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「千代くんの推しカラーって緑だろ?だったら緑身に着けてる人間もれなく全員自分のファンかもしれないって思うように生きろ!俺なんか黄色身に着けてる人間全員、俺のこと好きなんだなって思うようにしてるし、そういう人には無性に優しくしたいし親切な人間でありたいって思ってるよ!」
言われてみて、初めて考えることばかりだった。ファンのことありがたい存在だと思ってたけど、ちゃんと真剣に向き合っていなかったんだなって痛感した。
「千代くんは横堀さんに会ったことある?」
「うん。一緒のアニメ出てるよ。挨拶した程度しか面識ないけど、結婚してるよね?」
「そう。あの人は内密に結婚生活をしてお子さんまでいらっしゃった。でも、三十五歳の時、大ヒットアニメの主人公を演じてブームになった途端、週刊誌に見開きで『大人気アニメ声優の横堀智治、四年前に結婚し三児のパパだった』って記事が出たから世間に知れ渡ったわけ」
「あー……雑誌は買わなかったけど、それ俺もネットで知ったなぁ」
「でも、この話には続きがある」
「続き?」
「リークしたのは売れなかったけど、現場で顔見知りになった声優だったんだよ」
てっきり奥さんや子供のことに話が続くのかと思ったら、想像以上に胸糞悪い続きだった。
「今日、収録でいた仲間の声優たちに、ポロっと監督が千代くんの不調の原因は『身内のことでちょっと……』って言ってたのを、誰かがあることないこと話を盛って広めたら、怖いじゃ済まないんだよ」
「あ、そっか。そうなるのか」
もっとちゃんとしないと駄目なんだ。誰にも奪われない声優の玉座に永久に座らないといけない。時間がかかっても、ハネちゃんのプライバシーを守らなきゃ。普通じゃない僕の隣にいてくれるように、生活を見直さないと、ハネちゃんは僕から離れていく。取り戻せなくなる。
「水戸くんありがとう明日、午前中アフレコ行って、その足でハネちゃんのママとハネちゃんの退院に付き添うことになってるから。その後、ちゃんと話してみる。これからも一緒に居てもらえるように、俺に何が出来るか、ちゃんと話す」
「カノジョさん退院かぁ。よかったじゃん」
「うん。今朝ハネママが新潟から車で来るって言うから、俺も一緒に行くって言った」
けど、次の日、アフレコ終わりにハネちゃんの入院していた病院に行ったら、一時間前にハネママと退院したと言われた。ちゃんと約束の時間に来たのに、なんで。
ハネちゃんとハネママに電話したけど、出てもらえなかった。
俺たちの家かもしれない。そう思って慌てて電車に飛び乗って、高田馬場の家に帰ったけど、昨日と何も変わらない、ハネちゃんのいない二人の家のままだった。
数分おきにハネちゃんとハネママとハネパパにも両親にも兄にも電話をしたりメッセージを送ったけど、繋がらないし、既読もつかなかった。
仕方がなく台本のチェックをしながら、ハネちゃんが帰ってくるのを待った。せめて電話がかかってきて欲しい。そうも思っていた。
でも、何のアクションも起きないまま、夜の八時になった頃、宅配便が届いた。
ハネちゃんの会社から大きな段ボールが一箱届いただけだった。多分、ハネちゃんの職場にあったハネちゃんの歯科技工道具が入っているんだろう。コレが、ココに届いたということは、事実上、ハネちゃんから職場という居場所を奪ったんだなって実感した。
僕は、ハネちゃん宛だったけど、段ボールを開いた。
ペンのようなナイフに、黒く焦げた細いヘラや、超小型の指先くらいのスプーン、そんな感じのものが十二本。何に使うのかわからないけど、金属の台形の箱のようなものが二セット。それからシリコンの大小のラバーカップに、油臭い赤い蝋の塊。強そうな火がでそうなハンドバーナー。ピンクのバインダーファイルには収まりきらないほどの紙に情報量が書いてあって、中を読んでも『歯』以外の漢字が難しくて読めなくて、コレが台本じゃなくてよかったなんて思った。段ボールの底には、しわくちゃで、黒い炭の汚れのついた白衣とナースシューズが入っていた。
ハネちゃんの大切な仕事道具のはずなのに、まるでゴミ箱の中に入れられたみたいにぐちゃぐちゃに入っていて、ハネちゃんが会社からどんな扱いを受けていたのかを物語っているみたいだった。
だから、僕は出来るだけ丁寧に床に取り出したものを一つ一つ並べて、写真を撮ってハネちゃんに送った。
『会社から届いたけど、これで全部?』
そう送ったら、やっと既読がついた。
『咬合器がない』
すぐに返事が来たけど、コウゴウキ?ってどんなものだろう。
『自分で会社に言うから大丈夫。ありがとう』
『わかった!体調はどう?』
『もう大丈夫』
『何時くらいに帰ってくる?』
『さっき実家に着いたところ。悪いけど仕事の道具と私の私物実家に送ってくれる?』
なんで?って思った。
『私、新潟で生きてく』
『なんで?』
『実家最高』
教科書に載っていいんじゃないかってくらい説得力のある四文字だった。
悔しいけど、僕も実家が最高なのを知ってるから、何も言い返せなかった。でも、とにかく声を聞きたい。そう思って電話をかけたけど、ツーコールで切られた。もう一度かけたらワンコールで切れた。次かけたら繋がらなくなってしまいそうで、スマホをテーブルの上の台本の横に置いた。
僕が、ハネちゃんが東京で生きていける居場所を全部取り上げてしまったのかもしれないということにやっと気が付いた。
車で四時間の距離。帰るなら新幹線か。往復チケット今年は一枚買えばいいのか。それまでハネちゃんに会えないのか。あと二カ月。十一月の末くらいから年末年始の休みのために、業界全体が予定ぎっしりになる。アフレコの収録も、ラジオの収録も撮り溜めないといけないからだ。日帰りで新潟に行く隙がない。水戸くんはカノジョに会うためなら車を飛ばして二日に一回は添い寝しに行くって言ってたけど、新潟は無理だ。
落ち着け。新潟だ。国内だ。なんとかなる。どうにかできる。
ただの遠距離恋愛。婚姻届けだって書いた。あとはハネちゃんのタイミングでいい。僕も実は結婚してました声優になったっていい。
別れたいって言われたけど、まだ別れてないよな?
僕はフラれたけど、まだ恋人同士だよな?
明日のOVAアニメのアフレコ台本を開いた。
声優になったら、ハネちゃんは僕のこと、もっと好きになってくれるって思ってた。
でも、全然違った。僕がキャリアを積むほど彼女が遠ざかって行くような気がした。それでもキャリアを積まないと結婚できない業界だって理解もしている。
声優の僕を好きでいてほしい。認めて欲しい。受け入れて欲しい。別れたくない。
まだハネちゃんのカレシでいたい。
【いつもの】
母が運転する車の助手席から他の車のナンバーを見ていた。乗用車の練馬や品川や八王子ナンバーが通過すると、まだ東京にいるんだって思ってた。でも、うとうとして目がハッキリ覚めた時には、上越と長岡ナンバーばかりになって、母がドリカムのアルバムを何周も聴いて、休憩もとらずに急いで新潟に帰ってくれたことに、ただ感謝したかった。
「起きた?どうする?高速降りる前にトイレ行っとく?」
「うん。ありがと」
母が左にウインカーを出し、トイレと自動販売機がある小さな公園みたいなパーキングに入った。
車を降りた瞬間、肺が冷えた空気いっぱいに膨らんだ。
もう東京じゃない。
道路は車のタイヤの跡以外、雪が十センチくらい積もっていた。十一月だけど、まだまだこれからドカンと今年は雪が降ると思った。
新潟のトイレは、便座も暖かいし、手を洗う水もぬるま湯が出てきた。もう、東京じゃない。新潟に帰ってきちゃった。しかも、もう東京に帰るつもりは、この段階では一ミリも考えていなかった。
車に戻ろうとすると、母が自販機でコーンスープの缶とバンホーテンのココアのペットボトルを持っていた。
「どっちがいい?」
「コーンスープ」
母から受け取った熱々のコーンスープの缶を両手で受け取った。
暖か~いの缶類は飲み口を開けるとすぐに冷えていくけど、開封しなければその熱々の寿命が長いのが、ずっと不思議だった。逆に暖か~いペットボトルはすぐに飲まないと冷めてしまう。
母と車に乗り込んで、カイロがわりに私が両手で缶を握って暖を取っている間に、母はペットボトルをすぐに開けて飲んでいた。
「ここまでちょうど三時間半。あとちょっとね。家に帰る前にフミアニのカフェ行こうか」
母の提案に私は静かに「うん」と答えた。
文哉の兄は地元で木造の一軒家を改築してカフェを経営している。お店の二階にある特別室は、フミ家とハネ家がいつ行ってもすぐに案内してもらえる特権を持っている。綺麗で、まだ新しいのにどこかレトロな雰囲気で、私にとって居心地のいい場所。
「フミくんから電話とかメッセージとか来てるけど、既読にしちゃっていいのかしら?」
「ああ。もうちょっと待って。家着いてからでいいと思う」
「そう?」
両親に二年間の専門学校の学費を払ってもらったことを考えると、こんな中途半端な形で職場を退職することになって事実を、私は重く考えていた。まだ親孝行できていない不甲斐なさとか、そういう気持ちで、しかも体を壊して地元に逃げ帰ってきた私のことを母や地元の親戚はどう思うだろう。
今日、本当は母と文哉は一緒に、退院する私を迎えに来る予定だったらしいけど、私の我儘で、母には一時間早く退院手続きをしてもらって、文哉には何も言わないで、新潟まで帰ってきてしまった。
私のスマホもずっと震えている。文哉から連絡が来ているとわかっているのに、今は無視してしまっている。
今朝、会社から電話がかかってきて昨日の最終便と一緒に私物を発送したと言われた。捨て台詞に「こんなによくしてあげたのに、退職代行頼むとか随分恩義がないんじゃない?まぁもう知らんけど」と言われ、何か、一矢報いるような何か一言を言い返したかったのに、電話は切れてしまった。
