生徒会に、1年生が会計として加わるという。

 ぼくは、そんな千葉くんの話を、上の空で聴いていた。

──久坂部くんの様子がおかしい。

 ぼくの頭の中を支配するのはそのことばかり。

 考えてみると、戸隠くんのライブに行ったあとから、久坂部くんはいつもとは違うような気がする。

 今のぼくのようになにを言っても聞いても上の空で、ぼんやりとしている。

 勉強はいつも通り、わかりやすく教えてくれるし、ぼくがまごつくとキレて押し倒してくるのは変わらない。

 だから、なにがどうおかしいとか、変だとかは言えないのだけれど、なんだか違う。

 そんな正体不明の違和感が、久坂部くんを覆っているようで、ぼくも勉強に身が入らない日が続いていた。

 憂いを帯びた、とでもいうべき表情の久坂部くんに、ぼくはその理由をなかなか訊けないでいた。


 大型連休が明け、高校が再開してからもずっと、ぼくは久坂部くんのことが気がかりで仕方なかった。

 そして、それは突然やってきた。

 珍しく、家にぼく以外誰もいない休日のお昼過ぎ、来客を告げるチャイムが鳴った。

 千葉くんは生徒会の仕事で、羽田くんは部活に、戸隠くんはバンドの練習に、久坂部くんはどこへ行くとも告げずに、みんな出かけていた日のことだった。

「はい」

 玄関を開けると、そこには見知らぬ中年女性が険しい顔つきで立っていた。

 どこかで会ったような既視感があって、知り合いだろうかとぼくは首をかしげる。

「あの……」

 ぼくが戸惑って口ごもると、女性が低い声を発した。

「月影慧さん、ね?」

「え、あ、はい」

「わたしのことは、わからないわよね。
 顔を合わせたことは一度しかないものね。
 わたし、久坂部礼子(くさかべれいこ)といいます。
 あなたが殺した久坂部紗雪の、母親です」

 ぼくはなにか硬いもので頭を殴られた気がした。

 
 衝撃が()めないまま、ぼくは久坂部さんをリビングに通して緑茶をローテーブルに置いた。

 久坂部さんは、眉間にしわを深く刻んで一点を見据えたままで、ぼくとは視線が合わないはずなのに、なぜか鋭いその視線に貫かれるような気がしてならなかった。

「紗雪が家を出ると言い出したのも驚きましたが、まさか、あなたと同じ家に住むためだなんて、思いもしませんでした」

「え、あの……」

 ぼくがなにも言えずにいると、久坂部さんは、はっとしたように目を見開いた。

「……そうだったわね、あなたは耳が不自由だったのよね。
 わたしの声、聴こえているかしら」

「ああ、はい、大丈夫です、補聴器を着けているので」

「そう、聴こえているの。
 では、早速本題に入るわね。
 息子を、紗雪を連れ戻しにきました。
 息子を返してください」

 ぼくは言葉を失った。

 呆然とするぼくに構わず、久坂部さんは話を進める。

「あなた、まさかとは思うけれど、事故のこと、忘れているわけじゃないでしょうね?」

「……事故のこと?」

「ええ、覚えているわよね、紗雪のこと。
 あなたが犯した罪のこと」

 瞬間、ぼくの脳が沸騰し、ある可能性がよぎり、ぼくは戦慄する。

──ぼくに迫ってくるトラック、ぼくを突き飛ばす手、制御を失い衝突するトラックの轟音、道路に倒れ伏す『さっちゃん』。

 映像が鮮明に映し出され、ぼくの呼吸が荒くなる。

 久坂部紗雪。

──さっちゃん。

 そう思った途端に、連鎖的に眠っていた過去の記憶が呼び覚まされ、まるでひとつの映画でも観ているように脳の中で再生をはじめる。

 ぼくの聴力が失われていくと医師に宣告されたあと、父親はぼくに音を覚えさせるため、近所のピアノ教室に通わせた。

 いずれ聴こえなくなるとしても、『音』を知っておいてほしい、覚えていてほしいという父親なりの優しさからだった。

 3歳のとき、ぼくは同じ教室に通う『さっちゃん』と出会った。

 黒髪を肩まで伸ばし、中性的で綺麗な顔立ちをした女の子──幼いぼくはそう認識していた。

 ぼくはさっちゃんのフルネームを知らず、他の子どもがそうしていたように、たださっちゃんと呼ぶだけだった。 

 さっちゃんは、天才と評されるほどピアノの能力に恵まれていた子どもだった。

 将来はプロになるのだと生き生きとした表情で夢を語っていたことを思い出す。

 なかなか上達しないぼくの隣に座って、鍵盤のぼくの指に自分の指を重ねて、リズムを教えてくれた。

 補聴器を着けているぼくを放っておくことができない心優しい子だった。

 レッスンに遅れがちなぼくに付き合って、嫌な顔ひとつせず遅くまで練習に付き合って、聴き取れるように耳に顔を近づけて話してくれる気遣いのできる子でもあった。  

 そうして1年も過ごすと、ぼくはさっちゃんのことを好きになっていた。

 さっちゃんは、ぼくのことを深く理解しようと、耳栓をしてピアノを弾いたりして、ぼくの住む世界を知ろうとしてくれた。

 さっちゃんも、ぼくを好きだと言ってくれた。

 さっちゃんと両思いだとわかった日は、天にも昇る心地だった。

 ぼくたちは、将来を誓い合った。

 大人になったら、結婚しようと約束した。

──どうして忘れていたのだろう。

 こんな幸せに満ちた日々のことを。

 誰かを好きになったことなどない、そう千葉くんたちに語ったぼくの言葉は、完全に誤りだったのだ。

 そして、それを聴いたとき、久坂部くんは、なにを思っただろう。

 そもそも、久坂部くんがシェアハウスに現れたのは、偶然だったのだろうか。

 久坂部くんは、薄情なぼくのことを、覚えていたのだろうか。


 小学校に入学する直前のことだった。

 レッスンを終えて帰宅の途につこうとしていたぼくは、教室を出て歩き出した。

 地震のように、道路がやけに揺れている気がして、ぼくは足を止めた。

 振り向いたぼくの目の前に、大型トラックが迫っていて、けたたましくクラクションを鳴らしながら近づいてくる。

 ブレーキをかける様子はない。

「慧くん、危ない!」

 とっさのことに動けないでいるぼくを、そう言って誰かが突き飛ばした。

 鈍い衝撃音がしたかと思うと、ぼくは道路にごろりと転がって、壁に身体を打ちつけた。

 顔を上げると、制御を失ったトラックが、ぼくのすぐ横の壁に激突してやっと停まった。

 ぼくのことを慧くんと呼ぶのは、たったひとりしかいない。

「さっちゃん!」

 とっさにぼくは叫んだ。

 道路の真ん中に、うつ伏せにさっちゃんが倒れていた。

 その身体から、道路に血が滲むのを、ぼくはまるで現実のこととは思えず眺めていた。

──さっちゃんがぼくを(かば)って轢かれたんだ。

 夕闇の中でも、はっきりとわかる惨状に、頭の中が真っ白になった。

──さっちゃんが、死んでしまった。

 さっちゃんはぴくりとも動かなかったから、幼いぼくがそう思ったのも、無理はないことだった。

 やがて、大人たちが集まってきて、さっちゃんは助け起こされた。

 しかし、ぐったりとしたさっちゃんは意識がなかった。

 ぼくにも怪我はないかと、ピアノ教室の先生が訊いてくれた気もするが、よく覚えていない。

 ただ、ぼくは恐怖に震えていた。

──さっちゃんを、殺したのはぼくだ。 
 
 かすり傷を負っていたぼくと、さっちゃんは病院へと連れられていった。

 簡単な処置を受け、さっちゃんが運び込まれた手術室の前のソファで途方に暮れていると、着の身着のままといった様子の女性が病院に駆け込んできた。

「さっちゃん!さっちゃん!」

 女性は恐慌状態に陥りながら、手術室へと続くドアを叩いていた。

 さっちゃんのお母さんだとすぐにわかった。

 すると、振り向いたさっちゃんのお母さんとぼくの目が合い、途端にぼくは泣き出してしまった。

「ご、ごめんない……ぼくが、ぼくのせいなんです……。
 ぼくを助けるためにさっちゃんが、トラックに、轢かれて……」

「……あなたの?」

 さっちゃんのお母さんの目がぼくの補聴器に止まる。

「あなた、耳が?」

「……はい、でも、ぼくが気をつけていれば、こんなことには……」
 
 そう言ったぼくの頬を、お母さんはぴしゃりと張った。

「人殺し!人殺し!
 さっちゃんになにかあったら、許さないから!」

 頬を叩かれたショックで、ぼくの涙はぴたりと止まり、それからぼくは強烈な罪悪感に襲われた。

 ああ、ぼくはヒトゴロシなんだ。 

 ぼくが放心状態になっていると、抑えめの男性の声がそばで聴こえた。

「おい、礼子、やめないか、相手は子どもだぞ」

 仕事から慌てて駆けつけたのだろう男性はスーツ姿だった。

 さっちゃんのお母さんの肩を抱き、必死になだめようとしている。

 さっちゃんのお父さんなんだとわかった。

「それがなんなの!?
 あの子が犠牲になってまで助ける価値が、この子にあるっていうの?」

「おい、いくらなんでも言いすぎだ」

 さっちゃんのお母さんはお父さんの手を振りほどこうと抵抗しながら暴れていた。

 このとき、ぼくはさっちゃんのお母さんが放ったこの言葉の意味を理解できていなかったと思う。

 しかし、この言葉は歳を重ねるに連れ、ぼくの胸に深く突き刺さった。

 その後のぼくの人格形成に大きな影響をもたらした言葉だった。

 ぼくは犯罪者なんだ、と、ぼくは十字架を背負って生きていかなければならないのだと、決して幸せになってはいけないのだと、自分をがんじがらめにして、自信を失って、今の消極的な性格はこの言葉から作られている。

 まだ恨みがましい目をぼくに向けるさっちゃんのお母さんを連れて、お父さんはぼくにひとつうなずいてみせると、その場を立ち去った。

 父親が迎えにくるまで、ぼくは茫然自失状態となり、そのときの感情を、あまり覚えていない。

 事故後、父親がひとりでさっちゃんの家にお詫びにいった。

 ぼくも行きたいと言ったけれど、事故直後のさっちゃんのお母さんの様子から、お前がいると刺激になるから、と同行は許されなかった。

 帰宅した父親が語った内容は衝撃的なものだった。

 さっちゃんの手術は成功し、少しの入院生活を経たあと退院した。

 さっちゃんは全身に怪我を負っていたが、中でも手に受けた傷が深刻だという。

 日常生活に支障はないくらいに回復はするが、ピアニストを目指すには致命的な後遺症が残るだろうとのことだった。

 血の気が引いた。

 脳裏に、プロになる夢をきらきらした瞳で語っていたさっちゃんの顔が浮かび、ぼくは打ちのめされた。

──さっちゃんから夢を、将来を奪ってしまった。

 すぐにでも、さっちゃんと会って謝りたかったけれど、事故後、さっちゃんはピアノ教室を辞めてしまい、会うことは叶わなかった。

 その後を追うようにぼくも教室を辞めた。

 耳の調子が悪化したからだ。

 それから今に至るまで、ぼくはさっちゃんと会っていない。

 今、なにをしているのかも知らない。

 ぼくをどれほど恨んでいるのかも、知らない。

「あなたのせいで、紗雪の夢は絶たれました。
 中学に上がるころにはすっかりグレてしまって、まともに学校にも行かず、自暴自棄に暮らしていました」

 毅然とした久坂部さんの言葉で、ぼくは我に返る。

「でも、高校に入ってからは不思議とそれも落ち着いて、毎日学校に通うようになりました。
 見た目は相変わらず不良そのままでしたが」

 久坂部さんは落ち着き払った声音で続ける。

「わたしたち親は、紗雪が立ち直ってくれたのだとほっとしていました。
 いきなりシェアハウスに引っ越すなんて言い出したときには驚きましたが、せっかくあの子が自分の将来のことを考えてくれたことが嬉しくて、その気持ちを尊重しようと許可したんです。
 でも、どうして急にそんなことを言い出したのか不思議で、少し調べさせてもらいました。
 そして、あなたと一緒に住んでいることを知って、信じられない思いでした。
 自分の夢を絶たせた原因であるあなたと、どうして一緒に暮らしているのか、電話をして訊いても、答えてくれません。
 それで、わたしは気づいたんです。
 紗雪は、あなたに復讐するつもりで近づいたのだと」

 ぼくは目を見開く。

──復讐。

「だから、あの子がなにか大変なことをしでかす前に、連れ戻す必要があると思ったんです。
 これは、あなたのためでもあるのですよ、わかってくれますよね?」 

──久坂部くんが、ぼくに復讐する?

 ぶっきらぼうだけど、優しさをくれる久坂部くんが? 

 ぼくのために毎日授業を丸暗記してくれている久坂部くんが?

──信じられない。

 いや、信じたくない。

 ぼくにはどうしても、久坂部くんと復讐という言葉が結びつかなかった。

「今、紗雪はどこに?」

「あ……今は外出中です……。
 どこへ行ったのかはわかりません」

「そう……。
 今日中に家に連れ帰るつもりだったけど、不在なら仕方ないわね、日を改めるわ。
 また明日、迎えにきます。
 今日中に荷物をまとめておくよう、あとで紗雪に連絡して、話はこちらでつけます。
 だから、もう二度と紗雪に関わらないでください」

 そう言うと、緑茶に手をつけないまま、久坂部さんは立ち上がった。

「では、また明日」

 引き留める暇もなく、リビングを出て、玄関へと向かった久坂部さんは、振り向くことなく家を出て行った。

 夕方になり、久坂部くんは普段通りの顔で帰ってきた。

 すぐに千葉くんたちも帰宅したので、復讐云々のことを直接訊く暇はなかった。

 ぼくはずっと不安の中、夕食を摂り、最後に風呂に浸かると掃除をして、誰もいないリビングの照明を落として自室に引き揚げた。

 いつも通りノックもせずに部屋に入ってきた久坂部くんは、少しだけ表情を強張らせているようにみえた。

 今日は休みだから、授業はないはずだ。

 ベッドに座って悶々としていたぼくは突然現れた久坂部くんに目を丸くした。

 久坂部くんは定位置のラグの上にどかりと座り込むと、ぼくと視線を合わせて言った。

「俺の母親がきたらしいな」

「あ、う、うん」

「さっき電話があった。
 実家に戻れってさ。
 悪かったな、どうせ迷惑なことしか言わなかっただろ?」

「あ、いや、そんなことは……」

「うちの母親は俺のこととなると暴走する悪癖があってな、まあ、ひとり息子がこんな体たらくなんだから、気が気じゃないのも、わかる気がするが」

 久坂部くんの口ぶりは普段となにも変わらない。

 けれど、そんな久坂部くんを見ているうちに、ぼくの瞳には涙が溢れて止まらなくなった。

 顔を上げ、それに気づいた久坂部くんが、ぎょっとした表情に変わる。

「や、やっぱりなんか言われたんだな?
 すまない、なんて言ったらいいか……」

 ぼくは、ぶんぶんと頭を振る。

「ごめんね、久坂部くん……。
 ぼく、気づかなくて……。
 久坂部くんが、さっちゃんだったなんて。
 久坂部くんの夢を奪ったぼくに、復讐しようとするのは、ごく自然なことだよ……」

 すると、久坂部くんが眉を吊り上げて苦い表情になった。

「おい、待て、復讐……?
 お前、うちの母親になにを吹き込まれた?」 

「……久坂部くんが、ぼくを庇って怪我をして、プロのピアニストになる夢を……絶たれたから、元凶であるぼくに復讐するために、この家にきたんだって……」

 ぼくは情けなく鼻をすすりながら途切れ途切れに説明をする。

 それを聞いた久坂部くんが、心底呆れたような、同時に少し疲れたような口調になって言った。

「馬鹿か、お前。
 なに馬鹿正直にそんなこと信じてるんだよ」

 溜め息をつきつつ、久坂部くんは続ける。

「確かに、お前が俺に気づかなかったのは、多少はショックだったが、こんな見た目だ、わからなくても仕方がないと思っていた」

「ううん、そうじゃなくて、ぼく、さっちゃんのこと、女の子だと思ってたんだ。
 だから、まさか久坂部くんがさっちゃんだなんて、思いもしなくて……」

「はあ?
 女の子?
 お前、マジで言ってんのか?」

「え、うん、本気、だけど」

 久坂部くんが頭を抱えて床に転がる。

「じゃあ、お前は、俺が女だと思って結婚しようなんて誓ったわけか」

「う、うん、そう、だね」

「……じゃあ、さっちゃんが男だと知った今、お前はさっちゃん──つまり俺と将来を誓い合った約束は果たさない、そういうことだな?」

 どこが怒ったような、拗ねたような口調で言ったあと、久坂部くんはすぐさま立ち上がって、ドアへと向かって歩き出した。

「久坂部くん?」

「出ていく。
 俺は、お前がいるからこの家にきたんだ。
 一緒にいたかったから、そばにいたかったから。
 でも、お前にそんな気はなかったんだな。
 だったら、ここにいる理由はない、実家に帰る」
 
──久坂部くんがいなくなってしまう!

 ぼくは、ベッドから立ち上がって久坂部くんを後ろから抱きしめた。

「行かないで!
 怪我させたこと、本当にごめんなさい。
 復讐だって、好きなだけして構わないから、だから、ぼくのことを恨んでも嫌っても構わないから、そばにいて!」
 
 我ながら、矛盾したことを言っている自覚はある。

 でも、もう止まらなかった。

 久坂部くんが振り返らないまま静かな声で言った。

「だから、母親の言うこと真に受けんなって。
 俺がいつそんなこと言った?
 お前を憎んだ? 
 お前は俺より俺の母親の言ったことを信じるのか?」

「そ、それは……」

 ぼくが言い淀むと、振り返った久坂部くんがぼくの腕を振りほどき、肩を押してベッドに押し倒された。

 ぼくにのしかかった久坂部くんが、至近距離まで顔を近づけて不敵に笑う。

「お前、俺のこと好きだろ」

 自信に満ちた声音だった。

 ぼくはまた涙を浮かべる。

 胸に去来する気持ちに、その正体に、遅まきながらぼくは気づいた。

「うん、ぼくは、久坂部くんが好きだよ、大好きだ。
 男だとか、女だとか、そんなの関係ない」

 ぼくがそういうと、久坂部くんが耳元に口を寄せて、ささやいた。

「馬鹿、俺のほうが好きだっての」

 そのあまりにも甘い台詞に、ぼくは脳まで痺れたように熱い吐息をはいた。

「でも、こんなの許されるのかな?
 ぼくは、久坂部くんから大切な夢を奪ったんだよ。
 ぼくのこと、恨んでないの?」

「恨んでたら、同じ高校にお前がいることに気づいて、いつか役に立つだろうと授業を丸暗記なんてしない」

「……それは、そうだね」

 久坂部さんは、久坂部くんが高校に毎日通うようになったことを不思議がっていた。

 それが、ぼくのためだという、揺るぎない事実が、久坂部くんのぼくへの気持ちを表している気がして、ぼくは顔を真っ赤にする。

「そりゃ、ピアニストになる夢は諦めざるを得なくなった。
 理不尽な現実に神ってやつを呪って、不良にまで堕ちた。
 でも、それがなんだ?
 だからなんだ?
 俺たちを分かつ理由になるのか?
 俺は夢と引き換えに、一番大事な人の命を守ったんだ。
 それは、俺のクズみたいな人生で、唯一誇れることなんだよ」

「ぼくを、助けたことが……?」

 久坂部くんの手が涙に濡れたぼくの頬に触れる。

「だから、お前はなにも考えずに、こうして、俺といちゃいちゃしてればいいんだよ」 

 そう言って、ぼくの頬にキスをする。

「じゃあ、この家を、出ていかないって、ことだよね?」

「当たり前だろ、お前と同棲するために俺はここへきたんだ」

「ぼくは、久坂部くんを好きでいていいんだね、許されるんだね……」

「だから、そう言ってるだろうが、馬鹿かお前は」

 言葉にそぐわない優しい手つきで、ぼくの髪を撫でる。

 ぼくは久坂部くんの手に自分の手を重ね、その温もりを感じてまた涙を零した。

「なんでまだ泣いてるんだよ」

「嬉しくって……。
 さっちゃんと結ばれたことが、この上なく嬉しくって」

「その呼び方やめろ」

 途端に不機嫌そうな顔になると久坂部くんは言った。

「ふふ、ごめんね」

 ぼくが笑いながら言うと、久坂部くんがぼくの耳元に口を寄せて言った。

「好きだって言え、俺のこと。
 お前の声が聴きたい」

「好き、だよ、久坂部くん」

 すると、珍しく照れたように久坂部くんがはにかんだ。

「だから、お前以上に俺のが好きだって。
 で、お前約束を果たす気はあるの?」

「約束?」

「ガキのころした、結婚の誓い」

「うん、もちろん!
 久坂部くんの隣にいられるなら、結婚だろうが同棲だろうが、なんだってするよ」

「今の法律じゃ結婚は無理だがな。
 じゃ、誓いのキスといこうか」

 そう言うと久坂部くんは、ぼくの唇にキスをした。

 柔らかくて甘い、優しいキスだった。

 ぼくは目を閉じ、ただ揺蕩(たゆた)うように身を委ねる。

「……誓ったからな。
 他の男に惑わされるなよ」

 顔を離した久坂部くんがぶっきらぼうな調子で言う。

「お前はもう、俺のものだ」

 勝ち誇ったように久坂部くんが言い放った。

 ぼくはただただ、経験したことのない多幸感に包まれていた。

 ふたり並んでベッドに腰かけながら、他愛のない話をしているとき、ふと思い出したことを久坂部くんにぶつけてみた。

「あのさ、戸隠くんのライブを観に行ったときなんだけど」

「それがどうした?」

「その後、久坂部くんの様子がおかしかったような気がして、ずっと気になってたんだ」

 久坂部くんは視線を天井に投げたあと、納得したようにうなずいた。

「あれか。
 まあ、そうだな、俺にしては結構食らったな。
 戸隠のライブを観て、もう欠片も残っていないと思ってた音楽への情熱っていうのかな、そういうのが吹き出してさ。
 またピアノに触りたくなった。
 で、嫌なこと思い出して不機嫌だった、そういうことだ」

「……やっぱり、ぼくを庇ったからだね、本当にごめん」

 久坂部くんはぼくの肩を小突くと意識してなんでもないことのように告げる。

「だから、蒸し返すな、その話。
 決着はついただろ、俺はお前を助けて怪我したことは後悔してないし、これからもしない。
 ただ、まあなんだ、俺にもちょっとは執着心ってもんがあったんだなって自分で驚いた、ただそれだけの話だ」

「……ピアノは、絶対にできないの?」

 すると、うーん、と久坂部くんが難しい顔をして唸った。

「まあ無理だろ。
 普段使うぶんにはなんの支障もないけど、お前も知ってる通り、ピアノには繊細な技術が必要だ。
 リハビリすればなんとかなるのかもしれないが、今の俺にそこまでの情熱はない」

「天才って、言われたのに?」

「神童は大人になると凡人になる、って聞いたことがあるぞ。
 俺もその口だったのかもな」

 久坂部くんは豪快に笑った。

「そっか……」

 諦め切れないのは、ぼくだけのようだ。

 久坂部くんには、ピアノへの情熱がもう残っていない。

 それは寂しいことでもあったし、申し訳ないことでもあった。

「俺にはなんの特技もないけど、ひとつだけ他人より優れた面がある」

「ん?」

「お前に、俺を好きでいさせることだ」

「う、うん、そうだね。
 将来を誓い合った仲だもんね、ぼくたち」

「そうだ。
 だから、お前は俺に遠慮せず、聴き飽きるほど好きだって言え。
 もしお前がまだ罪悪感とやらに囚われているのだとしたら、余計にそうしろ。
 お前はただ、俺を好きなだけでいいんだ」

 そう言うと、久坂部くんは立ち上がり、欠伸を噛み殺した。

「そういうわけだから、母親には帰らないって連絡しとく。
 怒り狂うだろうけど、なんとか上手く説得するよ。
 じゃ、また明日な」

「うん、また明日。
 おやすみ」

 こく、と一度だけうなずくと、久坂部くんは部屋を出て行った。

 短い時間に、感情がジェットコースターのように上下したぼくは、疲れを感じて、ごろりとベッドに横になった。

 唇にそっと触れる。

 まだ久坂部くんの温もりが残っているような気がした。

 自分でも気色悪いほど頬を緩めると、溢れるほどの幸せを抱きしめたまま眠りに落ちていった。