夏休みに入る直前、僕は学校を辞める決断をした。直前まで迷ってはいたが、意を決した僕は、脆くない。かえって、メンタルが鋼になっている。表向きは、僕のことで、これ以上学校に迷惑をかけたくない。ということと、進級するのにも金はいるのだから、いっそのこと、辞めて働き先を見つけた方が早い。ということだ。
 一番の相談相手は、もちろん姉。翌日から夏休み、しかも姉も仕事が休みの金曜日。夕食時、向かい合っているタイミングで、重たい口を開いた。
「やっぱ、無理だった」
「アルバイトのこと?」
「違う。卒業のこと。半年でリタイア、ははは」
「……皇叶」
「まぁ、ギリギリまで頑張るからさ、それまでは、送迎、お願いします」
「うん、わかった」
 学校へは、翌週、姉と共に報告しに行った。学校はそのことを受け止め、否定せず、かといって、まだ頑張ろうよ、などと励ましもせず、「できるところまで、一緒に頑張りましょう」と言ってくれた。そうして僕は、みんなとは別のゴールに向かって歩き出す。
夏休みの真っ只中である、八月の一週目。僕は電話で、近所の喫茶店に蓮我、和久、康平を呼び寄せた。
 時間より十五分遅れで到着した彼らは、この近辺に来るのが初めてらしく、三人ともに道に迷っていたらしい。その間に合流して、一緒に来た、ということだった。
 ドアを開ける。と同時に、高級そうな音色のベルが鳴った。前と音色が違う。
 マスターは顔を上げ、こちらに向いた。前会った時よりも、幾許か、髭が白くなっている。
「おや、これはこれは」
「久しぶりです、マスター」
「お友達を連れて来られたのですね。一番奥のボックス席を組合せてお使いください」
「ありがとうございます。注文は、またあとで」
「はい、かしこまりました」
 店内は変わらず落ち着いていて、来店客も一組のみ。ゆったりとした時間軸で過ごせる。
 奥にあるボックス席に座るのは、初めてのことだった。ベロア素材の、三人掛けのソファが二脚、向かい合わせに設置されている。四人なのに六人席。マスターの心意気そのもの。
「なに皇叶、おま、こんな洒落た店、知ってたのかよ」
「前を通ったことあったけど、喫茶店だったんんだ。お洒落だな」
「マスターと親しいみたいだね。このお店の常連なのかい?」
「前に、中学の先輩に連れてきてもらって。常連ってほどでもないけど、ちょくちょく利用してる。穴場スポットだし」
「なるほど。じゃあ、おススメも知っているよね」
「うん。飲みたいのがなければ、お揃いで注文するけど、いい?」
 三人とも、頷いた。
「苦手なもの、ない?」
「俺は、ブラックコーヒー」と蓮我が、「俺もだぜっ」とノリノリで和久が、「俺は特にないかな」と康平が、それぞれ答える。だから、僕は自信をもって、手を挙げた。
「マスター、サンシャインオレンジ、四つで」
 少し声を張り上げる。するとマスターは、「かしこまりました」と丁寧に頭を下げた。
「なんか、お洒落な名前の飲み物」
「オレンジジュースの、アレンジ品とか?」
「まぁ、そんなところかな。夏にぴったりだよ」
「へへーい、楽しみだぜぇ」
 マスターは、腰を曲げた状態で、僕らのテーブル席へ運んできた。
「お待たせいたしました。サンシャインオレンジでございます」
 真っ白な、質素なコースターに乗せられるグラス。オレンジ色が映える。
「ごゆっくりどうぞ」
 マスターが去ると、三人は目を輝かせ、「うまそう」などと声を洩らす。
「先、飲んでよ。喉渇いてるでしょ?」
「実は、めっちゃ」
「じゃあ、お先に」
「水分だぁー!」
 そう言って、飲むまで三者三様。蓮我は、オレンジジュースを、細いストローで、口をすぼめながら飲む。和久は、アイスを先に食べ始める。康平は、先にオレンジジュースをひと口、そのあとアイスをひと口。それを繰り返していく。
 一通り涼んだところで、蓮我が口を開いた。
「で、話があるって言ってたけど、どんなこと?」
「相談だったら、気軽に」
「相談っていうか……、まあ種類は別なんだけど」
「え、なんか深刻な話するんじゃない?」
 いつもの和久のダル絡みに、蓮我も康平も溜め息を吐いた。和久は気にも留めない。
「まぁ、決して軽い話ではないよ。どっちかっていうと、重めの内容だから」
 珍しく気を利かせたのか、一番に黙ったのは和久だった。追って、二人も口を噤む。
 重々しい空気。三人が同時に黙るという光景に、僕は下手な嘘は通用しないと、そう思った。
「僕さ、近い未来、歩けなくなって、心臓弱くなって、死ぬんだよね」
 それからというもの、僕はマシンガンのように喋り続けた。それぐらい、信頼できている、ということだ。三人がどう思っていようが、今は関係なかった。普段なら馬鹿みたいに気にするのに、今だけ……。
「……そういうこと、なんだよね、で、うん、僕、一応学校には通うけど、多分、途中で通えなくなると思うから。だから、三月末で中退する。これ以上悪くなると、学校生活に支障来すし」
「そっか……、寂しいな」
「病気、だったんだな」
「隠してて、ごめん。ちゃんと説明しないととは思ってたんだけど」
「四カ月弱、か。気付けなくて、ごめんな、皇叶」
「蓮我が謝る必要はないよ。これは僕個人の問題だし」
 コップに付着した大粒の水滴が、周りの水滴を含みながら、下へ、下へと落ちていく。
「そんなこと言うなよ。みずくさい」
「そうそう。できることがあれば、いつでもサポートするから」
「康平、蓮我……」
「皇叶が中退するのは寂しいけれど、いい思い出が作れるように、手伝うよ」
「康平……」
「へへーい、なんか俺のこと、忘れちゃってない? 俺だって、皇叶のことサポートするって。二人よりは筋力あるし。ま、気は利かないけどね」
「和久まで……、三人とも、ありがとう」
 恥ずかしさもあった中で、頭を下げる。すると、三人は同時に、吹き出すように笑っていた。
「中学校生活のようには、させないから」
「うん。だけど秘密は必ず守る。その上で手伝うから」
「わかった。迷惑かけるけど、ごめん」
「いいんだよ。お互い様、なんだから」
 ヒヒッと、口角を上げて笑う蓮我。和久も、康平も、力強く頷いた。
「長く話したから、アイス、完全に溶けたよな」
「味変も大事だろ?」
「そうだな」
そして僕たちは、サンシャインオレンジの甘酸っぱさと、バニラアイスの甘さとを、一緒に楽しんだ。