「海原君は評判どおり、やさしいのう……」
校舎を三階まで、のぼり終えると。
鶴岡理事長は一息ついてから、僕に話しはじめる。
「階段をのぼるスピードだよ。年寄りに、合わせたな?」
三藤先輩と歩くときは、先輩の速度で歩いて。
ほかの人たちとも、そうするように心がけている。
そのほうが、ただ僕の性格に合っている。
それだけの、ことなのだけれど……。
どうやら僕は、ほめられたらしい。
……カエデの木から、放送室に戻る途中で。
僕だけが、呼びとめられた。
「実は少し、頼みたいことがあっての……」
その結果、ここまできたのだけれど。
いったい、どんな用事なのだろう?
「……ところで君は。裏道での会話を、誰かと話さなかったかい?」
部員以外の、誰かと?
「たとえば、同級生の……?」
「あぁ。そういえば保健室の……」
そこまでいいかけると、理事長は。
「怒られたよ」
「へっ?」
「久し振りに会話できたと思ったら。偉そうなことをと、怒られた」
そのセリフとは、裏腹に。
老人が、少し照れくさそうな表情で僕を見る。
「あの……だ、誰にですか……」
「孫に、だが?」
「はぁ、お孫さんですか……って、ええっ?」
理事長は、僕の顔をチラリと見ると。
「君は賢いのか、抜けているのかよくわからんな……」
なんだか、さり気なく真実を告げられた気がしたけれど。
それよりも、ええっ……。
保健室の『あの子』が、理事長の孫なんですかっ?
僕の驚きには、特に興味がないのか。
「どうやら始業式の日に。一瞬教室に『座った』らしいが、それ以降は……」
孫について、淡々と。
「保健室を根城にしておっての。友達もおらんのじゃ」
少し不思議な彼女について、教えてくれた。
……あの子は、基本な。
この学校の養護教論と。
送迎もやってくれておる、うちの家政婦としか話さない。
それがなんと……。
君とは話したそうじゃないか、海原君。
わしだって、同じ家で暮らしていながら。
滅多に口を聞いてもらえんでおる。
それが、きょう。
孫から急に、話しがしたいといわれての。
「……先生、申し訳ない」
「いえいえ理事長、どうぞごゆっくり」
わしが、保健室を訪れると。
部屋の窓は、すべて開け放たれていた。
「……おじいちゃん、寒くない?」
数ヶ月ぶりに、わしの孫が。
まるで何事もなかったかのように、話しかけてくれておる。
「コートを着ておるから。して、お前は寒くないのか?」
だからうれしくてつい、早口で答えたが。
それからまた、返事がないまま。
数分のときが、沈黙のまま過ぎていく。
まさか、ひとことで終わってしまうのか?
質問したのが、負担だったのか?
心配、いや失敗したのかと思った、そのとき。
「……このあと、海原昴君と会うんだよね?」
わたしの孫が、『君の名前』を口にしたんじゃ。
「……彼と、裏道で話してたよね?」
「偶然だが、な」
「理事長だって、知ってるの?」
「いや。まだ想像さえ、してないと思うが……」
「自分からは、いっていないってこと?」
「口にしていないが、話したほうがよかったのか?」
「ううん。それでいいと思うけど……」
まるで、当然のように。
わしは孫と、会話ができている。
そう思った。
ところが……。
「……偉そうなこと、いったんだってね」
「なんだって?」
また、嫌われれてしまうのか……。
わしは、そう思った。
「よくいえるよね、そんなこと」
「す、すまん……」
「初対面でしょ? それでお説教するなんて……」
孫は、そこまでいって少し沈黙して。
それから……。
「……でもね、ほめられてたよ」
「えっ?」
「偉そうとか、説教とかいったのはわたし。海原君は、別の感想だった」
「そ、そうなのか?」
「うん、彼は……口にはしなかったけどね、その表情とかがね」
……なんだか、ほめている気がして。
だから、わたしはうれしかった……。
聞き間違いでも、見間違いでも、決してない。
わしの孫がな。
わしを見て。
す、少しだけだが。
ほほえんで、くれたんじゃ……。
「……わたし、話すの『は』二回目」
「そ、そうなのか」
「とっても自然に、会話をしてくれる」
「それは……よかったな」
孫と、また目が合った。
なにかを、伝えようとしてくれている。
「……偉そうなことを、いわないで」
あんなに、孫が。
「……きっと彼なら、わたしも救ってくれると思うから」
感情を表に出すのは……。
いったい何年ぶりのことじゃろう?
「……だから、お願い。海原昴君の邪魔をしないであげて」
幼いときに、両親を亡くして以来。
ずっと感情をため込んでいたあの子が。
ほかの誰かのために、訴えかける。
わしにはな、なかばもう奇跡のような出来事なんじゃ。
……だから海原君。
すまんが、いまは君に。
申し訳ないが、頼らせれくれ……。
……目の前で、理事長。いや、鶴岡宗次郎が。
いまは、ひとりの祖父として。
孫の話しをしてくれている。
それくらいはさすがの僕でも、理解した。
「あとでふたりで会いにこいと、いわれたんですね?」
「年寄りの願いだ……すまん」
老人は、そう答えたあとで。
少しバツが悪そうな顔だけれど。
……それ以上に、うれしそうな顔で。
「『おじいちゃん』とな」
「……えっ?」
「『おじいちゃん』お願いとな……頼まれたんじゃ……」
実に照れくさそうに、教えてくれた。


