「え〜。もしかして日本史のテストの直し、お手伝いして欲しいとか〜?」

 帰りのホームルームが、終わった瞬間。
 僕の目の前に、腰をかがめた高嶺(たかね)が。いきなり顔を寄せてくる。
「ちょ、近いぞっ! なんか鼻息がかかる!」
 いつもなら、ここで文句が出る。
 いやいつもならこの距離に、顔が接近してくることなどないはずなのに。

「どうしよっかなぁ〜」
 わざわざ、目をパチパチさせる音が聞こえそうなくらい。
 上機嫌のアイツが、笑顔でいる。
「……たったの三点だろ。そんな助けは不要だ」
 どうやら、中学以来初めて。
 この日僕は社会の試験で、アイツに負けたらしい。

「おおっと海原(うなはら)君! 英文法のテストも、三点差で負けちゃったよ〜」
 便乗した高尾(たかお)先生が、そんなことを告げると。
「なになに、師匠! まさかの連敗っすか?」
 山川(やまかわ)(しゅん)が、うしろからツッコミをいれてきて。
 高嶺に何人かの女子が、おめでとうと声をかける。


「あの……生徒の個人情報じゃないんですか?」
「う〜ん。そうでもなくなったかな?」
 そういうと、高尾先生はニコニコしながら。
 僕の答案を手に持ち、ヒラヒラさせて『公開』する。

「あれ? 先生、これも間違ってますけど?」
「あら、ほんと。じゃぁ……あと二点マイナスだね」
「う〜ん。このスペルも、ちょっと怪しいような気がしません?」
「おっ、由衣(ゆい)は厳しいねぇ〜。じゃぁもう一点下げとこっか?」
「ちょ、ちょっと……」
「なによ? ちゃんと読めるように書けばいいだけじゃん」

 ご機嫌モードの、アイツは絶好調で。
「先生、口答えしたからあと五点下げましょうよ〜」
「う〜ん。どうする、海原君?」
 あぁ、ダメだ……。
 これ以上、このふたりに関わると。
 いつか僕のテストの、点数がゼロにされる気がする……。


 一年一組の教室は、廊下側最前列に僕の席があって。
 その隣が高嶺の席。
 そして教室の前扉を、ほぼ占有する状態で。
 高尾先生が、自分の机を置いている。

「教師って、普通は窓側じゃないんですか?」
「お日さまって、まぶしいでしょ?」
「カーテンしたら、どうですか?」
「そうしたら、せっかくの太陽なのに。暗いじゃない……」
 あぁ……。
 なんだか雰囲気からなにから、『藤峰(ふじみね)化』しつつある高尾先生には。
 なかなか、話しがつうじない。

「え〜、いいの? それ、佳織(かおり)にいっちゃうよ?」
「い、いやそれは……」
 心の中で、思っただけなのに。
 ズバリといい当てた先生は。
 まさに藤峰先生みたいに、右目で無駄にウインクすると。
「それにここは、用事を頼みやすくて。わたしは結構、好きだけど?」
 そういって、新たな配布物とホッチキスを。
 僕の机の上に、ドンと置く。

「えっ……」
「明日の終礼まででいいからね、よろしく!」
 ……訂正だ。
 すでに高尾先生は、『藤峰化』を完了している。
「あと、英語のプリントは教科準備室にあるから。学年分印刷しておいてね!」
「……はい?」
「それも、明日まででいいから。ありがとう」
 いやひょっとするとこの先、この先生は。
 もっと『改悪』されていくのかもしれない……。



「よし。じゃ、いこっか!」
「はいっ!」
 僕の不安をよそに、高嶺が元気に返事をすると。
響子(きょうこ)先生、お祝いのアイス一本とかありません?」
「ええっ、それなら海原君に二本買ってもらわない?」
 ふたりが長い廊下を歩きながら、勝手なことで盛りあがっている。

 中央廊下へとつながる階段をのぼり、踊り場に差し掛かる頃には。
 その先から藤峰先生と、二年生部員たちのにぎやかな声が聞こえてきて。
「響子!」
「佳織!」
 慣れている僕たちでも、毎度熱苦しい感じで。
 まずふたりが、名前を呼び合って。

「……ゆ、由衣」
「つ、月子(つきこ)ちゃん……」
 三藤(みふじ)先輩たちが、まだこんな感じで。
 ぎこちなく、互いを呼び合うと同時に。

「あのさぁ。最近、出番が少ないんだよね〜」
「そ・う・そ・う!」
 赤根(あかね)玲香(れいか)と、波野(なみの)姫妃(きき)のふたりがなにかいって。
「そうかな? わたしのほうが、地味かもなぁ〜」
 春香(はるか)陽子(ようこ)が、そういいながら僕を見ると。

「ねぇ(すばる)。それだけじゃ、物足りないよね?」
 い、いや……。
 僕が両腕で一年一組からずっと、山盛りの荷物を抱えているにも関わらず。
「よろしくっ」
 さらにその上に、自分のカバンをのせてくる。


「あ、ズルい! わ・た・し・の・も!」
「昴君、あげる!」
 続けてふたり分のカバンが、追加でのせられて。

 あ、あとは最後の砦。
 じゃなくて、孤高の砦。
 そんな、三藤先輩と目が合うと……。
「……ねぇ、海原くん」
「はい?」
「落とさないでね、お願いします」
「えっ!」
「つ、月子も?」

 ……そう。
 ま、まさかの。三藤先輩までが。
 カバンをのせてくるなんて……。


「……なにか?」
「い、いえ。なんでもありません」
「頼んだわよ、海原くん」
 三藤先輩が短く告げて、スタスタと歩き出すと。
「月子、待ってよ〜!」
 春香先輩が、楽しそうな声で追いかける。

「じゃ、わたしたちも急ごっか?」
 玲香ちゃんが、笑顔で僕にそういうと。
 高嶺が隣から大声で。
「海原、走れっ!」
 無茶なことを、いってくる。

「この荷物で走れるわけ、ないだろ! そもそも廊下を走るなっ!」
「もう海原君。いいから、は・し・ろっ!」
「ちょ、ちょっと波野先輩まで。だいたい、転んだら怪我しますよ!」
「もうわたし。包帯してるから、へ・い・き・ー!」
 僕がいうのは新しい怪我、という意味なのに。
「待って〜!」
 先輩と玲香ちゃん、それに高嶺が隣から一斉に。
 僕たちの放送室へと、走り出した。





 ……彼の周りを飛び回る、彼女たちを眺めながら。
 わたしは響子と、互いに顔を見合わせる。

「ねぇ、どう思う?」
「佳織と同じ。あの子たちがやろうと思ったなら、できると思う」
 響子のそれは、正論で。

「『あの子』も、そう思うかな?」
「そうだねぇ……」
 響子の揺らぎも、誠実で。

「きっと『わたしたち』が信じれば。『あの子』はずっと、応援してくれる」
 言葉がとても、あたたかい。

 そうだよね、もう……。

 前に進んで、いいんだよね?


「ねぇ、佳織……」
 みなまで、いわずとも。
 わたしの親友は……心配はわかるよと。
 肩に載せたその手のひらに、少し力をこめると。


「『わたしたち』が、ついているんだよ」


 ……そういってから。『あの頃みたい』に、笑ってくれた。



 ……そうだね、この先はもう。


 悲しむだけでは、終わらせない。



 わたしは、軽く息を吸うと。
「うーなーはーらーく〜ん!」
 あの子たちが、それでも思わず全員振り返るような声を出して。

「レディーの荷物も、よろしくっ!」
 そういって、プリントの束とカバンを。


 ……笑顔で彼に、押し付けた。




「ちょっと! バ、バランスがぁ〜」
「キ、キャ〜!」





 ……どこかから、悲鳴が聞こえたと思ったら。
「まったく。また、あの子たちね……」

 校長室の窓辺で、わたしは少し目を細めると。
 淹れたてのカモミールティーを。
 ゆっくりと、口にする。

 ふたりの元・教え子と。
 六人の希望の塊、か……。


 それにしても、三年生たちが。
 あそこまで熱心になるとは、思わなかった。
 特に『あの子』ったら。
 本当は『みんなの中』で、輝きたかったでしょうに……。

 同時に、わたしは。
 やや昔の、出来事を思い出しながら。
 窓の向こうの、あの『ふたり』が。
 しっかり成長していることにも、驚いた。


「……『あなた』も、見ているのよね?」


 思わず、声に出しながら。
 わたしは引き出しを開けて、一枚の写真に問いかける。

 笑顔の並ぶ、『あの頃』そっくりの想いが。
 確かに、ここにある。

 ただ、どうか。
 少しにじんだ、その一枚と同じことだけは……。
 もう二度と、起こりませんように……。


「どうか、見守ってあげて……」



 わたしがつぶやいた、その瞬間。
 開いた窓から、校長室に。
 風がふわりとやってきて。

 それにのせられて、一枚の銀杏《いちょう》の葉が。
 毎朝欠かさず磨いている机の上に、ゆらりゆらり。
 そして最後に、はらりと。

 まるで、ここに来たかったのだといわんばかりに。
 静かに、着地した。

「銀杏、ねぇ……」

 わたしは、少しだけ色づきはじめたその葉をしばし眺めてから。
 偶然にしては、奇妙なものだから。
 せっかくなので、お気に入りの本にでもはさもうと。

「……少し、乾かすわよ」
 窓際にそっと、それを置いてから。


「銀杏、ねぇ……」


 ……もう一度、つぶやいた。