……いよいよ、この日がやってきた。

玲香(れいか)にしては、珍・し・い・ね!」
 手鏡でもう一度、前髪を直しているわたしに。
 うしろの列に座る姫妃(きき)が、肩に手をのせながら声をかけてくる。

「ちょっと気になっただけ」
 振り向かないまま、鏡越しにチラリと目を合わせて。
 いつもと変わらない声色を装い、返事をするけれど。
 姫妃にはとっくに、見抜かれているようで。

「ちゃんとわたしの、顔を見て」
 意地でもそうしろと、わたしに告げると。
「心配し・な・い。海原(うなはら)君がいるから大丈夫」
 そういって、ニコリとしてから。
 肩口をポンと、軽く叩いて励ましてくれた。


「……ふたりとも、きちんと座って待ちなさい」
 同じ列に座る月子(つきこ)が。
 いつもと変わらない声で、たしなめてくる。
「はいは〜い」
 姫妃がワザと答えても、反応しないのはいつものことで。
「まったく……」
 その小さなため息だって、よくあることだけれど。

 ただ、チラリと見えた月子の表情が。
 少し曇りがちなのはやはり。

 ……(すばる)君がまだ、この場にいないからなのだろう。



 放課後の社会科教室は。
 これまでにないほどの、熱気に包まれている。
 長い黒板を背に、二列に並ぶ『準備委員会』のわたしたちは。
 前列中央に、昴君のための席を空けていて。
 その両脇に月子とわたし。
 後列に陽子(ようこ)由衣(ゆい)、そして姫妃と並んでいる。

 長机を挟んで、対面して揃えられた座席は、『最前列』だけが空席で。
 二列目以降には、引退した各部活の元幹部たちが。
 すでにずらりと着席しており。
 そのうしろには、二年生の新部長や幹部たちが続々と集まっていて。
 参加者は優に、百人を超えている。

「なんだか、ワクワクしますね」
 うしろの列で、由衣が興奮気味に口にして。
「このあとが、楽しみ・だ・ね」
 姫妃の声には、余裕がある。
「ちょっと、まだだよ。まずはちゃんと決議がとおってから」
 ふたりの隣で、陽子が落ち着かせようとしているけれど。
 その声だってどこか、得意げだ。


 でも、そんな状況とは裏腹に。
 肝心の面々が、ここにはいない。

 しかも不在なのは、昴君だけではなくて。
 旗振り役でもあった、バレー部や柔道部の三年生の『大将』たち。
 さらには、実質的な『総大将』とでも呼ぶべき。
 美也(みや)ちゃんの不在も、含んでいて。

 ……要するに。
 主役たちがなぜか、この場に欠けている。

「まだ、予定時刻には。少し早いのよ」
 月子の言葉は、本当だ。
 でも昴君が普段、遅くなることはないし。
 なにより、先生たちに授業を途中から免除されて。
 放送室で、最後の打ち合わせをしていた途中で。
 昴君は、呼び出されて消えたまま。
 結局そのあと、戻ってこなかったのだから……。


「先生たちとの、打ち合わせかな?」
「そうね、玲香。海原くんの分もしっかり準備するわよ」
「アイツがいなくたって、ちゃんと準備くらいできますよ!」
「でもあとで、昴にサボるなっていわないとね〜」
「そうそう、海原君って。肝心なときに困る・よ・ね!」
 本当は、あのときから。
 なにかあるのかもしれないと。
 わたしたちは心のどこかで感じていたものの。

 それでも、昴君のために。
 美也ちゃんと、三年生、部長たち、先生たち。
 それに寺上(てらうえ)つぼみもいるから平気だと。
 不安を押し殺して、先にこの会場にやってきたのだ。

 教室の人たちは、そんなことなど知らないし。
 実際、由衣たちがテンションが上がって。
 わたしだって、どうにかなると思えるくらいは。
 社会科教室は、熱気にあふれている。
 でも、どれだけ強く、思っていても……。

 ……時計が、予定時刻を回ってしまった。


「ねぇ玲香。少し、開始が遅れると伝えてもらえる?」
「え、わたしなの?」
 月子にいわれて、思わず聞き返すと。
「当たり前でしょ。わたし、人前ではしゃべらないわよ」
 ブレない月子は、ある意味尊敬に値するけれど。
 あなた、それで本当に副委員長をやっていく気なのかと、聞きたくもなる。

「……あのね、玲香。それは別のこと」
「ごめん、まったく理解できない」
「玲香の緊張が、ほぐれればそれでいいだけよ。お願いするわ」

 なんだか、わかるようなわからないような。
 でも、月子なりの配慮なのかもしれないと。
 なんとか納得しようとして、わたしは。
 昴君の席に用意したマイクを手に取って。
「五分くらいかな?」
 念のため、月子に確認を取る。

 すると、そのとき。ようやく、前の扉から。
「お待たせ」
「あと二分だけ、待ってもらえるかな」
 マイクなしでも、十分な音量の声で。
 響子(きょうこ)先生と佳織(かおり)先生がいいながら、入室してきた。


 ただふたりは、いつもの隠したつもりのパンも持たず。
 大好きな笑顔とか、明るさとかとも無縁の表情をしていて。
 それ以上はなにもいわず、入り口近くの椅子に着席してしまうと。
 前列から次第に重たい空気が、流れはじめて。
 それがあっというまに、会場全体へと広がって。

 ……ついに静寂が、社会科教室全体を支配した。





 ……廊下に、海原くんの気配を感じたとき。

 本当は教室を飛び出して、すぐにでもその顔が見たかった。

「月子、どうしたの?」
「静かに、玲香。いまは動かないで」

 自分にいい聞かせるために、そう口にしたにも関わらず。
 玲香は、間髪入れず隣に移動してくると。
 わたしの手を、少し強く握りしめてきた。

 わたしが、不安だったからではない。

 海原くんが、再び心に傷を負ったのだと。
 ふたりとも直感的に、悟ったからだ。


「……みなさん。お待たせしまして、申し訳ございませんでした」
 入り口で一礼した、海原くんが。

 マイクなしでも十分聞こえる声で、話しだす。


「本日は、急遽校長も同席することになりました」

 その声は恐ろしいくらい、落ち着いているけれど。

 でも、その声には。



 ……苦しみと悲しみが、あふれていた。