……僕には、役不足だったのだろう。

 いや、『器』が足りなかったのだ。

 寺上(てらうえ)かえでのような、勇気と覚悟が不足していた。
 鶴岡(つるおか)理事長を、失望させるだろう。
 寺上校長や藤峰(ふじみね)先生、高尾(たかお)先生の笑顔と涙を、踏みにじってしまった。

 三年生たち、先輩たちの思いに応えることができなくて。
 それに、大切な放送部のみんなのことも……。


 静まり返った会場の、すべての視線が集まっている。
 参加者たちの時間を、これ以上無駄にするのは失礼だ。

 だから最後のひとことで。
 きちんと、終わりにしよう。

 感謝を述べて、非礼を詫びて。
 これで、終わりにしよう。

 静かに、息を吸い込んで。
 ゆっくりと口を開きかけた、そのとき。


 ……長机の下に位置する、僕の左手の小指が。



 ……『三本の指』で、やさしく包まれた。



 僕は思わず、息をとめると。
 あたたかい気持ちを惜しげもなく。
 僕の体に流し込んでくれている、その人を見てしまう。

 やや物憂げで、ほんのり潤みがちで。
 それでいて、どこまでも澄んだ藤色の瞳は。
 このときも迷わず。


 ……まっすぐに僕を、見つめてくれていた。



「……最後まで、いう必要はないわ」
「えっ……」
「いえ、『あなたはまだ』いわないで」
「えっ?」

 三藤(みふじ)月子(つきこ)はそう僕に告げて。
 肩にかかった髪を、左手で軽くはらってから。
 背筋を伸ばして、静かに立ち上がると。

「……生徒会発足準備委員会・副会長候補として」
 (りん)とした、その声を。
「このたびのご推挙を、辞退させていただきます」
 社会科教室の隅々まで、まっすぐに届けてくれた。


 それだけではない。
「……同じく、書記候補として。辞退させていただきます」
 赤根(あかね)玲香(れいか)が、僕の隣で宣言して。

 続いて肩を、誰かに引っ張られたかと思うと。
 春香(はるか)陽子(ようこ)波野(なみの)姫妃(きき)高嶺(たかね)由衣(ゆい)の三人が。
 狭いところに、無理やり入ってきて。
「申し訳、ございませんでした」
 そう声を揃えて、頭を下げる。

「不甲斐ない三年生が、足を引っ張ってごめんなさい!」
 都木(とき)美也(みや)が半分泣き声で、ひとり大きな声を出すと。
「担当教師として、力不足でごめんなさい」
 藤峰先生と。
「副担当として、役立たずでごめんなさい!」
 高尾先生が、それに続いて。

「いいえ。すべてはわたしが未熟なのよ。みなさん、ごめんなさい」
 おまけにあぁ、寺上校長まで……。


 すると、驚くことに。
 社会科教室のあちこちから。
 力不足で、迷惑かけて、自覚が足らなくて……。
 任せっきりで、押し付けただけで、応援が足らなくて……。
 理由はさまざまだが、会場内にたくさんの。
 みんなの『ごめんなさい』が、あふれ出す。

 予測していなかった光景が、教室内に広がって。
 思わず固まっていると。
 玲香ちゃんが背中に、肩を軽く当ててきてから。
「……なんか、みんな。謝ってばっかだね」
 僕の考えていたことを、そのまま涙声で口にする。


「……だったらさ!」
 今度は、都木先輩が。
 僕たちのあいだに入り込んできて。
「こうしてみない?」
 両手を高く上げると、ひとりで拍手をはじめだす。

「と、都木先輩っ……?」
「だってみんな、頑張ったからね!」
 半泣き笑顔の先輩が、そういうと。

「そうだね! 一旦ここまでだけど、頑張ったも・ん・ね!」
 波野先輩が、よく響く声と拍手で続き。
「ほんとだ! なんか、こっちのほうがいいっ!」
 高嶺が叫びながら、加わると。

 それからあっというまに、拍手の波が広がって。
 少し前まで、しんみりとしていたはずの社会科教室が。
 参加者全員の、大きな大きな拍手と。
 そして揺るぎない熱気のようなもので。

 ……なんだか、ひとつになってしまった。





 ……会場から退出する、誰もがみんな。
 前扉で恐縮している、海原(うなはら)くんと話していく。

 元部長たちに、口々に励まされていて。
 新部長たちに、来年度も頼むと応援されてる。
 そんな海原くんの姿は、なんだかまるで。

 ……選ばれたばかりの生徒会長そのものに、わたしには見えてしまう。


「……ねぇ月子、隣にいかなくていいの?」
「知らない人とは、しゃべりません」
「それ、まだいうの? さっき先陣切ったの、誰?」

 美也ちゃんの質問をスルーすると。
 逆に、わたしは。
「それより先ほどは。邪魔しにきた美也ちゃんが、全部持っていったのでは?」
 少しだけ、意地悪なことを聞いてみる。

「えっ? そ、そうかなぁ……?」
「とぼけていますか?」
「な、なんのことかなぁ……」

 ……まったく、もう。

 わたしにとって、その姿は。
 意中の、新・生徒会長を応援する。
 前・生徒会長そのものにしか、見えなかったのに……。

「美也ちゃん」
「ん? どうしたの、月子?」
「よろしければ、海原くんの隣にどうぞ」
「えっ?」
「……立つだけですけど? 何か?」
「あ……そ、そっちね〜」
「はい?」
「な、なんでもないよ!」





 ……もう、月子ったら。驚かせないでよ。

 それはそうとね。
 月子が、隣に『立たない』のに。
 わたしが、いけるわけがないじゃない。

 結局わたしは。
 海原君を、悲しませた。
 大好きな人を、苦しませた。

 でも月子は、そんな彼のために。
 一番最初に、動いたんだ。

 もし月子がいなかったら。
 きっと希望は、残らなかった。
 月子のおかげで。
 いままでのことが、無駄にならずに済んだんだよ。
 だからわたしは、海原君とみんなを救ってくれたあなたに。

 ……心から、感謝しているの。


 それに、みんなに囲まれている海原君を。
 眺められるわたしは、幸せものだ。
 だから、大好きな人が輝いているこのときを。

 ……わたしは絶対、忘れない。


「ねぇ月子、ありがとう」
「なにがですか?」
「えっとね、いっぱい……」
「あの、美也ちゃん。わたし思うんですけれど……」
「な、なぁに?」
「最近よく、泣きますよね……」

 やさしい香りのする、ハンカチが。
 ふわりとわたしに、やってくる。

「つ、月子がモテるの、わかるよね……」
「……モテたいなんて、まったく思っていませんけれど?」

 そうだよね。
 あなたはひとりだけいたら。
 それで十分、なんだよね?

 ただ、その相手が同じ人だと。
 わたしたちはいつか。
 仲良くなれなくなる日が、きてしまうのだろうか……。



「……高校生活、残り少ないですよ」
「えっ?」
 月子は、突然そういうと。
「片付けをはじめます」
 わたしから離れて、早口で陽子たちに指示を出しはじめる。

「ふ〜ん」
「えっ、佳織(かおり)先生?」
「ねぇ美也。月子のこと、どう思う?」
「ど、どうって……」
「仲良しとか、そういう返事じゃなくて、どう思う?」
「ちょっと、響子(きょうこ)先生まで!」
 そうか、月子はきっと。
 このふたりに絡まれないようにと。
 もしかしてわたし、生贄(いけにえ)にされたってことなの?

 でもおかげで。
 とっても大切なことに、また気がついた。


 ……悲しむだけでは、終わらせない。


 そう、わたしの高校生活はまだ。



 ……『終わって』は、いないのだと。