鬱病になった私と結婚したいヘタレ泣き虫声優の僕







【収録後】

 ハネちゃんを緊急入院させた次の日、アフレコ現場でマイクに入り損ねた。実際には水戸くんと俺が二人で三本あるうちの一本のマイクでうまくかけ合っていくはずだった。でも、台本の文字を追うことも、画面のラフ画や秒数を見ることも、何もかも普段のように演技することも出来なくて、ついに監督に呼び出された。他の出演者の声優たちは思わぬ休憩を取らされ、みんな時間を気にしていた。

「このキャラの名言になる台詞なんだからさ、もっと思い切ってやってよ!千代は声優界の鬼才なんて言われてるんだからさ、自信もって!」

「あ、その、すみません」

「なんかプライベートで悩みでもあるんじゃない?」

 言い訳したくない。ハネちゃんを言い訳に使いたくない。でも、白状しなきゃいけないような気分だった。

「恋人が入院して……」

「あっ、そうなの……」

「意識が戻らなくて」

「そっ、かぁ」

「すみません。関係ないですよね。全然関係ないってわかってるんですけど、怖くて」

「この業界は親の死に目にも会えないなんて言われてるからね。そんなに甘くはないよ。けど、恋人が病気になったのを心配できないような感受性の役者を僕は良い役者だとは思ってない」

「すみません」

「気持ち切り替えろって言っても難しいだろうけど、プロってこういうことだから」

 プロ。たった二文字が妙に心に刺さった。

 声優という職業は、俺にとって、ハネちゃんという存在がいてくれたから目指そうと思った仕事だった。アニメに関する職業なんて数えきれないほどある。その中で一番想いをダイレクトに届けられるのが声優だと思った。

 ハネちゃんはアニメが好きで特に声優に詳しかった。ハネちゃんが絶賛する声優たちと僕が肩を並べられたら、もっと好きになってくれるんじゃないかって本気で思ってた。

 休憩していた仲間の声優に深く頭を下げて回った。

 ハネちゃんが応援してくれたら、僕はきっとどんな職業にだってつけた。でも、カッコつけたかった。見栄を張りたかった。最大限に気を引きたかった。

「今夜、付き合ってくれたら許すよ」

 水戸錬太。年齢的には五歳差で先輩だけど、声優デビューはほぼ同期。なんでも話せて、ハネちゃんにも会わせたことがある数少ない声優仲間にそんなことを言われて、首を横に振るほど、僕は強くなかった。

「話、聞いてくれたら嬉しい」

「おっけー。じゃあ、スタジオブース戻ろう」

「うん」

 声優になるには礼儀正しくないといけない。そんな教えを専門学校では叩き込まれたけど、実際の声優が集まるとまるで家を建てる大工の集まりみたいだと思った。

 主人公という柱がいて、役柄に応じて骨組みになったり屋根になったり壁になったり、オーディションや指名で選ばれているだけあって、各自の適材適所をよく理解しないと家が建たないように、アフレコの芝居も上手くいかなかった。

 僕が持っていた自信みたいな、努力で勝ち取った声優としての技術が何一つ通用しない。

 今日演じているキャラの名シーンになる予定のセリフに、どんなに力を込めても、納得してもらえなくて、結局、そのシーンだけ後日取り直すことが決まってしまった。

 けど、監督が他の声優一人ずつに苦笑いで「身内の方が入院なさったらしくて、ねぇ?」というのが小声なのに聞こえてしまった。

 恋人を身内と言ってくれたのが、救いにはなったけど、納得するようなそぶりを見せる先輩声優もいれば、興味もないような感じで、顎でうなずいて帰っていく先輩声優もいた。

 もっと這い上がらないといけない。焦りだった。声優として知名度は結構出てきたけど、まだ業界的には芽が出たくらいの価値しか今の僕にはない。確固たる地位。誰もが僕とハネちゃんの結婚に納得するような、ハネちゃんが傷つかない所まで、僕が成長しないとハネちゃんが離れていく。実際、別れ話をされた理由が、僕はよくわかっていない。

 だから、こんなところで終わるような声優にはなりたくない。

「個室居酒屋、予約取れた。行くよ」

 水戸くんが、俺の台本を入れた鞄を差し出してきたので、素直に受け取って、水戸くんの後をついていった。

 あと二カ月で今年が終わる。年末年始が来る。声優界も歯科技工界も年末年始だけはまとまって休める。

 ハネちゃんの体調が回復したら、今年も一緒に新潟に帰ろう。そんな期待をしていた。毎年それだけは出来ていたから、今年も大丈夫だって思ってた。

 来年も、その次の年も、俺とハネちゃんは雪かきをしなくちゃいけないんだ。宿命なんだ。そう心が前向きに動こうとしていたけど、居酒屋でお洒落な小皿に乗った豆腐のお通しとジンジャエールがジョッキで運ばれてきて、水戸くんと乾杯すると、ジョッキの半分まで一気に水戸くんがジンジャエールを飲んだ。まだ夕方の五時半。水戸くんは車で来ているし、僕もお酒の気分じゃなかった。

 昨日、水戸くんがラジオの収録の後に、車でハネちゃんの病院までぶっ飛ばしてくれたおかげでギリギリ面会時間に間に合ったけど、ハネちゃんは死ぬ直前みたいに眠っていた。

 今日だって、会いに行けるけど、自分のミスのしりぬぐいくらいしなくちゃいけない。

 ハネちゃんのことばかり考えていたら、水戸くんがジョッキを机に置いて聞き捨てならないことを言った。

「フラれたんだろ。諦めろよ」と、凄く簡単に言った。

「諦める?」

「お相手が一般女性でも、マスコミもファンも必ず特定しに来る。彼女を想うなら守ってやれよ」

「守るよ」

「簡単じゃない」

「水戸くんこそ、簡単に諦めろとか言わないでよ」

「俺たちは声優なんだよ。しかも人気声優の階段を確実に登って行ってる。声優業界が俺たちを押し上げてくれてる。こんなチャンス普通じゃない。もう千代くんが思い描いてるような普通の交際は出来ないんだよ。女の子と食事に行くってだけで事務所の許可が必要なんて、普通じゃないだろ?俺たちの普通に彼女はついてこられないって、諦められたんだよ」

「普通とか当たり前とか、基準がわからない。ハネちゃんがいない家になんて帰りたくない。それは我儘なのかな?」

「我儘な気がするなぁ」

 そう言われても、嫌なもんは嫌だった。認めたくない受け入れたくない。でも、声優でいたい。全部手に入れたい。それは本当に我儘なのか?

「十年付き合ってるんだよ?」

「だから?」

 だから?ってなんだ?

「だから……そう簡単に別れられないよ」

「別々に暮らす。連絡先を消す。SNSを見ない。それだけで案外別れられるって」

「別れる方法がわからないんじゃないよ。別れたくないって気持ちが強いから別れられない」

「でも、千代くん。君はフラれたのだ」

「信じられないのだ。現実を受け止めきれないのだ」

 僕も水戸くんも急に口調がハムスターになった。

「恋人は付き合いが長いからじゃなくて、どう支え合うかで決めるのだ」

「ブラックな会社でも頑張ってるハネちゃんのことを支えたいのだ。ハネちゃんは正直そばにいてくれるだけでいいのだ。物理的に一緒にいてくれるだけで充分な支えなのだ。何度も仕事を辞めて欲しいと言ってるのだ!」

 なんかハムスターじゃなくてバカボンのパパみたいになってきたな。

「そういえば、ご両親と親友さんにはカノジョが倒れたって連絡したって言ってたけど、肝心な会社には連絡したの?」

 あ。やべ。

「へけ?」

「ブラックな会社だと無断欠勤は自己退社扱いになってるんじゃない?」

 胃の中のジンジャエールがスーッと小腸に流れるような感覚が腹に走った。

「ちょっとごめん、今ずぐ会社に電話する!」

 スマホを取りだし、ハネちゃんの会社に電話をかけた。

『はい。佐々木技工TOKYOです』

 怠そうなおじさんの声。

「あの、大島羽根の親戚の者なんですけど……」

『はい』

「えっと、三日前に倒れて入院してまして……」

『ああ、死んだんですか?』

 スマホが氷になったみたいに冷たい言葉が返ってきた。こんなことを平気で言う奴と一緒に働くって、正気じゃない。正気でいられはずがない。

「いえ、でもまだ入院してて……」

『じゃあ、退院したら荷物取りに来るように言ってください。あ、取りに来ないなら処分しますけど』

「あの……」

 それってクビってこと?

 僕が混乱していると、水戸くんにスマホを奪われ、水戸くんは堂々と話し出した。

「お電話変わりました。こちら退職代理をおこなっております、神崎と申します」

 誰?

「お話をきかせていただきました。もちろん録音もさせていただいてますのでご了承ください。大島羽根様は、そちらの会社を退職させられたということで間違ってないでしょうか?」

『いや、あ、えっと、無断欠勤をされたので自主退職したのかと……』

 急に電話の向こうのおじさんの声がうろたえた。

「申し訳ありませんが、未払いの残業代と有給休暇分のお支払いをお願いします。また今回の入院にあたりまして発生した入院費などは、加入していたそちらの保険会社のご負担となります。後日、過労の診断書を送りますので、自己都合での退社ではなく、会社都合での退職ということで、よろしくお願いしたいと思います。そちらも、これ以上ことを大きくしてくないのでしたら、是非送料を負担していただき、大島羽根様の全ての事物を全てお送りください。出来かねない場合は……それなりの覚悟をして待っていていただければと思います……会社潰したくないなら素直にしたがっといた方がいいぜ?わかったら、とっとと源泉長収書準備して、給料振り込め!わかったか?過労死ギリギリまで働かせ罪、償ってもらう。でるとこでるぜ?」

 演技うま。

『わ、わ、わかりました!』

 相手は目が覚めたような声を出した。

「でわ、また」

 そうニッコリしながら水戸くんは言い終わると、電話を切って僕にスマホを返してきた。

「水戸くん凄い……」

「知ってた?俺、声優だけど基本的に役者。嘘をつくのが仕事なの」

「まぁ、俺もだけどさ……」

「そう。今だって千代くんが演じなきゃいけない役だったと思うよ?」

「まぁ、うん」

「千代くんさぁ、昨日カノジョの病院まで一緒に行ったから首突っ込ませてもらうけどさ、俺だったらハネちゃんとやらが本当に好きだった場合、もう少し時間かけるべきだと思ったよ?」

「時間?」

「婚姻届け。本気なのは伝わるかもしれないけど、仕事で身も心もいっぱい状態のカノジョからしたら、今じゃないって思ったと思うよ?」

 水戸くんは焼き鳥の盛り合わせ、と言っても櫛五本の焼き鳥をほぼ一人で食べながら、僕のことをちょっと軽蔑するような目で見ていた。多分、軽蔑してますって目で伝えて来ているんだと思う。役者だなぁと、ちょっと感心した。

「もし、俺が千代くんの立場だったら、どんな物理的に距離が出来ても収録後に車飛ばして二日に一度添い寝しに行くよ。それでさ、俺が声優業界から消せないくらいの大物になってから籍入れる」

「それ、俺の場合、何年後?」

「今、まだ二十二歳だろ?十年後くらいがいいんじゃね?」

「十年って、ちょっと遅すぎない?」

「そりゃ、リスクはあるよ?あるけどさ、本当に好きなら仕方がないじゃん。俺たち声優なんだから」

「ハネちゃん、倒れる前に言ったんだ。声優なんて普通じゃないって、でも、俺はそんなに特別かな?声優になったら恋しちゃいけないの?芸能人との恋ってそういうのは少女漫画とかで、ちゃんとハッピーエンドじゃん?現実は無理なの?」

「千代くんさ」

 最後の砂肝を口に入れて、口をモグモグさせながら、水戸くんは何か重要なことを言おうとしているのが、なんとなくわかったので、なんでも言い返せるように肺に空気を入れて言葉を待っていたら、水戸くんは手に持っていた焼き鳥の櫛をバキッと二つに折った。

「考えが甘いのでは?」

「え」

「声優が普通じゃないなんて当たり前だろ。カノジョさんが正しいよ。俺たちは普通じゃ駄目なんだよ。カッコよくて、面白くて、演技上手で、常に注目されていなきゃいけない、ずっと誰かが監視してるような状態の日々を縫うように恋して結婚するんだよ。結婚してることを公言してもファンがいなくならないくらい特別な存在として扱われる所までいかないと、声優の仕事なんてすぐになくなるんだ」

「わかってるけど……」

「千代くん、君は全然わかってないです。仮に誰もが君のことをこの国の宝のように扱う声優になったとしたら、なんならさほど千代くんに興味がなかった人でも、君が国民的人気キャラクターの声優だったら、結婚したって発表した時、お相手の女性が業界人だろうと、一般女性だろうと一目見たいとか思われちゃうし、どんな奴なんだって卒業アルバムの写真とか職業とか職場とか、全部調べようとする暇人がいるんだよ!」

 口に運ぼうとしたジンジャエールを、飲まずに、テーブルに置きなおした。そして、出てきた言葉は一言だった。

「怖ッ!」

「そう!怖いの!そのハネちゃんとやらが専業主婦になったとしても、近所のスーパーで何を買って、何を作って千代くんに食べさせているのか、こんなどうでもいいことも知りたい人が、二十二歳の段階で結構いると思った方がいい!俺なんか『水戸錬太』って検索しようとすると候補に『水戸錬太 車』って出てくるし、車種もナンバーも画像が出てくる!」

「怖ぁ!」

「いいか!覚えとけ!俺たちは普通じゃない!十年寄り添ってくれたカノジョだってビビるほど、俺たちのこと知りたがる人間はいるんだよ!千代くんとラジオやってて思うもん。案件もらってるわけでもないのに簡単に商品名とか出すな!ファンは千代くんの使ってるシャンプーで髪を洗いたいし、千代くんの着てる服をお揃いで買いたいし、千代くんが美味しかったって言った店とか行きたいわけ!収録で毎回軽々しく言ってるけど、全部その会話カットされてることにいい加減気が付いて!」

「ごめんて」