同じアパートに住む老人は、おぼつかない足取りでゴミ出ししているし、二軒隣にある弁当屋のショーケースには、既に完成した弁当が並べられている。一つ目の小さな交差点、その向かい側にある駄菓子屋。そこの飼い猫、その名も「トラさん」は、いつもの軒下で、リラックスしていた。
 大通りに出て、開店前のスーパー、歯科医院、内科クリニック、郵便局の前を通り、中学校へ続く道に入る。左右には田畑が広がり、植えられた稲の苗は朝の風に吹かれ、水面には太陽の光が反射している。どこからか鳥のさえずりが聞こえた。のどかな田舎を、五感で漫喫する。
 通っている中学校は、近隣小学校三校から生徒が集うようになっているが、僕の場合は、その三校ではない、別の小学校からの入学。引っ越しに伴うものだ。
 小さい商店街を抜けた先、校舎が見えた。
 時計を見る。七時十分ちょうどだった。
 正門をくぐり、玄関へ向かう中、人影が見えた。軽くこちらを向いている。視線が合いかけた。慌てて視線を逸らすも、遅かった。
「おっ、皇叶は噂通り、結構早く来るんだな。おはよう」
「……」
 前を通り抜けようと、早く歩き始める。が、すぐにその右腕を掴まれ、行く道を阻まれた。
「ちょいちょい、待て待て」
「は、なに、なんのつもり」
「朝から皇叶の顔が見たくなって、早く来た。ただそれだけ」
 櫻楽は悪気の無い笑顔で、僕を見る。
「は、待ち伏せかよ」
「そんなとこ、だな」
「あっさり認めんなよ。てか待ち伏せとか、フツーに嫌なんだけど」
「嫌……か。ストレート過ぎる、な。あ、もしかして、機嫌悪い?」 
「こんな朝早くから機嫌良い奴なんていないだろ」
「確かに。皇叶は朝が一番不機嫌みたいだな。普段より当たりが強い」
「うるせーな。別にいいだろ」
 視線を合わさない僕に対し、櫻楽はずっと前を向き続けている。腕を掴む力は、段々と弱まる。
「てかお前、いつから待ってたんだ?」
「七時前から」
「今にも雨降るかもしれないのに?」
「もしかして、濡れること心配してる? 俺なら大丈夫。ちゃんと折り畳み傘持ってるから」
 リュックの横ポケット、傘らしきものが詰め込まれていた。
「ち、ちげーし。誰がお前のこと心配してるだ。勘違いすんな」
「あーもう、ホント素直じゃないな、君は」
「あ? なんか文句でもあんの?」
「ないない。さっ、雨降る前に早く中入ろ。濡れて風邪引いちゃってもよくないし」
 腕が握られたその状態で手を引かれた。
 指定の傘立てに、上から捨てるように入れる。誰かが忘れて行った傘に寄り添う僕の傘。それを見て、「あ」と櫻楽は隣で声を洩らす。
「傘の柄にシール貼ってるんだ。しかもサメじゃん。不機嫌なときの、皇叶の顔と似てるし、めっちゃ可愛い」
「サメのシール貼って、なんか悪いか?」
「ううん。違う、違う。ただ単に、ビニール傘って、間違って持って行かれやすいから、そういう工夫はいいなって思っただけ」
「ふーん」
 スニーカーを入れ、比較的綺麗な状態の上履きに履き替える。三年生の下駄箱があるところから、首から上を覗かせた櫻楽。
「あのさ、皇叶って、どうしてこう、なんでもかんでも、自分が悪いみたいな言い方するわけ?」
表情に見合わない質問内容。いきなりで戸惑いが隠せないから、「知らねーよ、んなこと」と言って突っぱねる。
「さっきもさ、俺は傘の柄のシールのこと笑うつもりなんてないのに、二言目には「なんか悪いか」って。いくらなんでも、決めつけすぎじゃない?」
「別にいいだろ」
「その、『別にいいだろ』も、口癖みたいになってるけど、小学生の頃は、そんなんじゃなかったんじゃない? 中学生になってから口調とか変えたんじゃない?」
「……」
 近づく足音。俯き、後ろを向く。
「皇叶は、ここ近隣の出身じゃないんでしょ」
「どうして、お前が知ってんだよ。話してないだろ」
「俺、これでも生徒会長だから。比較的、情報は頭の中に」
 決めぜりふっぽく言うのに、口元は一切緩まない。
「こう見えて人脈広いほうでさ、大体の生徒がその小学校出身かって把握してるから。皇叶がどういう理由で、この中学校に通うことになったのか、そこまでは知らない。でも、君が強がるようになった理由と、なにか関係してるんじゃない?」
 諭すように言ってくる、その態度が気に食わない。普段から喋るが、今日は特に、こちらが返すとすぐに、被せるように喋ってくる。本当にうるさい。
「……黙れ」
「知っている人がいない状況で、しかも病気のことも知らせないで、一人で抱え込んで生きてる。この前、ある先生から、皇叶の話を聞いた。勉強はできるけど、クラスメイトや先生たちと、うまく関係性が築けてないから、このままだと、孤立状態が加速するんじゃないかって。先生だって、心配してくれてる」
「……」
「土曜の体育祭を欠席したのは、持病があるから? それとも、人間関係のせい?」
「関係ないお前に話すわけないだろ」
「関係ない、か。そっか」
 隙を見て、ここから抜け出そうと思っていた。それなのに。
「ひとつだけ、言わせて欲しいことがある」
「……」
「この際だから、正直に言うわ」
「……なに」
「俺さ、皇叶のこと、好きなんだ。これは友達としてじゃない。恋愛対象として見ている。体の関係だって、全然持てる」
「……え」
「今、キモイと思っただろ? 男が男に恋してんじゃねーよ、って」
 櫻楽の圧は強い。たじろぐ僕に容赦しないといった表情で顔を近づける。
「こういう時こそ、悪態ついて欲しいんだけどな。いつもみたいに」
 何も言い返せない。言葉を発したいという意志はあるのに、喉が動かないといった感じだ。
 そのときだった。
「お、櫻楽じゃん。おは」櫻楽並に背の高い男子生徒が、片手をサッと上げる。それに応える櫻楽。「おはよ」と言って、はにかむ。
「え、今日どうしたん? いつもこの時間教室いるのに」
「いや、ちょっとな」
 男子生徒の視線が僕に移る。顔を見て、もう一回櫻楽に視線を向け直す。
「おまえっ、まさか、ナンパでもしとったんか?」
ニヤニヤと気持ちの悪い顔を浮かべる。
「違う違う」櫻楽は首を横に振る。笑いながら。
「一年生に声掛けてただけだよ。なんか困ってる様子だったから」
「チェ、なんだ、違うのかよ」
「鉱が、勝手な思い込みし過ぎな」
「いよいよ恋する気になったかと思ったのによ」
 視界から二人が消える。三年の下駄箱から声がした。
「俺は今、恋愛するきなんてゼロだし、それより受験勉強のほうが大事だって」
「ほんと、櫻楽って変なとこで水臭いからなー。こういうこと言っておいて、実はもう誰かに好きだって伝えてたりするんじゃねーの?」
 ドキッとした。その、恋を伝えられた人物がここにいるとは知らないせいで、三年生は大きな笑い声をあげる。櫻楽が「落ち着けよ」と言っている声が掻き消されるほどだ。
 ここから逃げたい。心よりも先に足が動いた。
 そのとき、廊下に上がるちょっとした段差に躓き、盛大に転んだ。以前なら身構えることができていたのに。
「あ、え、まだいた」
 顔を上げる。櫻楽は心配しているような表情を、男子は腹を抱えて嘲り笑い、こちらを見つめる。
「ご、ごめんなさい」
 立ち上がり、教室とは反対方向に走った。櫻楽が呼び止めようと声を掛ける。男子の笑い声にだんだんと消えて行く、櫻楽の声。途切れたとき、二階まであと三段のところだった。