風雅先生は、長い脚を生かして、階段をもの凄い勢いで駆け下りて行った。それを見送った櫻楽、一度深呼吸をして、その場にしゃがみ込み、僕に背中を向けた。
「乗れよ。一階まで階段で行く」
「いい。歩ける」
「痛むんだろ? 無理する必要ない」
「無理してるわけじゃない。これぐらいの痛みは日常――」
「いいから、乗れ」
「わ、わかった」
 正直、痛いのとかどうでもよかった。ただ、恥ずかしかった。気持ちをわかってないんだと思っていたが、エレベーターという楽な手段を取らず、わざわざ階段を使った理由が、二階へ下りている段階で気付いた。色々な思いがこみ上げる。涙を流すのはもっと恥ずかしい。唇に力をグッと籠める。
「皇叶、大丈夫か?」
「……」
「皇叶?」
「……なんか、悪かった」
「謝る必要ない。皇叶が悪いわけじゃないだろ」
「いや、でも」
「階段移動、やめといたほうがよかったな」
「転ぶとは思ってなかった、から」
 あれだけの人が店内にいるというのに、誰ともすれ違わない。この空間だけ魔法がかかっているかのように。
「俺さ、何となく、皇叶の病名、わかった気がする」
「え」
「あ、大丈夫。誰にも言わないから。もちろん兄ちゃんにも。でも、これから遊びに行くときは、事前に状態を確認するし、ちゃんと兄ちゃんにも同伴してもらう。そのほうが安心だろ?」
「ま、まあ」
「やっぱ、兄ちゃんがいないと、俺、ダメだな。皇叶のこと、全然守れてないや」
「そ、そんなことない」
「ホント?」
「今も、こう、背負って歩いてくれてる、から」
「ふふっ、そっか」
 車を停めてある一階まで、あと少し。櫻楽も段々息が上がり始める。
「そういや、こうやって歩くの、ホント久しぶりだな」
「あ、あぁ」
「ん、覚えてくれてんの?」
「いや、この前お姉ちゃんに聞いただけ」
「ははっ、そっか。そうだよな。三歳ぐらいだったはずだから、まあ覚えてなくても当然か」
 本当は、何となく覚えている。姉に話を聞いたからではない。昔、姉とよく遊びに行っていた家。そこに住む、きょうだいと、美人なお母さん、かっこいいお父さん。いつも可愛がってくれた。あまり心を開いていなかったのに、怪我した僕を背負ってくれたことを。眩しいほどに夕日が輝いていた。
「でもさ」
「うん?」
「先月、アイス買って一緒に食べた、あの日。帰ってく櫻楽の背中みて、なんか輝いて見えたっていうか、懐かしく感じて」
「えっ」
「なんでそう思ったのか、お姉ちゃんの話を聞いて思い出してさ、まあこの先、ああやって背負って歩かれることはないだろうって思ってたのに、まさかの直近でこうなるとは、って、馬鹿々々しくてさ」
 本当に自分が情けなく、不甲斐なく思える。どれだけ人に迷惑をかけているのだろうか。それも、この先、今よりも状態は悪くなる。そうなると、もっと色んな人に迷惑をかけなければならない。もう、耐えられそうにない。
「僕は、櫻楽とは、やっぱり付き合えない」
「え」
「怖い、んだ」
「……そっか。理由は、深堀りしないほうがよさそうだな」
「言わなくてもわかってんだろ」
 そう言うと、櫻楽は黙り込んだ。階段を下りる足音。館内放送。櫻楽の息を吐く音。僕が、溜め息を吐いた音……。
「あの日、お前は、死のうとしていた僕を助けた。本当は、死ぬつもりなんてなかった。怖くて、到底できないと思った。急に、死ぬことが怖くなった。まあ、そんな長く生きられないってわかってる上での話だけど」
「うん」
「でも、あの後、何回か死のうと思った。でも、その度に過るのが、櫻楽の声だった。行くな、逝かないでくれ。あの言葉が、脳内で何度も何度も再生される。その度に、足が震え出して、歩けなくなって、その場でしゃがみ込んでしまう。そのとき、僕の体がまだ生きてるっていうのが嫌でしかたなかった」
「そう、だったんだ」
「櫻楽と出会って、僕の視界が広がったのは確か。これから先、いろんな景色を観たいとも思った。でも、これ以上、櫻楽を巻き込みたくない。僕のせいで、櫻楽が不自由になるのは、許せないんだよ。僕が言いたいこと、櫻楽ならわかるだろ」
「……」
「遊びに行くのは、今日限りにして。受験勉強あるんだろ? 僕のことは放っておいていいから、帰って」
「……るわけないだろ」
「え」
「櫻楽を残して、帰れるわけないだろ!」
 櫻楽は足を止めた。踊り場。少し先へ行けば、人目に付くところで、櫻楽は牙を向けた。
「俺を巻き込みたくない? 皇叶のせいで俺が不自由になる? なにふざけたこと言ってんだよ」
「……え」
「言っただろ、俺は皇叶のこと守るって。どうして信じてくれないんだよ」
「だから、そんな未来のこと約束されたって、困るって話――」
「今は今、未来は未来だろ。分けて考えろよ!」
語気に熱がこもる。余計、イライラするし、悔しくなる。
「無理。僕は、今しか考えられない。未来なんて、想像もしたくない」
「もう知らない。勝手にしろ」
「言われなくても勝手にするし」
 階段すぐの出入口から外に出る。出入口に一番近いところに駐車され直していた、風雅先生の車。運転席の窓を開け、「あ、やっときた。こっちこっち」と言って手を振る。
「お疲れ」
「こっから歩けるし」
「あっそ。じゃあな」
 下ろされる。地に足が着く。そして、櫻楽は僕に背を向け、歩き始める。
「ちょ、櫻楽、どこ行くんだよ」
「買い物してから、電車で帰る。あとはよろしく」
「ちょっと、櫻楽、櫻楽ってば」
 風雅先生の虚しい声だけが、湿気を含む空に響く。
「呼び止めても無駄。早く車出して」僕は再び後部座席に乗り込む。風雅先生は、窓を閉めながら、「なあ、何があったんだよ」と振り向き、尋ねる。
「知るか。ってか、あいつが悪い。僕は何も悪くない」
「はぁ~、もう。エンジンかけるから、ベルト締めて」
 ベルトを締める。隣に、櫻楽の姿がないだけで、少し清々したのもそうだが、やっぱり寂しかった。強がってしまった果てのことだ。