三分後、インターホンが押された。
「はい」そう言うと、「櫻楽だ」とドアの向こうから声がした。
 ドアを開ける。汗だくの櫻楽は「これ、食べよう」と言って、レジ袋を差し出した。中を見ると、フレーバー違いのアイス、三つが入っていた。
「え、三つあるけど」
「お姉さんに」
「ふーん。って、アイス、どこで食べるつもり?」
「すぐそこの、ベンチ。ちょうど日陰になってるし、いいかなって」
「え、わ、わかった」
「お姉さんに渡すアイス、冷凍庫に入れてからでいいよ」
「んなことわかってるし」
 姉が好きなブドウ味の袋を取り出し、冷凍庫に放り込む。
「ブドウ味好きなんだ。ふーん」
 姉にしつこく言われるから、鍵を締めて外階段を下りていく。

 利用客が少ないバス停のところにあるベンチ。腰かけ、袋から残り二つのアイスを取り出す。
「お前、どっち」
「どっちでもいいよ。皇叶が選んで」
「マンゴーにする」
 袋の上から触って、少し溶けかけのアイスだと判断。汁で服を汚さないよう、慎重に袋から取り出す。
「いただきます」
「どうぞ。ふふ」
「なんで笑うんだよ」
「行儀はいいよね。俺に対する言葉遣いはあれだけど」
「うるせーな。別にいいだろ」
「いいよ。それが逆に、俺への愛情だと思って受け取ってるから」
 マンゴーアイスを齧るタイミングで言われ、思わず咽込んだ。歯が染みる。
「変なこと言ってんじゃねーよ。アイスが不味くなるだろ」
「照れるんなら、もっと照れていいんだけど」
 こめかみ、額、背中、いろんなところから汗が滲み、流れ落ちる。
「口調なだけで、根は真面目でピュアな君が、いちばん可愛い」
 胸が鳴る。鼓動が早くなる。
「アイス、溶けてるけど」
 黄色い液が、地面に滴り落ちる。慌てて齧りつく。
「俺も食べよ」
 櫻楽はコーヒー味のアイスを食べ始める。太陽はまだ高い位置に昇っていて、夕方なのに昼過ぎぐらいの感覚になる。
「今日来たのはさ、遊びに行く先のこと、相談したくて」
「うん」
「やっぱり、屋内のほうがよかったりする?」
「別に、どっちでも」
「でも、外は暑いから、あれかなって。兄ちゃんにも、一応相談は持ちかけてみたんだけど」
「聞いた」
「え、兄ちゃんから聞いた?」
「うん。ついでに言うと、風雅先生、付き添ってくれるって」
「付き添う……って、え!」
「うるさいな。もう少し声量抑えろよ」
「あ、ごめんごめん。つい」
「僕が誘った。何かあってもあれだし、お前と風雅先生、仲悪いって聞いてないから」
「まあ仲いいけど、でも」
「じゃあさ、聞くけど」
 視線を、頭を出した棒に向ける。
「僕になにかあったとき、お前、助けられるか?」
「え……」
「僕の病気は、徐々に進行していくタイプだけど、いつ状態が悪くなるかなんて、わからない。それがもし、遊びに行っている当日だとしたらどうする? 風雅先生がいなくても、動けるのか?」
「それは……」
「自信ないんだろ。だから風雅先生を連れて行く。それだけだ」
「ちょっと待って!」
 落ちたアイスの水たまりに群がるアリたち。足元で、うねる列をなす。
「兄ちゃんを連れて行く理由はわかった。でも、もう少し前に相談しておいてほしかった。俺は、兄ちゃんに色々相談して、一人で皇叶のことを家まで送り届けようと思っていた。その気持ちを踏みにじられた。俺の気持ち、わかるか?」
 櫻楽の手は小刻みに震えていた。それが握られ拳に変わるかもしれない。反撃しようにも、多分口でも力でも僕は負ける。十七時を告げるチャイムが、近くのスピーカーから鳴り響く。食べ終えたアイスの棒から、残っていた液がぼたぼたと垂れる。アリたちの数は増え、群がりを増す。
「俺は純粋に、皇叶との一日を楽しみたかっただけなんだ。正直、その意味では兄ちゃんは邪魔な存在だ。でも、医者でも何でもない俺にできることなんて、限られてる。それが悔しくてたまらないんだ。俺は日下部家の次男であり末っ子として、両親にも、兄ちゃん、姉ちゃんにも、甘やかされて育ってきた。なんでも独り占めできるわけじゃないことは分かってる。でも、兄ちゃんも姉ちゃんも歳が離れてるからか、俺は独占欲が強い。だから、今回も、皇叶のことを独り占めにしたいっていう気持ちがあった。まあ、そんな都合よく皇叶が俺のこと好きになるなんてあり得ないし、理想の話になるんだろうけどな」
 天を仰ぎ見た櫻楽。目が潤んでいた。
「確かに僕は、今のところお前を好きになる可能性はない。でも、未来はわからない。好きになる可能性だって秘めてるかもしれない。お前が僕にどうアプローチしてくるかで変わる。正直、毎朝待ち伏せしていることに関しては、最近になって、いないと寂しいって思うようになった。ある意味で、心境の変化ってやつかもしれない。お前の独占欲の強さはなんとなくわかる。まあ、うまくまとめられないけど、諦めるのだけはやめてくれ。愛してるなら、とことん愛してくれ。僕は中途半端が一番嫌いだ」
 答えになりそうな感じはしなかったが、脳に溢れてきた言葉をただ羅列したような感じで、勝手に口が動き、声を出しているという感覚に過ぎなかった。ふと横を見る。櫻楽は泣いていた。
「ありがとな、皇叶。俺、もうちょっと頑張る」
 握った拳を突き出した。僕も拳を突き返す。

 二人ともにアイスを食べ終え、一息ついていると、自転車のブレーキ音が聞こえた。視線を向けると、自転車を下りた姉の姿があった。
「おかえり」そう声を掛けると、目を丸くした。
「あれ、皇叶じゃん。どうした――」僕へ話し掛けている途中で、姉は首の角度を変えた。視線の行く末に、櫻楽がいる。
「あれ、もしかして、櫻楽君?」
「あ、えっ、姫乃ちゃん!?」
互いに指し合い、喚起の声を上げる。
「そう、姫乃だよ! 覚えてる? 私のこと」
「もちろん。お久しぶりです」
「久しぶり。元気してた?」
「はい。姫乃ちゃんは?」
「私はまあまあかな」
「そうですか。久しぶりに会えて嬉しいです」
「私も」
 僕は、蚊帳の外。だからか、腕を蚊に刺された。赤らみ、ぷっくりと盛り上がっている。
「えっ、どうして二人一緒にいるの? あ、もしかして同じ中学校?」
「はい。俺、今年中三になって」
「あ、そっか。どおりで大きくなったなって。声もだいぶ低くなったね」
「はい。へへ」
 櫻楽が照れる姿をはじめて見た気がした。蚊に刺されたところが痒い。
「僕、先帰る」
「え、ちょっと皇叶」
 薬を塗りに帰ろうと思っただけなのに、姉に腕を掴まれ、その場に留めさせられる。
「あの、弟が何かやらかしたり……?」
「違います。俺が会いに来たんです」
「え」
「実は俺たち、友達でして」
「えー! そうだったの!」
「はい。でも、まさか皇叶が姫乃ちゃんの弟だったなんて、知らなかったです」
「もー、皇叶、どうして教えてくれなかったのよ。友達いるんなら教えてよね」
「別に、教えたって意味ないだろ」
 突っぱね、そっぽを向く。視界に微かに映る姉は、櫻楽に対し苦笑いを浮かべていた。
「あ、そうだ。さっきコンビニでアイス買ってきて、俺と皇叶だけじゃなく、お姉さんの分も、と思って。姫乃ちゃん、まだブドウ味好きだったんだね」
「そうなの。ふふっ。アイス、ありがとう。お金支払うから――」
「気にしないでください。勝手に買ってきただけですから」
「そう。ありがとう、櫻楽君」
 姉も櫻楽も笑顔だった。久しぶりに、姉が歯を見せて笑っていた。
「あ、よかったら今度、家に遊びに来てください。父も母も喜ぶと思うんで」
「わかった。あれ、そう言えば楓雅君と音葉ちゃんは?」
「あ、風雅なら医者になってます。家には寝に帰ってくるような感じなので、ほとんどいません。姉ちゃんも、検察官として働いてるので、あまり家には帰ってきませんね」
「へぇ~、やっぱり医師になったんだ。音葉ちゃんも夢を叶えて。流石だね」
「そうですね。俺もその後を追いかけたいんですけど、どうだか」
「櫻楽君なら大丈夫よ。きっといい先生になれる」
「ありがとうございます」
 姉と櫻楽のやり取りを見ていると、胸がずっと痛かった。僕抜きでも楽しそうに話す姿を、見ているだけで辛かった。
「俺、そろそろ帰ります」
「お母さんもいないし、寄って行けば?」
「いえ、このあと塾行くので」
「あっ、そうなんだ。そっか。じゃあまた時間あるときに、遊びに来てね」
「ありがとうございます」
「ご家族によろしく」
「伝えておきます。それじゃあ、失礼します。皇叶、また学校で」
 櫻楽は手を振って、坂を下りて行った。その背中に、いつかの輝きを覚えた。