……なぜかは、わからないけれど。
 僕はひとりで、非常階段をのぼっていた。


 二階を越えて、三階へ。
 さらに上に向かって。
 踊り場を、曲がると……。


「あっ」
「あら……」


 誰もいないはずの、その場所では。


 ……三藤(みふじ)先輩が、たたずんでいた。


「ひ、ひとりなので。講堂の……」
「機器室の、掃除にいこうと思ったのだけれど……」
「その前に。ちょ、ちょっとだけ」
「よ、寄ってみただけ……なの」

「ぐ、偶然。ですね」
「……そうね、偶然よね」

「みんなと一緒にいったのだと、思っていました」
「女子会にはいけないから。どこかにいるのだろうと、思ったわ」

 ふたりの会話が、つながると。
 三藤先輩が、僕を見て。
 少し首をかしげてから、ほほえんだ。


「相対的に考えて、わたしのほうが読みが深かったわね」
「……えっと。鍵を、開けましょうか」
 先輩は、わざと僕が答えなかったことに。
 気がついただろうか?

 僕は、歴代の放送部長が預かるという。
 非常階段から、屋上へ続く扉の鍵を手に取ると。
 黒く、重い扉の鍵穴に。
 そっとそれを、挿し入れる。
 滅多に使わない鍵を、ゆっくり回し。手応えを感じてから。
 もう一度そっと、穴から抜いて。

 大きな扉が、きしまないように。
 やさしく、扉を開けてから。
「お、お待たせしました」
 そういって、ようやく先輩の顔を見たのだけれど。


 ……あれ? なんですか、その表情は?


「お、屋上。い、いかないんですか……?」
 ここまできたのに、いかないなんて。
 いったい、どうしたのだろう?

 も、もしかして。
 まだ『前』のことを……。

「はい、妄想ストップ」
「へ?」
「さっき海原(うなはら)くんが、わざと答えなかったから。お返ししただけよ」
「えっ、意地悪ですよそれ……」
「じゃあそっちも、そんなことしちゃダメじゃないかしら?」
「確かに……すいません……」





 ……もう、そこまで落ち込まないでよ!

 なんだかんだ、いいながらも。
 わたしは、ちゃんと小指を差し出している。

 扉の先の、暗いところを抜けるあいだに。
 つまずいたり、転ばないようしたりする。

 でも、さすがに手をつなぐのは恥ずかしいから。
 わたしはそっと、小指を出すの。
 
 それから、海原くんは。
 三本の指でそれを包んで、ゆっくり進むのだけれど。
 そうやってたどり着いた屋上でも、その小指は……。
 先に離すのは無しで、合っていたかしら?


 すべては『いままで』と、同じことなのに。
 なのにどうして海原くんは。
 わたしの小指に、すぐ気がつかないのだろう……。

「し、失礼しました!」
 思い出したように、わたしの小指を見つけて。
 今度はうれしそうな顔をする海原くんに。

 ……本当は、聞きたいことがある。
 
 ねぇ? 『このあいだ』は。
 この先の暗闇を。
 どうやって、抜けたのですか?



 ……暗闇の中で、わたしの小指をやさしく包む三本指に。
 思わず少し、爪を立てると。
 海原くんがなにかを、つぶやいた。

「いま、なんといったの?」

「知ってましたか? スマホって、懐中電灯機能があるんです」
「えっ……」
「僕たちは、ふたりとも持っていないので。ゆっくり進まないと……」

 
 ……答え合わせを、ありがとう。

 海原くんは、文化祭の日。
 わたしの許可なく、『美也(みや)ちゃんを』。
 この屋上に、案内した。

 ……暗闇の中でも、懐中電灯があったのね。

 それなら、海原くんはきっと。
 美也ちゃんの指には、触れていないのだろう。

「スマホって、便利なのね」
 安心したわたしが、思わず声に出しかけて。
 ふと、気がついた。

 ……海原くん。
 それをいま、この場でいうの?
 わたしとふたりだけの。
 おまけに暗闇の中で指を包んだ、この状況で?


 やっぱり、完全には許さないでおこう。
 そうよね、わざわざこんな場所で。
 さらりと『このあいだ』の、話しをしないでよ!


 なんだか、わたし。わがままなのかしら?

 ただ、視界が開けたあとでわたしは……。


「ふたりでまた見られたから。許してあげます」
「……え? いまなにか、いいましたか?」

 高い高い、大きな空に。
 七色に輝く雲が広がっている。

「とっても、きれい……」
「はい。で、あの……。さっきなんていいました?」


 そんなの、二度もいうわけないでしょ。
 わたしの言葉を、聞き逃した海原くんが悪いのよ。

 そう思うと、許すとか許さないも必要なくなった気がして。
 わたしは、思わず。

「もう、許すのをやめます」
「へっ?」
「空に、流してあげる!」
 少し大きく、声にした。


 ……驚きすぎて、小指を強く握られて。

 でも、だからこそ。
 そのあとにゆるめた、力の加減で。
 海原くんの心の中が、よくわかった。


「美也ちゃんのこと。忘れてるのかと思ったら、結構気にしていたのね?」

「あ、当たり前です! あのときは、相当悩んだ結果の……って。イテッ!」

 もう!
 すぐ脱線して、『ほかの子』の話しをしないで欲しい。
 
 だから、わがままなわたしは。
 今度は、しっかりと爪を立てた。
 痛いのなんて、当たり前。
 少しは空気を、読みなさい!



「……あのね、海原くん」
「はい」

「少し、真面目な話しがあるの」

 わたしの指を握る力が、また少しだけ強くなった。
 でも、このときはわたしも。
 小指に思わず、力が入った。



「……美也ちゃんに、聞かれたの」
「えっ! やっぱり前回の……」

「ち、違う。違うのよ!」

「あっ……」

 慌てて、両手を振って否定したわたしが。
 やさしく包んでくれていた指を、『また』先に。
 外して、しまった……。


「い、いまのは事故! はい!」
 思わず勢いで、急いで小指をまた出して。
 自分でもなぜだか、耳が赤くなってきたのがわかってしまう……。

「はい!」
 そのまま動けずに、とまっている海原くんに。
 わたしは再度、早く握れと小指を突き出す。

「まったくもう……」
 そういう自分が、落ち着かないと。

「仕切り直すから、覚悟して聞いて!」
「へ?」
「……じゃなくて。とりあえず、ちゃんと聞いて!」
 あぁ……もう。
 わたしがグダグダになってきた。



「……あの、三藤先輩」
「えっ?」
「もう一度空を見てから、どうぞ」

 妙に、落ち着いた声がして。
 思わず、海原くんの横顔を。まじまじと見つめてしまった。
 この人は、本当に。
 たまに、予想外のことを口にして。

 そのたびに、わたしの心は……。


 ……ち、違う。
 いまは。大切なことに、集中する時間なの。

 そう思い直した、わたしは。
 再度、空を見上げてから。


 ……静かに、ゆっくりと。


 大切な話しがあると、海原くんに告げた。