キッチンで人数分のハンバーグを焼いていると、人の気配を感じてぼくはびくりとして振り向いた。

 副会長が鼻をひくひくさせながら「なんか、いい匂いがするなー」と、(とろ)けそうな笑顔でぼくの手元を覗き込んでいた。

「ふ、副会長……!
 なんですか、急に」

「あはは、驚かせちゃった?
 ごめんね、いい匂いだったからつい、さ」

 副会長は、いわゆる仔犬系、愛されキャラである。

 演劇部では常に主役、もちろんそれに見合う実力も持ち合わせている。

 誰にもフランクに話しかけて、彼の周りは華やかで笑いに満ちている。

 クールで沈着冷静な会長とは正反対のキャラだが、そこは見事に連携を取ってバランスよく生徒会の舵を切っている。

「ふうん、月影くん、料理できるんだね。
 もしかして、毎日僕らのご飯作ってくれたりする?」

 副会長がそう言うと、いつの間にか姿を現していた会長が静かに首を振った。

「月影くんひとりに任せるのはいかがなものかな。
 共同生活なんだし、料理も掃除も当番制にしたほうがいいんじゃないだろうか」

 会長の言葉に、ぼくは慌てて否定にかかる。

「いえ、管理人として、家事全般はぼくがやりますよ。
 母親もそのつもりだったようですし」

「だが……それではどうにも不公平な気がするが」

「雄也、いいじゃん、せっかく月影くんがやってくれるって言ってるんだから、任せれば」

 副会長がさも面倒くさそうに会長を見る。

「いや、月影くんは寮母じゃないんだから、僕らの面倒まで見る必要はない。
 家事は当番制、不公平にならないようにする。
 不満があるなら出て行ってくれてかまわないぞ、健大」

 会長の断固とした態度に、副会長はあからさまに不満そうな表情を作ったあと、溜め息をついて降参した。

「わかったよ、雄也は本当融通きかないな。
 でも僕、掃除はともかく料理なんてやったことないよ。
 それでもいいの?」

「誰だって未経験からはじまってる。
 料理が嫌なら風呂掃除とか、トイレ掃除とか、健大でもできる家事は他にもある」

「えー、学校でもないのにトイレ掃除まで僕するの?」

「誰かがやらないと汚れる一方だ」

「じゃ、雄也がやってよ。
 気づいた人がやるって考え方もあるよね?」

 副会長が、ダイニングと繋がるリビングのソファに身体を投げ出しながら億劫そうに不満を漏らす。

 会長も、やれやれと副会長の扱いに苦慮しているようだった。

 ぼくはその遣り取りから少し目を離すと、昼食の仕上げに取りかかった。

 ハンバーグがこんがりと焼き上がり、サラダとスープを付けて人数分テーブルに並べ終わったころ、ぞろぞろとみんながダイニングに集まってきて、思い思いの席に座る。

 なんだか見慣れない光景に、ぼくは少しだけ緊張した。

「うわー、美味そう、いただきまーす」

 副会長が手を合わせてそう言うと、早速ハンバーグにかぶりついた。

 ぼくはどきどきしてその様子を見守る。

「うん、美味い!
 月影くん、こんなに料理上手かったんだね!」

 副会長がそう言ったのを皮切りに、テーブルについた全員が食事をはじめる。

 ぼくの正面に座る会長も、黙々と料理を口に運んでいる。

 どうやら、みんなぼくの料理に満足してくれたようで、一安心した。

「さて、今日から共同生活をするわけだし、簡単に自己紹介といこうか」

 すると、会長がそんなことを言い出したのでぼくは目を剥いた。

 あまりに有名人なあの生徒会のメンバーなど、少なくとも同じ高校に通う人間なら知らないはずがない。

 ただ、とぼくはちらりと端の席で無言を貫いている久坂部くんのことが気になった。

 同じクラスだったとはいえ、話したことはないのだから、彼のことをよく知るため、今後の共同生活のために自己紹介、という体裁で話をする必要はあると思った。

百合ヶ丘(ゆりがおか)学園新2年生で、生徒会長の千葉雄也だ。
 自宅が学校から遠いので、学校の近くにシェアハウスができたというので世話になることにした」

 トレードマークの眼鏡が理知的な印象を与えるクールな超絶美形の生徒会長、千葉雄也はそう自己紹介した。

「じゃ、次は僕かな?
 羽田健大、新2年生で生徒会副会長で演劇部。
 好きな食べ物はマンゴー!
 よろしくね!」

 太陽のごとき明るい笑顔を咲かせる副会長は、『可愛い』の塊のようなビジュアルだ。

 天使と評する女子もいるが、ぼくもその意見には賛成である。

「次は俺か。
 戸隠晴雅、同じく新2年生で生徒会書記。
 軽音楽部でドラムをやっている。
 今度バンドでライブをやるから、よかったら観にきてくれ」

 背が高く、スタイルのよい戸隠くんは、美丈夫という言葉がぴったりだ。

 ほどよく鍛えられた身体で、情熱的にドラムを演奏する姿に、ファンは多いと聞く。

 生徒会のメンバーが揃うと、『破壊的なビジュアル』と言われる理由がよくわかる。

 みんながみんな、それぞれタイプの異なる美形揃いで、ぼくですら目のやり場に困るほど、彼らは輝いてみえる。

 そして、そんななか異質な存在である久坂部くんに、みんなの視線が集中した。

 その痛いほどの視線に居心地悪そうに身じろぎした久坂部くんは、仕方ないとばかりに口を開いた。

久坂部紗雪(くさかべさゆき)

 そうとだけ口にすると、久坂部くんは食事に戻ってしまった。

『久坂部紗雪』

 久坂部くんのフルネームをぼくははじめて聞いた。

 白金髪とピアスに目がいきがちだが、よくよく見ると、生徒会メンバーに負けず劣らず、綺麗な顔立ちをしていることに遅れて気づいた。

 ぼくが久坂部くんに目を奪われていると、その久坂部くんを含むみんなから視線が向けられていることにようやくぼくは気がついた。

「あっ、月影慧です。
 えっと、部活とかはやってなくて……」

 ぼくがしどろもどろの慣れない自分語りをしようとすると、会長がそれをやんわりと遮った。

「その前に、ひとついいかな?」

「え?
 あ、はい……?」

 会長が、じっとぼくの目を見つめるので、自然、ぼくの顔は火照ってしまう。

「これは推測だが、月影くんは学校の外では補聴器を着けているんじゃないか?
 これから一緒に暮らすのに、隠しておくのは得策とはいえないと思うが」

 会長の指摘に、ぼくは言葉を失う。

「気づいて、いたんですか、ぼくの耳が聴こえないこと」

「推測、だけどな。
 君は人と話すとき、じっと口元を見るだろう。
 背後から肩を叩かれて驚いている様子も何度か見かけた。
 おそらく、読唇術(どくしんじゅつ)で相手の言っていることを理解しているのだろうと思っていた」

 会長の台詞(せりふ)に、ぼくはぐうの音も出ない。

 その通りだった。

 ぼくは耳が不自由だ。

 歳を重ねるごとに聴力は落ち、やがては完全に聴こえなくなる──昔そんな理不尽な診断を受けた。

「……やっぱり、喋り方、変ですかね?
 わかっちゃいますか?」

「いや、月影くんの話し方はどこも変ではない。
 努力して読唇術を身に着けたのだとわかるし、健常者と比べても遜色ない話し方だよ。
 ただ、僕が気づいてしまっただけで……月影くんのこと、見ていたから」

 会長は、ひた、とぼくを見据えると、気遣わしげな表情になった。

「誰も月影くんを変だとは思わない、だから、せめて自分の家では普段通りに過ごしてほしい。
 僕たちに気を遣う必要はない」

 そうですか、と呟いたぼくは、ポケットから補聴器を取り出して装着した。

 左の耳はほぼ聴こえていない。

 右耳に補聴器を着ければ日常会話が成立する、ぼくの聴力はそのくらいまで落ち込んでいる。

 中学のころはまだ今より少し聴こえていたので、受験は突破できたが、高校に入ってからは右耳の聴こえも悪くなっている。

 幼いころから読唇術を極めるべく人一倍努力を重ねてきた。

 ぼくが聴こえないとわかってからも、そんなことに費やす時間はないと、母親は手話を覚えてくれなかった。

 父親は、まだ微かでも聴こえるうちに音を教えたいとぼくを近所のピアノ教室に通わせてくれた。

 そこでぼくは罪を犯し──。

「月影くん?」

 会長にそう呼ばれ、ぼくの意識は急速に引き戻された。

「あっ、すみません」

 焦っていると、会長は眉間にしわを寄せていた。

「月影くん、敬語やめないか?
 同じ学年なんだし、もしかしたらクラスメイトになるかも知れない。
 千葉とでも雄也とでも好きに呼んでくれ。
 会長とか副会長ではなく、ね」

 そう言われても、突然、呼び捨てにもできず、ぼくは「わかった、千葉……くん」と赤面しながらやっと言葉を絞り出した。

「僕のことも健大でいいからねー」

 副会長──羽田くんももぐもぐと白米を頬張りながら挙手する。

「俺のことは戸隠とでも呼んでくれ」

 千葉くんが久坂部くんのほうを向いて「久坂部くんは?」と問いかける。

 久坂部くんは箸を口に運ぶ作業を止めることなく不躾に言った。

「好きに呼べばいいだろ」

 心を開く様子のない久坂部くんに、それでも臆することなく千葉くんは「じゃあ、紗雪くんとでも呼ぼうかな」と意地悪く微笑みかける。

 その瞬間、久坂部くんが鋭く千葉くんを睨みつけた。

「下の名前で呼ぶな」

「あれ?
 好きに呼んでいいんじゃなかったの?
 紗雪くん、可愛らしい名前じゃないか」

「てめえ……」

 額に青筋を浮かべながら、がたりと音を立てて立ち上がると、久坂部くんは千葉くんに掴みかかろうとした。

「久坂部くんさ、格好は不良そのものだけど、それ以外の校則違反はなにもしてないよね。
 喧嘩、本当はしたことないんじゃないの?」

 気色ばむ久坂部くんに、千葉くんは薄く微笑みながら冷静な目で久坂部くんを捉える。

 久坂部くんが千葉くんの胸ぐらを掴んで殴る──わけでもなく、久坂部くんは千葉くんを睨んだまま舌打ちするだけだった。

 どうやら、千葉くんの分析が正しかったらしい。

「くそっ」

 久坂部くんは椅子の脚を蹴ると、足音を立てて2階に上がってしまった。

 残された食器は、綺麗に平らげられていた。  

「全く、協調性の欠片もない子だねえ、久坂部くんは」

 久坂部くんの後ろ姿を目で追いかけながら、羽田くんが面白そうに、けらけらと笑った。

 波乱の昼食を終え、片付けをしていると、千葉くんがやってきた。

「耳のこと、本当は隠しておきたかったかな?」

 そんなことない、と言おうと振り向くと、予想だにしない千葉くんの表情に、ぼくは激しく狼狽(うろた)えた。

 千葉くんは、目を真っ赤にさせて泣いていた。

 ぐすん、と鼻をすすりながらまるで幼い子どものように号泣している。

「え、え……」

 ぼくは目の前の光景が信じられなくて、何度も瞬きを繰り返す。

「いつもそうなんだ、僕は。
 相手の気持ちも考えずに思ったことを口にしてしまう。
 月影くんは耳のこと、本当は隠したかったんじゃないか?
 でも、僕が暴いてしまったから、認めざるを得なくなった……。
 勝手に言ってしまって、本当にごめん。
 久坂部くんのことだって、もっと上手くやれたかも知れないのに……ああ、僕はなんでいつもこう……」

 千葉くんは、眼鏡を外してしきりに目元を拭っているが、涙は一向に止まる気配を見せない。

「い、いや、千葉くんのせいなんて、こと、絶対ないよ。
 耳のことはいずれ話さなければいけなかったことだし、ぼくが勝手に嫌われるのが怖くて黙っていただけだし、久坂部くんのことは仕方がなかった、と思う」

 わたわたと身振り手振りを混じえながら、なんとか千葉くんに泣き止んでもらおうとぼくは必死に言葉を重ねた。

「だって、久坂部くんをあんなに怒らせちゃって……」

「あ、あとで謝ればいいんじゃないかな、それで、きっと許してもらえるよ、うん、大丈夫」

「そうかな……。
 月影くんは、本当にそう思う?」

 不安そうな表情を覗かせながら、千葉くんが見上げてくるので、ぼくの心臓はどくんと跳ねた。

──か、可愛い。

 なんとも庇護欲(ひごよく)をかき立てられる無垢な泣き顔の千葉くんに、ぼくは手を伸ばして、頬を伝うその涙を拭った。

 どうしてそんな行動を取ったのか、それはぼく自身にもわからない。

 千葉くんがぼくの手に自分の手を重ねたその瞬間、弾かれたように顔を上げ、千葉くんはぼくの手から逃れるよう一歩退(しりぞ)いた。

「わ、悪い……僕の悪い癖だ。
 すぐに自分を責めて泣き喚いて……。
 今の、誰にも言わないでくれないか。
 こんな格好悪い姿、生徒会のメンバーには決して見せられない……。
 普段ならひとりになったときしか泣かないのに、なんで月影くんの前では泣いちゃったんだろうな。
 本当、格好悪い……だから、このことは……」

「わ、わかった、誰にも言わないから」

「うん、そうしてくれると助かる。
 ……泣き顔を見られたのが、月影くんでよかった。
 誰にも言わないで、信じてるから、月影くんのこと」

 そう言うと、千葉くんは顔を洗うと言って洗面所へと向かって行った。

 残されたぼくは、あまりの事態に頭がついていけず、まだ放心したきりだった。

 本当に、なんだったのだろう。

 千葉くんのあの乱心は。

 ぼくは見てはいけないものを見てしまったような心地になり幻覚でも見たのだろうという結論を出した。

 食料や日用品を買い出しに行くと申し出てくれた羽田くんと千葉くんに、買い出しメモを渡して送り出すころには、千葉くんはいつも通りの無表情に戻っていた。

 ふたりが帰るまでの間、ぼくはリビングのラグの上に座り込んで、ローテーブルに広げた参考書相手に、うんうんと唸りながら格闘していた。

 高校に合格したまではいいが、どんどん落ちる聴力のせいで、授業が半分も理解できず成績も下降し続けている。

 進級できたのが奇跡である。

 新学期がはじまる前に、1年生で習った学習内容を頭に詰め込む必要があった。

 溜め息をつきつつ、補聴器を弄んでいると、意外な人物から声をかけられた。

「馬鹿か、お前」

「……え?」

 久坂部くんだった。

 彼はどかりとソファに腰を降ろすと、ローテーブルに広げられた参考書を眺めた。

「聴こえないんだから、授業の内容がわかるわけないだろ」

「え、うん、そうだね」

 え、久坂部くんて、こんな自然に他人との会話が成立する人だったの?

「なんで補聴器着けないんだよ」

「それは……コンプレックスだったから。
 でも、聴こえないって認めるのが怖かったんだ。
 ぼくはまだやれる、健常者だって、思いたかったのかもね。
 意地、といってもいいかも知れない。
 ぼくが社会的弱者だって知られたら、いじめられるかもしれない、そう思うと怖くて、誰にも嫌われないようにいつも愛想振りまいてさ。
 要は自信がないんだよね、自分に。
 聴こえないってハンデがあるだけだって、どうしても思えない。
 他人を信じていない、とも言えるのかな」

 思いの外、長く自分のことを語ってしまったことに驚きながら、ぼくは話を締めくくった。

「ふーん、だからいつもへらへら笑ってんのか」

 ソファにふんぞり返りながら長い脚を組んだ。

「疲れねえか、人に気ばかり使ってんの」 

「ふふ、久坂部くんから見たら、ぼくの生き方は窮屈に見えるかもね。
 久坂部くんは誰にも媚びないし、誰にもすがらない、格好良いと思う、本当に。
 だけどね、ぼくはそんなふうに自分を取り繕って、偽ってないと世渡りしていけないんだよ、久坂部くんにはわからない世界だろうけどね」

 脚を組み換え、久坂部くんは鼻を鳴らしながら言い放った。

「わかんねえな、お前の世界のことなんて。
 ただ……」

 そこで不自然に言葉を切ったので、ぼくは久坂部くんを振り向く。 
  
 にやり、と久坂部くんが笑った気がした。

「教えてやることならできるぞ。
 俺は成績優秀だからな」

「あっ……」

 そういえば、とぼくは思い出した。

 見た目からは想像できないほど、久坂部くんは成績が良かった。

 姿こそ不良そのものだが、授業にはきちんと出席し、熱心にノートをとるわけでもないのに、学年トップの千葉くんに劣らない成績を叩き出しているのだ。

 そんな久坂部くんを、摩訶不思議な存在だと思っていたことを思い出した。

「久坂部くんは、なんでそんなに頭が良いの?」

「授業を丸暗記してるからだ」

「丸暗記?
 って、先生の一言一句を覚えてる、とか?」

 冗談のつもりで軽口を叩いたのに、久坂部くんは、そうだ、とうなずいた。

「え、本当に?
 凄い、なんでそんなことできるの?」

 ぼくの中で、もくもくと久坂部くんに対する好奇心が生まれる。

「いつか、こんな日がくるかも知れない、と思ったからだ」

「え?」

「いつか、こうやってお前に勉強を教える日がくるかも知れないから、成績だけは絶対落とさない、それがモチベーションだった。
 お前の教師役は、誰にも譲らない」

「え、え、ええ?」

 目を白黒させていると、ぼくを見下ろしながら久坂部くんが耳元でささやいた。

「俺が先生になってやるよ」

 久坂部くんが、不敵に笑った。