保健室の扉を開けると。
 またすべての窓が、開け放たれていた。

「……わざわざありがとう。おじいちゃん、海原(うなはら)(すばる)君」
 外の景色を眺めていたその子は。
 いいながら、ゆっくりと僕たちに振り向くと。
鶴岡(つるおか)夏緑(なつみ)だよ、よろしくね」
 極めて『普通』に、自己紹介をする。

「えっと。おじいさんだとは、知らなくて……」
 いいかけた僕を、彼女はさえぎると。
「理事長なのも、だよね?」
 初めて見る笑顔で、こちらを見る。

「おぉ……」
「おじいちゃん、そんなに驚かないでよ」
 少し、はにかんだようすでその子が。
「昔はわたしだって、笑ってたでしょ?」
 そういってもう一度、笑顔を見せると。

「おぉ……」
 隣に立つ老人は、同じ言葉を繰り返してから。
「そ、そうだったな……」
 少し涙ぐんだ声を絞り出し。ゆっくりと前に進み、窓の外に顔を出してから。
「か、風が強いもんでな……ゴミでも入ったわい」
 そういって目元に、静かにハンカチを押し当てた。


「……海原昴君って、やさしいんだね」
 少し視線を外した僕に、気付いたようで。
 その子はじっと、僕を見ると。
「うん、海原昴君はやさしいね」
 また同じ言葉を、繰り返す。

 続けて、鶴岡さんは。
「……ねぇ、わたしって『変』かな?」
 前回も聞かれたことを、いきなり僕に質問してくる。

「……え、えっと」
 いったい、どう答えたらいいのだろう?
「まぁいいや。じゃあこれからは『ウナ君』にするね。よろしく!」
「へ?」
「なに? もしかして、それより『ウ君』のほうがいい?」
「あの……鶴岡さんの、話しじゃなかったの?」
「あぁ、それはもう終わって。なんて呼んだらいいか考えてたんだ」
「は、はぁ……?」


 ……きっと彼女は。なんとなく、不思議ちゃんなのだと。
 そう思えば、丸く収まる気がしてきて。

「あ、あとね」
 事実、不思議ちゃんの会話は、途切れることなく。
「おじいちゃんの判断はおじいちゃんのものだから」
 しかも、話題があちこちに飛ぶ。


「……ごめん、なんのこと?」
「ウナ君、賢いのか抜けてるのかわかんない」
「へっ?」
 つい先ほど、『おじいちゃん』にもいわれたセリフがでてきて。
 おかげで僕は、このふたりの血が。
 ちゃんとつながっているのは、わかったのだけれど……。
 それにしても、なんのことなんだ?

「わたし別に、生徒会についての口添えとか、してないからね」
「あぁ……そのことだったんだ」
 それについては、珍しいことに。
 このときの僕は、鶴岡さんが僕たちのために無理に頼んだとか。
 理事長の判断がそのせいで、ゆがんだとか。
 そんなことはまったくないと。
 自分のことではないのに、はっきりといいきれた。


「なぁんだ、ちょっとは賢いんだね」
「あ、ありがとう……」
 続いて不思議ちゃんは、決して僕を休ませることはなくて。
「そうそうわたし、変身に飽きたから戻るね」
「えっ?」
 また、謎なことを話しはじめる。

 ただ、『変身』と口にした彼女を見て。
 ここにきてようやく僕は。
 これまで校内で、誰も彼女に話しかけなかった理由に思い当たる。
 いや、それだけではない。
 だから逆に、僕の印象にも残っていたのだと。
 そんなことにも、ようやく気がついた。


 ……緑色のくるくるパーマの髪の毛と、時代遅れの極太縁黒メガネ。

 おまけに、首にショッキングピンクの輪を何重にもつけていた、その子が。

「変身解くから、ふたりともうしろ向いてて!」
 弾んだ声で、僕たちに告げると。
 彼女は窓から入り込んだ、風に吹かれながら。
「あとちょっとだから。そのまま待っててね!」
 自分を覆っていた『殻』を破り捨てると……。


 鶴岡夏緑、その人は。
 本当はサラサラの黒髪と、クリッとした瞳が印象的な。

 ……ごく『普通』の、女子高生だった。



「……どう? ウナ君、驚いた?」
「し、心臓に悪いくらい。『変身』したね……」
「あのさぁ、クイズ番組の怪獣みたいに。いわないでもらえない?」
 なるほど、外見は変わっても。その中身は不思議ちゃんのままで。
 少し僕は、ホッとしたものの。

 一方、彼女は。
「おじいちゃん、どう?」
 もうひとりに感想を、求めたのだけれど……。

「……あ、ダメだったかぁ〜」
 彼女のそんな声が、聞こえてきて僕は。
 鶴岡(つるおか)宗次郎(そうじろう)が、またしても涙を流したのだと、わかってしまった。





 ……ここからは、いろんな景色が見えていた。

「ねぇ。いまから自分語りするから、ちゃんと聞いてくれる?」
「う、うん……」
「イタイ女だよ、でも聞いてよ!」
 おじいちゃんが、『立ち直る』まで。
 ウナ君にそう断ってから。
 わたしは、彼に。
 わたしの気持ちを、ぶちまけた。


 なんせ一日中、ここから眺めていたからね。わたしの目は相当鋭いよ。
 あの子たちは嘘くさい友情だな、とか。
 あのカップル、長くは続かないよなとか。
 無難な付き合いのグループ、いつもひとりの子、しょっちゅう友達変える子。
 とにかくいろんな人間模様を、見ていたの。

 ……ウナ君は、きっと忘れているだろうけどね。

 始業式の日。
 放課後自分の席に座りにいったわたしが。
 ほかの誰かに見られて、慌てて教室を出ようとしたとき。
 君はわたしのために、扉を開けて逃がしてくれた。 

 また、別の日。
 講堂の中が見てみたくて、放課後にふらりといったとき。
 君はまた、扉を開けておいてくれて。
 わたしが戻ってから、鍵をかけに戻ってきた。


「ウナ君ってさ……」
 わたしを意識して、行動してくれたわけじゃないから。
 きっと、君は覚えてもいないのだろう。

 そう、君の持つ記憶は。
 わたしのそれより少ないの。
「変な格好してても、コンビニで困ってたら声をかけてくるんでしょ?」
「そ、そういえば……」
「保健室でわけわかんないこと聞かれても、ちゃんと答えてくれるでしょ?」
「ま、まぁ……」

 わたしは、ウナ君を窓から何度も見ていたから知っている。
 君の周りは、とってもあたたかいと知っている。


 ……だから、正直にいうね。
 わたしも少しでいいから、混ざりたい。
 もう眺めているだけじゃ、物足りないって思ったの。

「もしかしたら、この高校には……」
 少しは、受け入れてくれる人がいるかもしれない。
 そう、わたしはね……。
 少しだけ、『希望』を持ってしまったの……。


「……だから、あのね」
「えっ……?」
「どこまでも。ついていくねっ!」
「え、ええっ……?」





 ……ふと、僕の背中に。強烈な寒気が走る。

 なんだか、マズイぞ!
 この状況、なにかが変だ!

 ウルウルした目の、不思議ちゃん・鶴岡夏緑が。
「お願い、ウナ君!」
 そういいながら一歩一歩、僕のほうへと近づいてくる。
「この先、ウナ君についていくから!」

 い、いや……。
 友達になりましょう、とか。
 要するに、そういうことを伝えたいんだよね?
 だったらほら、距離が近いし……。
 それにそのセリフは、誤解を招きそうで……。


「ちょい待て!」


 あぁ、やっぱり……。
 泣いていたはずの、おじいちゃんが『立ち直って』。
 必死の形相で、孫をとめにかかる。

「なによ、おじいちゃん!」
「どこの馬の骨ともわからん、ただの若造じゃぞ!」
「えっ?」
「大事な孫娘が、目の前でオスに抱きつこうなど許せるか!」
 ないですよ、ないですから……。
 なんでふたりして、話しをややこしい方向に……。

「立派な生徒だとか、いってたんだからいいじゃん!」
 あぁ……。
「ならん。海原! お前も男なら、まずはジジイを切り捨ててから嫁にとれ!」
 なんでそこまで、いきなり飛ぶんですかっ!

「おじいちゃん、理事長なのに。度胸無さすぎぃー!」
「知らんわ! 孫の一大事に肩書きなんか関係ないわー!」



 ……やれやれ。

 不思議ちゃんは、距離のとりかたまで不思議過ぎる。


 同時に、こんな騒ぎが『もし』放送室でもはじまったら……。

 僕の命が、いくつあっても足りない。
 そんな『悪夢』は、避けないと。


 そんな僕の読みは。
 実はまだまだ、浅かったのだけれど。


 実感するのは……もう少し先の話しとなる。