鳥のさえずりが間近で聞こえて、飛び起きる。時間を見ると、まだ五時を少し過ぎたところだった。妙な時間。寝ぼけた頭で思った。
姉の呼吸する音が微かに聞こえる。襖の向こうは、無音。もう母も出て行った時間だ。
徐にベッドから起き上がり、そっと襖をあける。暗い部屋。電気を灯すと、テーブルの上に一枚の置手紙に目が行った。そっと拾い、目を通す。ざっと読んだ、最後。しばらく家に帰りません。の文字。普段から、帰ってきたのか、きてないのか定かでないせいか、この分を見ても、僕の感情は生起しなかった。無の境地。眠たい目を擦り、手紙を戻し、トイレのドアを開いた。芳香剤の妙にキツイ香りが、鼻の奥をツンと刺激した。
寝る気にもならず、でもまだ眠たくて、ソファの背に凭れかかり、微睡んでいた。段々と陽が昇ってきて、カーテンの隙間から眩しい光が差し込み始める。携帯を見ると、五時半と表示された。おおきな欠伸をする。寝室からは、がさがさと物音が聞こえ、ほどなくして姉が襖を開けた。寝ぐせひとつない髪。でも、目はいつもの半分程度しか開いていなかった。
「おはよ、お姉ちゃん」
「おはよう。今日早いね」
「目、覚めちゃってさ。寝たら寝坊しそうだし」
「そっか。じゃあ、授業中に眠くなるかもね」
「それはいつものことだし」
「えー、そうなの?」
「睡眠学習してるから、大丈夫」
「うまいこと言うんじゃないの」
姉は叱るというより、笑いが押さえきれないといった感じだった。
「今朝のご飯は?」
「お肉切らしてるから、ウインナーしかないんだけど」
「えー、それだけ?」
「ごめん、うっかりしてた。昨日、帰りに、いつものスーパー寄ろうと思ってたんだけど、思いのほかプレゼント選びに苦戦しちゃってね。半額のコロッケも手に入っちゃったし。お肉とか魚とか買うことよりも、帰ることに夢中になってた」
「また買い物頼まれる系?」
「ごめん、お願いしちゃってもいい?」
「仕方ないけど、行く。その分、お小遣いアップで」
「お給料が入ってからね」
「ん」
「リストは、お昼ごろ送っておくから、よろしく」
「了解」
七時少し前、家を出た。一晩中降り続いた雨は、今は小康状態で、傘をさす必要がないぐらいだった。濡れたアスファルトの上。無数の水たまりを避けて歩く。駄菓子屋の猫は、今日は窓から通行人たちを眺めていた。
普段と変わらない時間に学校に到着。生徒玄関までの道を歩いていると、またそこに人影があった。こちらを見るなり、にっと笑って、手を振ってきた。
「おはよう」
「なんで今日もいるんだよ」
「だって昨日、電話くれなかったから」
思い出した。今頃、リュックの底のほうでぐしゃぐしゃになっているか、もしくは教科書の間に挟まっているであろう、あの紙。やべ、と思っていると、櫻楽が顔を覗き込んできた。
「その様子だと、受け取ったまま見てもないな」
「なんでわかるんだよ……、あ」
「素直だなー。ははは」
「笑ってんじゃねーよ。わ、忘れてたんだから、別にいいだろ」
「よくない。全然よくないな、皇叶」
頭の後ろで手を組む。
「は、な、何でだよ」
「俺は昨日、塾に行っていたが、あまり集中できなかった。なぜだかわかる?」
「は、知らねーし、んなことどうでもいいし」
「皇叶から、いつ連絡来るかなって楽しみだったからだよ。って、どうでもいいは酷すぎ」
「別に酷くないだろ。本心なんだから」
「んー、いつになったら俺に心開いてくれるんだろ」
人差し指で顎先に触れる。わざとらしい言い方。そして態度。はなにつく。
「は? 僕は、いつになってもお前なんかに心開くつもりはないからな!」
「そうやって強がっちゃって。一か月後には、デートに行けてたりして」
「は、なんでお前とデート行かなきゃなんねーんだ。僕は将来、恋人と行く、予定だ」
「恋人なら、俺でもいいじゃん」
「は? 男が言う恋人って、フツーは女だろ。男は友達だろ」
「……」
櫻楽は黙り込んだ。そしてしばらくして、口を開いた。瞳はひどく寂しそうに見えた。
「そっか。じゃあ俺は、皇叶の友達のままなのか。一生」
「一生かどうかなんて、約束してんじゃねーよ」
「え、俺は皇叶が死ぬまで、ずっと友達、いや、恋人として一緒にいるつもりだったんだけど」
「だから、恋人はないって。あり得ない」
突っぱね続ける。こうでもしていないと、毎朝こうして待ち伏せされる羽目になる。
後ろから近づいてくる足音。櫻楽は目を見開いた。
「おはよー、櫻楽。今日は生徒玄関前で挨拶するとは」
聞き覚えのある声。振り返らずともわかる。少しだけ、顔を上げる。
「おはよう、紘。今朝も早いな」
「生徒会活動あるんだから、当たり前だろ」
ハハハとおちゃらかに笑う三年男子。足音が、すぐ隣で止まった。
「あれー、そいつ、昨日の」顔を覗き込まれる。ニヤッと笑われる。
「そいつ、じゃねーし」
「はっはー、良い感じに尖ってるじゃん。おもろ」
「そう弄るなって。あ、こいつ、須藤紘。俺と同じクラスで、ついでに言うと、生徒会の副会長だから」
「よろしくな、一年君」
「名前あるんだから、呼んでやれよ」
「え、俺、一年君の名前知らないから、呼びようがないんだけど」
「あ、そっか。この子は――」
「一年の、梅沢です。よろしくお願いします、須藤先輩」
軽く頭を下げた。「え」と言う櫻楽の声がした。顔を上げる。軽く口を開き、二度ゆっくり瞬きをしていた。
「意外としっかりしてるんだな。見た目、なよなよしてんのに」
「ちょっと紘、言い過ぎ」
「あ、ごめんごめん」
「皇叶、気にしなくていいからな」
「……」
須藤という先輩は、正直絡みづらいと思った。櫻楽のほうが、まだ、マシだ。
「あ、俺、先に生徒会室開けとくな。梅沢君とごゆっくり」
「いいいい。俺も行く」
「そーなん? じゃあ行こうぜ」
櫻楽は肩を組まれた。気怠そうな表情を浮かべる。
「またなー、梅沢君」
「はい。また」
「皇叶、待ってるから」櫻楽は小さく手を振っていた。
生徒玄関に姿を消す二人。離れていても聞こえてくる二人の会話。「え、待ってるって言った今?」「電話かけてくるの待ってるだけだって」「ヒュー、やっぱナンパしてんじゃん」「だから、ナンパじゃないってばよ」
僕はそっと舌打ちした。
姉の呼吸する音が微かに聞こえる。襖の向こうは、無音。もう母も出て行った時間だ。
徐にベッドから起き上がり、そっと襖をあける。暗い部屋。電気を灯すと、テーブルの上に一枚の置手紙に目が行った。そっと拾い、目を通す。ざっと読んだ、最後。しばらく家に帰りません。の文字。普段から、帰ってきたのか、きてないのか定かでないせいか、この分を見ても、僕の感情は生起しなかった。無の境地。眠たい目を擦り、手紙を戻し、トイレのドアを開いた。芳香剤の妙にキツイ香りが、鼻の奥をツンと刺激した。
寝る気にもならず、でもまだ眠たくて、ソファの背に凭れかかり、微睡んでいた。段々と陽が昇ってきて、カーテンの隙間から眩しい光が差し込み始める。携帯を見ると、五時半と表示された。おおきな欠伸をする。寝室からは、がさがさと物音が聞こえ、ほどなくして姉が襖を開けた。寝ぐせひとつない髪。でも、目はいつもの半分程度しか開いていなかった。
「おはよ、お姉ちゃん」
「おはよう。今日早いね」
「目、覚めちゃってさ。寝たら寝坊しそうだし」
「そっか。じゃあ、授業中に眠くなるかもね」
「それはいつものことだし」
「えー、そうなの?」
「睡眠学習してるから、大丈夫」
「うまいこと言うんじゃないの」
姉は叱るというより、笑いが押さえきれないといった感じだった。
「今朝のご飯は?」
「お肉切らしてるから、ウインナーしかないんだけど」
「えー、それだけ?」
「ごめん、うっかりしてた。昨日、帰りに、いつものスーパー寄ろうと思ってたんだけど、思いのほかプレゼント選びに苦戦しちゃってね。半額のコロッケも手に入っちゃったし。お肉とか魚とか買うことよりも、帰ることに夢中になってた」
「また買い物頼まれる系?」
「ごめん、お願いしちゃってもいい?」
「仕方ないけど、行く。その分、お小遣いアップで」
「お給料が入ってからね」
「ん」
「リストは、お昼ごろ送っておくから、よろしく」
「了解」
七時少し前、家を出た。一晩中降り続いた雨は、今は小康状態で、傘をさす必要がないぐらいだった。濡れたアスファルトの上。無数の水たまりを避けて歩く。駄菓子屋の猫は、今日は窓から通行人たちを眺めていた。
普段と変わらない時間に学校に到着。生徒玄関までの道を歩いていると、またそこに人影があった。こちらを見るなり、にっと笑って、手を振ってきた。
「おはよう」
「なんで今日もいるんだよ」
「だって昨日、電話くれなかったから」
思い出した。今頃、リュックの底のほうでぐしゃぐしゃになっているか、もしくは教科書の間に挟まっているであろう、あの紙。やべ、と思っていると、櫻楽が顔を覗き込んできた。
「その様子だと、受け取ったまま見てもないな」
「なんでわかるんだよ……、あ」
「素直だなー。ははは」
「笑ってんじゃねーよ。わ、忘れてたんだから、別にいいだろ」
「よくない。全然よくないな、皇叶」
頭の後ろで手を組む。
「は、な、何でだよ」
「俺は昨日、塾に行っていたが、あまり集中できなかった。なぜだかわかる?」
「は、知らねーし、んなことどうでもいいし」
「皇叶から、いつ連絡来るかなって楽しみだったからだよ。って、どうでもいいは酷すぎ」
「別に酷くないだろ。本心なんだから」
「んー、いつになったら俺に心開いてくれるんだろ」
人差し指で顎先に触れる。わざとらしい言い方。そして態度。はなにつく。
「は? 僕は、いつになってもお前なんかに心開くつもりはないからな!」
「そうやって強がっちゃって。一か月後には、デートに行けてたりして」
「は、なんでお前とデート行かなきゃなんねーんだ。僕は将来、恋人と行く、予定だ」
「恋人なら、俺でもいいじゃん」
「は? 男が言う恋人って、フツーは女だろ。男は友達だろ」
「……」
櫻楽は黙り込んだ。そしてしばらくして、口を開いた。瞳はひどく寂しそうに見えた。
「そっか。じゃあ俺は、皇叶の友達のままなのか。一生」
「一生かどうかなんて、約束してんじゃねーよ」
「え、俺は皇叶が死ぬまで、ずっと友達、いや、恋人として一緒にいるつもりだったんだけど」
「だから、恋人はないって。あり得ない」
突っぱね続ける。こうでもしていないと、毎朝こうして待ち伏せされる羽目になる。
後ろから近づいてくる足音。櫻楽は目を見開いた。
「おはよー、櫻楽。今日は生徒玄関前で挨拶するとは」
聞き覚えのある声。振り返らずともわかる。少しだけ、顔を上げる。
「おはよう、紘。今朝も早いな」
「生徒会活動あるんだから、当たり前だろ」
ハハハとおちゃらかに笑う三年男子。足音が、すぐ隣で止まった。
「あれー、そいつ、昨日の」顔を覗き込まれる。ニヤッと笑われる。
「そいつ、じゃねーし」
「はっはー、良い感じに尖ってるじゃん。おもろ」
「そう弄るなって。あ、こいつ、須藤紘。俺と同じクラスで、ついでに言うと、生徒会の副会長だから」
「よろしくな、一年君」
「名前あるんだから、呼んでやれよ」
「え、俺、一年君の名前知らないから、呼びようがないんだけど」
「あ、そっか。この子は――」
「一年の、梅沢です。よろしくお願いします、須藤先輩」
軽く頭を下げた。「え」と言う櫻楽の声がした。顔を上げる。軽く口を開き、二度ゆっくり瞬きをしていた。
「意外としっかりしてるんだな。見た目、なよなよしてんのに」
「ちょっと紘、言い過ぎ」
「あ、ごめんごめん」
「皇叶、気にしなくていいからな」
「……」
須藤という先輩は、正直絡みづらいと思った。櫻楽のほうが、まだ、マシだ。
「あ、俺、先に生徒会室開けとくな。梅沢君とごゆっくり」
「いいいい。俺も行く」
「そーなん? じゃあ行こうぜ」
櫻楽は肩を組まれた。気怠そうな表情を浮かべる。
「またなー、梅沢君」
「はい。また」
「皇叶、待ってるから」櫻楽は小さく手を振っていた。
生徒玄関に姿を消す二人。離れていても聞こえてくる二人の会話。「え、待ってるって言った今?」「電話かけてくるの待ってるだけだって」「ヒュー、やっぱナンパしてんじゃん」「だから、ナンパじゃないってばよ」
僕はそっと舌打ちした。



