この日は、僕たちが理科室から出て来るタイミングで、パソコン室から出てきた三年生とすれ違った。その中には、もちろん櫻楽の姿もあった。が、朝の男ともう一人、別の男が一緒にいたからか、僕には目もくれず歩き去っていく。両サイドから肩を組まれ、面倒くさそうに笑い、だるそうに歩いていくその背中を、僕はぼんやりと眺めていた。
 給食を食べ終えた、昼休み後の掃除の時間。ここでも、櫻楽とすれ違った。掃除の担当場所には一番の遠回りになるから、いつも通らない階段を使ったというのに。
「皇叶」
 階段には僕と櫻楽しかいない。絶好のタイミングだと言わんばかりに僕の腕を掴む。踊り場。遠くで女子たちが話す声がするが、遠ざかっていることは確か。
「皇叶、あのさ」
「これから掃除なんだけど」
「わかってる。それは俺もだから」
「じゃあ離せよ」
「いやだ」
「は、お前、なに言って――」
 喋る口は、櫻楽の唇によって静止される。息を吐く音。もう一度、離れた唇がくっつく。こめかみ付近から滴る汗。首を通り、鎖骨へと流れつく。
 唇が離れた。真正面を見る。荒々しい息を吐き、頬を赤らめる櫻楽が映る。
 僕は怒りたかった。勝手にキスされるとか大問題だし、第一、学校という、いつ、どこで、誰が、この状況を見ているかわからないところですること自体、おかしい。それなのに、唖然としかできないし、あっけにとられて、言葉がうまく出せない。
 掃除開始を告げるチャイムがなる。下から、階段を駆け上がってくる足音が聞こえた。
「お、お前……」
「これ、俺の携帯番号」
「は、え、今渡すかよ」
「今日の夜、電話する。そこで話そう。じゃあな」
 櫻楽は長い脚で階段を、段を飛ばして三階へと上がった。ほどなくして、下から聞こえてきていた足音が、僕のすぐ後ろで止まった。
「あれ、皇叶君、だよね?」
後ろを向く。そこには、隣のクラスの女子、西園寺杏が、凛とした姿で立っていた。
「どうしたの、こんなところで」
制服をきちんと着こなし、尚も綺麗な上履きを履いている彼女は、裕福な家庭の育ちらしく、普段から取り巻きを従えていた。が、今は一人。しかも、校舎内でも群を抜いて雰囲気の悪い階段にいる。そのせいか、余計彼女が引き立って見える。
「掃除、始まっているよ。行かなくてもいいの?」
「い、いや、その……」
「私、美術室の担当なの。皇叶君は?」
「僕は、音楽室……」
「おとなり同士だね。だったら、早く行こう。みんなに怒られちゃう」
 右手を引かれ、彼女のペースに合わせて階段を上った。色白で細く、今にも折れてしまいそうな腕で僕を引っ張る彼女の髪からは、清涼感あるシャンプーの匂いがした。
「じゃあ、またね」
 美術室前、手を振る彼女。僕は手を胸の位置まで上げるのが精いっぱいで、何もできなかった。
「杏ちゃん来た~」
「遅かったね。どこ行ってたの?」
「途中で落とし物拾ったから――」
 戸が閉まる。踵を返し、階段を下りた。音楽室へと続く廊下からは、同じ斑の女子たちが男子と一緒に笑い合う、楽しそうな声がしていた。
 担任が生ぬるい声で、ぶつぶつと連絡事項を伝えている、この教室で、僕は頭を腕の中に埋めていた。長々と続く担任の話。ベランダ側に顔を向ける。広がっているのはグラウンドで、いつもと変わらない殺風景。
「――終わりだ。日直、号令」
「起立、礼」
「さようなら」
 影が差す。顔を上げると、担任と目が合った。
「このあと、職員室に来てくれるか。訊きたいことがある」
「……」
「返事は」
「……はい」
 一人で職員室に行くと言ったのに、教室からずっと担任が一緒だった。僕が逃げると思っているらしく、執拗に話しかけてきた。見えないテープで拘束されている気分だった。
「……失礼します」
 職員室に入る。様々な教員たちが行き来していて、慌ただしい感じが見ているだけで伝わる。
「まあ、ここ座って」
担任の真向かいに用意されたチェアー。キャスターは付いているが、動くたびに、キィ、キィ、と耳の奥が痛くなる音を鳴らす、最悪のやつだった。
「先生、やることあるから、作業しながらになるが、質問には答えるんだぞ。いいな」
「……はい」
 そう言うと、担任はパソコンを立ち上げ、タイピング入力しながら、口を開いた。
「この前の体育祭の日、連絡しても一切出ないで、無断欠席したよね。どうして?」
「……体調不良、で」
「それ、嘘吐いてるよね」
「……嘘、じゃないです」
「じゃあ、具体的にどういう体調不良の状態だったか、言えるよね」
「……」
「ほら言えない。やっぱり嘘だ」
 エンターキーを、馬鹿強く押すタイプ。一定でないリズムに酔う。
「あ、えっと」
「体育祭の帰りに、駅前のデパートで、梅沢君が女性と歩いているって、先生のところに連絡があってね。体調不良なのに、どうしてデパートにいるの? それってさ、おかしいよね」
「……その、女性、僕の、姉、です」
「お姉さん? あぁ、そう言えば、かなり年上のお姉さんがいるんだっけね。あぁ、そうか、そうか。お姉さんと、ね」
「あの、もういいですか」
「ダメ。だって嘘吐いてたんだから。反省文書いてもらわなきゃ」
「え、今から?」
「そう。そこのスペースで書いて、終わったら持って来て。はい、これ用紙な。五枚あるから、全部埋めろよ」
「は、い」