「お前、馬鹿か?
 こんな初歩の初歩がわからないのかよ」

 春休み真っ只中の四月はじめ、夕食後のぼくの部屋で、ぼくは久坂部くんに床に押し倒されていた。

 ぼくにのしかかるように顔を近づけてきた久坂部くんは、今日も今日とてぼくの耳元に口を寄せて、罵倒の言葉をささやいてきた。

「う、ご、ごめん」

 久坂部くんの整った顔が間近に迫り、ぼくは顔を逸らそうとする。

 しかし、久坂部くんはそれを許してくれず、顎を掴まれてキスでもしそうな至近距離で目と目を合わせてくるのだから、堪らない。 

 ここ数日、久坂部くんに勉強を教わっているのだが、呑み込みの悪いぼくに、必ず彼がキレて、こうして押し倒されて耳元で罵倒の言葉をささやかれる──それが日課のようになっていた。

 生徒会のメンバーの前では、久坂部くんは変わらずほとんど話さない。

 だから、久坂部くんが先生となって授業をしてくれていることは、ふたりだけの秘密だった。

「さて、時間もないから続けるぞ」

 身を起こした久坂部くんが、教科書をぱんぱん、と叩いて起き上がるよう促してくる。

「久坂部くんて、本当頭良いよね。
 尊敬しちゃう」

「お前が物を知らないだけだ。
 短期間に1年分復習するんだから、今日も深夜までやるぞ」

「うー、はい、先生」

 ぼくはのろのろと起き上がると教科書に対峙(たいじ)すべく気合いを入れた。

「そういえば、あいつとはどうした?」

 数学の問題に取りかかろうとしたぼくに、久坂部くんが不意に()いてきた。

「あいつ?」

「羽田だよ。
 デートに誘われてたろうが」

「ああ……」

 思い出して、ぼくは少しだけ困惑した表情になる。

 シェアハウスで共同生活がはじまり5日ほど経った三月末、ぼくは羽田くんに告白された。

 確かに、それまでにも予兆はあった。

 ぼくがシャワーを浴びていると突然ドアが開いて、ひょっこり羽田くんが顔を出し、悲鳴を上げるぼくににんまりと笑うと「ごめんごめん、わざとじゃないんだよ、本当だよ」と言ってドアを閉める──最初は偶然かと思っていたのだが、それが毎日のように続くと、単なる偶然ではないことは、さすがのぼくにもわかるようになった。

 ぼくを戸惑わせる羽田くんの行動は日に日にエスカレートして、朝、自分の部屋で寝ていると、突然ドアが開け放たれて、寝起きのぼさぼさ頭のぼくをスマホで嬉しそうに撮影しながら「萌えー」と満足そうな顔をする──だけに留まらず、突然抱きつかれたり、べたべたとぼくを触ってきたりと、とにかくスキンシップがやたらと多かった。

 理由を訊くと、「月影くんが可愛いから」とあっけらかんと答えるので、ぼくは対応に困っていた。

 そして、そんなぼくと羽田くんの遣り取りを、久坂部くんがまるでスナイパーのような鋭い眼光で見ていることにも気づいてしまい、このところぼくは同居人との距離感に悩まされている。

 そして、極めつけが、羽田くんからの愛の告白だった。

 みんなが勢揃いした夕食の席でのことだった。

「ねえ、月影くん、僕と付き合ってよ」

 と、他愛のないことのように、さらっと羽田くんが爆弾発言をしたのだ。

「……は?
 付き合うって……?」

「言葉の通り。
 僕、月影くんが好きなんだよね、ずっと。
 だから、恋人になってほしいなって思っててさ」

 千葉くんと、戸隠くんが、揃って箸を取り落とし、久坂部くんがお茶を飲もうとして噴き出した。

「お、おい、ずるいぞ、いや、間違えた、そうじゃなくて、非常識だろう、健大」

 千葉くんが箸を拾い、ズレた眼鏡を直しながら、なんとか冷静な口調で言った。

「なんでー?
 好きなんだもん、付き合いたいと思ったって普通じゃない?」

「風紀が乱れると言っているんだ。
 職場恋愛と同じことだ、同じ家に暮らす者同士が付き合えば他の者も変に気を遣うし、万一破局なんかしたら気まずくなるぞ」

「大丈夫、僕の月影くんへの愛は冷めないから。
 ね、だから付き合おう、月影……いや、慧くん」

 ぼくは真っ直ぐ瞳を見つめてくる羽田くんに、どう返したものかわからず、ただもごもごと口の中で言葉を転がした。

「あ、あの……ぼく、誰かを好きになったことって、まだなくて……」

 このときはまだ、ぼくは羽田くんの言葉の半分も信じていなかった。

 他人から好意を寄せられたことなどない。

 過去の負い目から、深く他人と関わることを意識的に避けてきたから、それは当然の帰結ともいえる。

 なにより、耳のことも相まって、ぼくは自分に自信がない、と少し前に久坂部くんに零したばかりだ。

 誰もぼくなんか好きになるわけがない、そんな卑屈さもぼくの一部だった。

 だから、羽田くんの言葉をそのまま受け取ることは、難しい話でもあった。

「羽田くん、ぼくを困らせて遊んでる?」

 できる限り冗談に聞こえるようにそう言うと、羽田くんは真顔でぼくを見据えた。

「遊んでないよ、僕は本気だ」

「だ、だって、一体ぼくのどこを見て好きになってくれたの?
 ぼくなんて、なんの取り柄もない、顔だって普通だし、勉強もできない、耳も聴こえない、ないない尽くしの劣等生なのに」

「でも、笑顔は誰より可愛いよ。
 いつもにこにこして人当たりがいいし、良い人オーラ出まくってるし、なんか癒やされるというか、ほっとけない健気さが堪らないよねって、クラスのやつともよく話してるんだ」

「え……、ぼくのことを、ぼくが知らないところで……?」

「うん、僕のクラスでも慧くんはすごく人気があったよ。
 まあ、慧くんはそれに気づいていないだろうってみんな言ってたし、誰が一番先に慧くんに告白するか、賭けてるやつもいるくらい」

 到底信じられない話に、ぼくは絶句した。

 本当に、どこまでが本気で、冗談なのか、ここまでくると判断がつかない。

「そ、そんな、ぼくに魅力があるとは思えないけど」

「まだ誰も好きになったことはない、か。
 じゃ、僕が一番最初の『好きな人』になれる可能性は充分あるわけだね。
 じゃあ、オトモダチからはじめましょう、っていうのは?」

「お友達になる前に、同居はじめちゃってるけどな」

 戸隠くんが茶化すような口調で言う。

「ね、デートしようよ、まずはお互いのことをよく知って、恋人になるかどうかはそれから考えてもいいんじゃない?
 どうかな?」

「あ、うん……そうだね」

 羽田くんの剣幕に押されて、ぼくがそう答えると、どん、と久坂部くんが空になった湯呑みをテーブルに叩きつけた。

 みんなが驚いて、久坂部くんを振り向き、その表情の険しさに、ぴりっとした緊張がダイニングを支配する。

 そのまま久坂部くんは立ち上がって2階へと向かってしまう。

「あ、久坂部くん、ご飯、もういいの?」

 ぼくが久坂部くんのあとを追おうとすると、羽田くんがぼくが立ち上がるのを遮った。

「久坂部くんなんて、放っておけばいいよ、それより、デート、どこに行こうか?
 慧くんはどこか行きたい場所ある?」

「あ、いや、特には……」

 ぼくは久坂部くんのことが気になって、適当な相づちを打ってしまう。

「ふーん、つれないなあ。
 そんなに久坂部くんのことが気になる?」

「気になる……?」

 ぼくは久坂部くんのことが気になる?
 
 そうかも知れない。

 ぼくは、久坂部くんのことが気になる。

 どこまで本気で言っているかわからないけど、ぼくのために授業を丸暗記したという久坂部くんのことが、気になって仕方がない。

 もっと話してみたいとすら思う。

 羽田くんの言葉を借りるなら、ぼくは久坂部くんのことが知りたい。   

「春休みは、勉強のために使いたいんだ。
 そうしないと、2年生の授業についていけないから」

 ぼくが申し訳なさそうに眉を下げると、羽田くんは椅子の上で身体を仰け反らせた。

「そっかー、残念。
 でも、脈がないわけじゃないってことだよね?
 確かに勉強は一度挫折しちゃうとついていけなくなるし。
 じゃ、新学期がはじまったらデートする、それならいい?」

「う、うん、それなら……」

「やったあ、決まり!
 デートの候補地、考えておくから、楽しみにしてて!
 あ、楽しみなのは僕のほうか、あはは!」

 羽田くんは、からからと朗らかに笑うとそう言った。



「じゃあ、すぐにデートするわけじゃないんだな?」

 眉間にしわを寄せて、久坂部くんは確認してきた。

「うん、春休みは久坂部くんと勉強する時間に使うって決めてるから」

 ぼくがそう言うと、気のせいか、久坂部くんが口元をぴくぴくさせて必死に笑うのを堪えているように見えた。

「そうか、俺との時間のためか」

 そう念を押され、ぼくは素直にうなずく。

「うん、久坂部くんには迷惑かも知れないけど」

「迷惑?
 言ったはずだ、俺が授業を丸暗記したのは、お前のためだって」

「そ、そうだね……」

 ぼくもなんとなく頬が緩みそうになって、無理やりそれを抑え込む。

 久坂部くんがどこまで本気で言っているのかはわからないが、なぜかぼくは、久坂部くんの言葉が嬉しかった。

「ぼくのために……ぼくのために、か」

「ん?
 なんか言ったか?」

「あ、ううん、なんでもないよ、続けよう」

「そうか。
 お前の大好きな数学を今日のうちに完全制覇するぞ」

「えー、一番苦手なの知ってるくせに……。
 意地悪だなあ、久坂部くんは」

 ぼくが頬を膨らませて不満を露わにすると、久坂部くんが珍しく笑顔を見せた。

 ぼくはその無邪気な笑顔にどきりとする。

 ただ、久坂部くんが笑顔を見せてくれた、それだけのことが、それだけなのに、堪らなく嬉しかった。

 久坂部くんのスパルタ授業は、深夜遅くまで続いた。