扉が開かれると、瞬間、ジャズの生演奏の迫力に包まれる。
「いらっしゃいませ」
「予約していた、菅野です」
「お待ちしておりました。どうぞ、こちらへ」
 長細い廊下を、歩く。姉は僕の手を引いてくれる。
 四人掛けのボックス席、男性と姉は隣に腰かけ、僕は一人、追いやられる。
「ご注文は、後程でよろしいでしょうか」
「はい」
「かしこまりました」
 男性と姉は、何やら親しそうに笑い合って、水を飲んだり、手を拭いたりする。一方で、僕は状況が飲み込めないからか、いつもより心臓が跳ねるし、呼吸も浅くなりがちだ。
「皇叶は、何食べる?」
 向けられたメニュー表には、創作パスタ料理が、写真付きで乗せられていた。どれも美味しそうだが、値段を見て、少しまごつく。その様子に気付いたのか、男性は小さな声で、「今日は俺の奢りだから、好きなの、頼んでいいよ」と言う。一応、頭は下げたものの、結局僕は、一番安いものを選択した。
 料理が運ばれてくるまでの間、姉はしきりに男性のほうを見て、タイミングを窺っているようだった。男性はそれを優しく微笑み、「いつでも」とか「好きなタイミングで」と相槌を打つ。
「お姉ちゃん、話が、あるんでしょ?」
 我慢が足りず、僕は口を開いた。すると姉は、一呼吸置いてから、こう答えた。
「お姉ちゃんの話、聴いてくれる?」
 僕は、水をひと口、含ませる。
「お姉ちゃんね、いま、この方と、結婚を前提に、お付き合いしているの」
「……」
 なんとなく、理解していた。姉の帰りが遅いとき、友達と会ってきたのとはまた違う、色のある笑顔をしている。一切、彼氏がいるという話はされなかったが、身に付けるものに少しだけ拘りをもったり、あまり金をかけない程度に綺麗を追求してみたり、今までとは違う姉の姿を見せられてきたから。
「紹介が遅くなって、ごめんね。菅野健道(すがのけんと)って言います。姫乃さんとは、以前働いていた工場で知り合って、半年前から、お付き合いしています。今は、文房具を扱う会社の営業をしています」
 急に改まった答えに、親でもないのに、緊張してしまう。柔らかな笑みが、その効果を増進させる。
「お父さんとお母さんはいないけど、弟がいるって紹介したら、ぜひ合わせて欲しいって言われたから。結婚するっていう報告よりも、前提にお付き合いしている、って伝えたほうが、気持ちの整理もできるかなって」
「そうだったんだ。おめでとう」
「うん。ありがとう」
 穏やかな空間に運ばれてきた、パスタ料理。「いただきます」と言ったあと、いつもよりだいぶ高級な夕ご飯を食べた。美味しいはずなのに、高すぎて、逆に美味しいのか、わからない僕の舌は、馬鹿なようだ。正直、姉の作る料理の次に、病院食が美味しいと思えてしまうのだから。
 帰りは、菅野さんが家まで車で送ってくれた。病気のことは話さなかったし、姉もまだ話していないらしいから、僕から口にすることはない。後日、どうせ結婚の報告をされるのだから、そのときでいいや、と思っていた。

 その後も、姉は菅野さんと付き合いを続け、良好な関係性を保っていた。いつ結婚するのか、僕に教えてはくれず、ずっと「そのうちね」と言い続けた。その度に僕は、「櫻楽と再会するまでには、お願い」と言っていた。姉は「そうね」などと適当に返事していたけど、僕は必死だった。なぜなら、近いうちに入院しなければならない、そういう可能性が高まったから。
 まだ高校生だった時以来にはなるが、前回とは違って、恐らく、死ぬまで入院しなければならない。歩行にも問題は出てきたし、心機能にも問題が見られ始めた。
 まだ、櫻楽には会えない。姉は結婚すると言っている。それに加え、初めての友達である三人のうち、和久も結婚すると言っているのだ。相手は、あのとき付き合っていた彼女、らしい。和久は、僕が元気なうちに結婚式をしたいと言ってくれているようだが、話の続きの連絡が、誰からも来ないまま。和久も蓮我も就職しているし、康平は大学に通っている。高校生のときみたいに、暇じゃない。僕だけが、ずっと暇、なのだ。
 ずるり、ずるりと、姉の結婚式の予定が延びる一方で、僕の寿命は、確実に、一歩ずつ、迫ってきていた。
 櫻楽と会う約束まで、一年弱となった今、僕は、入院生活を送っている。自力で移動できなくなり、車椅子を使用しているし、機械を装着して、色々と管理されている。病室は以前と同じところで、個室。出入りする人も、風雅先生や看護師、姉、と変わららない。何の変哲もない、退屈な毎日を、僕はただ、ベッドの上で過ごす。思い残すことなんて、考えたところで一切出てこない。櫻楽に、会えるのなら。

 姉の結婚式の日は、突然決まった。たまたま式場に空きができたらしく、一か月後という、慌ただしいスケジュール。最初から、両親と仲の良い友人しか呼ばないということだったから、人が集まらないということもないらしい。風雅先生に訊くと、一か月先なら大丈夫だと言われ、当日は楓雅先生の付添いで、式場まで行くことになった。
 初めての結婚式が車椅子かよ、とは思ったが、多分、結婚式に参列できるのは最後になると思うから、そのあたりの気持ちは我慢した。まだ、和久が結婚式を挙げるという話はきてないし。
 そして迎えた当日。集まったのは、姉の関係者では、僕、風雅先生とご両親、樹理さん。菅野さんの関係者では、両親と兄、兄の妻と息子、男友人五人。差はあるものの、小さい会場で静かにできるから、姉にとってはいい思い出になるのだろうと思う。
 姉のウエディングドレス姿は、今まで見てきた中で一番の美しさだった。隣に座っていた風雅先生は、なぜか誰よりも早く泣き始め、ケーキカットのタイミングでは、大粒の涙を流しながら、動画を撮影。僕が宥めるという、変な現象が起きて、笑いに包まれた。
 とにかく姉は、終始幸せそうだった。引っ越しの準備ができれば、アパートを出て、二人は、新たなアパートで同棲する。僕が入る余地はない。けど、気を遣ってくれた姉と菅野さん。僕が病気だと話をしてからは、バリアフリーとなっている物件ばかりを探し、色々と配慮してくれている。菅野さんに病気のことを話すとき、蓮我や和久、康平たちに話すときよりも緊張度が高く、顔も強張っていた。けど、話をしてみると、すんなりと受け入れて、同性ならではの悩み相談にものってくれた。弟としても、菅野さんは姉のお相手にピッタリだと、そう思った。