母親が、上機嫌に掃除機をかけている。
高校1年生も終わる、そんなころのことだった。
このところ、母親は自宅の部屋の片付けに勤しんでいる。
ぼくが住むこの家は、田舎の中でも比較的栄えた方にあり駅も近く、通っている高校も徒歩10分圏内と、朝が苦手なぼくには願ってもない住環境だった。
そのあまりの奔放な性格から、父親に三下り半を突きつけられた母親が、またしてもなにか企んでいるのではないかと、ぼくは内心戦々恐々としている。
部屋を整理しているということは、ある日突然、ここを引っ越す、などと言い出しかねないからだ。
母親は本当に自由奔放で、息子であるぼくにも元夫である父親にもなにひとつ告げずに突然いなくなったり大事なことをひとりで勝手に決めてしまったりする、非常に危うい性格の人だ。
ぼくたちになんの相談もなく姿を消したあと、ごく自然に、なにもなかったかのように平気な顔をして戻ってくる。
それで、ぼくや父親に憂いのひとつもない眩しい笑顔で許してくれ、と言うのだから、たまったものではない。
父親が退場し、母一人子一人となった今、母親は、またなにごとか迷惑なことを考えているに違いない、とぼくは直感的に思った。
高校1年生の三学期も終わりに近づき、花々が咲き誇り春の到来を予感させる、なんでもない日のことだった。
ぼくの直感は、なんの前触れもなく当たった。
学校から真っ直ぐ家に帰ると、玄関先から見える庭に、粗大ごみが山と積まれているのが見えた。
それは、使えなくなった家具というよりは、部屋の広さを確保するために追い出された荷物に過ぎず、捨ててしまうには惜しいものばかりだった。
なぜ家から物をどんどん捨てているのか、本当に、母親はなにを考えているのだろう。
ぼくの心労は極限に達していた。
家に入ると、母親がまた2階で掃除機片手に奮闘している様子だった。
大掃除はまだまだ続いているようだ。
一旦自室に入り、制服から着替えると、階段を降りてキッチンへ向かう。
冷蔵庫の中を眺めると、頭の中で今日のメニューを考え、早速フライパンを手に取る。
料理はぼくの担当だ。
母親が不在なことが多く、幼いころから必然ぼくは自炊しなければならなくなった。
父親は家事全般を苦手としていたし、一人っ子のぼくがやらなければ誰も代わってやってくれる人はいない。
ぼくは溜め息をひとつついて、熱したフライパンに卵を落とした。
今日は面倒だから目玉焼きで済ませよう。
サラダでも付ければ、母親が文句を言うこともないだろう。
じゅうじゅうと音を立てるフライパンを横目に、サラダにするべく野菜を選ぶ作業に取りかかる。
やがて夕食が完成したころ、掃除機を手に母親がキッチンへやってきた。
頭にバンダナを巻いて、埃よけのマスクを着けたジャージ姿のままでダイニングテーブルに座ろうとするので、ぼくは「着替えてきて」と鋭く注意した。
「えー」と母親は相変わらず呑気な声で不満を漏らしながらも、渋々自分の部屋へと向かい、数分後戻ってきた。
「今日は目玉焼きだけ?
ずいぶん手抜きねえ」
そう愚痴りながら椅子に座る母親の目の前に白米を盛った茶碗と味噌汁を置くと、空腹だったのか母親は早くも箸を目玉焼きの黄身にぐさっと突き刺して口に運んだ。
「そんなに不満なら自分で好きなの作ってよ」
いただきます、と手を合わせて質素な夕食にぼくも手をつける。
「そんな暇ないわよ。
見てればわかるでしょ」
「世間では母親が息子のために料理したりお弁当作ったりするのはそんなに珍しいことじゃないと思うけどね」
ぼくが耳元に手を当てながら反論すると、母親は大きな声で悪態をついた。
「できる人がやればいいの。
あたしは型に嵌った『世間』ってやつが大嫌い」
「そうだったね、失礼しました」
耳から手を離し、ぼくは食事に集中する。
そのまま静寂の中、しばらく箸が食器を打つ音だけがダイニングに響く。
お風呂の用意しないとな、と食事が終わりかけ、ぼくが意識をテーブルから風呂場へと向けた、そんな時だった。
「ここ、シェアハウスにするから」
唐突に母親が言った。
ぼくは再び耳元に手を当てて、「は?」となんとも間抜けな声を出した。
母親は表情を変えないまま茶碗の米粒を箸で追いかけている。
「なに、もう一回言って?」
すると、顔を上げた母親が、面倒くさそうにぼくを見ながら言った。
「聴こえなかったの?
全く、なんのための機械なんだか。
この家を、シェアハウスにするの!
聴こえた?」
「シェアハウス!?
このうちを?」
「そうよ、だからさっきからそう言ってるじゃない。
もう入居者は決まっているから。
高校に近いから、あんたと同じ高校の生徒みたいよ。
知り合いかもね」
「……え」
あまりのことに、ぼくは声を失った。
頭の中に嵐が吹き荒れて、ぼくは混乱から抜け出せずにいる。
「待って、そんな大事なこと、なんで相談もなく決めるんだよ」
「別にいいじゃない、大騒ぎすることじゃないわ。
あんたもあたしと顔を突き合わせて暮らすより、同世代の子たちと暮らすほうが楽しいでしょ」
「……他人と暮らせと?
このぼくに?」
「そうよ。
友達を作るいい機会じゃない?
あんた、高校生にもなって友達のひとりもいないんだから」
「余計なお世話だ!
ぼくが友達を作ろうと作るまいと、母さんには関係ないだろ。
話をすり替えないでよ!
それより、無責任だよ、そんなの」
そう言い募ると、母親は呆れ返ったように眉を吊り上げた。
「あら、高校まで育ててあげたのよ、母親業はもうお役御免にさせてもらうわ」
「育ててあげたって……生活費は父さんが出してくれてたし、母さんは働きもせずにぼくをひとり置いて自由気ままにやってきたじゃないか。
……だって、覚えてくれなかったし……」
「なあに?
ぶつぶつ文句言って、うるさいわね。
高校生の男子に母親なんてうざいだけでしょ、親離れしなさい。
とにかく、これからは、家賃収入で自由に世界中を旅するつもり。
そのために料理とか掃除とか、あんたが小さいときから教え込んできたんだから」
ぼくは目まいを覚えてテーブルに肘をついて頭を支えた。
ちょうど考え込む格好になる。
「シェアハウスになるのは、もう決まったこと。
入居者も決まってる。
部屋は清潔にした。
あたしがするべきことは全部したわ。
春休み中に入居するから、対応はあんたに任せるからね」
そんな勝手な、とぼくが口をあんぐりと開けて放心していると、一足先に食事を終えた母親が、この話はこれで終わりとばかりに椅子から立ち上がる。
「お風呂さっさと沸かしてよ。
掃除したから汗かいてるの」
ぼくがいつまでも動かないでいるので、痺れを切らした母親は、自分で風呂の用意をするのか、さっさとダイニングから姿を消した。
確かに、我が家は広い。
無駄に広いといっていい。
我が家は、決して裕福というわけではないが、母親が相続したこの家は2階建てで、面積も広く部屋の数も多い。
父親が一緒に暮らしていたころから、未使用の部屋があり持て余したほどだ。
リビングダイニングも広く、水回りもリフォームされているから古臭さもほとんど感じられない。
だから、理屈の上では、シェアハウスの役目は立派に果たせるはずである。
4、5人なら充分暮らせるし──暮らせるのだが、そこにぼくの意思が挟み込まれる余地がないことが最大の問題点だった。
友達を作るいい機会──それは確かにそうなのだろう。
学校では、ぼくは友人とは一定の距離を保ったまま付き合っている。
それは、忘れられない罪の意識がそうさせるのだ。
幼いころ、ぼくはある罪を犯している。
「さっちゃん……」
ぼくは無意識にそう呟いていた。
『さっちゃん』
忘れられない名前。
けれど、ぼくは『さっちゃん』のフルネームを知らない。
髪が長くて中性的な綺麗な顔立ちの子だった。
ぼくは、その『さっちゃん』から夢を奪うという罪を犯した。
それは今でもぼくの手枷足枷となり、『友達を作る』ことへの障壁となっている。
けれど、嫌われるのはもっと怖いから、ぼくは常に笑顔を周囲に振りまいている。
人畜無害で、でも相手に深くは踏み込まない。
それがぼく、月影慧という人間だ。
食器を片付けるために立ち上がり、シンクに向かってぼくは再びの深い深い溜め息を落としたのだった。
高校1年生の最後の日を迎え、学校から帰宅したぼくと入れ違いに、キャリーケースを転がした母親は、宣言通り本当に家を出ていった。
まずは海外をあちこち巡りたいようだ。
このころになると、もうぼくは母親がいつ出て行こうと、戻ってこようと、どこへ行こうと好きにしろ、と投げ遣りな気分になっていた。
これが今生の別れだとしても、ぼくはなんの感慨も持たないだろう。
母親がいなくなった家で、春休みを迎えたぼくは、焦りはじめていた。
春休み初日には、もう入居者がやってくるのだ。
一体誰がくるのだろう?
学校では上手くやっている方だと思うが、気が合わない人間とひとつ屋根の下で暮らす可能性もあるわけで、どんな生活になるか想像がつかないし、慣れないとなかなか精神的に疲れることなのではないか。
──上手くやっていけるかな。
耳元に指を添えて、ぼくは迷っていた。
『このこと』は伝えるべきなんだろうか。
でも、『このこと』は学校の誰にも伝えていない秘密だ。
学校でこの話が広まるのはさすがに困る。
では、どうするべきか。
ぐるぐると迷い続け、明日がくることが、不安で仕方がなかった。
とはいっても、沈んだ太陽はごく自然に昇る。
緊張で眠れないまま、ぼくは翌日の朝を迎えた。
トーストの簡単な朝食を終えると、落ち着きなくリビングとダイニングを行ったりきたりしているうちに、玄関のチャイムが鳴らされた。
心臓が跳ね上がる。
とうとうきてしまった。
ぼくは深呼吸すると、覚悟を決めて玄関へ向かった。
そして、ドアを開けて──ぼくは思いもよらぬ来客の正体に凍りついた。
「か、会長!?」
ぼくが上擦った声を上げると、私服姿の生徒会長、千葉雄也が特に顔の表情を変えることなく冷静に言った。
「こんにちは、月影くん。
今日からお世話になるね」
ぼくが呆気にとられていると、会長の背後から、「僕もいるよー」と陽気な声がして、ぼくはさらに驚きの表情を隠せなかった。
「ふ、副会長……!」
こちらもパーカにデニムといったラフな装いの生徒会副会長、羽田健大がひょっこりと顔を覗かせた。
その後ろには、またしてもよく知った顔の生徒会書記、戸隠晴雅が控えていた。
ぼくがここまで驚いたのには理由がある。
ぼくが通う高校の生徒会は、『アイドル生徒会』と呼ばれるほど、生徒の間で神格化され男子にとっても女子にとっても、はたまた他校の生徒にとっても憧れの的、この辺りの学生にはあまりにも有名な存在なのだ。
その人気の要因は、生徒会のメンバー全員が神がかったビジュアルの持ち主であること、人望の厚さ、生徒会以外でも様々な才能を発揮していることにあった。
特に、生徒会長である千葉雄也は、1年生から生徒会長をつとめ、その人気は不動である。
1年生のとき、戸隠くんとは同じクラスだったが、気後れしてほとんど話したこともないし、生徒会というのはぼくとは違う世界に住む人たちなんだと思って勝手に苦手意識を持ち、できるだけ接触を避けてきた。
もちろん、戸隠くんは、さすが生徒会メンバーというべきか、抜群の気遣いでぼくにもさりげなく声をかけてくれたし、浮いた生徒が生まれないよう、クラスの運営に尽力していた印象がある。
「じゃ、お邪魔しまーす」
副会長が、我先にと玄関から家の中に入ってくる。
会長と戸隠くんも大きな荷物を抱えていることに気づき、ぼくは慌てて道を空けた。
「あ、ど、どうぞ」
口ごもりながらそう言うと、彼らが移動したことで、一番後ろにいた人物の存在が目に入って、ぼくはまたしても凍りついた。
「久坂部……くん」
白金髪にピアスのド派手な見た目、鋭い眼光で、制服を着崩して一番後ろの席に座っている、いかにもな出で立ちの不良生徒である。
──久坂部くんも、シェアハウスで暮らすのだろうか?
もちろん私服姿で、彼も大きな黒いバッグを担いでいるのだから、入居者であることは疑いようがない。
彼の名前を呼んだことは、今まで一度もなかったので、『くん』付けは馴れ馴れしいかと不安になってぼくは焦って冷や汗が噴き出す。
久坂部くんが誰かと喋っているところを見たことはない。
だから、遠巻きに眺めるだけで、いつも不機嫌そうな顔をしている彼がどんな声でどんな性格なのか、1年間一緒のクラスだったのに、ぼくや周りのクラスメイトたちは誰も知らない。
そんな久坂部くんが、急に現れたものだから、ぼくは激しく動揺した。
正直言って、久坂部くんのことを怖いと思っていたので彼と一緒に暮らす未来が想像できず、ぼくは反応に困った。
「あの……」
上手く言葉を継げないでいるぼくの横を素通りして、久坂部くんは靴を脱いで玄関を上がってしまった。
一瞬抜けかけた魂を呼び戻して、ぼくはドアを閉め、慌てて家の中へ駆け込んだ。
リビングでは、重い荷物を下ろして、会長たちが家の中を見回していた。
「あ、の、えっと……まずは、2階へ案内します。
みなさんの部屋は2階にあります。
どの部屋を使ってもらってもかまいません」
先頭に立って階段を登ると、副会長がきょろきょろと視線をあちこちに遣って、「広い家だねえ」と興味深そうに呟いた。
2階はどの部屋も六畳と、同じ広さだ。
会長たちは少しだけ話し合いをしたあと、自分の部屋を決め、荷物を整理するために室内へと入っていった。
ぼくは冷や汗をぱたぱたと手で仰いで冷ましながら、1階へと向かった。
人数分の昼食を作る必要があった。
キッチンに駆け込みながら、ぼくはどこか現実味のないこの事態に、夢の中にでもいるのかと、自分の頬をつねった。
祖父母がやっていたような、古典的な行動だが、痛くなるほど自分をつねるのは、なかなか難しくて夢か現かわからないうちに、ぼくは昼食作りに取りかかった。



