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【負けない】
新幹線を降りて肺いっぱいに新潟の空気を吸い込んだ。
あれから五年経った今でも、私は歯科技工士に戻っていない。歯科技工士にはなれなかったんだと思う。もう入れ歯の作り方だって曖昧な記憶になっている。どうしてあの頃、一つの職業に執着してしまったのだろうと、たまに考えるけど、専門学校に行ってせてもらって、せっかく国家資格をとったんだからって、他のことが見えなくなっていたんだと思う。
今年もしたけど、私たちは時々引っ越しを定期的にするようになった。毎回セキュリティー対策がしっかりされたマンションの一室に住んでいる。そこで私は一年の殆どを家の中で過ごしていた。
眠れるときに眠って、起きられるときに起きて、無理矢理何かを食べる日々を送っている。急に死にたくなる日もある。何かしなきゃって焦ってしまう日もある。でも急に無敵状態とでも言うのか、ハイになって定期的に届くようにした食材を思う存分調理したりする。
プロカノジョなんてたいそうなことは何一つできていない。
鬱病は甘え。そんな言葉を目にするたび否定できないなと思う。でも、甘えの対義語ってなんだろうっていつも考えるけど、私はわからない。どうなったら正解なのか、答えは出せないままだ。
けど、毎日文哉が帰ってきてくれるだけで、幸せだと思うし笑顔になれる。嘘。笑顔になれない日もある。自分ではどうにもできないくらい、暗くて歪な感情に支配されて、まともに文哉の顔を見れない時もある。
そんな時でも、文哉は私を見捨てないし、ほっておいてもくれない。ただ、視線が合うまで、私のことを優しく撫でてくれたり、アフレコの現場の話とかをしてくれる。オタク心の残っている私は、そういう話をきくだけで元気が出る。そうやって、文哉と視線を合わせると、泣きたくなるほど幸せになる。
でも、どうしても鬱病になってから、鬱病になる前の私には戻ることが出来ない。
多分一生治らないのだと思う。もとの私がどうだったかも、もう思い出せない。
それでも、私にも出来ることが今はある。
ぬいぐるみ、主にテディーベアを手縫いしてネットショップを開いて販売をしている。
入れ歯より自由に作れるし納期もないし、そもそもテディベアの方が可愛い。
丹精込めて作ったテディーベアにはミシンで洋服を作って着せているし、鞄や靴などの小物も全て手作りしている。
歯科技工士の時と違って、たった一人の為に作っているわけじゃないので気が楽だった。誰かが見つけて気に入ってくれたら購入してくれたら嬉しい。そんな気持ちで作りはじめた。
けど、作り始めた頃、ネットショップで販売してみたけど、五日かけて作ったから五万円とか、三日で作れたから三万円とか、本当に欲しい人にしか買ってもらいたくなくて、強気な値段で販売してたら、案の定、全然売れなくて、でも、なんかそれでもいいや。って私は思っていたんだけど、三十匹以上いたテディーベアが家のソファーを占領して、一人しか座るスペースがなくなったのをみかねてなのか、文哉が何匹か欲しいと言ったので生返事で「いいよ~」なんて軽く返した次の日、SNSが大変なことになった。
笹田さん、日口さん、水戸くん、ROMEOくんが全員SNSで私の作ったテディーベアとのツーショットを撮り、それぞれが「千代くんからのプレゼント!」とコメントをつけてアップした。
すぐに私のネットショップは特定されて、家のソファーでくつろいでいたテディーベアたちは速やかに文哉に梱包されて一匹もいなくなってしまった。そんな騒ぎを起こしてからもう五年近く経つけど、おかげで新作はすぐに売れてしまう。そればかりか、いまだにお問い合わせホームからは「日口さんと同じくまさんを作ってほしい」とか「水戸くんが持っていたものと色違いで売ってください」など要望が尽きない。
その件があって、たくさんいたテディーベアたちを一匹一匹、丁寧に梱包する文哉に「宣伝なんてしなくてもよかったのに」と言ったけど、文哉はとても嬉しそうに「でも、ハネちゃん社会復帰したそうだったから」と笑っていた。
凄く嬉しそうに、笑ってくれたのが嬉しくて、それ以上言い返せなかったのを今でも覚えている。実際、お金を稼ぐことが出来ていることに今はとても感謝している。
「あれ、今年は雪少ないね」
長岡駅のロータリーで文哉の声がシンとした景色の中ではっきりと聞こえた。
「でも雪かきはしないとね」
「俺たちの宿命だもんね」
私たちは手をつないで、濡れた駅の階段をゆっくり降りて、ロータリーに出た。フミアニの車を見つけ、近づくと後部ドアが自動で開いたので乗り込んだ。
「おかえり」
フミアニはサングラスをかけていた。雪国だと目が雪で焼けてしまうから、よくあるファッションだけど、フミアニがサングラスをしていると、ちょっとやんちゃに見えるのは何故だろう。
「ただいま」
私がそう言うと、文哉が手袋を取りながら「マジで今年のスケジュールは鬼だった」と言った。実際、今年の年末年始は帰れないんじゃないかってくらい文哉のスケジュールはパンパンだったと思う。年々忙しくなっている気もする。
「でも、今年は結婚発表したんだし、来年は仕事減ってるかもしれないじゃん」
そうフミアニが言うと、文哉は困ったなぁって顔でヘラヘラとヘタレ顔になった。
「あと、ハネちゃん今夜は俺の部屋で俺と寝るからね!絶対入ってこないでね!」
「毎年、毎年同じこと言いやがって。悪かたって、未遂だって言ってんだろ?」
「五年前、兄ちゃんが俺になりすましてハネちゃんを襲おうとしたことだけは一生許さないから」
「弱ってる女の子程、可愛く見えるんだからしかたねぇだろ。でも、もうハネは義妹だからな。手はだせないってのに、ったく」
フミアニが何処まで私に本気だったかはわからないけど、酔ったところに服を脱がされたことを墓場まで持っていくことは出来なかった。多分二年前くらいに鬱が酷い日があって、なんとなく文哉に打ち明けてしまったのだ。
ちょっとショックは受けていたけど、別に文哉は怒らなかった。けど、フミアニを恨めしく思っているところが、まだ垣間見える。
五年前、私は文哉のお相手の一般女性になると決意したけど、結局、婚姻届けを出したのは今年の七月。文哉のアーティストライブツアーが終わった翌月。急に発表するかたちとなった。
もちろんネットニュースにもなったし、きっと五年前に発表するよりっと世間から注目を浴びたと思う。文哉と仲の良い声優たちはみんな我が家に来てお祝いをしてくれたし、発表した日の夜、文哉は普段収録の一人ラジオを生放送にして改めて自分の言葉で結婚について報告もした。
私もそのラジオを聴いていたけど、とても真剣な声なのにどこか嬉しそうで、涙が勝手に出てきた。
私を離さないでいてくれてありがとうと、声に出して家で泣いた。でも文哉には言ってない。一緒にいることを当たり前だと思ってくれてるのに、ありがとうなんて言ったら逆に怒られそうだから。
「もう俺の店、二階に全員揃ってるから」
「あ、兄ちゃんには先に言っておくんだけどさ」
「ん?」
「二階の円卓って七人しか座れないじゃん?」
「充分だろ」
「いや、もう一人増えるから」
もう一人。家族が増える。
「……それって……ん?マジ?」
フミアニは昔から本当に察しがいい。
「俺もついに本物のおじさんになるのか!」
「そう!兄ちゃんおじさんになる!」
「待て待て!じゃあ、母さんはおばあちゃんで、父さんはおじいちゃんか!」
「そう!昨日検査薬でわかったんだ!」
「そうか!ってバカ!安定期とかそういうのでもねぇのかよ!ってか病院いけ!」
「年末だからやってないんだもん」
はしゃぐ兄弟を見ながら私はお腹を摩った。産後鬱になったらどうしようとか、ちょっと不安だし、本当にお腹に子供がいるかもまだ実感がない。
でも、これからは、大変で当たり前の日々が待っている。
それが実は凄く楽しみで、今までは鬱を受け入れることばかり考えていたけど、少しだけこの気持ちと戦ってみたいと思えるようになった。
子供なんて、私は諦めていたはずの未来なのに、文哉は諦めてなかった。無理強いされたわけじゃない。ただ、お願いをされた。一言「父親になりたい」と。
叶えてあげたいと思った。
文哉の望んだ未来から逃げ出したくないと思った。
時々、何もかも捨てて死にたくなることがある。でもここまで生きてこられたのは、文哉を含め、家族のおかげだ。これだけは絶対的な真実で疑うことは何一つない。
私の仕事は上手くいかなかったし、過労で倒れたり、鬱病と診断されたり、たまにこのまま生きていてもいいのかなって自分を否定しまう日もある。
でも、それは違う。
超人気声優の妻として、やれることは少ないかもしれない。
でも、まだ見ぬ我が子の前では強い母でいたいと思う。
鬱病になる前の私に戻れないのなら、新しい自分になるしかないから。
「ねぇパパ」
文哉をはじめてそう呼んだら、文哉は驚いた顔で私を見て、溜息をつき首を横に振った。
「俺のことパパって呼んでいいの俺の子だけだから、ハネちゃんはダメ!」
「えー。そういうタイプなんだ」
意外だった。私は文哉のことパパって呼んじゃいけないんだ。
「だって俺がハネちゃんのことママって呼んだら、俺、絶対息子モードになっちゃうもん」
「そんなこと考えてたの?」
「変かな?」
「まぁ、いろんな考え方があるし、否定はしないけど」
些細なことかもしれない。でも、文哉のことを知らない部分がまだあって何故かホッとする。けど、文哉のことなら、なにもかも全て把握していたいような気もするし、見せたくないと文哉が思っているところに踏み入りたくない。
私が、そう思ってるからだ。鬱病なんて知られたくなかった。気が付かれたくなかった。こんな私を知らないで欲しかった。でも、拒絶されたくなかった。だから逃げようとした。けど、誰にも文哉を取られたくなった。
この人は私の宝物なのだ。傷つけたくない。なくしたくない。本当は見せびらかしたくない。だけど、彼にはたくさんのファンがいる。キラキラしていてとても綺麗で、壊したくない。でも、わがままを言えば、私だけが知っている特別な存在であってほしい。私の宝箱に一生入っていてほしい。
幸せになるなんて無理だって何度も思った。
眠ったらそのまま目覚めたくないと何度も願った。
シンプルに消えたかった。
私の存在なんてなかったことにしたいって祈った。
何かを言い訳したいわけじゃないのに、許してほしいと誰かにずっと言っていた気がする。
けど、もう、許されなくてもいい。
疲れたもん。
今を楽しんだら、将来辛いことがあっても思い出に助けてもらえる。
四六時中は無理だけど、元気でいたい。
「ところで、ハネちゃんは何を言いかけたの?」
「んー?なんだったかな」
あれ?なんだっけ。
鬱になってから物忘れが多くなった。
「えー。なにぃ?気になるじゃん」
「ほんとに。私、何言おうとしたんだっけ?」
忘れちゃった。
思い出したら言おう。
私は、文哉の手を握って、私のお腹の上に置いた。
宝物が増える。そう思っていたら、文哉がニコニコしながら「早く会いたいな、俺たちの宝物に」と言った。
カッと体が熱くなった。心の底から驚いた。もしかしたら、お腹の子も驚いたかもしれない。
「怖いパパですねぇー」
私はお腹に向かって話しかけた。
「なんでさぁ!」
文哉のヘタレな声が、面白くて、堪えられなくなって、声を出して笑った。
やったぁ!私、幸せになっちゃったぞ!ざまぁみろ!私の勝ちだ!どっかいけ!脳に住み着いている鬱病に向かって私はそう言ってた。
それでも、この先もずっと鬱病は治らないだろう。そんなに優しいものではない。でも、もう二度と負けない。
ヘタレで泣き虫な彼だけど傍にいると心強くて、負ける気がしないから。
フミアニのお店の駐車場に降りて頭の上の雪雲から降り注ぐ雪が、何故か暖かく思えた。
私は新潟の空に向かって手を伸ばした。
