車の中は、エアコンが効きはじめ、幾分か涼しくなり始めた。ウインカーを出し、車が途切れてから右手に曲がる。すぐ左手に病院が見えた。
「足は、まだ痛むか?」
「ううん」
「手首は?」
「ちょっと」
「それ以外、痛いところは?」
「ない。額打ったかと思ったけど、手でガードできてたっぽい」
「そうか」
 夜間休日外来用の駐車場に車を停めた風雅先生。振り返り、優しい眼差しを向ける。
「手首、骨折してないか診察してもらうから。降りて」
「……わかった」
「歩ける?」
「多分」
 ほとんど人がいない、待合室。レントゲンを撮ってから、再び呼ばれるのを待った。風雅先生のスマホには、櫻楽からの連絡が入ったが、僕には何も送られてこなかった。捨てられたんだと思った。
 呼ばれて、風雅先生と一緒に診察室へ入る。医者二人は普段から親交があるようで、口調からしても同じ年ぐらいなのだろう。
「骨折はしてないよ。捻挫だね」そう女医が告げると、僕より先に風雅先生が「あぁ、よかった」ともらした。
「処置するから、梅沢君、そのままね」
「はい」
無駄な動きがない。みるみるうちに腕が白くなっていく。
「痛みが続いたりしたら、また診察に来てね。ちゃんと治療しないとダメだから」
「はい」
「はーい、これでよし」
「ありがとうございます」
「野上先生、ありがとうございます。すみませんでした、急に押しかけて」
「いいよいいよ。気にしないで、日下部先生」
 女医はにこっと笑った。後ろに立つ風雅先生の顔を見れなかった。
「じゃあね、梅沢君」
「ありがとうございました」
「失礼します」
 戸を閉める。また別の患者らしき人の姿が見えた。が、いつもと入口とかが違うせいか、同じ病院でも、裏の顔を見た気分になる。
 受付から呼ばれるのを待つ間、隣に座った風雅先生が、僕の顔を見ながら、こう告げる。「そろそろなのかもしれないな」と。
「え、なにが?」
「リハビリ」
たったの四文字。それなのに、ここ最近で、一番のショックを受けた。
「やらない」
「え」
「今、普通に歩けてるし、元気だし、やる必要性感じないし」
「皇叶君が受けるリハビリには、色々と目的があって。例えば――」
 右耳から左耳へ、一直線のトンネルを通り抜ける。流れ星のように。
「――っていう目的があるんだ。リハビリ、受けないか?」
「無理」
「どうして」
「今のままでいい。月一の診察。それでいい。これ以上、学校で目立ちたくない」
「……そうか」
風雅先生は腕を組んで、ゆっくりと頷いた。
「無理強いは勿論しないよ。最終的に決めるのは皇叶君だから。でも、これだけは約束して」
「なに?」
「歩行困難になるまで、自分を追い詰めるな、ってこと。いずれは車椅子生活になるかもしれないけど、君の病気は進行が遅い。だからって、そのことを甘んじて、いつまでもリハビリを受けないでいると、中学生で車椅子生活になるかもしれない。それが嫌なんだったら、ちゃんと治療、自分の体と心、それぞれに向き合ったほうがいい。できる限り、君には自分の足で歩いて、中学校を卒業してもらいたいからさ」
 風雅先生は、ときにズルい男になる。屈託のない笑み、悪気のない笑み、苦しんでいる人を包み込む笑み……。
「わかった」
 受付で診療明細書等を受け取り、病院を出る。風雅先生の車に再び揺られた。
「家まで送るからさ、案内して」
「いい。スーパーの駐車場で降ろして」
「え、家まで送らなくていいの? 本当に?」
「いい。お姉ちゃんにこのこと知られたら、面倒だから」
「知られたら面倒って、もしかして、お姉さんに病気のこと、まだ隠してるの?」
「隠してるっていうか……。お姉ちゃん、精神障害で、今も治療続けてるから、心配かけたくないし」
「そうなんだ。え、お姉ちゃんって、今何歳?」
「確か、三十歳になったはず」
「え、じゃあ、俺と同い年なんか」
「うん」
「……同級生、女子、梅沢、精神障害……」
 車のエンジン音に、風雅先生の小声はかき消される。「なんか言ってる?」そう尋ねると、風雅先生は苦笑いを浮かべ、「あーいや、何でもない」と誤魔化した。僕は適当に相槌を打った。
 スーパーで風雅先生と別れ、そのまま歩いて家まで帰った。ドアを開けると、ちょうど掃除中だった姉と目が合った。やがて、手首に視線が映る。
「どうしたの、その手」
「まずは、おかえり、じゃない?」
「あ、おかえり。で、その手、どっかで怪我したの?」
「ショッピングモール、人多くてさ」
「それで?」
「いや、それだけ」
 背中が痒くなる。
「一人で病院行ったの?」
「うん。あ、でも、途中までふ……、櫻楽と一緒だった。病院紹介してくれたのも、櫻楽だったし」
「えー、そうなの? じゃあ、今度、お礼しなきゃね」
「考えすぎじゃない? お礼言うだけでいいじゃん。お金ないんだし」
「この前だってアイス貰ってるでしょ? 都合いい日を聞いといて」
「……わかった」
 手首を庇いながら、文字を打つ。床の汚れを取る姉は、少しだけ上機嫌になった。返事はすぐに届いた。いつも付いている顔文字は、送られてこなかった。