんだ。
 みんなの台詞が聴こえないと、演劇なんて無理だって」

 みんなが納得したようにうなずいた。

「聴こえないってことでいじめられるとでも思ったのか?
 信用ねえなあ、俺たち」

「ま、これから困ったこととか聴こえなくて不便なことがあったら遠慮なくみんなを頼ってよ」

 みんなの言葉が嬉しくて、ぼくは涙目になって何度もうなずいた。

「泣くなって、本当可愛いな、月影は。
 だから争奪戦になるんだけどな」

 男子生徒の謎の言葉に首をかしげていると、始業のチャイムが鳴り響いた。

 自分の席に散り散りになるクラスメイトの中、久坂部くんがぼくの肩を力強く叩いた。

 ぼくは必死に涙を堪えた。

 もっとクラスメイトを信じていればよかった、心から申し訳なく思った。

 こうしてぼくは、人生における難関を突破した。


 
「ここで、あの有名な台詞が出てくるわけだ、ほら、言ってみろ」

「うん……。
 ああロミオ様、あなたはなぜロミオ様なの?」

 ぼくが恥ずかしさを押し殺して言ったのに、「棒読みだな」と久坂部くんが一刀両断した。

「続けろ」

「うん……。
 ロミオ様、わたくしたちの間には、両家の怨恨という大きな壁が横たわっていますわ。
 ああ、忌まわしい!
 そうでなければ今すぐに、ロミオ様と夫婦になれるのに!」

「俺がロミオだろうがなんだろうが関係ない。
 両家の怨恨?
 くだらないな、そんなもの、俺にはないも同然だ」

「でしたら、わたくしと結婚してくださいますか?」

「お前がどうしても、というのなら仕方ない。
 明日、ロレンスの庵室にこい。
 お前と永遠の契りを交わしてやろう。
 別に、俺はそんなものしなくて構わないんだが、お前がそこまで言うなら仕方がない、ああ、仕方がない。
 面倒で堪らないが仕方がない」

「なんと言う歓び!
 わたくしの心は天にも昇る心地ですわ!
 あなたと結ばれる明日を夢見てわたくしは眠りにつきます、おやすみなさい!」

 ぼくがそこまで言うと、久坂部くんが、ふうん、と台本に目を落とす。

「これで翌日には結婚か。
 出会いから結婚までの速さが尋常じゃないな。
 昔はこれでよかったのか?
 で、結婚したというのにパリスというやつがジュリエットに結婚を迫るわけだな」

 パリスを演じるのは、立候補した羽田くんだ。

「ジュリエットは婚姻を避けるためにロレンスから眠り薬をもらう……。
 そして、ロミオはパリスと……」

 そこまで久坂部くんが言ったところで、部屋のドアがノックされた。

「はい」

 すると、遠慮がちにドアが開き、羽田くんが顔を覗かせた。

「ごめんね、もしかして、自主練中だったりした?」

 ぼくと久坂部くんが台本片手に突っ立っているのを見て、やや驚いたようだ。

 久坂部くんが毎日ぼくの部屋にきていることは誰も知らないから、びっくりするのも無理はない。

「ちゃんと練習してくれてるんだね、感心感心」

 羽田くんが納得したように言うので、ぼくは赤面した。

「いや……、これは、その」

 言い淀むぼくに、羽田くんが笑いかけた。

「練習のお誘いにきたんだ。
 雄也たちも協力してくれるっていうから、みんなで練習しない?」

「千葉くんたちが?」

「うん、ふたりで練習するより臨場感が増すと思うよ、どうかな?」

 ぼくが迷っていると、久坂部くんがうなずいた。

「いいんじゃないか?」

 久坂部くんがそう言うので、ぼくも渋々うなずいた。

 リビングに行くと、みんな勢揃いでぼくと久坂部くんを迎えた。

「雄也はロレンスを、晴雅はティボルトを演ってくれ。
 じゃあ、ロレンスがジュリエットに眠り薬を渡すシーンからいこうか」

 全員台本片手に、それぞれに振り当てられた台詞をやけに情感たっぷりに読み上げる。

 その熱意に当てられて、ぼくも徐々に台詞に感情が載っていく。

「次はジュリエットが埋葬され、その墓の前でのロミオとパリスの決闘のシーン。
 とびっきり嫌なパリスを演じるから、久坂部くんもそのつもりでね」

 決闘のシーンなので、剣で闘い合うアクションがある。

 嘘くさくならないように、羽田くんが久坂部くんへ演技指導に入り、細々(こまごま)とアドバイスをしていく。

 その間に、ぼくは千葉くんたちに手伝ってもらって、ジュリエットを仕上げていく作業に入った。

 冷静な千葉くんの意見を参考にし、ステージ慣れしている戸隠くんから堂々とみえる立ち居振る舞いを教えてもらう。

 とにかく恥ずかしがらないこと、戸隠くんが最も主張したのはその一点だった。

 パリスが倒れてジュリエットとロミオが結ばれるラストまで通して稽古すると、すっかりいつもの就寝時間を過ぎていた。

 しかし、収穫がなかなか多かったので、あっと言う間にしか感じなかった。

「お腹空かない?
 簡単な夜食なら作れるけど」

 稽古に付き合ってもらったお礼の気持ちを込めて、ぼくがそう提案すると、みんな異論はなさそうだった。

 余ったときに冷凍しておいたお米をレンジで温め、人数分のおにぎりを作る。

 具材は冷蔵庫にあったものを適当に使うことにする。

 なので、それぞれ違う具材になった。

 深夜のダイニングで、熱い羽田くんの演技論を聴いたり、俯瞰した位置から見たアドバイスを千葉くんからもらったりしているうちに、ぼくの中に凝り固まっていた不安が徐々にほぐされていくのがわかった。

 ぼくはひとりじゃない。

 この劇は、みんなで創り上げるものだ。

 いつしか久坂部くんも、ごく自然に会話に参加している。

 ぼくも、笑っている時間が増えたことを実感していた。

 シェアハウスにしてよかった。

 話を弾ませるみんなを眺めながら、はじめてぼくはそう思った。

 盛り上がった深夜の語らいもお開きとなり、ぼくが食器の片付けをしていると、羽田くんに突然声をかけられた。

 みんな部屋に引き揚げていると思っていたので、これにはびっくりした。

「慧くん、ちょっと話したいことがあるんだ」

 ただならぬ羽田くんの様子に、ぼくに緊張が走る。

 演技のダメ出しだろうか?

 ぼくが身構えていると、羽田くんは真剣な面持ちを崩さないで言った。

「文化祭が無事終わったらさ、聴かせてほしいんだ」

「……え、なにを?」

「ずっと待ってるんだよね、告白の返事。
 慧くんにしっかり考えて答えを出してほしいと思ってたから、急かすことはしなかったけど、同じ家に好きな人と一緒にいて宙ぶらりんな状態はなかなか堪えるんだよね」

 そうだ。

 ぼくは羽田くんのみならず、千葉くんや戸隠くんから寄せられた好意すべてにまだ明確な答えを告げていない。

 あまりにみんながぼくに優しいので、不誠実にもぼくはそれに甘えてずるずると告白の返事を先延ばしにしている。

 久坂部くんを好きだと、言えないでいる。

 これはいけない。

「わかった、文化祭が終わったら」

「うん、どんな答えを慧くんが出したとしても、恨んだり呪ったりしないから」

「え……、う、恨む……?」

 ぼくが後ずさると、けらけらと羽田くんが笑った。

「はは、冗談だよ。
 まずは文化祭、成功させようね、慧くんなら大丈夫」

 おやすみ、と言って、今度こそ羽田くんは階段を上がっていった。

 文化祭が終わったら……。

 答えならもう出ているけれど、本心を告げるのは、なかなか気の重い話でもあった。